古田武彦著作集
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2010年2月刊行 古田武彦・古代史コレクション2

失われた九州王朝

天皇家以前の古代史

ミネルヴァ書房

古田武彦

始めの数字は、目次です。「はしがきーー復刊にあたって」、および「はじめに」、「あとがき」と、校正表は下にあります。

はしがきーー復刊にあたって

はじめに

【頁】 【目 次】

 001 序章 連鎖の論理

001 古代中国の目/『後漢書』の立場/『隋書』と『旧唐書』の立場/日本列島の二つの王朝/連鎖の論理/逆立さかだちした池内理論

 

 013 第一章 邪馬壹国以前

一 志賀島金印の謎

013 金印に関する「定説」/印の探究/印文のルール/悪適戸逐あくてきしすい王/眞*てん王の印/王莽もうの先例/匈奴きょうどと委奴いど/光武帝の先例/金印の研究史を遡る/「委奴=大和」説/「委奴=伊都いと」説/三段細切れ読法の三宅みやけ説/三宅説への反論/伊都国説への批判/陳寿の目/再び三宅説について/極南きょくなん界とは?/范曄の真の錯覚/「大夫」の証言/帰結/金印の役割/倭国の時間軸
    眞*は、三水偏に眞。JIS第3水準ユニコード6E37

二 邪馬壹やまいち国より邪馬臺やまたい国へ

039 卑弥呼ひみかの国と「邪馬台国」/『後漢書』の邪馬臺やまたい国/臺の変遷/范曄の改変動機/邪馬壹国と邪馬臺国との間/日本の文献でさえも/輪臺りんだい/呼び名の統一/「伊都国」の意味するもの/郊迎の地

三 いわゆる魏晋鏡と上代音韻
   ーー邪馬台国近畿説の支柱を批判する

061 魏晋ぎしん鏡/富岡理論/富岡理論の源流/いわゆる景初三年鏡/それは後魏こうぎの石碑銘/第二の謎/「正始元年鏡」もあやしい/二種類の「ト」

 

 085 第二章 「倭の五王」の探究

一 「倭の五王」とはどこの王か

085 倭の五王とは?/「履中りちゅう」説の矛盾/「仁徳」説の矛盾/「武」の亡霊/錯誤の原因 ーー人名比定/奄ともに父兄を喪うしなう/説話の虚実/六代の平和/『日本書紀』の場合/百済くだらの武寧ぶねい王碑/大倭だいわの証明/交錯こうさくの論理

二 五王の正体

109 記紀の二倍年暦にばいねんれき/二倍年暦はどこで終る?/なぜ中国風の王名か/一字名をみずから名のった/中国風名称への転化/和風と中国風との間/壹与いちよの鎖/匈奴の単干ぜんう名/倭わ(ゐ)と壹いちの文字/邪馬壹国の名はいつ成立?/壹与朝貢の時期/陳寿執筆時の倭王は女王か男王か

三 七支刀しちしとうをめぐって

0134 七支刀銘文解読の歩み/献上か下賜か/王と侯王/倭王旨とは?/流伝るでんの道/横刀と大鏡/いつ石上いそのかみ神宮に入ったのか?

四 「分国論」と倭の五王

0161 海北の国/分国論と倭の五王/人名比定の軌跡/『宋書』倭国伝の解読/毛人もうじんと衆夷しゅうい/畿を遐はるかにす/秦韓しんかんと慕韓ぼかん

 

 179 第三章 高句麗こうくり王碑と倭国の展開

一 碑文改削かいさく説の波紋

179 高句麗好太王の巨碑/改削されたという文字/証人の目/京都より東京へ/まぼろしの「解読謀議」/実体不明の「箝口かんこう令」/真相の鍵 ーー「碑文之由来記」/「強迫」の報告者/酒匂さこう筆跡の探究/白昼夢はくちゅうむ/玄室の実測

二 碑文解読と倭の歴史

207 “浅き者の妄読”/親征の王者/渡海作戦/文脈の論理/「来」の背景/金の武断/倭の正体/倭国の全史

三 『日本書紀』の証言

228 「貴国きこく」とは?/「貴国」はどこか?/貴倭きわの女王/「改定」の書写者/明白な証跡/「晋の起居注きこちゅう」の内実/重ねて「貴倭」とは?/基山きやまと基肄城きいじょう

