『市民の古代』第13集』 へ
すべての日本国民に捧ぐ 解説として
『まぼろしの祝詞誕生』(新泉社 東京古田会編)解説として
古田武彦
去年(一九九〇年)の十一月から十二月にかけて、ぶつかりました問題、大嘗祭ですね、この問題について話させていただこうと思います。これもくわしく話すと長くなるんですが、なるべくキーポイントをついて、時間を短縮して大嘗祭の問題をお話し、そして新しい問題に入りたいと思います。
去年の十一月に大嘗祭が行なわれたことはご存知の通りです。私は正直いって、初めはあまりこの大嘗祭に対して強い関心を持っていなかったんです。なぜかというと、現在行なわれている大嘗祭というものは、大体明治に作られたものであると。つまり明治に、いろいろそれ以前の文献や儀式や、また外国の儀式も参考にして、そこで考えられたものである。そういう意味じゃ、明治にどんなふうに考えたか、ということの史料にはなっても、古代もこうだったという古代史の史料には、ちょっとむずかしいんじゃないかと、こういう感じを率直にいって持っておりました。ところが、それが実はとんでもない私の認識不足であったことを、十一月の終わりに知ることになったわけでございます。結論から申しますとね、大嘗祭の問題を知らずしては、『日本書紀』は読めないと、読んでいないということが、わかってきたわけでございます。
なぜかと申しますと、国学院大学院友会編の『大嘗祭を考える』という本の中に、歴代の大嘗祭の記事が書いてあります。それによりますと、第四十代の天武が最初なんですね。また岡田精司さんの「“即位の礼”と大嘗祭」によると、その次の持統が最初である、と書いてある。史料的にいうと、『日本書紀』で大嘗祭が明確に出現するのは、実は持統なんです。持統というと『日本書紀』の一番最後の天皇なんです。最後の天皇で初めて大嘗祭の記事がまともに出現する。この意味ですね、皆さんどこを見ても解説なかったでしょう。新聞見ても週刊誌見ても、たくさん出た単行本見てもどこにも書いてなかったと思います。ところが事実はその通りなんですね。
ではなぜ天武からとなっているのがあるか、というと天武のところには変な書き方がしてある。
「十二月の壬午の朔丙戌に、大嘗(おおにへ)に侍(つかへ)奉(まつ)れる中臣(なかとみ)・忌部(いむべ)及び神官の人等、并て播磨、丹波、二つの国の郡司、亦、以下の人夫等に、悉(ことごとく)に禄(ろく)賜ふ。因りて郡司等に、各爵一級を賜ふ」。
つまり大嘗祭に参加した人たちにご褒美をやったという記事がある。これが明確に『日本書紀』に「大嘗」という言葉が出てくる最初なんですね。清寧の時にも出てきますけれども、これは史料批判上、写本によって、ない写本もあってあやしいので、それは省略しますが、明確に出てくるのは天武天皇。ところが天武天皇のところには明確とはいいましても、大嘗祭をやったという記事がない。大嘗祭に参加した人に褒美をやったという記事だけである。変ですよね。
大嘗祭をやらないのに参加した人に褒美をやるってことはあり得ないんです。これは非常にクエッションつきなんです。クエッションがつかないのが持統で、
「十一月の戊辰に、大嘗(おおにへ)す。神祇伯中臣朝臣大嶋、天神寿詞を読む」。
ここで、初めて「大嘗す」という言葉が出てくる。そして初めてで最後。“最初の終わり”、という言葉がありますが、『日本書紀』で「大嘗す」という表現がピシャリ出てくるのが持統のこの項が最初で終わりなんです。これの意味を、誰も何もいわない、知らん顔している。ま、問題のあることに気がつかないか、気がついても解けないから知らん顔をしている、ということに私はおそまきながら気がついたわけです。
さて、これに対して私のほうから見ると、この記事のあり方というのは非常に筋が通っているんです。なぜかというと、まず問題をこう立ててみましょう。なぜ、神武から天智までは「大嘗す」という記事がないのか、と。書けば簡単でしょう、二字ですよ。漢字で「大嘗」と書いてあったら“おおにへす”と仮名ふって読むんですからね、二字でいいんです。二字を何で惜しんだんでしょうね。神武のところに大嘗となぜ書かなかったか。いや神武までいかなくても、天智でなぜ書かなかった、孝徳でなぜ書かなかった、推古でなぜ書かなかった。誰か答えられますか。天皇家一元主義に立つ以上は解答不可能だと思いますよ。
実際は、やったんですが書き忘れたんだろう。こんな答えあります? 他のことならともかく、その天皇にとって大嘗祭というのは絶対大事なことでしょう。それをうっかり歴史官僚が書き忘れたなんてことがあるんですか。書き忘れてすますことがありますか、私には考えられないですね。他のことならいざ知らず、こんな大事なことを、しかも二字ですむことを、何で書いてないのか。しかも『日本書紀』は造作が多いという定評になっているじゃないですか、津田左右吉以後ね。それじゃ、やってなくても「大嘗す」と造作して書いたらどうです。他のことを造作したり物語を造作する暇があったら、二字を書く位の造作、何でしないか。何か完全犯罪をすすめてるようで気がひけますけど、そういいたくなる。
答えは、正確な答えは一つだけですね。つまり、天智以前には、近畿天皇家は大嘗祭を行なっていなかった。なぜか。大嘗祭とは中心権力者が行なう新嘗祭(にいなめさい)である。新嘗祭はね、どこでもやれるわけですよ。新嘗祭の記事はこれまでにも出てくるんですよ、『日本書紀』の中で。ところが大嘗祭となると新嘗祭とは違うんで、中心権力者の新嘗祭なんです。だから当然、天皇家が中心権力者ではなかったからである、と、こういう答えに論理的になってくるんです。
では、そんなことが本当にいえるのか、というと、私の理解ではそうならざるを得ない。なぜかなれば、一番確かなものは『旧唐書』である。『旧唐書』では倭国と日本国は別の国である、とこう書いてある。七世紀の前半は倭国である、そして「王子と礼を争いて帰る」という記事があって、六六二年、白村江で倭国と戦った。その後、空白の四十年間があって、七〇三年に日本国登場。そして中国、唐が日本国の使いを迎えたと書いてある。六六二年から七〇三年の間の約四十年間は、倭国と日本国の中間の無記事時代なんです。そしてその説明に曰く、志賀島(しかのしま)の金印をもらった国が倭国である。その後を受け継いでいるのが倭国、卑弥呼を受け継いだのが倭国、倭の五王を受け継いだのが倭国。そう『旧唐書』に卑弥呼のことがちゃんと書いてある。
志賀島が九州なら倭国も九州、卑弥呼が九州なら倭国も九州。そして白村江で戦ったのが九州の国。日本国は別の国だとはっきり書いてある。地形も全然別に書いてある。そして、日本国はもと小国だった。小国というのは領地が狭いというのではなくて、中心国でない付属国であるという意味ですが、小国であったが、ご主人国の倭国を併呑した。併呑(へいどん)して七〇三年に中心権力者として中国に現われた。中国は七〇三年以後は、倭国ではなく日本国を相手にした、とこう『旧唐書』に書いてある。
それで私はよくいうんですが、『旧唐書』は何でウソをつかなければいけないんだ、と。第一、白村江で勝った国が、負けた国のことをなんでウソを、なんでわざわざ事実を書き曲げなければいけないのか、勝った国は、気がねなんかする必要はないわけです。ある通り書けばいいわけですから。
それにもう一つ、阿倍仲麻呂が日本国の使いで中国へ行って、ベトナム大使になって長安で長らく晩年を過ごして死んだわけです。だから、倭国、日本国の記事を書くのに、日本国大使、そして中国の高級官僚になって長安で生活して死んだ、あの阿倍仲麻呂のオーケーを得ずして書くはずがないわけです。そうすると、今いった倭国、日本国の関係は、阿倍仲麻呂の認識の反映である、と考えてあやまりない。私は「阿倍仲麻呂の論証」ということをいっていますが、これも全然、どの学者も反論してこないです。
さらに、最近、「市民の古代」の事務局長をやっている古賀達也さんが面白い発見をされました。それは空海の遺言状といわれるものです。どうも一年の誤差があるらしく、一年前に帰ってきているはずだのに、遺言状といわれるものでは一年後に帰ってきたように年代が入っている。だからウソか本当か、というんで宗門で議論がつづいてきている。ところが空海が博多湾に着いて一年間、筑紫で過ごしているわけです。で、その後近畿へ帰ってきている。すると彼が日本へ帰ってきたというのは、博多へ着いた時ではなくて近畿へ着いた時を、日本へ帰ってきたといっているのではないかと、遺言状でね。新しいテーマですね。
私、聞いてドキッとしましたよ。私はまだその辺のね、自筆本とかそういうものにさかのぼって調べておりませんけどね、論理的には非常に可能性があると思います。なぜかというと『旧唐書』に、学問僧空海がきたと書いてある。長安に三、四年過ごしているわけです。阿倍仲麻呂よりずっと新しいんですから、つまり『旧唐書』をまとめる時に近いわけですから。その学問僧空海に確認を求めずに倭国、日本国の歴史を、正史に記録するなんて考えられないです。空海の認識をもまた反映しているのではないか、ということになってくるわけです。
阿倍仲麻呂は歌を残していますが著作は残していません。空海は著作をたくさん残している。『弘法大師全集』です。だからその論理が正しければ、『弘法大師全集』を『旧唐書』の見地でいけば解ける、そうでなければ解けないという問題が出てきて不思議ないです。遺言状問題は、その反映であるかもしれないというね。空海なんていうところに九州王朝が関係するなんて思いもしなかった。しかし論理的には可能性を持っている。ちょうど今年から五年間のうちに真筆本に基づく『空海全集』が刊行されるんですね。今までのは写本的にはあまりよくなかった。こんどいいのが出ます。親鸞についても活字で戦前出ていたんですが、昭和三十年代に真筆に基づく『親鸞全集』が十年ぐらいかかって刊行されまして、これは私の親鸞研究に大変役に立ったわけなんですね。それに当たる時期が、今、空海については今年から五年間、また注目されるところですね。
