『吉野ヶ里の秘密』 へ
『よみがえる九州王朝』 へ
『古代の霧の中から』 へ
古田武彦
来た。見た。あった。 ーー広大な吉野ヶ里(よしのがり)丘陵がそこに広がっていた。
延々(えんえん)と何キロもつづく外濠(そとぼり)。そそり立っていた、一〇メートルを越える物見やぐらの痕跡。そしてなによりも甕棺(みかかん)の大群。累々(るいるい)たる屍(しかばね)の海だ。それも激烈な戦闘の存在を証(あか)しする、十二本の鏃(やじり)の突きささったままの遺体。見る人をふるえあがらせる首なし遺体の数々。それらが次々とわたしの眼前に立ち現われていた。
これが弥生(やよい)だ。倭人伝(わじんでん)の世界だ。あの古代世界がそっくり、眼前にいま、立ち現われたのだ。これを「奇跡」と呼ばずして、何か。
しかも、まだわたしの生きている時間帯に。そして幸いにもこうしてすぐ現場にかけつけることができた。歴史研究者にとって不可欠の健康をもっているときに、この「奇跡」に合うことができたのだ。そのことをわたしは歴史の神に深く感謝せねばならぬであろう。
一日、歩き疲れたことも覚えず、丘から谷へとたどりつつ、わたしはそのような思いに満たされていたのである。
三国志の魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に有名な一節がある。
「宮室・楼観ろうかん・城柵じようさく、厳(おごそ)かに設け、常に人あり、兵を持(じ)して守衛す。」
倭国の女王、卑弥呼(ひみか)がいた場所、いわゆる「居処」についてのべた文だ。
彼女の住んでいた御殿、つまり「宮室」のそばには「楼観」と「城柵」があった、というのだ。「楼観」とは、物見やぐら。「城柵」とは、濠のそばにさくをめぐらしたもの、それが「城」の囲いにたっている、というのである。だから問題は、その「濠」の有無(うむ)だ。
ところが今回、その「楼観」と「城柵」に当たる、そう見られるものが出てきたのだ。「兵を持して」は“兵器をもって”の意である。
「では、ここが卑弥呼の居城か」
そういう興奮が、九州を、いや、全日本列島をかけめぐったのも、無理はない。
そのすばやい反応を、理屈抜きでしめすもの、それは連日の人出だ。平成元年二月下旬から三月中、四月になっても、人々の長蛇の列が絶えなかった。仮小舎に展示された出土品を見るために、一時間近く、時には二時間以上も待つ。
その人々の群れを見て、わたしは思った。「この好奇心の爆発、これこそこの日本列島の文明の発展をささえてきた、秘密なのだな」と。わたしも、そのなかの一人だったのである。
では、なぜ。なぜ人々が、そしてこのわたしが、今回の出土にこれほどひきつけられたのか。それを知るために、あの「邪馬台国論争」の歴史を、わたしの視点から、ふりかえってみよう。
(「ミカ棺」「ヒミカ」の読みについては、八八ぺージ以降で詳しくのべる)
「邪馬台国論争」は、近畿説からはじまった。 ーーなぜ、こういえるのか。
それは、最初の近畿説論者、松下見林(けんりん 一六三七〜一七〇三)の言い分を聞けば、分かる。彼は江戸前期、京都のお医者さんだった。
彼は言う。
「卑弥呼は倭国の女王である。わが国で『王』といえば、天皇家のみ。その天皇家は、光仁天皇まで、代々大和(やまと)におられた。だから『ヤマト』と読めなければいけない。読めなければ、それは外国人 ーーこの場合、中国人ーー がまちがえたに決まっている。だから、読めるように直せばいい」(『異称日本伝いしょうにほんでん』)
こういう趣旨をのべ、猛然と、三国志の魏志倭人伝の中に一回出てくる「邪馬壱国やまいちこく」を「邪馬台国」と書き変え、これを「ヤマト」と読んだのである。
「壱」と「台」では全く似ても似つかないけれど、それぞれ旧漢字では「壹」と「臺」。似ているから、中国人がまちがえたのだろう、というわけだ。文字の国も、なめられたものである。
さて、見林の文中、「光仁天皇まで」とは何か。この天皇の次は、桓武天皇。そう、あの「平安遷都せんと」の天皇だ。この天皇が京都へ都をうつすまで、ほぼ大和に都があった。だから、というわけだ。
それはいい。よくないのは、次の点だ。“わが日本列島では、『王』といえば、天皇家のみ”
この考え方を、判断の前提にしていることである。物を考えるなら、「ここから」はじめろ、というわけだ。
このような考え方は、わたしの少年時代、流行していた。戦時中だ。
「そもそも、日本精神が根本だ。すべて他(ほか)のことは、そのあとだ」
というのである。これをうけ入れない奴(やつ)は、遠慮なく、ドヤされた。このやり方のつけがまわってきたのが、一九四五年八月十五日。敗戦だった。これは、御承知のとおり。
近世(江戸時代)の学問のやり方は、これが主流だった。はじめに根本を決めておいて、それから枝葉(しよう)におよぶ、というわけだ。つまり、結論は最初から決まっている。
見林の場合も、そうだった。「わが国には、『国史』がある。舎人(とねり)親王のつくりたもうた日本書紀だ。これに合うものは採(と)り、合わないものは捨てればよい」彼は、この本の序文で、断乎(だんこ)そうのべている。
日本書紀とは、八世紀に近畿天皇家で作られた本だ。
当然ながら、「日本列島の中心は、はじめから天皇家」そういう主張で、日本列島の歴史を一気に裁断(さいだん)した本だ。一貫した「天皇家の正史」なのである。
それを「物指し」にして、三世紀に中国で作られ、三世紀の日本列島のことを報告した、第三者(中国人)の客観的な著述に対して「メス」を加え、こちらの都合にあわせて“書き直す”とは。
少なくとも、近代の歴史学ではない。
だからわたしは、この「邪馬台国」という“手直し国名”に対して、首を横にふらざるをえなかった。
念を押しておこう。大事な点だ。わたしは「日本列島で『王』といえば、天皇家のみ」 ーーこのこと自身に反対しているのではない。当然だ。なぜなら、歴史とは、事実だ。過去に存在した“真実”を探る。それが歴史学なのである。
当たり前のことだが、わたしが「歴史事実を創(つく)る」のではない。だから、わたしが“”こうあってほしい”とか、“ほしくない”とか、願うのは自由だけれど、願ったからといって、歴史が“そうなって”くれるものではない。その点、歴史は、頑固者(がんこもの)なのである。
だからかりに、種々探究して、正しい方法と正しい手続きによって求めた末、その結論が「日本列島で『王』といえば、天皇家のみ」そうなったとしよう。なら、もちろん、それでよいのだ。
