古田武彦著作集
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KAPPA BOOKS

吉野ヶ里の秘密

解明された倭人伝の世界

光文社

古田武彦

始めの数字は、目次です。「まえがき」と「あとがき」は下にあります。

【頁】【目 次】
003 まえがき

011 1章 「邪馬台国」にトドメを刺(さ)

012 「ここが卑弥呼(ひみか)の居城か」
025 吉野ヶ里が、なぜ近畿説に衝撃をあたえたのか
027 近畿説論者がすがりついた「三角縁神獣鏡さんかくふちしんじゅうきょう
037 「環濠集落かんごうしゅうらく」は近畿説の“命綱”だった
042 吉野ヶ里の環濠集落は、日本列島最大
052 考古学と文献がピッタリ符合した

057 2章 吉野ヶ里の王と技術と軍

060 眠っていたのは倭国“副王クラス”の人物
072 吉野ヶ里の墳丘墓は「卑弥呼の墓」と同じサイズ
074 甕棺(みかかん)の並びがしめす「身分階層」
079 吉野ヶ里はハイテク技術の中心地だった
081 軍事基地でもあった吉野ヶ里
083 日本最初のシルク・ロードの終着点は北部九州

091 3章 古代先端技術(ハイテク)列島・日本

092 腰岳(こしだけ)を中心とする古代文明
094 人類「突出」の秘密兵器・黒曜石の鏃(やじり)
099 縄文時代、日本列島は文化の“輸出国”だった
105 火山が創造した世界最古の土器文明
110 「縄文人は、絶対、アメリカ大陸へ渡っている」
125 土器文明以前から「東日本」と「西日本」の文明は違う

129 4章 「倭国大戦乱」の謎を解く

130 魏志倭人伝の作者・陳寿(ちんじゅ)は倭国の使者と面談している
137 墓地のどまん中に、住宅が“不法進入”したのか
158 「首なし遺体」が明かす「歴年の乱」
161 甕棺と倭人伝の百年以上の「落差」
162 後漢書の著者・范曄(はんよう)の読みまちがい

176 5章 縄文文明を証明する「「国引き神話」

176 イザナギ、イザナミの「国生み神話」は筑紫(ちくし)で作られた
181 「国ゆずり神話」のしめす「出雲中心」時代
182 出雲風土記の「国引き神話」の謎
186 「国引き神話」は縄文時代に成立した
190 出雲とウラジオストックの交流の証拠

204 6章 倭国の地図が見えてきた

205 倭王の墓はどこにあるのか
209 邪馬壹国(やまいちこく)の中枢は春日市だ
213 吉野ヶ里は倭国首都圏の“横浜”だ

215 あとがき

吉野ヶ里(よしのがり)の秘密
ーー解明された「倭人伝(わじんでん)」の世界
1989年6月30日初版1刷発行

著者 古田武彦ふるたたけひこ
発行者大坪昌夫
印刷者堀内俊一
  堀内印刷

発行所
東京都文京区音羽2
株式会社 光文杜

©Takehiko Furuta 1989
ISBN4-334-00486-5
Printed in Japan


まえがき

 古代史は新鮮だ。
 出土で光景が一変する。今回の吉野ヶ里(よしのがり)もそうだ。いや、これほどの衝撃、最近になかった。
 なにしろ、永年(ながねん)の「邪馬台国やまたいこく」論争に、その終着点が見えてきたのだ。
 「まだ、まだ、『邪馬台国』は、分からない」そういいはじめた学者がいる。実は、分からないことにしてほしい。それが本音(ほんね)だ。
 だが、やはり、吉野ヶ里で、とうとう見えてきたのだ。何が。この本を読み終えたら、誰にも、それが分かるだろう。
 古代史は、広大だ。
 分かったのは、それだけではない。西アジアからの道、シルク・ロードの終着点。いままでは、それは正倉院(しょうそういん)だ、といいつづけられてきた。あらゆるパンフレット、教科書・参考書類まで、そう書いてきた。あるいは、そのようにほのめかしてきた。いつも、「大和やまと」だけが終着点であったかのように。
 だが、吉野ヶ里から、真実が万人の目に見えはじめた。正倉院が終着点になるのは、ずっとのちの話。八世紀だ。それよりずっと、ずっと以前、日本列島には、あのシルク・ロードを通って、すでに絹やガラスが到達していた。どこに。吉野ヶ里をふくむ、北部九州に。それも、そこへ入ってきただけではない。そこで作られていた。そこが生産の中心となっていたのだ。それが「倭国 わ(ゐ)こく」だ。倭人伝(わじんでん)の世界だ。その最中枢部は、どこか。それも、この本を読み終えたら、もう、疑う人はいまい。
 古代史は、残酷だ。
 新しい出土が、今までの「定説」をくつがえしてしまう。異端の学説に対して、いっさい応答せず、嘲笑していた学者たちが、にわかに色青ざめる。彼等にできることは、何か。たとえば、率直にのべる研究者を、自分たちの「シンポジウム」から閉(し)め出す、そんなことぐらい。もちろん討論を避けるために。だが、時代は変わった。世間のほうが、真実を知りはじめている。語りはじめている。この本を読み終えた読者には、それが一層ハッキリと分かるだろう。
 古代史は、悠遠(ゆうえん)だ。
 「邪馬台国」論争に“めど”がつきはじめたくらい、何でもない。一つの疑問の終結は、新しい疑問の開始だ。わたしたちに、弥生(やよい)時代の「倭国」が分かりはじめたとき、ポッカリと、縄文のナゾが浮かび上がる。さらに旧石器の秘密の扉が開きはじめる。「金かねに目のくらんだ」人々には、見えなかった、金属器以前の、この日本列島の豊醇(ほうじゅん)な歴史が、ほの見えはじめる。それを、この本でしめした。
 古代史は万人のものだ。
 もし、この本を読み終わって、「むずかしかった」といわれれば、頭をさげる。「すみません」の一語だけ。「やさしすぎた」そういわれれば、大満足。人間と、名のつく人なら、誰にでも読んでほしい。それだけが願いで、この本を書いた。わたしにも、はじめての経験。ドキドキしている。
 ーー読み終わったら、ごきげんよう。
             平成元年六月十日
                古田武彦