ともあれ、私は阿倍仲麻呂の証言という点だけから見ても、『旧唐書』のいっていることはウソとは見えない。さらにそれを細かく表現したのが、朝鮮側の『三国史記』である。これによると倭国が日本国に替った年代がはっきり書かれている。天智九年である。天智の最後の前の年である。白村江から八年くらい、この時、倭国が替って日本国というようになったと、こう書いてある。まさにその時にですね、『日本書紀』でも天智と皇大弟の天武が新しく制度や法律を発布したと書かれているわけです。ここで初めて中心の権力を主張し始めたんです。
しかも大事なことがある。天智九年から天武初期にかけては、占領軍が日本列島の一角に居座っていた。占領軍というのはいうまでもなく唐ですね。唐の郭務[小宗](かくむそう)ひきいるところの大軍がかなりの船を率いてやってきて、筑紫に居座っていた時期に当たる。これも変なもので、もし日本の教科書に書いてあるように、共通一次でも恐らく扱っていますように、白村江が近畿天皇家が戦った戦いであるとするならば、占領軍が完敗した国になぜか遠慮して、日本列島まで、はるばるきていながら、首都近畿とか近江とかに入るのを遠慮して帰ってしまった、ということになるわけです。いってみれば、マッカーサーが四国かどこかに上陸してですね、東京都に入るのは悪いって言って入らずにターンして帰ったような話になる。
郭務[示宗](かくむそう)の[小宗](そう)は、りっしん偏に宗。JIS第4水準 ユニコード番号60B0
われわれは敗戦ということを経験しましたから、その辺の事情は感覚的にわかりますよね。勝った占領軍がそんな遠慮をしなければならぬ理由はどこにある。首都を占領してこそ占領軍の意味はある、と考えると、実際に唐は筑紫にしかきてないんだから、首都の筑紫を占領して帰ったと考えざるを得ない。だから筑紫を中心にする倭国と考えたら、何の不思議もない行動がですね、近畿天皇家一元主義に立ったら、唐の軍団は意味不明の大バカ野郎たちの集団、という烙印を押さなければ理解できないわけです。うつけ者の間の抜けた大集団が日本列島の一角にきて遊んで帰ったと、こう理解せざるを得なくなる。そんなに矛盾があってもなんでも、近畿天皇家一元主義の方が大事というのが明治以後の日本史の教育であったわけです。
そのように見てみますと、もうおわかりでしょう。倭国が日本国に替った天智九年、その後の最初の即位が天武になるわけです。それまでの中心権力者は倭国ですから、大嘗祭が神武から天智まで書かれないのは当然である。中心権力者ではなかったから、とこうなるんです。
それじゃ天武の時になぜ大嘗祭を行なった、という記事がないのかっていうことになる。これは実は私の意見ではないのですが、今日もきておられると思いますが、香川さんという西武百貨店にお勤めの方ですが、非常に古代史に熱心で、この方に教えていただいてハッとしたんですがね。つまり最初の大嘗祭を行なったのは弘文天皇ではないかというんです。大友皇子ですね。
大友皇子は天智の子供で、天智の後、最初の即位は大友皇子の弘文天皇ですから。ところが『日本書紀』は弘文天皇は天皇として扱わない立場になっている。実際は天武の方が反逆者なのに、大友皇子が反逆者で首をくくって死んだという形で書いてあるんですね。それで明治になって弘文天皇という名がおくられましたが、実際にも天皇になっているわけです。そうすると、その時に大嘗祭は行なわれたのではないか。行なわれたけど書かれてないのは、弘文天皇の時の大嘗祭だったからではないか。こういう問題が出てくるわけです。これは仮説ですから確認はできませんけど、非常に魅力的な仮説ですね。
そしてもう何の遠慮もなく行なったのが持統天皇、そこで中心の権力者であることを宣言したのです。これもですね、従来解けなかった謎がここで解けるんです。それはなぜ『日本書紀』が持統天皇で終わっているのかということ、誰も解けていないんですね。それにふれて書いてもみんな失敗しているんです。なぜかというと、ご存知のように持統天皇の後、まだあるじゃないですか、文武天皇、元明、元正と。元正天皇は『日本書紀』を作った時の天皇ですから、ま、これは書かないとしても、少なくとも元明天皇までは書かなきゃおかしいんです。もう過去の天皇ですから、書くのが礼儀なわけですよ、普通考えるとね。ところがなぜか二代分遠慮しまして持統天皇で終わりにしている。これ何でですか、説明、誰もできないんですね、今まで。
ところが考えてみれば、この持統天皇で大嘗祭をやった。近畿天皇家は初めて中心の権力者になりましたよ、で終わっている。非常に筋が通っているわけです。私自身も含めて歴史研究者が得られる持統で終わっていることの説明ができたと思うんです。これ以外の方法ではおそらく説明しても、こんにゃく掴むように、くにゃくにやして説明にならないんじゃないですかね。こじつけにはなっても。ということになりますと、大嘗祭なんてたいしたことないんだと、去年の十一月まで思って、高をくくっていたのは私は不明もいいとこだった。“去年(こぞ)の盲目”ですね。本当は大嘗祭を、『日本書紀』を読む基本に据えないと『日本書紀』は読めない、ということがわかってきたわけですね。
では、それ以前はどこで行なわれていたか。当然ながら倭国で、九州王朝で大嘗祭は行なわれていたわけですよ。少なくとも六六二年、筑紫のサチヤマが捕虜になるまでは。それを示すものがあるかというと、岩波の日本古典文学大系の『古事記』の後についている『祝詞(のりと)』の中に、大嘗祭という祝詞があります。読むのは省略しますが、「神主や祝部(はふりべ)の人達よ、よく聞け」という言葉で始まります。「高天の原に神留(かむづま)ります、皇睦(かみむつ)神ろき・神ろみの命もちて」、これが天(あま)つ神なのですね、天神(てんじん)なんです。対馬に天神神社というのがありましてね。これはもとは海人(あま)の神、これを美しい字で表わしたのが天神なんです。
ニニギの命の天孫降臨、これは歴史事実だという論証は「歴史学の成立」という昭和薬科大学の紀要の論文で書きました。これを含めた論文集が『九州王朝の歴史学』(駿々堂)という題で出ますので、ごらんいただけばいいんですが、天孫降臨は歴史事実なんです。その時にニニギの命が自分は天神の裔である、ということをいうんですね。決して天照の孫であるとはいわないんです。天照というのはニニギにとってはお祖母さんですから、たくあん食べるのもオナラをするのも知ってる相手ですから、別段そんなに威張る相手ではないわけです。威張るのは、あま族の神の、自分は血を受けた者だということが彼の誇りの名告りだったわけです。だから九州王朝では天照ではなくて天神が祀られたわけですね。
天満宮、ご存知でしょう。菅原道真は平安期の人ですから、それ以前から天神はいるわけです。後に菅原道真が、衛氏朝鮮の話じゃないですが、庇を借りて母屋をとっちゃった。本当は菅原道真は境内の一隅に、土地の人があわれんで祠を造ったんでしょう。それが学問の神様で急成長しちゃってですね、天神神社の天神イコール菅原道真と皆思い込んでしまった。そんなはずはないですね、平安時代の人が天神であるはずはないですから。あの天神こそ、あの界隈の中心の神だったわけです。博多の屋台ラーメンのある所も天神ですね、あそこにも天神神社がありますけどもね。あれが九州王朝の中心の神です。天皇家にくると、こんどは天照を遠い祖先と考えているから、これを中心にして伊勢の皇太神宮に祀るようになった。本家、分家で、本家は天神、分家は天照、こうなってるわけですね。
そうすると、天神の寿詞を読んだとあったでしょう。あれは九州王朝の天神の褒め言葉を、承認を受けたという意味なんです。これも初めて天神の寿詞が出てくるんですからね『日本書紀』で。さてもう一つ、つづきをいきますとね、二人の天神、神ろき・神ろみの命令だというわけです。どういう命令かというと、皇御孫の命、これはニニギです。「ニニギの命の大嘗を聞こしめさむ」。つまり、天孫降臨してニニギの命が初めて大嘗祭をやるんだと、そして他の神々や忌部、神主、祝部たちは皆、この大嘗祭に協力しろ、とこれだけなんですね、祝詞の内容は。だから祝詞といっても、ものすごい権力をバックにした政治宣言みたいな、そういう祝詞なんです。あとでゆっくり読んでみてください。
で、私はどうもそれじゃないかと思っていたら、また裏付ける発見をしてくださった。安彦さんといいまして、朝日カルチャーに、いつもきていただいている六本木の方なんですが、わざわざ図書館へ行って調べてくださいました。どうも天神の寿詞に当たるものはどこかに残っているんじゃないかと、朝日カルチャーでいっておったんですが、ちゃんとあるのを見つけてきてくださいました。藤原頼長の起居注のようなものに書かれていました。「中臣寿詞」とあります。「現(あき)つ御神(みかみ)と大八島国しろしめす大倭根子天皇(これは近畿天皇家の天皇です)が御前に天神(あまつかみ)の寿詞(よごと)を稱(たた)える辞(ことば)を定め奉る」とこうなっていますね。だから、これははっきり天神の寿詞だということがわかるわけです。そしてさっきの祝詞と同じような言葉がずっとちりばめられてありまして、ニニギの命も二回出てきます。