だいたい、そのさい、「よくない」といってみても、はじまらない話ではないか。くりかえしていうけれど、わたしが「歴史を創る」のではない。
わたしが反対しているのは、見林のように、それを「出発点」とすること、前提とすることだ、
そしてその前提に“合わない”ものは、遠慮なく書き直してしまえ。そういう無茶な方法に対して、断乎「ノー!」といっているだけだ。
わたしは見林を“えらい”と思っている。あの時代に、古事記・日本書紀だけに満足せず、広く海外の文献をさがし求め、外国中国と朝鮮半島側の本の中にもりこまれている、日本に関する記事をひろい集め、一冊の本にした。これが「異称日本伝」だ。たいへんな仕事だと思う。世の中のお医者さんが、いや、他の職業の人でも、こんな余暇の使い方をしてくれれば、すばらしい。心底(しんそこ)、そう思う。
思うけれど、いや、思うからこそ、「これでは駄目だ」と思う。何が。もちろん、彼の学問の方法だ。
帰納(きのう)や実証、つまり、先にある、未知の真実を探究する、このやり方が歴史学の根本だ。過去は過ぎて帰らず、未来はいまだ来(き)たらず。その未知なる過去を探究するのが歴史学だ。
そこから、同じく未知なる未来が見えてこよう。過去と現在、この二つの点を結ぶ。そして延長すれば、そこに未来が立ち現われるからだ。
歴史学とは、未来を知るための学問なのである。
わたしが、いわゆる「邪馬台国」近畿説に反対するのは、なにも、近畿がにくい、わけではない。それどころか、大好きだ。
わたし自身、近畿の一隅、京都の郊外、竹林に囲まれた、アパートの一室で、古代史の第一書『「邪馬台国」はなかった』を書いた。竹林の上の朝日や夕日が、わたしの孤立の探究をなぐさめてくれた。
当たり前のことだが、問題は、好き嫌いではない。近畿には、近畿の、悠遠(ゆうえん)の歴史がある。天皇家以前、旧石器・縄文(じょうもん)からつづいた歴史がある。これは自明のことだ。
だが、それとこの「邪馬台国」問題とは別だ。八世紀の日本書紀への「信仰」から、三世紀の、他国人の書いた、客観的な史料を“書き変える” ーーこの主観主義、手前勝手、傍若無人(ぼうじゃくむじん)の流儀(りゅうぎ)。これに対する挑戦にすぎなかったのである。
もし今回、吉野ヶ里の出現によって、近畿説が激震をこうむったとしても、それはなにも近畿の悠遠の歴史、美しい大地の歴史に、微塵(みじん)も傷(きず)がついたのではない。地ひびきをたてて斃(たお)れてゆくのは、身勝手な、主観主義の歴史観、近世以来の、その自我流(じがりゅう)の手法なのだ。
そして大切なことだが、その手法によって書き直された、あの「邪馬台国」という、“書き直し国名”だ。この国名が今、地ひびき立てて斃(たお)れてゆく。耳をすませたまえ。耳ある人には、その音がかすかに、しかしハッキリと聞こえるであろう。
国名問題については、あとで再びのべることとして、いまは、局面を転換しよう。
近畿説の、もう一つの弱点。それは行路(こうろ)記事の解読方法だ。倭人伝には、くわしい行路記事が書かれている。
出発点は、帯方(たいほう)郡。広くいって、今のソウル近辺(あるいは、その西北方)だといわれる。そこから、いちいち方角と距離が「何里」「何里」という形で書かれている。
ところが、九州の一角、末盧(まつろ)国、今の唐津(からつ)近辺と思われるこの地点に上陸してあと伊都(いと)国、奴(ぬ)国、不弥(ふみ)国などの記事につづいて、例の、問題の一句、
南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、水行十日、陸行一月。
が現われる。この長日程を利用しなければ、とても近畿には“とどかない”のだ。
ところが、焦点は、「南」の一語。これがこのままでは、鹿児島方面へ行ってしまう。とても、近畿へは行かない。この点、地図を開くまでもなく、明らかなこと。
そこで、
「この『南』は、『東』のあやまり」
という、有名な、近畿説特有の“手直(てなお)し”が「必要」となってくる。近畿説にとっては、原文の「邪馬壱国」を「邪馬台国」と“手直し”しただけでは足らず、第二の“手直し”が不可欠。これが「南」いじりの一手なのだ。
わたしは論じた。このような“手直し”を原文に対して加えることが許されるのなら、「邪馬台国」は、どこへでも、もって行けるだろう、と。
なぜなら、そのような“手直し”の権利は、近畿説論者にだけ、かぎられるはずはない。誰でも、平等に、その権利はあるはずだ。
だとすれば、日本列島のどこへでも、それどころか、日本列島外へでも、自由自在に「邪馬台国」をもってゆき、そこに“指定”できるであろう、と。
たとえば、「南」を「西」に“手直し”したり、「一月」を「十月」に“手直し”したり、「邪馬台」を、さらに「加馬台かまたい」や「加馬壱かまいち」へと“手直し”したり。みな各人の「権限内」のこととなるからである。これなら、逆に、“もって行けない”候補地を探すほうが困難なくらいのものだ。
以来、ことは、わたしの“予言どおり”に進行した。いや、研究史上、わたしに先立つ、「予言者」がいる。あの松本清張氏だ。一九六四年に出た、短篇『陸行水行』は、この点に着目した、好個の予言書といっていい。
ただ、氏の場合、肝心の「邪馬台国」という中心国名の“手直し”問題には、筆がおよばず、ためにわたしの探究がはじまった。氏の『古代史疑』を読み終えたあと、新たな舟出をせざるをえないこととなったのだ。(わたしの到着点については、「あとがき」参照)
ともあれ、わたしの「予言」は成就(じょうじゅ)した。以来、二十年の間に、北は「北海道説」から、南は「ジャワ説」まで、百花繚乱(りょうらん)。最近は小笠原列島説まで出現した。
どうせなら、アメリカ大陸説の出て来ないのが、わたしには解(げ)せぬ。「南」を「東」に“手直し”したうえ、「水行十日」を「水行十月」に“手直し”すれば、アメリカ大陸も、けっして“夢”ではない。
冗談はさておき。今回の吉野ヶ里でトドメを刺されたのは、ただ近畿説だけではない。近畿説の“先導せんどう”のもと、日本列島各地に花開いた、各地の“御当地、邪馬台国”の数々。
もう“楽しみ”は終わった。十分に“楽しめた”ではないか。次は、本当の学問、歴史学の出番だ。
ここでも、念押し、しよう。くどいたちらしい。許してくれたまえ。
