『失われた九州王朝』(目次)へ
古田武彦
三世紀の『三国志』や、一・二世紀を扱った『後漢書』から、七、八世紀を扱った『旧唐書』や、にいたるまで、中国側の歴史書にはほとんどみな倭国伝がある。倭国は、中国にとってもっとも隣接した主要な国の一つだから、これは当然だ。ところがそれらの記事を見通したとき、わたしは一つの“重大な疑い”をいだかないわけにはいかなかった。
これは、いささか理屈っぽいけれども、本書全体の、いわば「道しるべ」となるものだから、一応心にとめておいてほしい。それは、中国側は前二世紀から七世紀に至る倭国側の中心の王朝を“一貫して連続した王朝”と見なしているのではないか?そういう疑いだ。
今、その第一の徴候として、貢献記事を列挙してみよう(以下傍点古田)。
(1) 倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑こくゆうを為す。旧もと百余国。漢の時朝見する者有り、今、使訳通ずる所三十国。〈三国志、魏志倭人伝〉
(2) 倭は韓の東南大海の中に在り、山島に依りて居を為す。凡およそ百余国あり。武帝、朝鮮を滅ぼしてより、使訳漢に通ずる者、三十許国なり。〈後漢書、倭伝〉
(3) 倭国は高麗の東南大海の中に在り、世ゝ貢職を修む。〈宋書、倭国伝〉
(4) イ妥国たいこくは百済・新羅の東南に在り。水陸三千里、大海の中に於いて、山島に依って居る。魏の時 、訳を中国に通ずるもの三十余国。〈隋書、イ妥国伝〉
(5) 倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中に在り、山島に依って居る。・・・・世ゝ中国と通ず。〈旧唐書、倭国伝〉
『三国志』で「今、使訳しやく通ずる所三十国」と書いている「今」が、三世紀魏晋朝の当時(著者陳寿の執筆当時)を指していることは、疑いない。ところが、『後漢書』の范曄(はんよう)によると、「三十余国の統一の中心王朝」という、その姿は前漢の武帝以来のことだ、というのである。
前漢の武帝(前二、一世紀) ーー 後漢の全期間(一、二世紀) ーー 魏晋朝(三世紀)
右の約五世紀の間、一貫して三十余国統合王朝がつづいている、というのが范曄の倭国観だ。「国、皆王を称し、世世よよ統とうを伝う。其の大倭王は、邪馬臺国に居る」〈『後漢書』倭伝〉。先の(2)の直後に右の文がつづく。きら星のような三十余国の王たちと、その中心の輝ける統合者、大倭王。それが范曄の描いた倭国史を一貫する国家鳥轍図(ちょうかんず)だ。いい換えれば、歴代権力構造の基幹なのである。
さらに『宋書』を見よう。そのはじめに「世ゝ貢職を修む」という。これは、当然、先だつ史書、『漢書』『三国志』『後漢書』の貢献記事をうけたものだ。『漢書』が一世紀、『三国志』が三世紀、『後漢書』は五世紀前半の成立だ。だから、五世紀末から六世紀はじめにかけて成立した『宋書』(著者は五一三年に死んだ梁の沈約しんやく)の記述が、この前三著を承けているのは当然である。ここに「世ゝ」といっているのは、『漢書』の「楽浪海中、倭人有り。分れて百余国と為す。歳時を以て来り献見す、と云う」〈『漢書』地理志・燕地〉以来の記事をうけた「漢〜宋」間の「世ゝ」という意味だ。そう考えるのが自然な理解であろう。この点は、『宋書』の中の、中国と倭国間の正式の文書(中国の天子の詔勅や倭王の上表文)においてさらに強調されている。
(a) 世祖の大明六年(四六二)、詔して曰く、「倭王世子せいし興、奕世(えきせい)載(すなわ)ち忠、藩を外海に作なし、化を稟うけ境を寧やすんじ、恭しく貢職を修め、新たに辺業を嗣ぐ。・・・」
(b) 順帝の昇明二年(四七八)、使を遣わして表を上る。曰く、「封国ほうこくは偏遠にして、藩を外に作なす。・・・累葉朝宗して歳に愆(あやま)らず。・・・・〜」〈宋書、倭国伝〉