それ以外に、ここでは悠紀(ゆき)、主基(すき)というのが出てきて、近江国、丹波国の名前が出てきます。そして、これが読まれた時が康治元(一一四二)年、近衛天皇の時の天神の寿詞であるということが、ちゃんとわかる史料です。私は頼長に感謝したいですね。ですから、さっきのニニギの命だけを固有名詞にした祝詞が原本で、それをもとに、いろいろその時代の固有名詞をプラスして拡大版を作ったのが、近衛天皇の時の「天神寿詞」なんです。ということで、天神の寿詞の原形というものが、短いけど強烈な政治宣言、九州王朝の初代の政治宣言、そこから大嘗祭が始まる、というものであったことが、おわかりいただけると思います。
最後に一言つけ加えますと、大嘗祭で一つの謎がございました。それは二回同じことをやる。主基殿(すきでん)、悠紀殿(ゆきでん)といって寝床みたいなものがあって、二回同じことをなぜやるんだろうと、どの学者もうまく説明できなくて困っている様子に、これは大事だと気がついて、八重洲ブックセンターに飛んでいって、ごっそり関係の本買い込んできたんですが、どれ見ても皆困っているわけです。なぜ同じことを二回やるのかが意味不明になっている。ところが今のような筋からみると、はっきりしますね。さっきのニニギの祝詞、神ろき・神ろみ(皇親ですよ)の命(みこと)の命令である、とこういっているでしょう。二人ですよ。天神は神ろき・神ろみの二人ですよ。だから神ろきと神ろみの二つの御殿がいるんですよ。当たり前でしょう。それを現在、近畿天皇家になって天照一本にしぼってしまったわけです。だから天皇が向かう神様は天照大神だけでしょう。二つあるのが浮き上がってしまってるんですね。形だけ神ろき・神ろみの九州王朝の天神が残っているんです。そして肝心のご本体は天神を天照に替えたわけです。分家らしく替えたんですが、そのため二つの寝床の説明が不可能になってしまった。
学者も近畿天皇一元主義では全然あれが説明できない、ということに気がつきましたらね。やっぱり九州王朝という仮説に立たなければ、ま、仮説でも中国の同時代史料に基づく立場、常識ですからね、それに立たなければ『日本書紀』が読めない。なぜ持統で終わっているかも説明できない。なぜ天智以前に大嘗祭の記事がないかも説明できない。同様に二十世紀に行なわれた大嘗祭で、なぜ同じものが二つあるかが説明できなかったわけです。どの新聞も、それは説明できていないわけです。こういうことに気がついて、ああ、と思いましたね。
しかも、もう一つ、なぜ寝床があるのかという間題。あれでセックスやるんだとか、処女を何とかするんだとかいって、よろこんでいる人もいますけれども、大ウソだと思いますよ。皆さん、多利思北孤(たりしほこ)を思い出してください、日出ずる処の天子の。夜いまだ明けざるに多利思北孤は宗教的な行事を行なう。夜が明けたら弟に政治をゆだねる、ということがあったでしょう。つまり宗教的祭祀は夜明けざる前の仕事なんですよ。だから神様はまだベッドに寝てるわけですよ。そう考えたら何も不思議ないんですね。それを日出ずる処の天子は聖徳太子だという無茶をやったもんですから、もう自分たちのやっていることは意味不明になっている。宮内庁の人たちも御用学者も、そろって説明不能の状況になっているわけです。
ところが、近畿天皇家は『日本書紀』が正しく表現しているように持統以後中心の権力者になった。だから中国は七〇三年、日本国を正式の王者として迎えているわけです。これも大嘗祭と関係ありなわけですね。という形でみると霧がすーっと晴れてくる。だから、古田が九州王朝なんて勝手にいっている、といくらうそぶいてみたって、今いったようなことを一元主義でどうやって説明しますか、と。それが今と同じように、あるいはそれ以上にうまく説明できれば、九州王朝なんてまちがいでしたと、まちがいだと思ったらもう瞬時にそういいます。なんにもこだわるところがないということでございます。
さて一番新しいテーマ「帝譜図(ていふず)の発見」に移らせていただきます。この言葉は皆さん初耳の方が多いと思います。私も初耳ではなかったんですが、今までこれのもつ重大な意味を気づかずにきていました。原田実さんの『日本王権と穆王伝承』の書評を書こうと自ら買って出たんです。原田さんは歴史事実として扱ったんではなくて、一つの伝承として日本列島の平安以後、鎌倉、室町、江戸と代々の文学に穆(ぼく)王伝承がくり返し現われてきていると、その系譜をたどって一冊の本にしたわけです。これはこれで面白いので皆さんも買ってお読みいただけたらいいと思います。
その中で面白い問題が出てきたんです。『日本後紀』という、これは六国史の中の一つですが(注『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『文徳実録』『三代実録』)、この中の平城天皇のところに面白い記事があります。
「倭漢惣歴帝譜図(わかんそうれきていふず)。天御中主尊を標して始祖(しそ)と為す。魯王、呉王、高麗王、漢高祖等の如きに至るを、其(その)後裔(こうえい)に接ぐ。倭漢(わかん)雑[木柔](ぞうじゅう)し、敢(あえ)て天宗を垢(く)す。愚(ぐみん)迷執(めいしゅう)して輙(すなわ)ち実録と謂(おも)ふ」(『日本後紀』大同四〈八〇九〉年二月辛亥の勅)。
雑[木柔](ぞうじゅう)の[木柔](じゅう)は木編に柔。JIS第4水準。ユニコード697A
ここでいっていることは、『倭漢惣歴帝譜図』というものがある、と平城天皇が詔勅でのべるわけです。この図では天御中主尊を始祖としている。そして魯王、呉王、高麗王、漢の高祖なんかを、その後裔に接(つ)いでいる。で、倭のことや漢のことが入りまじって正しい天皇家の系図を傷つけている、垢まみれにしている。そういう傷ものだけど、愚かな民は迷うてこれを本当の歴史を表わしていると思っている。けしからんことだ。とまあ、こういう詔勅が出ている。なんだか一つの文献を天皇が目の敵にして、それをさげすむための詔勅が出たなんて、明治以降ではちょっと考えられないことです。
それに対して原田さんは次のように批評しています。
「倭漢惣歴帝譜において天之御中主尊が中国・朝鮮の諸王家の共通の始祖とされたことは、単なる系譜の偽作というレベルに留まる問題ではない。天之御中主尊は日本神話の始源神であり、王権の根源を示す神である。その神から異国の王家が出たということは、日本・中国・朝鮮の王権がすべて同根であることということになるからである。倭漢惣歴帝譜図の系譜の背後には普遍的な王権のモデルが伏在していたのである」と。
原田さんが考えたのは、偽作であるにしても、そういう偽作を作ったという思想的背景に意味があると。天御中主尊から中国や朝鮮の諸王家が出てきた。つまり共通の先祖が天御中主である、ということは、日本の王家も朝鮮の王家も中国の王家も等しく同じ根から出た兄弟同士であるという主張になっていると。つまり、三国の権力が対等であるという意識が中世にあったことを示していると、そういう指摘の材料に使ったんです。他にも同じ結論を導くいろいろな例をあげていて、その中の一つにこれが出てきたわけです。
しかし、私はこれを見た時にハッとしたんですね。この文章、知らないわけではなかったんですが、昔見た時には、平安時代には変な文献があったんだなあくらいの頭しかなかったんです。今回見てみると、どうもそうじゃないという感じがしたんです。『倭漢惣歴帝譜図』、略して『帝譜図』といっておきます。『帝譜図』のいっている状況は実際にあり得る状況ではないか、こう考えたわけです。
この系図では、天御中主(あめのみなかぬし)が先祖になっているらしいですね。これはまちがいない。『日本書紀』の中で天御中主が始まりになっている神話があります。そうでない神話のほうが多いですよ。高皇産(たかみむすび)だとか国常立(くにのとこたち)であるとか、そういうのが多くて、天御中主で始まっているのはそんなに多くはないんです。しかしあるんです。だから自分は天御中主の子孫である、と称している人たちがいても不思議ではないんです。
一言いいますと、『日本書紀』の中の一書というのは、筑紫で作られたものである。それは単純作業でわかるわけです。一書の中に出てくる国名を単純作業で抜いていくと、筑紫が飛び抜けて多い。次が出雲、三位以下はぐんと数が少ないんです。ということは筑紫が国名として特別優遇されている、ということは筑紫で作られたからと考えれば一番わかりやすいわけですね。大和で作ったり関東で作ったりしたものが、何で筑紫だけ優遇しなければならないんですかね。筑紫で作られた一書だから筑紫が一番優遇されている。しかも数だけではなくて話の内容が、今までは出雲が中心だったのが、これからは、つまり天孫降臨以後は筑紫が中心ですよ、といってるんですからね。
一言でいえば筑紫が中心で正当であるというイデオロギーが、あの神話の基本思想ですからね。そんなことを筑紫以外の人の誰がいう必要がありますか。筑紫の権力者ですね。当然その子孫が私である。だから私の支配は正当である、とこういうふうになっているわけですからね。だから筑紫の権力者の御用学者たちが作った一書であると、こう考えざるを得ない。これは私の『盗まれた神話』(角川文庫)で述べたところです。
そういう立場から見ますと、筑紫の中で天御中主を先祖といっている一派がいたと、これがまず第一。で、原田さんが読み違えたんじゃないかと思いますのは、この文章が、天御中主を祖先にした系図と、魯王、呉王、高麗王なんかのこれと接(つな)げてるというわけでしょう、“接”があるんですから、つまりこっちに天御中主の子孫の系図があって、こっちに魯王、呉王、高麗王だという系列があって、それが子孫のある時結婚しているというわけなんです。で、これは私本当にあるんじゃないかと思います。