最近、「吉野ヶ里、以後」、まだ、近畿説で頑張っている学者Tさんの話をラジオで聞いた。
「日本列島について、“九州が北、青森や北海道が南にある”という、そういう地図がある。その地図から見れば、倭人伝で「南」とあるところを、「東」と“読みかえて”もいい」たしか、Tさんは考古学者だが、そう語っていた。
これは、明時代に朝鮮で作られた地図。
混一疆理(こんいつきようり)歴代国都之図(略して混一図)という。原本は、京都の竜谷大学所蔵。大きなものだ。わたしも見た。そしてその写真(朝鮮半島・日本列島の部分)を『「邪馬台国」はなかった』に掲載した。そのうえで、次のように反論したのである。(この説を唱えた室賀信夫氏に対し)
この地図は、“一貫して”作製されたものではない。日本列島の部分だけ、出来合いの地図を「加え」て、合成したものである。
その「出来合いの地図」とは、行基図(ぎょうきず)といわれるものだ。奈良時代の高僧として著名な行基(六六八〜七四九)が作った、とされているものである。それを、先に言ったように、“九州を北、青森を南”の形で「はめこんだ」のだ。つまり、この地図の作製者、より正確にいえば、「合成者」は、「邪馬台国、近畿説」という観点から、この“あてはめ”を行なっているのである。机の上の作業。インテリの仕事だ。
地図といえば、正確。真実(リアル)。それが現代のわたしたちの常識だ。だが、かつての地図は必ずしも、そうとはかぎらなかった。こんな書斎人(しょさいじん)の“たわむれ”にひきずられて、海上に舟出したら大変。北海道へ行くつもりが、フィリピンに着く。
ようするに、この地図は明代の朝鮮半島人、それもインテリの「観念」を裏づけるためには、第一史料。それ以上ではない。
こんな地図をもとにして、三国志の魏志倭人伝を読まれては、かなわない。
こちらは、書斎人の“手ずさみ”ではない。中国(魏)の使節が、実際に倭国、つまり日本列島へ来ての報告書、その実務にもとづいて書かれたものだ。それも、一回や二回ではない。何回も、彼等、帯方郡の役人は倭国へ来ているのだ。
倭人伝の、
(伊都いと国)郡使の往来、常に駐(とど)まる所。
の表現がそれを証明する。
何回もやってきていて、いつも「南」と「東」をまちがえた地図を疑わずにいた。そんなはずはない。それが人間の常識というものではないか。
こんな、古証文(ふるしょうもん)ならぬ、「旧(ふる)地図」をまたぞろ、もち出さねば、“「南」とは「東」のこと”という、無理なテーマを、T氏は「証明」できない。行路解読上の、近畿説の行きづまり。それが端的(たんてき)にしめされている。
事実、ちゃんとした論文や著書で、近畿説の論者からわたしの批判に答えた文章、それをこの二十年、一度も見たことがない。
(この地図問題に関して詳密な研究を完成されたものに、引中芳男氏著『古地図と邪馬台国 ーー地理像論を考える』〈大和書房〉がある。着実な努力を重ねられたうえ、わたしと、ほぼ同じ結論を再確認されている)
吉野ヶ里は衝撃だった。それは何に対しての衝撃か。まず、もちろん近畿説に対して。しかも、それだけではない。三国志の魏志倭人伝の原文に対して、“手直し”する、いろんな理由をこじつけて“手直し”する。そのやり口そのものに対する衝撃だった。
だが、この二十年来、近畿説の論者は、ことの真相を、真正面から見ようとはしなかった。倭人伝そのものを「相手」にする以上、近畿説ではその原文の文面とこれほどくいちがう。それなら、やはり、「ここが『邪馬台国』だ」などというべきではなかった。
それはちょうど、遺跡(いせき)事実や出土(しゅつど)事実が、倭人伝に書かれている内容とくいちがっていたら、「ここが『邪馬台国』だ」とはいえない。それと同じことだ。
考古学者にとって、遺跡事実や出土事実は大切だ。それを大切にしない人は、考古学者ではない。
同じく文献の研究者、つまり歴史学者にとって文献は大切だ。それを大切にせずして、歴史学者とはいえないのだ。
もちろん、ここでいう「学者」とは、大学の学者、といった、けちな意味ではない。真実を学ぶ者、真摯(しんし)な探究者。そういう意味だ。
考古学者が、遺跡の出土事実に対して、「こんな物がここから出たのでは、自分の説に都合が悪い。あちらから出たことにしよう」などと、“手直し”するとしたら、もう科学ではない。当然のことだ。
文献も同じだ。「ここは『南』では具合が悪い。『東』の意味にとろう」などといい出したら、もう、科学ではない。学問失格なのだ。
この自明の事実を、多くの考古学者が理解していない。わたしには、それが不審(ふしん)だ。
もちろん、わたしは、いわゆる「事実」に絶対あやまりなし、などといっているのではない。それどころか、人間のすることには、あやまりはつきもの。いつもそう信じている。わたしのようなうかつ者は、日常生活でミスばかりやっている。お粗末至極(そまつしごく)。昔の人も、人間である以上、まあ、変わりはあるまい。
だから、ちゃんとした手続きで、その“うら”がとれればよいのだ。
この出土物は、はじめA遺跡から出たと思っていたが、実は担当者の思いちがい、番号のつけまちがいで、B遺跡から出たものだったことが、直接掘った人や現場責任者の証言で分かったとする。
こんなことがどれだけ、おこるかしらないけれど、それなりに、ちゃんと事実が確かめられればいい。当然のことだ。だが、それなしに、「自分の説に合うように」というのでは、言語道断(ごんごどうだん)。それを言っているのだ。
文献でも、同じだ。この文字は、Aという古写本(こしゃほん)では、「南」となっていた。ところが、より古い、Bという、信用できる古写本では、「東」となっている。とすれば、あの「南」というのは、実は「東」のまちがいだ。
ことが、このようにきちんとすすめば、問題はない。近畿大和のどまんなかの唐古(からこ)や飛鳥(あすか)、橿原(かしはら)であろうと、京都の西郊のわたしのわびずまいあたりであろうと、これを安んじて「邪馬台国」へと仕立てる道は開けよう。
だが、そうではなく、“自分の説”つまり、“もって行きたいところ”に合わせるための“手直し”の手法、それは学問ではない。この自明の事実をしめした。その衝撃だったのである。
だが、先を急ぎすぎまい。まだ夜は長い。紙幅(しふく)は、たんと残されている。吉野ヶ里の衝撃の意味を、じーんと知ってもらうために、「邪馬台国論争」の、その後の成り行きをふりかえってみる。いまは、その途中。