(a)は南朝劉宋(りゅうそう)側の天子の詔書だ。奕とは「かさなる、つづく」という意味。だから、奕世とは「代々、累代」の意味だ。「倭国は、代々、中国の天子に忠節をつくし、貢を修めてきた」。南朝劉宋の天子がこういったとき、当然、『漢書』、『三国志』の貢献記事が背景に存在する。
これに対し、(b)はいわゆる倭の五王で有名な倭王武の上表文だ。ここでも、「累葉るいよう朝宗して歳に愆らず」といっている。この「累葉」も「代々、ずーっと」という意味であり、四代前の倭王讃のとき以来、といった短いニュアンスではない。やはり、中国の天子側の「奕世載えきせい載すなわち忠」と呼吸をあわせた表現だとみるほかない。
こうしてみると、ここでは中国と倭国の両国側とも同じ立場だ。つまり、前二、一世紀から五世紀までの六、七世紀間、「倭国の中心王朝は同じ一つのものであり、代々の中国の天子に貢献してきた」。それを“自明の前提”として記述しているのではないか。そう思われてくるのである。
このことは、五世紀前半の史家、范曄によっても裏づけられる。先に范曄の倭国観が「三十余国を統合した中心王朝」であることを指摘した。だが、実はこの構図は単にその記述の対象である前二、一世紀乃至三世紀のものであるだけではない。范曄の同時代(五世紀)を「認識の基点」にしている、と見られるのだ。なぜなら、当然のことながら、『後漢書』の読者は記述の対象となっている後漢の人々ではないり執筆時点の五世紀の覇劉宋の人々だ。したがって、倭国伝のはじめに倭の位置を示すときにも、「楽浪の海中」〈漢書〉とか「帯方の東南」〈三国志〉とかいわず、「韓の東南」といういい方をしている。
後漢の人班固(はんこ)の『漢書』では、楽浪郡は現存していた。だから、その楽浪郡を基点にして倭の位置が示された。『三国志』の場合は楽浪郡の南部が帯方郡となっていたから、その帯方郡を基点として倭国の位置が示されたのは当然だった。
しかし、五世紀南朝劉宋の段階はちがう。もはや楽浪郡も帯方郡も滅亡して、存在しなかった。だから五世紀の読者に対して、いきなり一、二世紀のそれらの郡の所在地を基点とした説明を展開することは不自然である。ところが、『後漢書』中、倭伝の直前は韓伝だ。そこで、范曄はその韓を基準にして倭の位置を示す、という記述方法をとったのである。このように『後漢書』は、対象としては一、二世紀の後漢を描きながら「五世紀当時の事実」を間接に反映している。つまり、当時の読者 ーー当然南劉宋の天子を第一の読者とするーー の立場に立っているのである。
このように『後漢書』は五世紀現在という范曄の時代の知識に立って書かれた。
その動かぬ証拠は、『後漢書』の中のつぎのような記事だ。
(1) 漢書中、誤りて云う、「西夜せいや、子合しごうは是れ一国なり」と。今、各自王有り。(注前書・〈漢書〉云う、「西夜国王、子合王と号す」と)〈後漢書、西域伝〉
(2) 漢書云う、「条支より西行三百余日、日の入る所に近し」と。則ち今の書と異なる。前世漢使皆鳥弋(うよく)より以て還る。条支に至る有る者なきなり。〈後漢書、西域伝〉
(3) (高附こうふ国)漢書、五[合羽]侯*きふ(う)こうの数と為す。其の実に非ざるなり。〈後漢書、西域伝〉
侯*の異体字。JIS第4水準ユニコード7746
これらの記述において、范曄は『漢書』の権威に挑戦し、勇敢に『漢書』の「誤謬」を指摘している。その根拠は、「今の事実」や「今の書」(いずれも五世紀范曄の執筆当時)の認識である。(2)の場合など、漢代は漢使が鳥弋までしか実際に行っていないからこのような誤った記事になったのだという。「現代」(五世紀)の知識の方がすぐれている、とハッキリいっているのである。