なぜかといいますと、私、糸島郡にもうくり返し行っておりますが、去年は「君が代」問題で大きな収穫があったんですが。最初の頃、高祖山(たかすやま)連峯のところにある高祖(たかす)神社の南に原田家という旧家がありまして、その旧家に行った時です。自分の家の先祖からの系譜を語る一冊の本を作っているんです。それを見ると、私の家は漢の高祖の子孫である、ということを一生懸命、系図や資料で述べているんです。それ買って帰りましたけどね。要するに高祖山連峯の裾に、名門の家で、自分は漢の高祖の子孫である。もちろん漢の高祖のあと亡命してきたその子孫ですがね、その子孫であると主張している家があるわけです。私はこれ事実としてもあり得ると思うんです。なぜかというと、前漢が新の王莽(おうもう)で途絶えますね。あの時に、はいはい、もう新の王莽には屈服しますといった人もいたかもしれないが、そんなこと俺はいやだといって亡命した人もいるわけでしょう。
それからまた後漢が魏に代わりますね。三国時代、あれも禅譲と『三国志』に書いてありますが、それは表向きですからね。第一の臣下が漢の最後の献帝を押し込めて、禅譲を受けたと称して天子になっただけのことですからね。だから、その魏のやり方に従った漢の一族もいるが、従わないで亡命した一族もいる。世が世ならば次の漢の天子になるというような人は、逆に亡命するわけですね。一番亡命しやすいのは、やっぱり日本でしょうね。シルクロードを越えてなんてのは大変でしょうからね。だから、そういう形で亡命してきているというのは十分あり得るわけです。で、今のお家では、私は漢の高祖の血縁だという、代々の系図を作って頑張っておられるわけです。そういうのが筑紫にある。
そして天御中主です。高祖山連峯が天孫降臨の土地です。本居宣長がこれを宮崎県の高千穂山に持っていった。あれはもう無理な話で、『古事記』に「竺紫の日向の高千穂のくしふる峯に天降りましき」と書いてあるのに、筑紫というのは九州全土を指すのだろう、で、日向の国だろう、高千穂が高千穂山だろう、くしふる山はなくなったんだろうと、こういう処理をしたわけですね。なんでそんな無茶をやったかというと、神武天皇が日向の国を出発してますね、つまりいってみれば古代日向人だから、その神武天皇を天孫降臨と結びつけるために、ニニギに日向に降りてもらわなければいかんかったわけです。だから強引に日向に降ろしてしまったわけですね。宣長一人じゃないですけどね。
それをまた明治政府が、本居宣長の弟子の平田篤胤、そのお弟子さんたちが教務省、後の文部省を握るわけです。それでその説を教科書に書いてふりまくわけ。戦後は墨で消されたけれども、あれは歴史事実ではないと戦後の人は覚えさせられたが、場所としては日向だと思っている人が多い。皆さんの中にもいらっしゃるかもしれない。現地に行ってきましたが観光名所になっています。しかし実際は、観光名所にしている人には申しわけないが、歴史事実には全く関係がない。筑紫とあれば福岡県のとみるのが当たり前で、そこに日向(ひなた)峠、日向(ひなた)山、日向(ひなた)川とあるわけですから、高祖山連峯は日向と呼ばれる地帯であると。高千穂というのは連峯ということです。高千穂をなしている所に、くしふる山がちゃんとあるんですから。一昨年でしたか博多に行って講演会の時に一人の方がこられて、こういうことをおっしゃいました。
今宿(高祖山連峯の先端の博多湾にのぞむ所)へ行ってお百姓さんと話をしておったら、
「くしふるの山から猪や狐が出てきて困るんじゃ」とこういう話が出てきた。
「えっ今何とおっしゃいました」
「いやァ猪や狐があのくしふるの山から出てくるんじゃ」
「くしふるの山ってどこですか」
「あそこじゃよ」
「高祖山ですか」。ーー高祖山が一番高いんです。
「いやいや、あのもう一つ向こうのちょっと低くなったところじゃ、あれがくしふるの山や」。
土地のお百姓さんには日常の生活用語なんですね。だから宣長のように、あれは消えてしまったなんていわなくてもね、ちゃんとあるんです。筑紫の国の中にあるんです。
これは考古学的にも裏付けられるという問題を述べたのが、さっきいった「歴史学の成立」という論文なんですがね。ともかく、ここが天孫降臨の土地ですから、ここに天御中主の子孫だという一派がいても不思議ではないんです。また漢の高祖の子孫だという一派も二十世紀でも現に頑張っている人もいるんですから、それがどこかで結婚した系図があっても何にも不思議はないわけです。接(つ)ぐ、接(せっ)するんですから。
次は魯(ろ)王とあります。原田さんは中国の王家の代表みたいに解釈したようですが、しかし考えてみると魯王と書いてあっても斉王だとか楚王だとか出てこないわけです。魯王なんです。これは何かというと、秦の始皇帝の時に周の王族が亡命するんです。秦の始皇帝が周を亡ぼして天下統一します。あれにおとなしく従った王族もいたでしょうけど、いやだというのは亡命するわけですよ。それが朝鮮半島にきた記事があるんです、『三国志』で。「辰韓は馬韓の東に在り。其耆老(長老)世に伝う、自から言う古の亡人(亡命者)秦の役を避け」、つまり秦の始皇帝の統一戦争を避けて亡命して、そして「来りて韓国に適(ゆ)く」。そして「馬韓、其の東界の地を割(さ)きて之に与う」。その亡命を哀れんで馬韓が東、つまり今の新羅ですね、そっちを割譲してこれに住まわせた。
で、「城棚有り、其の言語馬韓と同じからず、国を名づけて邦(ほう)という」。国(くに)ということを彼等は邦(ほう)という言い方をする。「弓のことを彼等は弧という、賊のことを寇(こう)という、行酒のことを行觴という」。
で「相呼(そうこ)のことを徒という、秦人に似る有り」。つまり秦の人に言葉が似ているというんですね。「ただ燕、斉の名物のみにあらざるなり」。燕は北京、斉は山東省、これはもう朝鮮半島のお向いさんですから、ここの言葉が朝鮮半島に入ってきているのは誰でも知っている。ところがそうじゃなくて、もっと大陸部の洛陽、長安の言葉を、新羅に亡命してきた人たちはしゃべっているというわけ。そして「楽浪人を名づけて阿残となす」。楽浪人のことを彼等は阿残という。「東方の人、我を名づけて阿となす、楽浪の人というはもと其の阿残の人なり」というようなことが書いてあるんですね。「今これを名づけて秦韓となす者あり」と。今、秦韓といわれているのはこの亡命者である。秦の始皇帝の統一戦争を逃れてきた人たちである、とこういっている。
朝鮮半島に近い燕、斉の言葉が影響しているのは当たり前、ところがもっと奥の、秦と燕、斉の中間地帯の発音がここにやってきている。つまり洛陽とか魯とか周の天子の一族が王家をなしている中心地の言葉が使われているというのです。やっぱり、さすがに陳寿は洛陽の人ですからね。彼はまた蜀の人間ですから、そういう言葉の感覚があるわけです。われわれ中国語なんて皆同じように思っているけど全然違うわけですね。そういうことをいっている。そうすると当然、魯王の血を引いたのもいるわけじゃないですか。魯王の血を引いた者が朝鮮半島の新羅の洛東江沿いにきているというわけです。それを三世紀の話としていっている。そうすれば倭国といえばお向かいさんです、九州は。そしたら魯王の血を引くという者と結婚した人がいて、なんにも不思議はないじゃないですかね。でしょう。それをいっているわけです。
次は呉(ご)王、これはもう簡単です。太宰府に残っていた『翰苑(かんえん)』に、呉の太伯の予孫だと倭人がいっている、というのが出てきます。「文身(ぶんしん)鯨面(げいめん)して」、倭人ですね。「猶(なお)、太伯(たいはく)の苗(びょう)と稱す」。その注に「魏略(ぎりゃく)に曰く、女王の南に又狗奴(こうぬ)国有り。男子を以て王と為す。其の官を、拘古智卑狗と日う。女王に属せず。帯方より女王国に至るは万二千余里あり」。『倭人伝』ですね、総里程。「其の俗、男子は皆鯨面文身す。其の旧語を聞くに、自ら太伯の後と謂ふ。昔、夏后(かこう)小康(しょうこう)の子、会稽(かいけい)に封(ほう)ぜられ、断髪文身して、以て蚊竜(こうりゅう)の害(がい)を避(さ)く。今の倭人も亦(また)文身し、以て水の害を厭(あら)うなり」と。これは『倭人伝』に出てくる通りです。この中に倭人が、自分は太伯の子孫だと、これも全員のはずはないんですよね。倭人の中に太伯の血を引いている系図に立つ、と主張している人がいるといっているわけです。太伯といえば呉王じゃないですか。だから呉王の血を引く系図がきて、天御中主の子孫と結婚していると、そういうことをいっているんです。
そして高麗王。これはまた有名な記事で、
『風土記』の中の怡土(いと)郡のところで、五十跡手(いとて)のいった言葉が出てきます。
「五十跡手奏(もう)ししく、高麗(こま)の国の意呂(おろ)山に、天より降り来し日桙(ひぼこ)の苗裔(すえ)、五十跡手是(これ)なり、と申しき」
と有名な言葉ですね。つまり糸島郡の県主、五十跡手(いとて)がいうには、自分は天より降って来た日桙(ひぼこ)の子孫である、というんですね。これは単純に天からきたんじゃないんですね。“天”これは“天国(あまくに)”。天国というのは壱岐、対島の海上領域を指すと考えているんですが、天より降って高麗へ、この高麗は統一高麗の時代に書けば朝鮮半島全部が高麗になるわけですがね。自分は、その高麗の国へ降っていった天の日桙の子孫である、とこういういい方をしているわけです。
だから一番もとを質せば天国である。その天国から降って高麗の国にいたんだと、豪族だか王様だかしらんがいたんだと。自分はそれの血を引く子孫なんだといっているんです。だから遠くは天国だが近くは高麗の国が自分の先祖の国であるといっているんです。天の日矛(ひぼこ)というのはご存知のように新羅の国王の子供ですね。新羅というのはやはり高麗なんですよ。統一高麗になったら高麗に入るわけです。だから新羅王という代わり高麗王といったんです。その高麗王の子孫であるその天の日桙の、自分は一族である、とこういってるわけです。そうすると高麗王の血を引くというのが糸島郡にいるわけで、それに接(つ)ぐ、とこういってるわけです。糸島郡の県主と結婚したら高麗王の子孫と接ぐ、となるわけです。系図がつながってしまうわけですね。