倭人伝の行路解読について、近畿説論者は、わたしの批判に対する、有効な反論ができなかった。
なしえなかったため(わたしの目には、そう見えた)、代わって「強調」されはじめたもの。
それが「三角縁神獣鏡」問題だった。
これは鏡の一種類。ふちが三角にもりあがっている。ちょうど、額ぶちのようたものである。だから「三角縁」という。「縁」は“ぶち”と日本語風に読んでも、“えん”と音読してもいい。「神獣」とは、“神人と神獣”の意。一方に、“仙人風”の人物が刻(きざ)まれている。これを「神人」という。これに対し、S・F風の怪獣。これを「神獣」という。ようするに、空想の動物だ。
これが、「問題の鏡」 ーー近畿説論者は、そう主張した。
「問題の鏡」とは、中国(魏)の天子が女王卑弥呼に贈った鏡だ。「銅鏡百枚」と、倭人伝に書かれている魏の天子明帝の詔勅(しょうちょく)の中に、この四字が書かれているのだ。
「三角縁神獣鏡」は、日本列島から出土する。最大は、京都府の南端、椿井(つばい)大塚山古墳から。三十数面も出た。他の形式の鏡を加えると、四十面を越える。
この出方がすごい。JR(当時は国鉄)のレールを通そうと、山をぶち抜いたら、バラバラと鏡が落ちてきた。古墳の石室をぶち破ったのだ。
ここを中心として、東へ、西へ、だんだん分布が少なくなってゆく。これは、卑弥呼が、魏の天子からもらった鏡を、家来たちに分けてやったせいだ、というのである。
これが故・小林行雄氏によって完成された「三角縁神獣鏡、分配の理論」だ。「鏡式」(鏡の形式)についての精緻(せいち)な考察を基礎にした理論だったから、広く考古学者にうけ入れられ、考古学界の大勢は、近畿説となった。
これはもちろん、戦前、早い時期に(富岡謙蔵以来)提出されていたが、(行路解読の矛盾が“応答”できないまま)やがてこの一点が、近畿説論者によっていちじるしく“強調”されはじめたのである。
「この一点」といった。なぜなら、倭人伝に書かれているのは、「銅鏡百枚」の四字だけではない。おびただしい錦(にしき)の記事、刀(五尺刀)の記事、矛(ほこ)の記事、鉄鏃(てつぞく)の記事など、それに鉄の記事(韓伝。倭人について)も重要だ。
これらについて論ぜられること少なく、「鏡」についての議論が“突出”している。ここにバランスを欠く考古学界の奇妙な姿があった。
「鏡以外」については、あらためてのべよう。今は、この「三角縁神獣鏡」のもつ矛盾(むじゅん)について、ズバリのべよう。
すでにみんな知っている。この鏡は、中国から出ていないのだ。小林理論では「舶載はくさい」つまり、中国製のはずなのに。日本列島ではすでに、三百〜五百面出ているのである。
「多すぎるではないか」誰だってこう思う。わたしだってそうだ。これに対する、小林氏の答え。
「文献に出ているのは、『銅鏡百枚』一回でも、実際は、何回も、もらったのだろう」と。
これではやはり、あの、悪名高い“原文、手直し”の手法だ。この手法が許されたら、あらゆる議論は、“水かけ論”の泥沼に入ってしまう。学問の死滅する沼だ。
この点、いち早く批判の矢を向けたのは、若き日の森浩一氏であった。
その論文で、「大部分の三角縁神獣鏡は、中国製に非ず」と、考古学界の「定説」に対して、さっそうと「ノン!」の声をあげられたのである。(高坂好(こうさかこのむ)氏に「三角縁神獣鏡は魏の鏡にあらず」一九六八年、『日本歴史』二四〇号がある)
その後、松本清張氏は『遊古疑考』において、「すべての三角縁神獣鏡は、国産」との説を、ズバリ主張された。従来説の検討の上に立ち、氏一流の直観にささえられた叙述だった。
そしてわたし。三角縁神獣鏡中の白眉(はくび)、つまり、もっとも優秀な製品の一つとされる、大阪府柏原市、国分神社所蔵の鏡(茶臼山古墳出土)に、
吾は明竟(=鏡)を作る、真に大好(だいこう)。天下に浮由(ふゆう)し、四海に(・・・)。青同(=銅)を用(も)って海東に至る。
という文章が刻(きざ)まれている。これを、中国の工人、つまり鏡作りの技術者が日本列島(海東)へやってきて、この鏡を作った。その意に解したのである。(すでに江戸時代の覚峰にその先例がある。森浩一『古墳』参照)
このあと、九州の、在野の考古学者、奥野正男氏が「三角縁神獣鏡」のデザインを研究し、その中の「笠松形」と呼ばれる模様が、中国鏡にはなく、この「三角縁神獣鏡」独自のものであることも発見された。そしてやはり「国産鏡」説。
しかし、考古学界は、“歯牙しがにも”かけず、これに応答しようとしなかった。なぜか。いわく「森浩一は、古墳の専門家ではあっても、鏡の専門家ではないから」と。まして、その他はーー 、というわけだ。
これが、日本の学界の姿であった。
この日本の考古学界に対して、激震が加えられる。一大ショックが日本列島をかけ抜けた。八年前のことだ。
中国の考古学の専門学術誌、『考古』の第四期(昭和五十六年)に掲載された王仲殊(おうちゅうしゅ)氏の論文「関干日本三角縁神獣鏡的問題」(日本の三角縁神獣鏡の問題について)である。
ここで王氏はのべた。「日本列島からたくさん出土する、三角縁神獣鏡は中国製ではない」と。
この宣告の意義は絶大だった。その理由は一つ。彼が「中国の考古学者」であり、「鏡の専門家」だったことだ。
先にのべたように、森浩一氏さえ「鏡の専門家」に非(あら)ず、として、“軽視”された。ところが、王氏はレッキとした「鏡の専門家」だ。すなわち、「中国鏡の専門家」として、ピカ一の存在。
これに比べれば、日本の考古学者は、たとえ「鏡の専門家」であっても、しょせん「日本列島出土の鏡」が専門。「中国大陸出土の鏡」については、“素人”。すくなくとも、王氏に比べれば、そうなってしまう。
「人を呪わば、穴二つ」とは、よく言ったもの。他人(ひと)を嘲笑(わら)っていたら、同じ理由で自分が嘲笑われていた。人生は、まこと、皮肉に満ちている。
わたしには、一つの思い出がある。
奈良県の帝塚山大学の考古学研究室のパーティが大阪であった。ここでは、長年営々として、一つの偉業がつみかさねられてきた。それは、土曜講座である。各方面の専門家を呼んで、その研究を講義させる仕組み。わたしも、京都にいたとき、在野ながら、「鏡の舶載はくさいとイ方*製ほうせい」と題する講演をさせていただいた。堅田直(かただただし)教授は、けっして日本考古学界にありがちな、狭量の学者ではなかった。
イ方*製鏡のイ方*は、人編に方。第3水準ユニコード4EFF