このような彼であってみれば、倭国の記事についても、“范曄は『三国志』の記事をそのままひきうつしただけだ”と見ることはできない。前の本(『「邪馬台国」はなかった』)でのべたように、范曄は『三国志』倭人伝の記事のいくつかを誤解し、それに「改悪」の手を加えている。倭国には「女子多し」としたり、「会稽東治かいけいとうち」を「会稽東冶とうや」と改めたことなど、その一例だ。
しかし、このことを逆に考えてみよう。范曄が『三国志』を無批判に継承せず、これに対し自分の識見(五世紀の「今」の認識)をもって“書き改めた”という事実は動かせないのである。
これが『後漢書』の史料性格だ。だから、范曄が倭国を「きら星のような三十余国を統合した中心王朝」として描いたとき、ただ前二、一世紀〜三世紀という過去の事実を書いたというだけではない。同時に五世紀の「今」や「今の書」に照らしてもそうなのだ、と范曄はいっていることになるのである。ことに『宋書』倭国伝に、
(1) 高祖の永初二年(四二一、詔して曰く「倭讃わさん、万里貢を修む。遠誠宜しく甄あらわすべく、除授じょじゅを賜う可し」と。
(2) 太祖の元嘉二年(四二五)、讃、又司馬曹達しばそうたつを遣わして表を奉り方物を献ず。讃死して弟珍立つ。使を遣わして貢献す。
(3) 二十年(四四三)、倭国王済さい、使を遣わして奉献す。
とあるのは、元嘉二十二年(四四五)に死んだ范曄にとっていずれも生存中の事件だ。ことに(1)(2)の事件は、当然『後漢書』執筆中の范曄は知っていたはずだ。とすると、范曄がこれらの「今」の事件、ことに(1)のような「今」の天子の詔書中の倭国についてのべた内実を無視して、『後漢書』中の倭国伝を書き、その中の倭国観を記したとは到底思われない。だから、もし過去の倭国と「今」(五世紀)の倭国との間に王朝の変動、交替等が存在したとしたならば、范曄がそれに全く言及しない、ということはありえない。なぜなら、五世紀倭の五王の時代は倭国側から貢献使節が頻繁(ひんぱん)に往来していた。つまり、范曄の重んじた「今」の知識の情報量が、倭国に関して、きわめて豊富な時代だったからだ。その范曄の証言では、前二、一世紀〜五世紀間の倭国の歴史の中に“中心王朝の変動”は生じていない。そういうのである。
つぎに『隋書』を見よう。
「魏の時、訳を中国に通ずるもの三十余国」というように、このイ妥国(たいこく 『隋書』では倭国伝ではなく、イ妥国伝と記している〔この点については、第三章に詳述する〕)は、あの魏の時の「三十余国統合の中心王朝」と同一王朝の国だ、とされているのである。『隋書』イ妥国伝は、この直後、この倭国の中国貢献史をのべる。「漢の光武の時、使を遣わして入朝し、自ら大夫と称す。安帝の時、又使を遣わして朝貢す。之をイ妥奴国と謂う。桓・霊の間、其の国大いに乱れ、逓(たが)いに相攻伐し、歴年主無し。女子有り、卑弥呼と名づく」。つまり、漢の光武の時から安帝の時(以上倭奴国)を経て卑弥呼の国までを同一王朝の連続として描写したのち、「魏(二二〇 ーー 二六五)より斉(四七九 ーー 五〇一) 梁(五〇二 ーー 五五六)に至り、代ゝ中国と相通ず」としめくくっている。
これは、漢から隋までの倭国を同一王朝と見なした筆致なのである。さらに、この見地は、『旧唐書』倭国伝においてもなおうけつがれている。「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中に在り、山島に依って居る。・・・・世ゝ中国と通ず」「倭国は古の倭奴国なり」といい、「世ゝ中国と通ず」という。これは、『宋書』と『隋書』ののべる倭国の対中国貢献史観をうけつぎ、これを要約しているのである。