そして最後の漢の高祖は先ほど申しましたね。二十世紀の現在でも頑張っておられるんですからね。
ということですから、どうも糸島郡界隈のある家の系図なんですね。だから、これはなんにもウソじゃなくて本当の系図なんです。正しい系図なんですよ。おそらく九州王朝の一端の系図ですね。“帝”譜図といってるんですから、地方豪族の系図といってるんじゃないでしょう。自分のこの系図は帝王の系図である、とこういってるんでしょう。だったら九州王朝の系図ですよ。それを九世紀の初めになって平城天皇が叩くわけですね。こんなもの皆が本気にしているのがけしからん。本当のものは、『古事記』はこの頃まだ“出て”いないですから、『日本書紀』に書かれたあれが本当だと、あれに反するのは皆偽物だと主張しているのがこの詔勅なんですね。詔勅がそういう主張することはよくわかるけど、それが歴史事実に合っているかというと、合ってはいないわけです。本来の本家の系図を今けなし始めたということですね。まだ八世紀ではけなすところまでは行ってなかったでしょうね。それが九世紀になって、やっと本家の系図をにせ物扱いにし始めたと、そういう非常に貴重な史料だったとわかってきた。
この辺も九州王朝という仮説に立てば非常によくわかるんですがね。近畿天皇家一元主義でね、平城天皇の立場で見たら、くだらんことをいう系図もあったんだなあということと、こんなくだらん大ウソを作った大ウソ系図を、なんで一国の天皇ともあろう者が詔勅で、一つ名指しでやっつけんならんのかと、ちょっとバランスが悪いですわね。こんな偽物を作る変なインテリがいたら、そいつをつまんで捨てればいいわけであってね、詔勅でわざわざお触れ出す必要もないじゃないですか。この辺のバランスを従来の近畿天皇家一元主義からは説明不可能なんですね。誰も説明してないと思いますが。これを扱った人も。くだらん奴がいた、そのくだらん奴を天皇は大真面目で詔勅でやっつけなさったというね、そんなことになるわけですよ。
というようなわけでね、私は原田さんのおかげで非常に重要な史料にぶつかったと、こういうことを感じました。九世紀の初めでこういう九州王朝の系図の名前がまだ出てくる。で、その粗筋のところがわかるわけですから、その目で見れば。私、その目で今まで見てなかったからわからなかったんですが、八世紀段階にはやたらじゃないですかね、おそらく。
実はこの間からいろいろ教えていただいているんですが、さっきは空海の話をしましたね。もう一つ『万葉集』の面白い話を、今日もお世話いただいている富永さんからお聞きしたわけです。『万葉集』の中に大伴旅人が太宰府へ高級官僚になって行きますね。そこで梅花の宴をやった。そして中級、下級の官僚を集めて皆そこで梅の花の歌を歌うわけです(八一五ーー八五三年)。それがずーっと何頁も並んでいるわけです。私、正直いいましてあれを見る時はパッパッパッと早めくりで、つまり読んであんまり面白くないですね。梅の花が散って桜の花になった。ああなんとも惜しい、身をもだえるばかりであるみたいなことを書いてみたりね。梅の花を見ていると一日見てもあきないとかね。ま、ウソじゃないんでしょうけど、私なんか梅が散ってるのを見れば、ああそうかと一分か二分ぐらいですむわけであって、そんなに思い入れたっぷりに、それも、たくさんの人が、くり返しまき返し歌うなんて、どうも付き合いきれないね。正直いってあんまりそんなことは学校の国語の時間にはいいませんけど、もっともなようなことをしゃべっているけれども、内心をいえばそうなんです。
で、私もつまらんことをいいますが、高等学校で最後のやめる直前の頃は、そういう点、悟りをひらきまして、やっぱりこれはウソをついちゃいかんと。自分がくだらんと思ったら、こんな歌、教科書に出ているけど実にくだらんと思うんだが、皆本当にいいと思うか、というような授業をやりましたんですがね。大体は教科書に出てきたらほめるみたいなムードが強かった。ところが実際は辟易していたというか、つまらん歌だと思っていた。ところがですね、富永さんが指摘されたのは、これはそうじゃないんじゃないかと。つまり梅の花というのは九州王朝のことをいってるんじゃないかと、梅の花が散って桜の花の時期になった、桜の花の時期になったということは、近畿天皇家の時代になったことをいってるんじゃないかと。そういわれて、私もそりゃ面白いですねといって、帰って『万葉集』を読んでみたら、たしかにそういうキーワードを入れると、皆生き返ってくるんですね。こっちは余計な思い入れと思ったものが、余計な思い入れじゃなくて、痛切な思い入れになってくるんです。
考えてみると、これは八世紀半ばですから、この人たちが生まれたのは七世紀後半なんですよ。つまり九州王朝の時期に生まれているわけです。下手したら青年時代も九州王朝かもしれない、そしたら皆胸の中に複雑なものがあるはずですよ。それがどうも歌い込まれているんじゃないか。もちろん菅原道真はまだ登場していませんよ、八世紀半ばですから、菅原道真がやってくる以前です。天神、それは天満宮です。天神さんは梅の花です。梅の花が天神さんのシンボル。天神さまは九州王朝の、ちょうど天皇家の伊勢の皇大神宮みたいなものなんです。そうすると天神イコール梅の花。梅の花を惜しむ、とこうなってくるとね、ちょっと聞いたら何を馬鹿な、といいたいところだが馬鹿じゃなくなってくるんです。これは実例をみないと。皆さん帰って『万葉集』をその目で見直してください。
もう一つ、この富永仮説が優秀なんじゃないかと思いましたのは、梅花の宴の直前にあるのが蓑島の老人が語ったことというので述べられている、例の神功皇后の鎮懐石(ちんかいせき)の話。あれも何種類かあって『風土記』に二種類、『万葉集』にもある。その『万葉集』の鎮懐石の面白いところは、そこの場所を比定するのに里数が書いてあり、その里数が何と短里なんです。一里が七七メートル前後という短里でないと全く理解できない。これは現地ではっきり測定できる例になるんですが、短里なんです。長里の、例の一里が四三五メートルですか、そういうものでは全く理解できない。博多の長老が短里で述べているんです。これも八世紀半ばまで。ということは短里は七世紀まで九州王朝が使った里単位なんです。それを老人たちはまだ使っているという、これも『よみがえる卑弥呼』(駿々堂)の中に論文をのせておりますがね、そのテーマの歌の次が梅花の宴なんです。時期もほとんど同じ時期なんです。という点からみますとね、よけい富永仮説は成り立ちやすいんじゃないかと思いました。
で、富永さんがこういうことを思いつかれたもとになったのは、「あをによし奈良の都は咲く花の匂ふがごとくいま盛りなり」(三二八)という歌でございます。国語の教師をやっております時は、あれは何か大和を絶賛した歌である、というふうに思い込んでいました。ところが法隆寺は太宰府の観世音寺を移したのではないか、という奇想天外な、すごいアイデアをお書きになった建築家の米田良三さんという方の本『法隆寺は移築された』(新泉社)の跋文にそれが出てきまして、あれは太宰府で作っている。太宰府で九州王朝の滅亡をみて、その廃墟で作っていることになる。そうすると普通に考えられているのと違った感じになるのではないか、という指摘がありまして、私は仰天したわけです。
私、国語で教える時、あれあんまり好きな歌ではなかった。なんかこう道長の「この世をばわが世とぞ思う」みたいなね、ああいう感じの歌のイメージで理解していたんです。ところがそうではなかった。第一あれが太宰府で作られたというのは、はっきりしてるんですね、詞書をみれば、小野老が作った。場所ははっきりしてるわけです。私は何となく、皆さんもそう思ってはおられませんでしたか、何か大和で作ったような感じがしてたのではないですか。大和で作ったら大和を絶賛した歌になりますね。ところがあれは、はっきり太宰府で作ってるわけです。太宰府となると九州王朝の廃墟です。八世紀ですから。もう九州王朝は亡んだと。そして今、大和で花が、花といえば桜の花でしょう、盛りである。しかし桜の花もまた散るわけですよ。永遠に咲きつづけている桜の花なんてないわけです。あの桜の花もいつの日か散る日があるであろう。ね、ドキッとするじゃないですか。そりゃ何百年だろうが何千年だろうが歴史の中では瞬間みたいなものですから。いうの日か桜の花も、この太宰府の九州王朝のように散る日がくるであろう。もうね、ノーテンキなおべんちゃらどころではなかったですね。ものすごい歴史観、何千年も見通した、するどい歴史観をのべていたわけです。そういう米田さんのすごい発見がありまして、それに刺激されて富永さんが、さっきのような発見をされたわけでございます。
