三章 古代先端技術ハイテク列島・日本 古田武彦 『吉野ヶ里の秘密』光文社

古田史学会報
2002年10月 1日 No.52


古田武彦 懇親会 二〇〇二年一月十九日 於:大阪北市民教養ルーム

倭(ヰ)人と蝦(クイ)人

 どうも本当に昨年以来というか、それ以前から皆さんに言葉につくせぬぐらい大変なおかげを蒙りました。ですから私の元気のもとは、そういうことではないでしょうか。皆さんの質問に答えることなしに、今日の研究の発展はありえない。本当にそう思っております。
 それでは永年の懸案が、いちおう私なりに今回解けてきた問題を二・三言わせていただきます。
 倭人、とくに西日本を中心とした倭人の問題ですが、縄文の黒曜石の分布が倭人問題を考える一つのポイントではないか。黒曜石の原産地としては島根県の隠岐島の島前や信州の和田峠であるとかたくさんありますが、我々が知っているもので有名なのはやはり西の佐賀県唐津の腰岳の黒曜石ではないでしょうか。西の弥生の倭人の原点に考えてよいのではないか。このようなイメージが一つある。ですから黒曜石の分布をしっかり調べなければならない。ただ韓国あたりでは、あまり言いたがらない。出土していても言わない。韓国へ行きましたとき、光州の博物館でも黒曜石の鏃が展示してありました。その黒曜石の鏃(やじり)は、私にはどうも腰岳のものにしか見えなかった。しかし書いてないから分からない。それで博物館の学芸員に聞いてみましたら、そのとおりだと返事をいただきました。しかし公式には書かない。そのような事実(日本産の遺物が韓国にあること)を嫌っているように見える。しかし学問ですから、そのようなことは遠慮なしというか、ナショナリズムなしで展示すればよいと思う。ですからしっかり韓国における黒曜石の分布図をはっきり示してほしいと思う。
 こんどまた島根県の隠岐島の黒曜石も、お隣である新羅側でも見つかっています。我々はそのような分布図を持っていない。そのようなしっかりした分布図を持たないことには、このような問題を明確に解決できない。そのように考えます。
 それに関係したことを言いますと、朝鮮半島とくに半島の南半分・韓国部分は倭人がもとから住んでいたわけです。それに対して騎馬民族が北から来ました。高句麗から来た。そして支配したほうが高句麗の分派、そして支配されたほうが倭人です。黒曜石の倭人です。ですから倭語が元からあるわけで、韓国の地名には簡単に言いますと高句麗語と倭語がミックスされています。そのことは考えればすぐ分かります。
 たとえば九州唐津(からつ)の「カラ」ですが、これも韓国では「ハン」と言いますが、「カラ」と彼らは発音しません。これは日本語です。明らかに唐津(からつ)も日本語だけど、韓(カラ)も日本語です。朝鮮半島南部が「韓(から)」です。これそのものが朝鮮半島南部に日本語地名が付いているれっきとした証拠です。「カラ」だけであるはずがない。
 私もなんどか言っていますが、同じく六百六十二年の白村江の戦。この「白村江」ですが、この場所はどこなのか。中国・朝鮮では、白村・江(ハクソン・コウ)と言っているので、この問題を解決できずにいます。なぜかと言いますと中国・朝鮮では江(コウ)と言いますと、揚子江と同じ河の意味です。しかし河に何百艘も集まって戦争は出来ません。それで中国・朝鮮では「白村江はあの江だ。この江だ」と、場所探しを永遠にしている。それで解決できずにいます。いくら論争しても答は出ずにいます。
 ところが日本側の『日本書紀』では白村江(はくすきのえ)という形で出ていますが、これは河ではない。たとえば「江戸」ですが、日本語では東京湾を「江」と呼んでいます。その戸口ですから「江戸」です。べつに隅田川を「江」と呼んでいるわけではない。ですから日本語では(東京)湾を「江(え)」と言います。
白村江の場合でも、半島と島々の間に挟まれた湾を「江(え)」と言います。そのような海域が「江(え)」です。ですから調べれば「白村」という地名の村もあると考えます。ですから「江(え)」は日本語である。それを中国・朝鮮は河の意味の「江(コウ)」と漢語に訳したために混乱してきた。このような例はいくらでもあります。
もう一つ今日の講演会でとりあげた柿本人麻呂の州柔(ツヌ)の歌です。(『古代に真実を求めて、第五集』収録)百済の都を「州柔(ツヌ)」と言いましたが、これも韓国側の記録には出てこない。周留城と言うのは出てきますが州柔(ツヌ)はない。しかし『日本書紀』をみると百済の都は州柔(ツヌ)です。この州柔(ツヌ)はあきらかに日本語です。港の「津 ツ」、野原の「野 ヌ」です。港に近いけれど海岸ではない。柿本人麻呂は、州柔(ツヌ)と百済の都を日本語で呼んでいます。ですから百済の扶余豊王は高句麗語で、周留城と呼んでいたのではないか。