四 『隋書』イ妥たい国伝の示すもの

244 日出ずる処の天子/「北」と「比」/自撰の署名/疑いの山/違和の国交/阿蘇山と如意宝珠にょいほうしゅ/筑紫への道行き/イ妥たいと倭の間/倭国と推古紀/二つの道/東方、孤立の王者/東西五月行南北三月行/「日出ずる処」/イ妥国の由来/二人の天子/菩薩ぼさつ天子
     イ妥*(タイ)国のイ妥*は、人編に妥。ユニコード番号4FCO

 

 277 第四章 隣国史料にみる九州王朝

一 磐井いわいの「反乱と滅亡」

277 誰と誰とが死んだのか/平子ひらこ説と喜田きだ説/わたしの視点/日本という国号/天皇の称号/いわゆる「磐井の反乱」/一王朝の全面的敗北/社稷しゃしょくの存亡/「反乱」の大義/占領地分割案の示唆しさするもの/古老伝えて云う

 

二 二つの王朝

306 倭と日本/『旧唐書』の日本国/『旧唐書』の史料価値/二つの「実」/倭国と日本国の境界/代表王者はいつ交替したか/不明の学問僧たち/泰山たいざんの召集/唐からの使者/二つの使節団/年代の誤差

 

三 九州年号の発掘

334 海東諸国記かいとうしょこくき/日本側の記録/襲国偽僭考/明治の学界/昭和の学説/わたしの論証/公権力別在の証明/僧聴という年号/「発倒はっとう」とは?/「兄弟」と「煩転はんてん」/九州年号の最終証明/「九州年号」研究史の問題性

 

四仏教伝来と任那みまな日本府

362 戊午ぼごと壬申じんしん/編者の撰択/「仏教伝来」の論証力/任那日本府とは/三面の史料/「日本府」架空説/『三国史記さんごくしき』の史料的性格/日本兵、国に還かえらん/朝鮮側から見た「倭と日本」/珠玉の説話「堤上ていじょう」/死を誓って倭国に向う/『三国遺事さんごくいじ』の描く「堤上」悲話/悲痛な説話の語るもの

 

 395 第五章 九州王朝の領域と消滅

一 九州王朝の黄昏たそがれ

395 百済王子の人質と九州王朝/筑紫の君、薩夜麻さちやま/三十年ぶりの帰国/葛城襲津彦かつらぎそつひこと沙至比跪さしひき/白雄はくちと朱鳥しゅちょう/蝦夷えみし国/「会丞かいじょう」のエピソード/残映

 

二 二つの金石文 ーー人物画像鏡と船山古墳太刀

424 人物画像鏡がぞうきょう/福山氏の判読/水野ー井上説/「寿」ではなく「泰」/両者は対等の位置/開中費直かいちゅうひちょくとは・・・・/穢人今州利わいじんこうしゅうり/使者の性格/大王と男弟だんてい王/兄弟王朝/大王の名/わたしの論証/オシサカかイシサカか/無称号の理由/天智「称制しょうせい」の場合/男弟王の特定力/どのようにして伝来したのか/船山ふなやま古墳の太刀/「蝮まむし」でなく「獲かく」/金錫亨の解釈

 

三 九州王朝の領域

465 漢代にはじまった九州王朝/三十国の領域と青銅器文化圏/狗奴こうぬ国の拠点/范曄はんようの狗奴国観/狗奴国の地名比定/邪馬壹国の領域/遷都論/読者に

 

四結び ーー三つの真実

477 (一)仮説について/(二)「豪族」について/(三)滅亡の原因について

 

483 あとがき

ーー朝日文庫版あとがきに代えて

485 補章 九州王朝の検証

485 十年の冒険/政・宗*・満の法則/大嘗祭の断絶/軍器と禁書/三年のズレ/二中歴/好太王碑の実見/稲荷山鉄剣の問い/海東鏡の論証/三角縁神獣鏡の科学/天皇陵の検証/天皇の意義
     宗*は、立心偏に宗。JIS第四水準ユニコード60B0

 

517 日本の生きた歴史(二)

517 第一「王朝」論/第二 志賀島の金印の「?」/第三「九州年号」と「磐井の乱」/第四「誤読」論/第五「極南界」論/第六「拘奴国」論/第七 「三角縁神獣鏡」論/第八 高句麗好太王碑と天皇陵/第九 九州王朝の金石文/第十 「神籠石山城」論

人名・事項・地名索引

*本書は、朝日文庫版『失われた九州王朝』(一九九三年刊)を底本とし、「はしがき」と「日本の生きた歴史(二)」を新たに加えたものである。

 