最後に少し話させていただきます。この十一日に青森県の五所川原に行きまして、和田家文書、『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』の親類みたいなものを三冊見せてもらったわけです。この三冊は、いずれも明治の和田末吉(すえきち)さんの再写、明治の紙に末吉さんの筆跡で写したものなんですね。ところが秋田孝季の自筆本が出てきたというんでよろこんで、ぜひ見せてくださいと頼みこめば、明日四時半に和田喜八郎さんがホテルに持ってくるとのこと。五所川原のホテルに泊っていたんですが、こう言って帰られたんです。だから翌日は朝からワクワクしながら待っていたんですが、四時半になっても和田さんが現われないんです。五時半になっても現われない。お宅へ電話したらお嬢さんが、父はお昼すぎに青森へ出かけました。会議へ出るということをいってましたので、今日は帰らないと思います。こっちは、もうがっかりしてしまいました。次の朝十三日に電話をしても、まだ帰りません、午後になってもまだ帰りません。私はもう夜行で帰らなければなりませんので、やむを得ず三冊の本は大事なところを写真にとってお返しにあがったんです。なんかもう信用できない人だなあと正直思ったんです。で、だいぶきつい手紙を書いて残してきたんです。はずかしいんですが、こんなことなら、もうお付き合いできませんというような事を書いて。
そしたら昨日の晩、藤本さんという、りんご園の社長さんで、北方新社から『東日流外三郡誌』を出された方ですが、この方からお電話がありまして、和田さんが青森側からスノーモービルで石塔山に登ろうとして谷底に転落した。そして目を突きさして医者に運びこまれて家へ帰れなかった。やっと昨日の夕方帰ってきて古田に連絡してくれ、ということを聞きましてね、もうびっくりしました。疑って恥ずかしくなりました。今日ここへくる直前に申しわけない、早く治ってくださいという電報を打ってきましたが。和田さんは私と同年ですけど、古田に秋田孝季の自筆本を見せようと思って、無理して石塔山に登って転落したということだったようです。
ということで、また秋田孝季の自筆本を見せていただくのは、のびたわけですけどね。とにかく世間でいわれているような、これを悪しざまに人はいいますけど、私はいんちきなところはどうも発見できない。もちろん孝季の書いた部分は、孝季の近世の学者の歴史観で書いてあるから、今の私から見ると誤っているところはあります。しかし、それはあくまでそれだけの話であって、彼が写したものが古い史料に基づくものであり、基本的に非常に重大な史料を数多く含んでいることを疑うことはできません。特に最近は電子顕微鏡を使って写真をとり始めておりまして、こんど出版する『九州王朝の歴史学』(駿々堂)にはその写真ものります。そういう科学的方法で接触し、実体を明らかにしていきたいと思っておるんです。
さてですね、こんど見せていただいた三冊の本の中にいいのがありましてね、秋田孝季の文章で、筆跡は明治の末吉さんですが。「未来に戒言」という題で一、二と書かれているんです。全部読めませんが内容的に少し申しますと、まず最初は、一、「我が国を一統せる朝幕(朝廷と幕府)の政は(政治は)世界に心眼をもたず、自ら貝蓋を閉ざすは」、つまり鎖国のことです。「末代に貧土世盲の国に相成り、内に国民の反乱起こるは必如なり」と。こういう鎖国をやっていると国が非常に貧しくなって、国民に反乱が起こることは確実である。こういう言葉から始まるんですね。
これもすごいですね。全部読めませんが、ここから後、「北にはオロシヤがきて、それからメリケン、フランス、イギリス等際国に迫る」。国境に迫ることでしょうね。というようなことをいいまして一番最後は「朝幕をして未だ陸羽、古来なる蝦夷観念にある限り」、つまり朝廷や幕府が、この東北を古来の蝦夷観念で見ている限り「自から亡国の失政を招かむ。あやまてる創国史は火宅の争いにて、世の明けを知らざる愚考なりと戒言す」(寛政五年六月一日秋田孝季)。初めと終わりだけ読んだんですが、そういうことを書いている。
二のほうへ行きますとね、先頭が「人の王たるも人なり」と出てきますね。例の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」というあの思想ですよ。人の王になっている人間も結局は人である、というんですね。「権政を独(ひと)りほしいままとせるに渉(わた)らば、自らを神とし祖を神の一系にせむ、活神(いきがみ)とまで民の命を下敷に国を危く堕(だ)しなむ」。つまり本来人間の上に立つ者は人間であるのに、自分は神だと、神の子孫の一系であるとして生き神様のようにいっている。これは民の命を下敷きにするもので、国家を危くする考えである、とこういう言葉から始まるんですよ。
そして最後のところではですね、「独占の令は強制たれば、忠臣をも反忠せしむ、心せよ今なるままなれば亡政し自守民権起こらむ」。これはちょっとおどろきましたね。民権という言葉が江戸時代使われているということを初めて知りました。ところが、これ江戸時代らしいのは、自主が自守になっているんです。自守民権が起こらむ。今みたいなことをしていると、そういう時がやがてくるぞ。これは未来への戒言なんですから予言なんです。この予言は八十年たって当たったんですね。最後は気迫があふれてる彼独特の用語文体なんです。私が『真実の東北王朝』(駿々堂)で紹介しました跋文ですね、あれと同じ考え方、気迫が溢れております。これはもう間違いなく秋田孝季だと思います。やがてこれの自筆本も出てくると思います。
こういう文章に接したことで、私は、まあ自筆本には接せられなかったけれども、やっぱりよかったなあと思うんですよ。この文章は本当にもう、明治を予言しているだけでなくてね、敗戦をも予言しているんじゃないですか。一国の王が自分を神だといったり、神の一系の子孫だなんていってたら必ず国がひっくり返るだろう、国民に不幸をもたらすだろうなんてね。よくも江戸時代にこういう予言できましたね。やっぱり彼の学問の力ですね。ちょっと私も寒気がするくらい、これみて驚嘆いたしましたですね。こういう素晴らしい学者が江戸時代に、津軽の一角にいたということを非常なよろこびとしたいと思います。それじゃ長時間どうもありがとうございました。(拍手)
質間
「持統紀」即位の項に「神璽・剣・鏡」とある神璽を何と読むか。“神のしるし”と読むと二種の神器になってしまう。玉を指すのではないか・・・。
答
おっしゃった質問、私もだいぶ考えていた問題でございます。おっしゃった通りに考えていた時期があるのですが、どうも結論からみると、そうではなさそうなんです。『延喜式』にも同じような儀式次第が出てくるのですが、それは鏡と剣なんですね。
それで津田左右吉が、この問題をとらえまして、『日本書紀』や『延喜式』を見ると剣と鏡である。と、そこから神話批判を開始するわけです。神話には天照大神が三種の神器を持って現われる箇所があるわけです。ま、二種、一種の場合もありますけれども、一番整った時には三種の形で出てくるように見えます。実際は天皇家の即位の儀式では二種である。ところが神話は三種となっている。これは二種が正しい。だから三種と書いている『古事記』『日本書紀』の神話はでっちあげである、とこういう形で三種の神器否定論を展開したのは有名なことです。
それで私は神璽を玉と考えていけないかと思って、いろいろ考えた時期があるのですが、結論としては『延喜式』とか他の文献を参照していくと二種と考えざるを得ない、ということになってきた。そうすると津田の批判は成立するかというと、現在はもう破産したわけです。なぜかといいますと、筑紫の国、北部九州から三種の神器セットを持つ弥生の王墓が次々と出てきたからなんです。実際はもう津田左右吉の頃にも出てきていたんですね。三雲、井原、特に三雲というのは素晴らしい三種の神器を持った王墓なんです。
それから、これも津田左右吉より早いんですが、明治に春日市の須玖岡本からも見事な三種の神器セットを持ったものが出てきた。さらにですね、平原、原田大六さんの研究で有名な、これもすごい三種の神器セットを持った王墓が出てきた。これはカメ棺ではなくて割竹式木棺、他はカメ棺ですね、いわゆるミカ棺です。それからさらに重大な発見は、今までたいしたものは何もないといわれていた室見川の中流域の早良郡、ここから吉武高木遺跡が出てきた。これは三種の神器を持った一番最古の弥生王墓なんですね。弥生中期初頭。しかも、この場合大事なことは、中心のは三種の神器を持っている。まわりをとりまいているお付きの墓は二種だったり一種だったりするわけです。位取りがちゃんと出てきたんですね。
その点、例の吉野ヶ里ですね、あんなにすごい遺跡だけども北の墳丘墓の中心の王者は剣だけです。鏡や勾玉はないわけです。で、片方の西側のは管玉がある。管玉でもいいと考えれば二種はあるけど鏡はないわけです。あれも鏡を入れ忘れたとかね、鏡がご本人きらいだったとか、そんなことはないですよ。あんな巴型銅器を作るような精巧な技術を持っているところで、鏡を作るのは一番楽ですから。ぺたんぺたんと中国の鏡を写しにして作ればいくつでも作れるんですから。それなのに鏡が入っていないということは、三種を持ち得る血筋ではないからである、ということになるわけです。
三種を持ち得る血筋は何かというと、時間の順序からいうと、吉武高木(よしたけたかぎ)、三雲(みくも)、須玖岡本(すくおかもと)、そして井原(いわら)、平原(ひらばる)というわけですね。弥生のかなりの時期にわたっています。そしてそれに及ばない所は二種、一種なんです。
そうすると天皇家は二種を使っている。ということは三種を使い得ない家柄だったからではないかというね、非常にこわい問題が出てくる。ただ、これはまだ結論は出せないと思う。というのは天皇陵をひらいてないですから。山城の椿井大塚山古墳のように三種のあるものが近畿にもありますのでね。弥生はないですが古墳時代にはありますのでね。それをどう考えるかという問題があるから軽々に結論は出せないけれども、もしかすれば三種とか二種とか一種というのは何か意味があるかもしれない。少なくとも弥生に関してはあるようですね。
古墳時代以後、どう考えるかというのは今後の問題。できれば、やっぱりこの問題を押し進めるためには天皇陵の中を見ずして結論を出すのは乱暴でしょうね。ということで結論は保留いたしますが、これは非常にこわい重要な問題が含まれています。