これに対し、「王朝の断絶」がはじめてあらわれるのは、同じ『旧唐書』の日本伝だ。『旧唐書』が日本列島内に二つの王朝ありとし、一方を倭国伝、他方を日本伝として扱っていることはよく知られている。その日本伝は、つぎのようにのべている。「日本国は倭国の別種なり。其の国日辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。或は曰う、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪にくみ、改めて日本と為すと。或は云う、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと」。ここではじめて“王朝の交替があった”ことが伝えられる。その交替の仕方については、一説として征服説をあげる。このように、中国側の視点では、古き王朝「倭国」と新しき王朝「日本国」とは別の王朝であった。このことは、両者を別の伝として扱っているという記載様式から明白である(貞観二十三年〔六四八〕以前の貢献を「倭国」の項に、長安三年〔七〇三〕以降の貢献を「日本」の項に扱っている)。
以上によってみると、中国史書に一貫した中国側の視点からは「漢より唐のはじめまで」は一貫した王朝としての「倭国」だ。それ以後、新興の別王朝としての「日本国」となった、といっているのである。そして、中国側は、この新興「日本国」の使節と接触した最初の経験をつぎのように記している(先の「日本国」の項につづく)。「其の人、入朝する者、多く自ら衿大きょうだい、実を以て対こたえず。故に中国焉これを疑う」。ここで「実」といっているのは、古くから累積し、正史に記録されてきた中国側の認識のことである。しかるに新興の「日本」の使節の主張がそれとくいちがっている。そこで、中国側はこれに疑惑をいだいた、というのである。
以上、わたしののべた論理。これに対して、従来の日本古代史にくわしい読者は眉を逆だてて、ただちにつぎのように反問するだろう。
(一) 一世紀、漢の光武帝が金印を授与した国は「倭の奴な国」であって、灘なの津、つまり博多の古代国家にすぎない。これが卑弥呼の国と異なることは定説ではないか。
(二) また、『後漢書』の范曄は明白に「邪馬臺国」と書いており、これは明らかに「ヤマト」と読むべきである。したがって、もし、これが范曄の「今」の認識だというなら、まさにこれこそ五世紀の大和朝廷を指すものではないか。
(三) 『宋書』の倭の五王は疑いもなく、履中、仁徳・・・・・・雄略の各天皇に当る。これが定説だ。すなわち、五世紀は確実に大和朝廷の時代ではないか。
(四) さらに、『隋書』の倭国が推古天皇時代の大和朝廷を指すこと、それは誰にも異論がない。たとえば有名な『隋書』倭国伝中、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙つつが無きや」の一句が、外ならぬ聖徳太子の隋に送った国書であることは、日本古代史上、常識中の常識ではないか。このような反論を列挙したあと、とどめを刺すかのように、つぎのようにいうだろう。
もし、卑弥呼の時代から遣隋使の時代まで同一王朝の連続である、としよう。とすれば、その同一王朝とは、まさに大和朝廷以外にはありえないではないか。なぜなら、遣隋使は推古朝の大和朝廷の国使だ。それは『日本書紀』にも明記されている。とすれば、その論理的帰結は卑弥呼の朝廷もすなわち大和朝廷だ、ということになるほかない。つまり、わたしの『「邪馬台国」はなかった』の結論、「邪馬壹国=博多湾岸」説をみずから否定することになるではないか、と。