このような問題は、数多く存在する。韓国の研究者は、そのような研究を行わないので、研究しても公表できないので、未開拓の問題がたくさんあります。
 私の考え方では、「倭」の発音は当時は「ウィ(wi)」ですが、やはり井戸の井(ゐ wi)であろう。ながらく考えてきましたが、やはりそれ以外にはない。海洋民族だと言ってみても、水がなければ生活できない。港の水のあるところ・井を原点にして、集結する。それで彼らを倭(wi)人と呼んだ。その呼び名ではないかと想定している。
 それに関連して本日の講演会では話しませんでしたが、多元の会・関東の機関誌四十七号に掲載しましたように神社の「鳥居」の件も大きな進展がありました。イメージが出てきました。
 それで鳥居について従来言われていた説明は、鳥が止まっているから「鳥居」で、中国雲南省に元祖があると言われています。これもおかしいのは、日本語で鳥が居ることを「トリイ」とは言わないことです。人が居ることを「ヒトイ」とは言わない。日本語という言葉としておかしいということです。それから鳥が止っている姿をきざんでいるのがほんらいの鳥居なら、これだけ日本中に鳥居だらけですから、鳥の形をきざんである木柱・石柱があっても良さそうなものだ。また堂々とした鳥の形をきざんである鳥居。鳥がたくさん集まっている形をきざんである鳥居。その他いろいろな鳥の形をした鳥居など。そして何もない鳥居もある。これだけたくさん鳥居があるのだから、そのような分布がなければならない。それが鳥の止まっている形の鳥居がない。日本人は鳥居だけ本来の姿をさっぱり忘れ去った。そのような説明は、理屈としてきれいすぎていかがわしい。それに鳥越憲三郎さんが書いておられる中国雲南省の鳥居を見ますと、日本の鳥居とピッタリするものがない。雲南省の鳥居は、棒の上に鳥の形をしたものがきざんであるものばかりで日本の鳥居にあたるものはない。それでこのような説には、うなずけずに今日まできた。
それで直接のヒントになりましたのが、日本海に面した京都府宮津市の籠(この)神社の祭礼を見学させていただきました時のことです。巫女(みこ)さんが舞ってくれ、その一段下で我々が見学していました。その区切りにある出来たばかりの木の柵があり、それが鳥居の形というか、よく似た形になっていた。中央が開いて両側が木柵という柵がありました。そうしますと、ここから上は立入禁止。はいろうと思えば別にすぐ入れますが、ここから先は入ってはいけない。「止まれ・stop」という意味のサインが、あの鳥居の形をした木柵の姿を示している。そうしますと「トリ」は、「止まる」という意味の動詞の名詞形が「止 ト」で、「里 リ」は吉野ヶ里の「里」のような場所を意味する単位の「リ」が組合わさったものではないか。長野県尖利石、福岡県小郷利など、そのような「リ」はたくさんあります。
ですから「トリ」は留まる場所となり、神聖なものがあるからここから先は入ってはいけない。ストップしなさいの意味の「トリ」ではないか。
 そうしますと「トリイ」の「イ」は井戸の「ゐ,ヰ,wi」ではないか。それで日本の神社の場合、入ったところに手を洗うところがあります。大概井戸があります。ヨーロッパや中近東では聞いたことはないが、そして現在では付属品扱いで、手を洗っても洗わなくともよいと考えられています。現在では水道が引いてある。しかし昔はそんなものはなかった。井戸・泉です。そうしますと井戸・泉は大変神聖なものです。それがあるから生活できる。これは人間が作ったものでなくて神様がくださったものです。もちろんじっさいは人間が掘るのですが、神様に準備していただいた、神様に与えられた神聖な泉です。これに対して、社(やしろ)は人間が作ったものです。建てたり壊したりできる。ですから今の我々は、社(やしろ)が神聖な本体で、手を洗うところ(手水場)を付け足しに考えているが、それは逆ではないか。本来は水のほうが神聖な本来の原点、神聖な井戸・泉。だからそこに神様がいる神聖な社(やしろ)を作った。社(やしろ)が付けたし、プラスアルファ。
 だから、そこに神聖な井戸がある。止まれ。そこに入ってはいけない意味の「トリ」、そして神聖な井戸がある。そういう意味の「トリヰ」を作ったのが、本来の姿ではないか。完全に論証をすませたわけではないが、このように考えると私としてひとつの納得ができる。
 おもしろいことにお隣の福井県若狭に天の御影神社という神社があります。そこでは神様が居られる社(やしろ)を井戸の真上に作ってある。そして井戸の水は隣の池に流れる。そのように掲示板に書かれてある。このような形が本来なのか、それとも、これが井戸を神聖視した一つの現れではないか。