なお、もう一言申させていただきます。吉武高木の場合、そこにある鏡は漢式鏡ではありません。多紐細文鏡(たちゅうさいもんきょう)というね、紐を通すところが二つ三つ四つあったりする。そして凹面鏡、そういうもので中国の漢式鏡じゃないわけです。一時、朝鮮鏡ともいわれていました。楽浪、帯方から出てくるので。ところが最近では、さらに北の遼東半島、北京あたりまで出てくる。ということは、確実にはいえませんけれど、私はどうも燕の関連の鏡ではないかという感じを持っているんですがね。そこで興味があるのは、『山海経(せんがいきょう)』に「倭は燕に属す」という一節がありますね。倭のことが初めて出てくるところ、“蓋国北は鉅燕に接し、南は倭に接す”とこうあって「倭は燕に属す」とつづきます。周の戦国期、倭というのが本来、燕に属していた。そういう問題と、今いった燕のあたりからずーっと朝鮮半島から日本列島にかけての多紐細文鏡が、三種の神器の最初の鏡だということと、何か関係があるんじゃないかと。多紐細文鏡というものを少し研究しなけりゃいけないなあと思っているんですが、皆さん関心のおありの方はぜひご研究ください。
質問
孔子の言葉、思いあがった中華思想について。諸橋轍次の解釈ではそうとはとれないが・・・。
答
『論語』の解釈というのは非常に沢山ありましてね、いろんな人がいろんな解釈をやってるわけです。だから諸橋さんの解釈も成り立つ可能性はあると思いますが、その問題に今立ち入るのは、やっぱり、いろんな注をくらべてみないといえませんのですが、私にとっては。今おっしゃったように「夷狄(いてき)」という言葉は明らかに使っていますよね。夷狄というのは、やっぱり軽蔑の言葉です。尊重するから夷狄と呼ぶなんてことはないわけでありまして、「中華」に対する「夷狄」という考え方をね、孔子は明らかに持っているわけです。
それはもう、くり返し周辺に対する夷狄呼ばわりは出てきます。ああいうの気にせずに覚え込んで読んでれば何でもないけど、気にし出すとものすごく『論語』、気になるんですよ。孔子は夷狄思想に立っていることは疑えない。だから諸橋さんの解釈を仮によしとして、一説でしょうけど、孔子から夷狄思想を全部排除できるかというと、これはおそらく無理だろうと思います。『論語』にちりばめられた夷狄類の言葉自身が何よりも雄弁に証明していると、そういうことでございます。諸橋さんのことについては、またよく検討させていただきます。
それからもう少し、孔子が出ましたので、もう一言いわせていただきますが、司馬遷の『史記』の文章、『穆天子伝』のところの、「国語」の文章がほぼ『史記』と同じ内容を示しているんですね。例の家来のいうことを聞かないで西へ出て行って、四匹の白い狼と四匹の白い鹿しか得ることができなかった。それでその後、西域とうまくいかなくなった、というのがそっくり「国語」の文章。『史記』で司馬遷は人の文章を、そっくりいただいて書いたわけですね。当時、読者はああ「国語」の文章をとったな、ということはわかるわけです。だからといって、いわゆる盗作ではないんです。
「国語」というのは左丘明の作といわれている。左丘明の作といわれているものに『春秋左氏伝』というのが一番有名なんですね。その『春秋左氏伝』の中に穆王のことを述べた箇所があります。それは、ある王様のことを述べる時に、昔、穆王というのがいて、非常に奔放で、逸(いつ)、悪い意味でね、逸である。ルールをはずれて飛びまわっていた。で、彼は自分の宮殿では死ねないはずであったが、かしこい家来がいたので、やっと自分の宮殿で死ぬことができた、というような言葉が引用されていまして、その王様も、それと同様のことをやっている、という話を述べている。
それに対して仲尼曰く。仲尼とは孔子のことです。その通りだ。そういうことをするのはよくないんだ、と仲尼の批評として書かれているわけです。だから孔子が穆王のことを知っていて、穆王を否定的に見る、その見方に孔子さまも賛成されたという形の文章なんですね。で、その文章があって、その文章の一連のものとして「国語」があるわけです。その国語の文章を司馬遷の『史記』が使っているわけです。逆にいうと当時の読者は本が沢山ない時代ですから、この司馬遷の文章を見て、ああこれは「国語」の文章だなあ、あの『春秋左氏伝』で孔子さまが穆王を非難していらっしゃる、あれを指しているんだなと、こうわかる仕組みの文章なんですね。だから孔子さまのお墨付きで、穆王はだめだよ、と当時の読者は理解する形の文章になっているわけなんです。この点、ちょっとつけ加えさせていただきます。
質間
九州王朝から天皇家へ簡単に移ったとは考えられない。吉備等も無視できないのでは・・・。
答
おっしゃる通りで、私は九州王朝一元史観ではないわけでありまして、多元史観なわけですね。私のいっているのは、多元史観が大事であると、多元史観というのは今おっしゃいました出雲であるとか、吉備であるとか、日向であるとか、そういったところの、それぞれの歴史を大事にしていくということでありまして、その一つを原点にして、全部を説明していく、というやり方をしないということなんです。だから近畿天皇家一元主義にかわる九州王朝一元主義をとるというんじゃないんですね。ということですので今おっしゃったことはもう全く賛成でございます。
今の天皇陵より大きい大古墳が吉備にあるということがありますね。この間、日向に行きましたら、日向にも同じ時期の天皇陵以上の古墳があるんですね。だからもし同時代で、古墳の大きさで勝負しましょうといういい方をしたら、ある時期は吉備が中心の王朝だったり、ある時期は日向が中心の王朝だったりしなけりゃいけなくなる。全然論理が通らなくなってくるんですね。というようなことで、これは非常に面白い問題だと思います。
特に最近、私が関心を持っていますのは南九州です。串間というところが宮崎県の南端にございますが、ここから巨大なといっていいんでしょうね、玉壁(ぎょくへき)が出ているんです。非常に複雑なデザインが入っています。キ*竜(きりゅう)文とか[元虫]鳳(きほう)文とか穀粒(こくりゅう)文とか、いろいろ入っております。玉で作った壁ですね。壁というのは天子もしくは諸侯の王権のシンボルなんです。これが南九州の南端部、志布志湾のところにある串間から出たんです。で、同じように佐吉という農民がこれを発見したんですね。で、現在、これは転々とした後に、尊経閣文庫、東大の教養学部の隣にある加賀百万石前田家の図書館です、ここの所蔵になっているんです。
で、これはやっぱり、ここの土地の王者が中国、呉の国あたりですね、中国からもらったんじゃないかと考え始めました。そのいきさつは省略しますが、これは南九州の王者の墓ではないかと思います。北ではガラス壁が出てきているのが二箇所ありまして、糸島郡の三雲と春日市の須玖岡本、この二箇所です。壁は中国の天子もしくは諸侯の位置を表わす。天子ということはないですからね、諸侯でしょう。諸侯というと、これは当然倭国の王でなきゃ中国からみて諸侯にならないわけです。そうすると、やっぱり三雲や須玖岡本は決して伊都国王や奴国王の墓じゃなくて倭国王の墓である。同様に串間も南九州を代表する王者の墓と考えざるを得ない、ということになってきたわけでございます。
キ*は、JIS第3水準。ユニコード8641
[元虫]は、JIS第4水準。ユニコード867A
実は今日お話したことで、おわかりいただきましたように、『史記』『漢書』『三国志』というような偉大な歴史書においても、一つの限界があるということです。その王朝のイデオロギーに災いされている、という問題を発見したわけです。『古事記』『日本書紀』については前からそういう考えを持っておりました。たとえば銅鐸です。近畿を本舞台にする天皇家の歴史書に全く現われない。しかし、その銅鐸の時期の話は出てくる。三種の神器とかね、弥生の時代ですから。しかし銅鐸は一切姿を現わさない。これは気がつかなかったんじゃなくて、カットされたんじゃないかと、天皇家の文明じゃないですからね。神武に亡ぼされた側の神々を伴なったシンボル物ですからね。だから『古事記』『日本書紀』には原則として扱われないというふうに理解したわけです。だから最初は、ざっくばらんにいいますと、天皇家はけちくさいなあと思っていたんです。ところが今申し上げたようなことになってくると、“司馬遷よ、お前もか”という感慨を持ったわけです。
それで考えてみると、バイブルも似たようなところを持っていますね。バイブルになぜピラミッドが出てこないかという問題があります。『出エジプト記』によると、ユダヤ人はエジプトで労役させられていたことが書かれています。時代から考えてみても、ピラミッド建設の労役に服していたことは疑いないわけです。しかるにピラミッドのピの字も出てこない。これはやっぱりカッティングをやっているんですね。バイブルは当然のことながら、あの人たちが知っていたすべての古代知識を書いた本ではないわけです。自分たちイスラエルの民の歴史、正当性を書いた本なわけです。本来、イスラエルはユダヤ人の土地ではないわけですからね。エジプトから脱出してきてあそこに居着いたわけです。ちゃんとバイブルに書いてあるんですよ、先住民族をやっつけているわけです。そして彼等と契約を結ぶならば神に対する裏切りになる、だから、どうしたらいいかというと正しい態度は彼等の神殿を毀(こぼ)つことである。そして、われわれがシナイ山でした神との契約のごとく、彼等をイスラエルの土地から退去させるべきである。退去しない者は、われわれと神との契約に背く者であるから殺すか奴隷にすべきである、とはっきり書いているわけです。