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古田武彦・古代史コレクション2

『失われた九州王朝』

ーー天皇家以前の古代史
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2010年 2 月20日 初版第1刷発行

 著 者 古 田 武 彦

 発行者 杉 田 敬 三

 印刷社 江 戸 宏 介

 発行所 株式会社 ミネルヴァ書房

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© 古田武彦, 2010

ISBN978-4-623-05184-7

   Printed in Japan


2013.10.01 校正

 正誤表(服部和夫氏校正、有り難うございます)

備  考
19 -7 さんようたいしゅくぼくひ さんようたいしゅしゅくぼくひ 振り仮名
77 -8 ほけいたい けいたい 振り仮名
  -7 ばんじょうにゅう かんじょうにゅう 振り仮名
85 -7 (房玄齢、〜六四八) (房玄齢、五七八〜六四八)

参考意見
古田武彦氏と調整要

87 -11 白刃前に交 白刃前に交  
90 10 三月辛未 三月辛未朔,  
127 2 「邪馬国」 「邪馬国」  
137 8 故為倭王二日 故為倭王 角川・朝日文庫版も同様
243 -8 「キヰ風」 「キヰ  
251 -3 妙宝 妙宝  
258 8 百人 百人 角川・朝日文庫版も同様
356 10 妙宝 妙宝  
358 6 亨元年 亨元年  
496 11 使者
使者  
498 6 都府樓あり 都府樓あり  
503 -6 載説」 載説」  
514 -4下 朱鳥九年 辛戌 朱鳥九年  『二中歴』年代暦
朝日文庫版も同様
535 -6 『増訂碑別 『増訂碑別  
536 3 『増訂碑別 『増訂碑別  
543 8 三角獣鏡論 三角人獣鏡論  
553 4 「追 「追  

はしがき ーー復刊にあたって

        一
 それは自明だった。わたしにとって、最初から疑うことのできぬ帰結だったのである。
 「阿蘇山あり。・・・火起りて天に接す、云々」(隋書、イ妥たい国伝)の一文に接したときのことだ。あの有名な「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙つつが無きや」の名文句の前のこの一文、これを正面から見つめれば、「この天子は九州にいた」 ーーこの帰結しか、わたしには考えられなかったのである。
 昭和四十四年の暮れ、松本清張氏の招きで、東京都の新潮社所属の一寮でお会いしたとき、わたしはこれを告げた。肝心の「邪馬壹国」の所在については、未だわたし自身にも不明。それをキッパリとお答えした直後のことだった。テープを止めてもらって、この一点を告げた。しかし、残念ながら氏は信じられなかったようである。

        二
 三十数年たち、右の帰結は明確となった。たとえば、京都の崇道神社出土の銘版(「小野毛人墓誌」)の「崇道天皇」は、九州王朝の天子だった(早良親王は、百年あと)。この天皇の御倉と記録されていた、九州(三井郡太刀洗町)出土の「正倉院」は、奈良の東大寺の倉としての、いわゆる「正倉院」に対して、数倍もの規模をもっていた。「中味」も、奈良の「正倉院」が「七〇一」以後の宝物がほとんどなのに対し、九州の沖の島や宮地嶽古墳や筑紫野市(柳沢氏蔵)の超国宝級の遺物(いずれも福岡県)はすべて「七〇一以前」の貴品が「散在」し、「放置」された逸品、そういう姿をしめしていたのである。

        三

 人間に理性があり、一片の想像力があるならば、容易に考えることができる。もし、七世紀前半、隋の煬帝(ようだい)の使者が大和なる飛鳥に至ったとしよう。そのためには、一番に瀬戸内海を通ったはずだ。ならばなぜ「一海有り、湖水のごとし」といった一句を記さないのだろう。二番にもし、対馬海流に乗じて舞鶴湾に至ったとすれば、なぜ「海流を下る、船は矢のごとし」といった一句を記さないのだろう。あの、阿蘇山活写の名文の書き手からすれば当然のことだ。
 さらに、大和川から大和に入ったのなら、応神天皇陵、木津川経由なら神功皇后陵など、中国全土にも稀な一大古墳群に対する「一言の表現もない」 ーーこの事実は到底説明がつかない(伊東義彰氏の御注意による)。
 いずれも、論者が自分の理性を投げ棄てなければ、通過できぬ難所なのである。