しかり、右のような筋道で問題を思考した論者がすでにあった。池内宏の『日本上代史の一研究』(昭和二十二年刊行)がそれだ。池内は朝鮮史の専門家として東京大学にあった。大正七年〜昭和十四年の間の同大学の講義をもとにしたのがこの本である。「一方倭人伝の邪馬臺を、畿内の大和に当てるとすれば、大和朝廷の実在の女皇としての卑弥呼が死に、かわって宗女の壹与というものが立った西紀第三世紀の中ごろから、正しい年代の応神天皇の御代のはじまるまで、そこに約一世紀にわたって大和朝廷の史伝に空隙(ブランク)の存することをいなみがたい(約一世紀というのは、前章の末に考えたごとく、応神天皇の御即位を、四世紀の中ごろと推定して)。しかも確実なる史伝の有無にかかわらず、その間の真実の姿相は、空位の時代であったのでもなければ、無為の時代であったのでもない。かならず由来が遠く、またかならず根底の深かるべき大和朝廷は ーーこれにたいしては、将来とくに考古学上の組織だった新しい調査と研究とを要するがーー 、厳然として存在し、卑弥呼および壹与ののちに、数代の皇位の継承があって(注記省略・古田)、その勢威の九州全土にふるい、さらに海をわたって半島の南部におよんだのは、あたかもこの期間に相当するのであろう」(昭和二十二年の旧版発行後、池内自身による修補部分、一一五〜一一六ぺージ)。ここで池内のいっている理路はつぎのようだ。
三世紀の卑弥呼の国と五世紀の倭の五王(応神天皇以降に当てる)とは同一王朝で、それはともに大和朝廷だ。だから、その間の空白部たる四世紀こそ大和朝廷が九州全土と朝鮮半島南部に力をのばした時期だ、と。
この池内の思考の糸を正面でささえているのは、「かならず由来が遠く、またかならず根底の深かるべき大和朝廷」という一種の信仰だ。しかし、その反面において、「宋書等の中国の史籍に記されてある一切の事実」(同書一〇四ぺージ)がそれを支持する、という中国文献解釈に対する池内の判断。それが背景となっていたことを見のがすことはできない。この池内の結論に対して、『隋書』イ妥国伝の世界は大和朝廷を指す、という学界の通念を加えれば、
(1) 三〜七世紀の倭国は同一王朝である。
(2) しかるに五〜七世紀の倭国が大和朝廷であることは確実だ。
(3) それ故、三世紀の倭国(卑弥呼の国)も、大和朝廷だ。
という、三段論法が成り立つわけだ。
これに対して、わたしの立場は異なる。なぜなら、すでに『「邪馬台国」はなかった』において“卑弥呼の国は九州博多湾岸に存在した王朝”であるという結論に達した。いかなる先入観念にも依存せず、『三国志』魏志倭人伝そのものに対するもつとも正確な史料批判による限り、どうしてもそのような帰結に到達するほかない。 ーーこれが今、わたしの研究の原点である。
この原点に「前二、一世紀より七世紀までの倭国は同一王朝である」という「中国側の目」による命題、これを結合すれば、一体どうなるだろう。“その同一王朝は博多湾岸を基点とする九州王朝でなければならぬ”という驚くべき帰結に至るほかない。
そんな奇想天外なことがありうるだろうか。わたしは戦慄した。日本古代史に関する現代の常識と、およそあまりにも相反しているからである。しかし、この論理の刃は、わたしにとって避けることができぬものだ。なぜなら「中国の目」、すなわち、代々倭国の朝廷とそれぞれの時代、実際に交渉してきた中国側の認識 ーーこの、世界史上にも類を見ないほとに卓越した記録民族の認識が、それほとひどい、でたらめなものだろうか。わたしにはそのように軽々(けいけい)といい去ることはできぬ。それゆえ、たとえ学界の権威・識者たちの嘲笑の中に立とうとも、右の「連鎖の論理」が本当に正いのかどうか、わたしはそれを新たに一つ一つ検証してみねばならぬ。心の底にそう思いきめたのである。
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