実際、考古学的にみれば『出エジプト記』の紀元前二千年前後より、ずっと古くから出土物が沢山出てきますのでね、先住民族がいたことは明らかなんです。しかもエホバ信仰ではもちろんないです。多神教です。その多神教の人たちを土地から追っ払ったわけです。追っ払ったほうは背に腹は替られないわけで、エジプトから命からがら出てきて、もと自分たちのいた土地は、シナイ半島の一角のようですがね、占拠されていて行けなかった。で、そこを素通りしてイスラエルに落ち着くわけです。もちろん、これは正しい歴史であって作り物ではないわけです。ウソじゃない歴史を書きながらピラミッドは出てこないんですね。
一昨年、エジプトヘ行っておどろいたんですが、ピラミッドの近くの高台に立って「ユダヤ人たちもここにいた時は、この辺にいたんですかね」と何気なく言ったんです。案内のエジプトの女性は、この方は優秀な方でしてね、カイロ大学の考古学科を出た三十代の方で、いずれ女大臣になるんじゃないか、というような頭の切れる決断力の早い素晴らしい人でしたが、その人が私のつぶやきを聞いて、「いえ違いますよ、モーゼがいたのは、その辺じゃなくてこの辺りです」と、「ええっ」とびっくりしました。私は、そんなつもりじゃなくて、ただ漠然と言ったんです。もちろんモーゼ一人がいたというんじゃなくて、ユダヤ人が住んでいたのはこの辺だという伝承が残っているんですね。
さすがですね。紀元前二千年も前のことをね。そういうリアリティがあるのに、バイブルにはピラミッドが出てこない。これはピラミッドを忘れたんじゃないんですね。自分たちの文明ではなかったんです。自分たちの歴史、自分たちがイスラエルを占拠して、そこに住むことを正当化するための歴史がバイブルなんです。だから、それ以外の偉大なエジプト大文明はカットされているわけです。ということをエジブトヘ行って認識したわけです。
大体、歴史書というものは、そういうものだと思っていました。『古事記」『日本書紀』にしてしかり、『史記』『漢書』『三国志』にしてしかり、バイブルにしてしかりと。そこで、ギリシャに有名な歴史家が三人いますよね。彼等も大体そうじゃないかと思って読み始めたんですよ。ヘロドトスの歴史をね。そしたら、これは私の思い込みでした。そうじゃなかったんですね。
読んでみます。「序、本書はハリカルナッソス出身のヘロドトスが」、これは小アジア、トルコの所ですね。「人間界の出来事が時の移ろうとともに忘れ去られ、ギリシャ人や異邦人(バルバロイ)の果たした偉大な驚嘆すべき事蹟の数々ーー とりわけて両者が、いかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情 ーーも、やがて世の人に知られなくなるのを恐れて、自ら研究調査したところを書き述べたものである」。こういう序がありまして「一、ペルシャ側の学者の説では、争いの因を成したのはフェニキア人であったという云々」というんですね。そしてその立場から書くわけです。
そして二番へいきますと、「二、ギリシャ側の所伝とは違って、ペルシャ人の言い伝えでは、以上のような次第で、イオがエジプトヘ行ったことになっており云々」とこうなっている。つまり、こちらの所伝ではこの話はこうなっている。こちらの所伝ではこうなっている、とこういう書き方をしているんですね。私は意外というか、尊敬を感じました。さすがと思いました。
もう一つ例をあげます。「一一六、ヨーロッパの北方には、他と比較にならぬほど多量の金があることは明らかである。その金がどのようにして採取されるのかについても、私は何も確実なことを知らないが、伝えられるところでは、一つ眼のアリマスポイという人種が怪鳥グリュプスから奪ってくるのだという。私は、ほかの点は普通の人間と変わらず、ただ眼は一つしかないなどという人間のいることは信じないが、他の地域を内に包んで、そのまわりを囲繞している世界の涯の地方には、われわれが、この世で最も貴重とし、珍貴としているものが蔵されていることは確かなようである」と、こうあります。
私はこれを読んであっと思ったんですよ。なぜかというと一昨年の正月でしたか私トルコヘ行きました。シュリーマンのトロヤを目指して行ったわけです。これも空港に着く三十分ぐらい前に、なんか空港に着く三十分前というのは縁起がいいですが、気がついたんですね。トロヤをギリシャ軍が攻めますよね。なぜギリシャ軍はトロヤを攻めたんだろうか。もちろん話では美女を奪われていたから取り返しに行った、ということになっております。これもウソじゃないと思いますけどもね。しかし一美女のことだけで、あれだけ長期の戦争がつづくというのはちょっと考えられない。直接のきっかけは美女問題があったでしょう。しかし本当の動機はどうだろう。もっと深い動機があったんじゃないか、と飛行機の中で考えていたんです。で、イスタンブールの空港に着く三十分前にふと気がついたのは、問題は黒海ではないかということでした。
つまり黒海の沿岸にギリシャにとっての先進文明が存在した。でギリシャはそこと交流したかった。しかしダーダネルス海峡やボスボラス海峡を通らなければ行けない。そのダーダネルス海峡を抑さえているのがトロヤなんですね。あの位置は海峡を抑さえる位置なんです。あの辺を抑さえられたら承諾を得なければ通れないわけです。ギリシャは、そこを自由に通りたかったんじゃないか。だから狙いはトロヤではなくて黒海沿岸ではないかと、まあ三十分前に思いついて着いたんです。
そうしてみたら果たしてそうでしたね。博物館なんかまわって出土物や解説を見ますとね、トロヤは紀元前三千年以後に栄えたんです。銅と金の文明ですね。ところが黒海の北岸部、西岸部、東岸部、これらは同じく銅と金の文明で紀元前四千五百年以上前から栄えているんですよ。トロヤよりずっと早くから、そしてトロヤの時代も栄えているんです。だからギリシャにとっては大先進文明の地であるわけです。そことギリシャは交流したかったんですね。ということがわかってきました。
このことはですね、私にとって年来知りたかったことが、わかってきました。といいますのは、裏海ですねカスピ海、あそこの北岸部も同じく紀元前四千五百年時代の金、銅の文明が栄えているんです。それからバイカル湖、あの周辺がやはり紀元前四千五百年、銅、金属文明なんですよ。そうするとね、私の仮説ではですね、中国に金属器文明が入った最初のルートは、そのルートではないかと考えたわけです。私の少年時代『敵中横断三百里』という山中峯太郎の冒険小説がありましたけれど、あのルートで蒙古を通じて中国に入ってきた。そこで夏王朝が成立して、先ほどいったように江南の土器文明を征服したというわけです。
もちろん、それ以外にタイのチェンマイにも銅器文明があったという話がありますから、そっちからも入ってきてもいいんですが。しかし主なるコースはそれじゃないかと思います。シルクロードというのは、おそいと思うんです。なぜかというとシルクロードは歩かなければいけないわけです。ところが今のコースは、冬だとソリに乗ってシューッと新幹線みたいなものです。非常に楽なわけですね。それは秋田孝季の話にも出てくるんですよ。ということで私は中国に金属文明が、どう入ってきたかということを長年悩んでいたんですが、トルコヘ行ったことで、どうもそのルートを重視すべきではないかということに気がつきました。
ところが、そういうことをヨーロッパ人は書きたがりませんね。ヨーロッパ人はすべてはギリシャから始まった、ないしはヘブライで始まったという二元で説明したがるわけです。ギリシャ文明の前に北方ヨーロッパの地に金銅の文明あり、なんて書いてないです。ヨーロッパの教科書に書いてないから、われわれの教科書にも書いてないんです、猿まねですから、大体。
そういうことから見ますと、ヘロドトスはちゃんとヨーロッパの北に金のすぐれた文明がありそうだと、私にはよくわからないが、どうもありそうだと書いているんですね。たいした歴史家だと思いました。歴史をちょっと知ったぐらいで、歴史って大体そんなものだと高をくくるなんて、とんでもないことだった、と反省しております。これからギリシャの歴史家について、もっと本当に勉強したいと思っております。
最後に申しますが、私の先生の村岡典嗣(つねつぐ)さんが、私が東北大学の日本思想史科に入った時に単位は何をとったらいいですかと相談したら、なんでもいいですよ、ただギリシャ語とラテン語だけはやっといてください、といわれました。戦争中に日本思想史に入って、なんでギリシャ語とラテン語かと思ったんですが。しかし先生がいうからしょうがない、とったんです。後で先生の研究室を見てみると、英文のブラトン全集がずらーっと並んでいたんです。ああこれかと思ったんです。研究対象は『古事記』『日本書紀』でもソクラテスの精神で、ソクラテスの方法論でやらなければいけないという意味だな、と理解したつもりだったんですが、しかし実はソクラテスだけじゃなかったですね。ヘロドトス、彼もギリシャ人ですよね。ということで六十四歳の今になって、やっと先生の投げた一言がわかりました。
(一九九一年一月十五日、東京・文京区民センターにて)
(補)
秋田孝季の「未来に戒言」の冒頭につき、私が「心服」と読んでいたところを、高田かつ子さんがテープを起こしたさい、これを「心眼」ではないかと気づき、ご連絡いただいた。手もとの写真で確認すると、その通りであった。高田さんの慧眼とご親切に感謝する。
(一九九一年二月九日、古田記)
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すべての日本国民に捧ぐ 解説として
『まぼろしの祝詞誕生』(新泉社 東京古田会編)解説として