さて、そのパーティ。わたしも招かれて参加した。堅田さんがわたしを見つけると、「小林行雄先生が来ておられますから、御紹介しましょう」といわれる。わたしはすでに京都大学の考古学研究室で、小林さんに何回かお会いし、考古学上の史料などについてお聞きしたことがあった。が、重ねて、おすすめいただき、そばに行って御挨拶した。すると、
「王仲殊さんも、古田さんにだまされてしまったなあ。ハハハ・・・」
何とも、返事のしようのない御挨拶だった。だが、何か、そこには、わたしの知らない「学界の事情」がありげだった。
ただ、堅田さんのさわやかな御好意が、深く身に沁(し)みる夜だった。
小林さんの御挨拶で、一つ、“思い当たる”ことがあった。
王さんの論文中、「三角縁神獣鏡」が日本製である、という、重要な論証の一つに、例の大阪府の茶臼山古墳出土の「三角縁神獣鏡」、あの銘文中の文章への解読があった。
中国の工人が日本へ渡来してきて、この鏡を作った、という、わたしの理解と、ピッタリ同じ理解だったのである。
「あの、古田の解釈はあやしい。中国人なら、ああは読めない」
そういった声も、聞こえてきていたけれど、まぎれもない、中国人の、王さんが、同じ解釈。先の声は止んでしまった。
それはいいけれど、王さんは、先行説たる、わたしの本について、触れておられない。なぜか。わたしは、自分の本、
『ここに古代王朝ありき ーー邪馬一国の考古学』(朝日新聞社、昭和五十四年刊)
『多元的古代の成立』〈上・下〉(駸々堂、昭和五十八年刊)
をお送りした。後者には、とくに王仲殊論文に対する、わたしの批判の論文もふくまれている。
王さんほどの方だ。やがてフェアなお答えが聞かれることであろう。
(奥野正男さんの「笠松形」問題にも、王論文との間に、同じ関係が存在する。この点も、王さんからの応答が期待される)
ついでに申しそえておきたいこと。
王論文は、全部読んでみると、不思議な結びになっている。それは、「三角縁神獣鏡、中国製説」を否定しておきながら、最後は「邪馬台国、近畿説」への“肯定”とうけとれる“暗示”でしめくくっている。
これは何か。同じ北京の歴史研究所の学者、王向栄(こうえい)さんの『邪馬台国』という本は、近畿説だ。生産力理論といったものを使って、その帰結へと導いている。
この王向栄説のあやまりについては、すでに右の本で詳しくのべたから、ここではくりかえさない。
簡単にいえば、九州に邪馬壱(やまいち)国があった、といっても、けっして「近畿には、たいした弥生文明圏などなかった」たどという話にはならない。この点を、王向栄氏は、とりちがえておられるようである。
そのうえ、わたしの本を読まずに、「孫引き」でわたしの説を知り、すっかり誤解したまま、“真正面”から批判しておられるのだ。
明治以降、日本の学者が、西欧の学説に対して“よくやった”手らしいから、あまり他人(ひと)のことはいえないけれど、王向栄氏も、まんまと、この「孫引きのわな」にはまっていた。関心のある方は、右の本(後者)をお読みいただきたい。
ともあれ、王仲殊説は、同じ北京の研究者のこのような「生産力理論」の影響をうけたのかどうか、一種の「自縄自縛じじょうじばく」におちいっているようだ。
なぜなら、近畿説をとる場合、例の「銅鏡百枚」という、魏の王朝から贈られた鏡、これについて、あの「三角縁神獣鏡」しか、もってゆきようがないからだ。
中国の学界の中で唱えている場合、あまりこの矛盾は気付かれず、批判されずに“すんで”いるのかもしれないけれど、日本の研究者の中では、いやでもこれは、“目につかない”わけにはいかない。
だから、何回も、日本へ来ておられる王仲殊氏は、やがてこの問題に対し、回避できず、対面される日がこよう。
その問題の“解決”は、王仲殊氏自身にまかせよう。いまは、わが国の学界自身の問題だ。
中国鏡の専門家から、中国鏡であることをキッパリ否定された「三角縁神獣鏡」。それはどこへ行くのだろう。
すくなくとも、日本の考古学界は、いままでのように、「森や松本や古田や奥野のような、鏡の専門家でない者の意見など、相手にするに足りず」などと、うそぶいていた日は、もう去った。
近畿説にとって、磐石(ばんじゃく)の支柱と思われてきた「三角縁神獣鏡」問題は、その支柱の根っこに、大きなひび割れがおきてしまった。 ーーそれは、いつ、カラカラと崩れるか。いまや心配の種となってしまったのだ。近畿説は、あの「鏡」の上に安住することなど、もはや、許されなくなってきたのである。
「鏡」の上に安住できない。では、いったいどうしたらいい。
そこで、あらたに「強調」されはじめたもの、それがほかでもない。いま問題の「環濠集落 かんごうしゅうらく」だ。
はじめに書いた、倭人伝の文章を思い出そう。
「宮室・楼観・城柵、厳かに設け・・・・・」の文だ。
倭国の女王、卑弥呼(ひみか)のいるところ、そこが「宮室」であることは、当たり前のコンコンキチ。まさか、女王が庶民や奴隷と同じ程度の住居、弥生集落に住んでいるはずはない。
もちろん、中国流の大廈高楼(たいかこうろう 巨大建築物)、とはいくまいけれど、魏の使(帯方郡の役人)の目から、「宮室」と見えるもの、それだけの“華麗さ”をもっていたこと、疑いない。
問題は、その次。
「楼観」の前に「城柵」をとりあげよう。こちらのほうが、「環濠集落」問題への入口に適している。
この“聞き馴れない”言葉。考古学の術語だ。
ようは、弥生時代の家々が密集している。それを濠(ほり)が囲んでいる。濠は、水が流れていても、空堀でもいい。
その外側(内側のこともある)に“さく”がつらなり、外敵の侵入をふせく。 ーー動物園の檻(おり)の中に、動物じゃなくて、人間が入った恰好になる。もちろん、外敵とは、動物だけじゃない。それ以上に、人間だ。
わたしは変なことを思い出した。
京都で、はじめは京都市内(左京区真如町しんにょちょう)、のちに西郊(せいこう 向日むこう市)に移った。アパートのあと竹にピッシリ囲まれた、陋屋(ろうおく)に住んだ。さぞ、蚊(か)に噛(か)まれるかと思いきや、真反対。市内のときのような、蚊とり線香など、まったくいらない。
なぜ。 ーー答えは簡単。窓には全部細い目の金網が張られている。これを開(あ)け忘れさえしなければ、快適。あれを思い出したのだ。
弥生の人々も、こんな感じだったのだろうか。もちろん、敵は、蚊よりずっと獰猛(どうもう)な人間。比較にもならないだろうけれど。
