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『邪馬一国への道標』(角川文庫)
古田武彦
始めの数字は、目次です。
おわりにのみ下にあります。
【頁】【目 次】
わたしの動機(まえがき)/天然の通路/中国海/新しい探究
倭人の周代貢献/従来の少数派/わたしの疑い/中国海を考える/骨太い批判/論衡の自叙伝/先輩と後輩/金印は証言する/伝播の証明/山海経の秘密
タイム・マシーンを遡る/架空と実在/箕子朝鮮の真実/孔子の証言/班固の真意/”二人ぼっち”の航海/「誤認」の回復/訓読を正す
孔子と日本列島/孤絶の世界/旧知の人/周代からの伝承/はるかなり、大交流
「大乱」への疑い/「大乱」を追う/拡大された「大乱」/”臺のインフレ″と共に/何が「往る」のか/いつ卑弥呼は即位したのか/〈資料−「住」〉/謎解きパズル/これが結論です/二人の錯覚/さらに吟味を/ここに本筋が
わいろの嫌疑/千斛の米/洛陽へ行く/米の単位/三世紀の潅漑/伝を立てず
周の予言/不幸に非ず/的中した予言
孔明伝の嫌疑/真実な迫力/応変の将略/虚名の息子/名誉回復/資料〈晋書陳寿伝〉(全文)
絶妙の珠玉/海中洲島/倭地の奥行き/島の倭人/島の「倭の五王」/重大な南斉書/決定的証言/日出ずる島/いまだ現われず/津軽海峡の出現/光の中の海島/日本の史書/見ざる蝦夷国/蝸牛の争い側/竜飛岬の彼方
わたしの筋道/探し物の余得/魏臺の発見/倭人伝にも/後宮が焼けた/求めざる朝貢/天下の天下/じいさんの顔
宝の原野と蜜柑/謎の始発点/迷惑の今昔/伊都国中心読法/もう一つの実例/国と王/燎原の火/分布図/人暦と卑弥呼/道標ここにあり
「白村江」直前の書/博麻の塔/昼寝の夢/倭都のありか/倭都の隣り/〈資料−翰苑、後叙〉/訓読の正否/新しい鉱脈/湯谷の謎/日出ずる処
四世紀の書/邪馬嘉国の謎/傍国を描く/倭王の邦台/広志の成立
新旧の世代/平西将軍の謎/三世紀の読み/「西」の長官
一大率への疑い/五率の道理
最後の珠玉/開府儀同三司/太宰府の論理/九州の論理/三段の論理/わたしの失敗譚
「金印」の不思議/連続する謎/謎の行く手
紫の庭/滄海を観る
常識を破る二つの根拠/先入観の書き改めへ
古田武彦
大正十五年一九二六年、福島県に生まれ、広島県に育つ。
旧制広島高校より、東北大学法日本思想史科に進み、昭和二三年卒業。
松本深志高校・神戸森学園・湊川高校・洛陽工業高校の教師生活を経て、昭和四五年退職。
以来、古代史と親鸞の研究に専念。
〔主要著書〕『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』
『邪馬一国の道標』『邪馬一国の証明』『邪馬壹国の論理』『倭人も太平洋を渡った』
『親鸞 ーー人と思想』『親鸞思想 ーーその史料批判』
邪馬一国の道標(やまいちこくのどうひょう)
昭和五十七年六月三十日 初版発行
昭和六十二年四月三十日 再版発行
著 者 古田武彦
発行者 角川春樹
発行所 株式会社 角川書店
印刷所 暁印刷
製本所 大谷製本
装幀者 杉浦康平
語りたいものを語り終えた ーー1978年5月 講談社版発行
たしは今、その喜びの中にいます。それは果実のように言葉の籠(かご)の中からあふれ(この本の中に盛りこまれたのは、わずかに半分あまりなのですが)、昨年の秋からこの冬まで、わたしは充実した収穫の日々にいました。
その日々の中で、わたしの目をひきつけた二つの新聞記事があります。
その一つ。「夏王朝の遺跡発見」という短い記事です(昭和五十三年一月二十九日、朝日・読売新聞)。
『中国古代の伝説の帝王「禹う」の開いた夏王朝(紀元前二十一 ーー 十六世紀)の文化を解明する有力な手掛かりが見つかった』という書き出しで、二十七日の光明日報(中国)の報道を伝えています。ところは河南(かなん)省登封(とうふう)県告成鎮(こくせいちん)付近。あの「禹県うけん」と名づけられた土地からほど遠からぬところ。洛陽(らくよう)の東南です。
やがて詳報がもたらされることと思いますが、かつて架空説に立つ学界の手によって葬(ほうむ)り去られていた古代王朝はよみがえり、『史記』『漢書』の記事が虚偽でなかったことを実証しつつあるようです。
しかも、この古代文明の発祥に先立つこと、八千年。すでに“世界最古級の土器文明”が日本列島に誕生していました。こう考えてみると「中国海」をはさむ両者の早くからの交渉、それはむしろ必然の現象だと言えましょう。
昨年から今年にかけて、わたしがドキドキしながら発見してきたこと、それらはやがて万人の常識となる日が来るでしょう ーーわたしはそれを信じます。
その二つ。このほうは、一見古代史とは縁がなさそうな記事ですが、東京の衛星都市の一つでの事件。六歳の自閉症児が道に迷って歩き疲れ、くるぶし付近まで水につかった様子で、工場の跡地で凍死していたというのです(昭和五十三年二月五日、朝日新聞)。
この記事は、なぜかわたしにあの『三国志』の一節を思い起こさせました。東沃沮(よくそ)の海岸に流れつき、“食わずして死んだ”というシャム双生児の運命を。三世紀から二十世紀まで、一条のかすかな線がつづいている。わたしにはそのように感じられたのです。
荒波に流されゆく不幸な葦舟(あしぶね)。それはわたしの観測基点のすえられている場所です。そこから見える古代日本丸の航跡図を正確にしるしとどめる。それがわたしの願いでした ーー葦舟がきりはなされることのない、未来の日々のために。
この本を書き終えた今、海の彼方から新しい太陽がのぼってきます。たったひとりの考古学への挑戦。わたしは求めゆくときめきの中で、まぶしく光のあふれる暁を迎えようとしています。
昭和五十三年四月七日
著者(古田武彦)
ミネルヴァ日本評伝選 『俾弥呼ひみか』(目次と関連書籍) へ
倭(ヰ)人と蝦(クイ)人(古田史学会報52号)