        四

 それだけではない。最大の難所は、神籠(こうご)石群である。西はおつぼ山(佐賀県)から東は石城いわき山(山口県)まで。太宰府と筑後川(福岡県)、そして長府(山口県)を囲む、一大軍事防壁山城の連なりだ。もちろん、白村江の敗戦(六六二)以前の、営々たる長期築城である。だが、古事記・日本書紀には一切記載がない。両歴史書が成立した八世紀前半(七一二〜七二〇)から見れば、ほとんど「直前」の築城だ。忘れるはずはない。だが、書かれていない。なぜか。
 「白村江の戦」のあと、両歴史書は作られた。勝者(唐)に敵対した王朝(九州王朝)の「長期築城」はすべて“カット”されたのである。真相はこれ以外には、ありえない。

         五

 肝心の一事が残されている。「評」と「郡」という二つの行政制度の「別れ目」となった「七〇一」の「廃評建郡の詔勅」が消されている。消されたままの日本の歴史とは、一片の「おおそらごと」だ。「いつわりの歴史」に過ぎないのである。
 この真実の歴史を日本国民に対して隠さず伝えるため、決然と復刊された、ミネルヴァ書房の杉田啓三社長と編集部の田引勝二氏、営業部の神谷透氏等の英断に深く感謝したい。

   平成二十一年十一月十六日
                     古田武彦

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 はじめに

 日本の古代史は、虚構(きょこう)の脊柱(せきちゅう)に貫かれてきた。いま、前二世紀から七世紀にいたる火山列島の歴史はいっせいに噴火し、連鎖反応(れんさはんのう)のように内部の真実は爆発しはじめている。わたしはそれを観察し、分析し、そしてここに記録したのである。

 わたしの古代史探究の旅は、『三国志』からはじまった。その中の魏志倭人伝に書かれている「邪馬壹やまいち国」。卑弥呼(ひみか)の君臨したこの女王国は、九州北岸の博多湾頭にのぞんで存在していた(わたしの前の本『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞社/一九七一年、朝日文庫/一九九二年、参照)。
 朝鮮海峡の両岸にまたがった海峡国家、太平洋の西端に位置した航海王国。このような性格をもった女王国は、どのように誕生し、いつ消え去って行ったのであろうか。
 この問いは当然生れるはずだ。この問いに答えることを、わたしはみずからの課題とした。その回答、邪馬壹国の過去とゆくえ。それがこの本の主題である。

 “陳寿ちんじゅを信じとおす”わたしは、前の本の序文でそう言った。陳寿は『三国志』の著者である。わたしの用法では、“信じる”とは“盲信する”の反対語だ。『三国志』に真正面から立ち向い、その一字一句、綿密に調べ抜く。そして、科学的に実証することなしに安易な「原文改定」を行なわない。 ーーこれが“陳寿を信じる”わたしの立場だった。
 だから、この研究方法はそのまま『三国志』以外の中国史書に対するわたしの立場である。『後漢書ごかんしょ』『宋書そうじょ』『隋書ずいしょ』『旧唐書きゅう(く)とうじょ』、それらの語る倭国像に対し、わたしは耳を傾けつくそうとしたのである。
 そのとき、わたしには一つの掟があった。それは、これまでの古代史の常識、つまり、『古事記』『日本書紀』によって養われた通念の中へ、いわば“ひつぱりこんで”こじつけない、という単純な一点だった。
 なぜなら、従来『三国志』の「邪馬壹やまいち国」を「ヤマト」と読むために、「邪馬臺やまたい国」と勝手に直して読んできたように、『宋書』『隋書』『旧唐書』等の各所についても、これと同じ強引な“読み換え”が行なわれていたのを発見したからである。
 このような中国史書の“読み変え”読法は、江戸期の儒者、松下見林(けんりん)にはじまる。彼はわが国の国記(こくき『古事記』『日本書紀』)を基準として、異邦(いほう)の書(中国の史書類)の記事を取捨(しゅしゃ)し、これを日本側の記事に合わせて読むことを旗印としたのである(『異称いしょう日本伝』序文)。
 この松下の方法は、わたしと正反対の極に立つ。中国の史書をその表現のルールにしたがって、正確に解読する。それが従来の先入観に合致しようとしまいと、関知(かんち)するところではない。それがわたしの方法である。
 わたしは、なぜこのような方法をとるか。
 中国人と日本人とどちらの著者を重んじるか、そんな問題ではない。中国の史書の多くは、当時の倭国との同時代史料だ。しかも、倭国の中心王朝と国交をもち、使者を往還させていた。その報告にもとづく第一史料、それによったのが中国史書である。これに対し、日本の史書ははるか後代(八世紀)に成立した後代(こうだい)史書だ。だから、同時代史料を根本とし、それを基準尺として後代史料を見る。これが史料操作(そうさ)の原則だ。断じてその逆ではない。
 たとえば、近代科学の夜明けを見よう。そのとき、天動説を捨て去り、地動説の立場から立ち向わなければ、正確な宇宙認識は成立できなかった。これと同じだ。日本の後代史書の目から中国史書を理解する、という立場をキッパリと捨て去り、逆に中国の同時代史書の目から日本の史書を分析しなければならない。
 古代の真実に到達するため、これは不可避の道だ。わたしにはそう見えたのである。