ともあれ、倭人伝の記事は、そんな辛(つら)い時代の生活を思わせるのだ、この「城柵」の一語から。
ところが、近畿には、大きな「環濠集落」が見いだされていた。
奈良県の、有名な唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡や大阪府堺市の池上(いけがみ)、四ツ池(よついけ)遺跡。みな外濠に囲まれた集落群だ。唐古は特に大きい。
これに対して、九州には環濠集落はなかった。(一部分くらいはあっても)とても、こんな大きなものは見いだされていなかったのである。
「やっぱり、『邪馬台国』は近畿だ。三角縁神獣鏡が、いろいろいわれたって、大丈夫。環濠集落があるから、な」
これが近畿説の学者たちの間の“ささやき”だった。
“ささやき”といったのは、ほかでもない。論文がないからだ。「環濠集落の問題から見ても、『邪馬台国』は近畿である」こういった論文は作成しにくい。なぜなら、そこ(環濠集落問題)から、ここ(邪馬台国問題)までは、まだ“あいだ”があきすぎている。越えなければならぬ、ハードル(障害物)がいくつもあるからだ。
いわく、「邪馬壱国」から「邪馬台国」への“手直し”問題。
いわく、「南」から「東」への“手直し”問題。
いわく、「三角縁神獣鏡、中国製」否定説への対応問題。
これらのハードルをそのままにしておいて、いきなり「答えは、邪馬台国」では、論文にはなりにくい。
論証のていをなさないからだ。だから、環濠集落を根拠として、邪馬台国を「主題」とする、そんな論文は現われていないのだ。
だから、わたしは“ささやき”といった。けれども、「手」は残されている。
考古学者にとって、もっとも“親密なレポート”、発掘報告書の中に、「近畿邪馬台国説」を“しのびこませる”のだ。“環濠集落から見ても疑いがたい”そういう“匂におい”をたきこめるのだ。
そういう報告書は、数多く“出まわっている”のである。うるさい“古田など”の反論に出合わない、そこは「天国」である。しかも、費用は公費。国民の税金(わたしのも、一部分は入っていよう)、あるいは土地会社などの拠出(きょしゅつ)金なのだ。
渋い話になったのを許してほしい。だが、わたしのいいたいのは、こうだ。発掘報告書は、事実を書く。それが基本だ。すべてをつらぬく魂。そういっていいすぎではないであろう。
なんで、こんな当たり前のことを書くか。それは「説」でおおわれた報告書が少なくないからだ。ひどいのになると、その報告者の「先生」の説を立証する。そういった形で、長い報告書がつづられる。そういった感じのものも少なくないようである。
同じ考古学者同士なら、その報告書を読んだだけで、「ああ、この男の先生は、誰々だな」と、見当がつくという。わたしなどには、とても、そこまでは分からないけれど。
しかも、学界に有名となった「名発掘報告書」ほど、その「臭におい」がきつい。つまり、名前は「報告書」でも、その実、「特定学説の陳述書」となっているのだ。
こういっただけでは、無責任だから、一つだけ、例をあげておこう。
昨年、発見されて有名となった、千葉県の稲荷台(いなりだい)古墳。銀象眼の文字「王賜・・・敬」をもつ、鉄剣の現われた古墳の報告概要。
「稲荷台一号墳出土の『王賜』銘鉄剣」(昭和六十三年一月十一日、市原市。財団法人市原文化財センター)
これは、千葉県にある国立歴史民俗博物館の方々の手になるものだ。
「名報告書」として、吉川弘文館で直ちに公刊されたが、その内容は、同博物館生みの親、故・井上光貞さん、それに京大の故・岸俊男さん等の「獲加多支わかたける大王=雄略天皇説」(「近畿が関東を支配していた」という立場の読解法)を前提とし、それを裏づける形で、「論」が立てられている。こういうものが、「たんなる報告」に終わらぬ、“いい報告書”とされているのだ。
「師説を補強する」それはまことに、“後継者”のうるわしい所業かもしれぬ。けれと、それは、堂々たる論文の場ですべきこと。すくなくとも、「発掘報告書」のやる仕事ではない。そう思う、わたしの頭の方が“おかしい”のだろうか。
この問題について、関心のある方は、次の論文をお読みいただきたい。
古田「P・G型古墳の史料批判 ーー主従型の場合」(昭和薬科大学紀要、第二二号、一九八八)
発掘報告書に“しのび”こませる。別の主題の論文に“もぐり”こませる。こういう手法で、近畿説論者は、「環濠集落、近畿『邪馬台国』説」を守ってきた。“ひそかに”「考古学界、主流」の位置を保持してきた。
そこに衝撃が来た。吉野ヶ里から来たのである。
ここにも環濠があった。環濠集落が見つかったのだ。
延々、二・五キロ。つつまれた内部、約二五ヘクタール。今までの、どの環濠集落にもひけをとらない。
唐古・鍵遺跡は、ほぼ四〇〇メートル×二〇〇メートル。これが住居部分だ。これを環濠がとりまいている。
吉野ヶ里は、環濠内が約二五ヘクタール。これは五〇〇メートル×五〇〇メートルのこと。だから、こちらのほうがずっと大きい。ただし、こちらのほうは、住居だけではない。異色の甕棺群を、内にふくんでいる。
もう一つ、いわねばならぬことがある。
唐古・鍵の場合は、何回も、濠(ほり)が作り直されている。その位置は、それぞれ、ずれているから、それらの各種の位置関係を、全部“合算”すると、ほぽ、吉野ヶ里と同じ規模となる(永年、唐古・鍵遺跡にとりくんでこられた、寺沢薫さんの御教示による)。
だから、吉野ヶ里は、唐古・鍵と、イクォール・大。
Y≧K
こういえば、ほぼ“公平”だろうか。
(「唐古・鍵」といういい方は、この遺跡が唐古と鍵と、両方の字(あざ)名にかかるため。もとは、「唐古遺跡」と呼ばれていたもの。“二つの遺跡”ではない)
一方、大阪府の和泉(いずみ)市の池上、四ツ池遺跡。こちらの環濠集落は、唐古・鍵より、ずっと小さい。
また、愛知県で有名な朝日遺跡。巨大な遺跡として有名だ。だが、環濠集落そのものは、意外に小さい。他に、環濠外の諸遺跡、方形周濠墓の地域などをふくんで、“大きく”なるのである。
こうしてみると、今回の吉野ヶ里は、文字どおり、日本列島最大。少し遠慮しても、最大級の環濠集落であることは、疑いない。もちろん、いままで発見されたもの、のなかで、だ。
新聞では、「世界最大」と銘打ったものがあったけれど、わたしの知識では、とてもそれまでは、イエス、とも、ノーとも、いえない。