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あとがき

 十九年前、昭和四十七年の夏。ところは、向日(むこう)市。京都の西郊、竹林に近いアパートだった。
 わたしは連日、苦闘していた。倭人伝との闘いの日々だった。何を。里程(りてい) ーーそれだけ。来る朝も、来る夕も、それに尽きた。
  郡より女王国に至る、万二千余里。
 郡とは、帯方郡。ソウルのあたり(あるいは西北方)だ。そこから、「女王の都する国」、邪馬壱(やまいち)国まで、総里程が「一万二千余里」。そう書いてある、確かに。
 だけど、合わない。足らないのだ。同じく、帯方郡から、狗邪韓国(こやかんこく 釜山)、対海国(対馬)、一大国(壱岐)、末盧国(まつろこく 唐津)、伊都国(いとこく 前原まえばる)、不弥ふみ国(博多湾岸)と、それぞれ書いてある里程、その数字を足しても、二万六百里」にしかならない。まだ、千四百里足らないのだ。問題は、「千四百里」だ。
「こんなはずがあるか」
 わたしは、そう思った。部分を足して、全体にならない、なんて。
 「もし、そうだったら、倭人伝なんて、相手にすまい」
 そう思った。そうではないか。そんな、いい加減な、著者の書いた文章なんて、相手にしておれるか。それほど、こちとらは、暇(ひま)じゃない。 ーーそれが、心底(しんてい)の思いだった。
 そして燃えるような、真夏のまっぴるま。わたしは、パンツ一つのような恰好で、取り組んでいた。アパートの二階の一室だった。
 ところが、あったのだ。何か。まだ、誰も、部分に入れていなかった里程か。
(対海国)方四百余里。
(一大国)方三百里。
 この二つを、二つとも、部分の計算に入れていなかった。明らかに、「里」の数字が、つまり里程がそこに書かれているのに。
 「では、どう入れたらいいか」
 それは、半周だ。全周なら、元(もと)に帰ってしまう。元(もと)の木阿弥(もくあみ)だ。では、半周なら。
 「方」とは、四方。正方形の一辺が四百里だというのだから、半周なら、八百里。同じく、一辺が三百里なら、六百里。では、八百里と六百里を足したら、 ーーそう、千四百里ではないか。探し求めていた、あの「千四百里」が、ここに、まぎれもなく、あった。
 わたしは躍り上がった。裸のまま、外に面した階段を走り下りた。一階の裏で洗濯していた妻のところへ。「分かった、分かった」と、叫びなからーー 。
 この一瞬に、わたしには、倭人伝が分かった。真剣に、「対面」できたのである。そして古代史世界への、わたしの扉が開いたのだった。
「不弥国は、邪馬壱国の玄関」
 わたしの解読の鍵(キイ)をなす、この一句が誕生した。邪馬壱国は、博多湾岸とその周辺を中心とする国家だったのである。問題の「水行十日、陸行一月」は、帯方郡から邪馬壱国に至る総日程だった。(先行研究もふくめ、詳しくは、『「邪馬台国」はなかった』参照)
 その女王国の首都圏、その一端に当たるのが、今回の吉野ヶ里だった。先に挙げた「絹の分布図」を見てほしい。そこには、わたしの十九年前に出合った「解読」と、今回の吉野ケ里の「発見」との関係、それがまざまざと知られよう。だから、吉野ヶ里を「邪馬台国の中心」と見なすのも、「単なる、三十国の一国」と見なすのも、ともにまちがっているのである。
 いまだに、「水行十日、陸行一月」をもとにして、遠く近畿や、また中・南部九州へと「邪馬台国」を求める「大家たち」がいるけれど、その人たちは、一度も、真剣に、わたしの行路解説と「対面」しようともせず、「論争」も避けてきた人々だった。
 しかし、そのような人々も、歴史の霧の中に、やがて消えてゆくことであろう。消えるまで、「まだまだ、邪馬台国は分からない」と、託宣(たくせん)しつづけることであろう。思うにそれが、そのような人々の、歴史の中に果たす、役割なのであろうから。
 さもあらばあれ、わたしは祈る。この吉野ケ里遺跡が、十二分に保存されることを。外濠の内部(二五ヘクタール)はもちろん、工業団地にいまなお“予定”されている、北の部分(奈良時代の遺跡をふくむ)まで、「歴史館団地群」として生まれ変わること、それを心の底から願っているのだ。
 昨年末、トルコヘ行き、あの、シュリーマンのトロヤを見た。そこは、完全に、発掘当時のまま、広汎に保存されていた。そこから輝くエーゲ海が見えた。
 そのときの感激を、わたしはいっときも、忘れることができない。
 この吉野ケ里遺跡もまた、そのようにーー 。わたしはそれをいま、熱い心で祈っている。世界の、若き真実の探究者が、いつでもそれを眼前にすることができるように。
 この本をたずさえて、現地をおとずれる、未来の読者よ、ごきげんよう。

  ーー最後に、口絵に登場していただいた死者たちに、深く黙礼したい


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