 わたしは、かつてコペルニクスの『天体の回転について』を読み、深く感じるところがあった。この本の真の生みの親、それは実に“おびただしいコペルニクスズ”であろうという思いだった。
 天体の真実を探究して、多くのコペルニクスたちが空しく挫折(ざせつ)をくり返したであろう。彼ら数多き挫折者たちの中からこそ、この画期的な本は生れたのである。今、わたしの古代史の探究は新しい学問の回転をなしとげることができたのか、それとも空しい挫折をくり返しているのか。それは、未来の人々だけの知るところであり、わたし自身のはかり知ることではない。
 この探究の旅の中で、わたしにとって一番大切なこと、それは学者にならず、専門家にならず、いつも愚かな一人の素人として求めつづけることだった。ために、いかなる「定説」にも、甘んじて腰をおろすことができなかったのである。そしてわたしは今、深い満足をもってこの本を読者ひとりひとりの前に静かに置こう。たとえ多くの識者たちの嘲弄(ちょうろう)をうけようとも、憂えることはない。
 なぜなら、わたしは、ただ論理の導くところにおもむき、この驚くべき地点にたどりついたのであるから。

   ※引用の著書・論文の筆者名については、統一をはかるため前回同様、敬称を省略した。非礼の点深くお許しを乞う。


 あとがき

 少年の日、わたしは河口に立ち、洋々たる水の流れにいつまでも見入っていた。時のうつりゆきとともに、夕焼けの水面は変幻し、万華鏡のようにきれいだった。
 今、歴史の大海に面し、同じ思いがよぎる。古代史の激流の中に、思わざる光景が変幻し、しばしば、わたしを放心の中においたのである。
 わたしの青春は敗戦の中に過ぎた。すでに多くの友は死に至っていた。人間の生死を、かくも易々と左右する国家、その成り立ちの真の秘密が知りたい。 ーーこれは当時、生き残った青年たち共通の思いであった。
 しかし、わたしは、愛憎をもって歴史を見ようとしたのではない。ただ一片の真実を手に入れるため、時代の常識のさなかで“酔わぬ目”を大切にしようとしていたにすぎぬ。そしてその行路において、はからずも、天皇家に先在した王権、九州王朝の興亡に出会うこととなったのである。
 この王朝の存在について、わたしはすでに論証を終えた。当否の判断は、読者の手にゆだねられている。
 今、わたしの目は、「国内伝承」に向っている。『古事記』『日本書紀』が主要な舞台だ。すべては新しい光の中に立ちあらわれている。
 天皇家内部の説話。それは、この本の論証に対し、一体どのような、かかわりをもつのだろうか。それをわたしは、わたしの方法で確かめるほかはない。
 だが、必要なのは、超人的な空想でもなければ、「定説」的な常識でもない。それは普通の人間の、理性にもとづく実証だけだ。
 これから一体、とんな論証の難所が、この行く手に待ちうけているのだろうか。わたしは知らない。ただ、探究の途上、帆柱がたおれ、船筏(せんばつ)の微塵に砕け去る日が来ようとも、わたしに悔いはない。なぜなら、太古、難船は日常の運命だった。わたしも、そのような祖先、海洋の民の血をうけているのであるから。
 ともあれ、わたしは、ひたすら論証の導きゆくところに従って、ようやくこの地点にまで到着した。そして自己のたどりきった航路をここに記録し終えた。未来のある日、ふたたび孤立の探究者が生まれ、歴史の大潮流の中に、さらに新しい船出をはじめるであろう。 ーーわたしは、その日を望む。


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