ともあれ、日本列島にかぎれば、未曾有のものであること、疑いない。だから、騒ぎになったのだ。
「騒ぎすぎだ」と、一部の有識者が顔をしかめようと、人々は列をなして押しかけたのだ。インテリは、顔をしかめないとその資格に欠けるもののようだけれど。
もちろん、「過大」にいうのは、よくない。人々の幻想があおられすぎて、やがてパンクするからだ。かならず、反動がこよう。
だが、その逆も、こわい。
たとえば、「今回の吉野ヶ里は、倭国の中の、一つの『クニ』をしめすものにすぎぬ」そういう学者がいる。新聞に、そういった趣旨(しゅし)のコメントがのせられ、連載記事も、“冷静”に、そういった立場を基本トーンとしはじめる。第一面や社会面では、これでもか、これでもか、とあおりあげながら。
そこで一般の読者は、「本当のところは、倭国の国々の中の一つ、『クニ』程度のものなのだな」そう考えはじめる。ことに、古代史や考古学の「市井しせいの通人」たちは。
だが、もっと冷静に、考えてほしい。あの、従来、日本列島最大の環濠集落として、多くの考古学者たちの注目と垂涎(すいぜん)の的となってきた、あの唐古・鍵遺跡と
イクォール・大
の環濠集落が、今後はたしてぞぐぞくと、見つかりはじめ、日本列島にインフレ現象を呈するものだろうか。
倭人伝によると、倭国のなかに、三十の「クニ」があった、という。漢書地理志の倭人の項によれば、百余の「クニ」があった、という。
では、あと、二十九か、あるいは百何十か、この吉野ケ里並みの環濠集落が見つかると、本当に、この「クニ」論者とその追随者たちは、そう考えているのだろうか。 ーー幻想だ。
過小にいいすぎる人にも、気をつけよ。彼等は、秘密のカード、たとえば、「邪馬台国、近畿説」の復活策を、うしろ手にかくしもって、いつ出そうか、と時をねらっているのであるから。「クニ」というような、魔法の“片仮名使いたち”にだまされまい。
騒ぎがひろがったのは、巨大な環濠集落のためだけではなかった。もう一つのキイ・ワード、それは「物見やぐら」だ。
「物見やぐらが、何。そんなの、お城にはどこでもついてる」
そういいたまうなかれ。ときは戦国にあらず。弥生時代だ。
しかも、倭人伝にあるのだ、ちゃんと。何が。 ーー「楼観」だ。
「宮室・楼観・城柵、厳かに設け・・・」
の二番目の二字。これが、今回の“騒ぎ”の決定打となった。
楼観、それは“物見やぐら”のこと。
楼観壮麗そうれい、伎巧ぎこうを窮極きゅうきょくす。
(後漢書、単超伝)
楼観、豊穎ほうえいを眺め、金駕きんが、松山しようざんに映えいず。
(顔延之がんえんし、詩)
といった例もある。
だが、これがなかった。どこに。もちろん、弥生時代の遺跡に。あの唐古・鍵にも、池上、四ッ池にも、そして愛知県の朝日にも、なかったのだ。それが今回は。
卒然(そつぜん)と、姿を現わした。「卒然」、この“にわかに”という言葉が、ここほどふさわしい使い場所はない。
もちろん、このあと、「そういえば、うちの遺跡にも」といった声は出よう。もう出はじめてもいるけれど、堂々と、まがうかたなく、姿を現わしたのは、なんといっても、今回。
しかもこれを、「発見」した人が、うってつけ。いや、正確にいえば、「確認」した人といったほうがいい。
佐原真(まこと)氏。 ーーこの人の名は、吉野ヶ里とともに、語り継かれよう。
あの古代ギリシャにあった、という、
行く人よ、
ラケダイモンの 国びとに ゆき伝えてよ
この里に
御身らが 言ことのまにまに われら死にきと。(呉茂一訳)
の石碑のように、佐原氏の偉名を刻んだ、記念碑をここに建ててもよい。
否、最初から遺跡の発掘責任者であった高島忠平(ちゅうへい)氏や七田忠昭(しちだただあき)氏とともに、この佐原氏の名は逸してはなるまい。
なぜなら、佐原氏こそ、わたしが「これでもか、これでもか」と先刻から批判しつづけてきた、あの「邪馬台国、近畿説」の現存代表者の一、ともいうべき人だからだ。故・小林行雄さんの愛弟子である。
その佐原氏が、「邪馬台国、近畿説」の命脈を断つかもしれぬ、いや、その方向へと論理が進行する、その原点となる「発見」もしくは「確認」者となった。歴史の女神は、時として、最大の皮肉をこの地上に演じてみせてくれるものである。
けれども、わたしは、佐原氏はえらい、本気でそう思う。
敵に塩を贈る、どころか、最高の御馳走をそなえる、この行為を敢然と行なった佐原氏こそ、真の科学者、すばらしい考古学者である、と思う。
わたしには、佐原さんについて、思い出がある。
わたしの著書『ここに古代王朝ありき』について、種々批判や感想を、私信で寄せてくださったのである。かならずしも、本格的な批判、わたしの論証の本筋に対したもの、とはいえなかった。だが、親切に、心のこもったお便りだった。
たとえば、わたしが、
「日本の考古学で、縄文・弥生・古墳といったように、はじめの二つは『土器』、あとの一つは『墓型』といった形になっているのはおかしい。チグハグだ。外国の研究者が見たら、不思議に思うのではないか」
といった趣旨のことを書いた。
わたしとしては、「弥生時代」は、実は「墓型」からいえば、「古冢こちょう時代」というべきだ。卑弥呼の墓が「径百余歩」とあるのは、「短里」(一里が約七七メートル)によれば、約三〇〜三五メートルとなることを指摘した。
そして従来発掘されている「弥生の王墓」(三雲みくも・井原いわら・平原ひらばる・須玖岡本すぐおかもとなど)は、畑や果樹園の下からいきなり発見されているけれど、本来、ある程度の「盛り土」をもったはず。そう論じて、この時期を「古冢時代」と名づけたのである。
この肝心の論証についての批判はなかった。ただ「西欧にも、この種のチグハグさは、例がある」旨の御注意が書かれていた。
このお便りを通じて、「佐原さんは、率直な、親切な方だな」これがわたしの感想だった。
この佐原さんについて、わたしは京都にいた頃、うわさを聞いた。
「ほかの、誰が、近畿説を見棄てても、わたしは最後まで、近畿説を守る」
こういっている。そういう話だった。直接聞いたわけではないから、“確証”はないけれど、いかにも、佐原さんらしい、うわさだった。
佐原さんは、最近次のように書いておられる。
「僕は強硬説じゃなくて、むしろ消極的な畿内説です。『強(し)いて求められれば、やはり畿内と考えるほうがよい、と思っている』と書いた。この程度です、僕は」(「月刊ASAHI創刊号)
銅鐸の、鈕(ちゅう “つまみ”のところ)をもとにした編年で、日本の考古学界に確固たる地歩を築いた佐原さんだけれど、そのお人柄には、稚気愛すべし、そういった雰囲気をただよわせておられるようであった。
同志杜大学の研究室に森浩一さんをたずねていたとき、「佐原さんは、わたしの論文を、実によく読んでいますよ」と誉めておられたことを思い出す。
いずれの挿話にも、この方の“ひたむきな”人柄がうかがわれよう。
この人が、はじめての「物見やぐら」を九州で確認する、その当事者となられたのであった。
なぜ、物見やぐら、と、確認できたのか。
左(下)に「見とり図」をかかげよう。
ポイントの第一は、柱穴の深さだ。約二メートルといわれる。これだけの深さがなぜ必要か。当然、この木造建築物の背が高い。それを意味しよう。普通の高さ、一階建てや二階建てでは、これだけの“深さ”はいらない。これが、推定の根拠だ。
(奈良国立文化財研究所の宮本長二郎(ながじろう)氏によれば、一〇メートル以上の木造建築物と推定)
ポイントの第二は、この六本柱の木造建築物の位置だ。内濠が迂回(うかい)して、陸地部分がせり出している。ちょうど、角力(すもう)の土俵の徳俵のように。
その“徳俵”の位置に、この六本柱の木造建築物が立っている。そしてその両側(もしくは片側)に、内濠の外に通ずる道がついている。
このような地形からすると、この木造建築物が、“見張り台”であった可能性は、かなり高い。そう見てよいだろう。
もっとも、これは、「軍事的」に考えた場合だ。平和時には、あるいは軍事的緊張状態の“ゆるんだ”ときには、文字どおり、「展望台」的な意味をもったこともあっただろう。
すくなくとも、これは「軍事」だけ。「平和」的には、使われなかった。そんなことを断定できる人は、誰もいない。
もちろん、考古学者の中にも、この「物見やぐら」という、佐原氏の判断に疑問をもつ人もあった(たとえば、小田富士雄氏)。当然のことだ。大事な、基礎事実の認定には、慎重すぎることは、ない。大いに、議論を闘わしてほしい。
しかし、確かなことが二つある。その一つは、「これは、どうも、『物見やぐら』と解釈せざるをえないのではないか」、そのように、(たとえ全員一致でなくても)考古学の専門家が考えた。そういう“異様な”建物跡が出てきたのだ。
いままで、そのような「痕跡」はなかった。(もちろん、「ああ、そういえば、・・・」といった、“後追い発見”は、今後あろう)
いいかえれば、いままでは、「あんな、『楼観』など、インチキだ。日本列島の弥生遺跡には、そんな可能性はない」と、もしいおうと思えばいえていたのだが、もうこれからはいえない。すくなくとも、「可能性」は出てきたのだから。この意義は大きい。
「廃墟の学」としての考古学と、文献にハッキリ文字で書かれた「物」との対応が、そんなに百パーセント・ドン・ピシャリいくはずはない。厳密にいえば、どこまでいっても、「一致の可能性」の問題なのである。
たとえば、室町幕府の屋敷跡と、記録上の位置と、こんな新しい時代のものでも、そう「百パーセント、明白」とはいかない。当たり前のことだ。
確かたことの、二つめ。佐原氏が強固な「邪馬台国、近畿説」論者でありながら、この認定を行なった、ということだ。
もし、これか逆だったらーー 。そう思っただけで、いささか、ゾッとさせられる。
「近畿説」が有力で、一種の支配力をもつ、日本の考古学界で、敢然と九州説を標榜(ひょうぼう)する学者は数少ない。
たとえば、内藤晃(ないとうあきら)氏。氏は、いちはやく小林行雄氏の「三角縁神獣鏡、分配理論」に対して、異を唱えた。鋭い批判論文を書いた。しかし、そのためか、その後の「学界内の処遇」は、必ずしも恵まれていなかった。そのように、わたしのような門外漢の耳にひびいている。
そのような系列の学者が、もし、「これは『物見やぐら』だ」と、認定した、としよう。たちまち、蜂の巣をつついたように、
「ああ、あれは、自分の説を有利にするための、えこひいき認定」
そういう声があがったにちがいない。吉野ヶ里は、幸せだった。“いい人”に認定してもらったのである。
まかりまちがっても、(今後、異論がいくら出ても)佐原氏が、自説を“有利に”するために、今回の「物見やぐら」認定を行なった。そのように“かんぐる”人は、いないのであるから。
新しい“かんぐり”に出合った。
ある人がいった。「騒ぎすぎですなあ、どうも。あの吉野ヶ里は、そんな、たいしたもんじゃありませんよ。第一、佐原さんは、どうも、頼まれたみたいなんですよ。あの、高島忠平さん(吉野ヶ里の発掘責任者)に、ね。高島さんは、奈文研(奈良国立文化財研究所)にいましたから、ね。その頃からの、仲なんですよ。
なんとか、遺跡を保存しなくちゃいかん、というので、高島さんが、頼んで、佐原さんに来てもらったんですね。
ところが、佐原さん、『これが、倭人伝の楼観だ』なんて、やったもんだから、途端に、あの騒ぎでしょ。佐原さんも、薬が利(き)きすぎた、と思ってるんじゃないですかね。
それに、倭人伝の『楼観』が、はたして“物見やぐら”かどうか。怪しいもんですし、ね」
この人は、人も知る、有名な消息通だ。だから、残念ながら、「取材源、秘」とせざるをえない。だが、いいかげんな「怪情報」を流す人ではない。だから、ことの筋道は、それほど“あやまって”はいまい。
ただ、では、吉野ヶ里の「物見やぐら」は、にせものか、となると、そうはいかないこと、前述のごとし。
第一、いくら、佐原さんが“お人よし”でも、頼まれて、本当は「物見やぐら」と思っていないのに、「保存」という利益のために、「県や国をだます」そんなことをするだろうか。
では、あとで、「ウソ」がばれて、「ああ、あれは、“頼まれ”ましたので」そんな子供じみた“いいわけ”が通用するだろうか。以後、誰も、佐原さんの「事実認定」を信用しなくなるだけのことだ。
そんな危険をおかす必要が、なぜあるか。こう考えてみれば、ことの本質は明らかだろう。
佐原さんは、そう見た。だから、そう言った。 ーーこれしか、ない。
たとえ将来、もしかりにその「認定」が否定されることがあったとしても、それはまた、それで、全く別の次元の問題だ。本質的に、佐原さんの「不名誉」にかかわることではない。学問の進歩は、累々(るいるい)たる、旧説の死骸の上に築かれるものなのだから。
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