 次はぜひお話ししたいテーマなのです。
 これは私が以前からながい間宿題にしていた「大山津見、大山咋(クイ)」の問題です。たいへんに多い祭神ですが、中心はどこだろう。それで最初の問題は「大山(オオヤマ)」です。この「大山」はどこだろう。それでながい間悩んでいました。関東で「大山」といえば問題なく神奈川県厚木市の大山(おおやま)です。しかしまさか大山が「大山津見、大山咋」のもとだとすれば、分布が西日本にありすぎる。また富士山も出てこない西日本びいきの『古事記』・『日本書紀』にも、「大山津見、大山咋(クイ)」はある。ですから、それで関東の大山では問題がありすぎる。ふさわしくない。それでながい間分からなかった。
 そのように問題意識をずいぶん前に持っていて、私が最初に目を付けたのが、島根県大山(だいせん)です。山の中腹にある神社に行って、「この山は、おおやまですか。」と聞きました。そうしますと「違います。大山(だいせん)です。」とにべもなくペケにされた。同じく祭神をたずねると「大国主です。」と言われ、これもガッカリした。ずいぶん各地を探したが分からず最近まで、この問題は保留していた。
 しかし最近分かったと思い考え直した。これは今から考えると「違います。大山(だいせん)です。」と言われ、そこでへたっていたのが間違いです。精神が幼かった。そのことに気が付いたのは「コノハナサクヤヒメ」の問題で、富士山を扱ったのが、ヒントになった。富士山の近くにある「コノハナサクヤヒメ」を祭っている浅間(せんげん)神社があります。この神社は静岡県から山梨県にも、たくさんある神社です。あれは考えたら、初めから「浅間(せんげん)神社」と自称していたはずがない。「浅間(せんげん)」とは漢語で、倭語のはずがない。とうぜん「浅間(あさま)神社」だったはずです。ですが近くの浅間(あさま)山を祭っているとまちがえるということもあるでしょうし、「浅間(あさま)神社」では威厳があるように聞こえない。「浅間(せんげん)」と漢音で発音すれば威厳があるように聞こえるし、日本人の中国崇拝の雰囲気に合わせられる。それで「浅間(せんげん)神社」と名乗ることにした。
 同じく近くの日蓮正宗のお寺である大石寺(たいせきじ)も、このお寺のお堂を建立するとき、地下から巨石が出た。大きな石をクレーンで吊り下げている写真が残っている。あの巨石を言っている。これも本来は大石があるところと伝承されてきたから、本来は大石寺(おおいしでら)である。(懇談会参加者よりー近くに大石ヶ原という地名もある。)これも漢語であり、威厳があるように聞こえるので、大石寺(たいせきじ)と読み替えた。
 そういう考え方で、大山(だいせん)を考えてみますと、初めから「大山(だいせん)」と言ったはずがない。縄文時代から「大山(だいせん)」と言ったはずがない。これも漢語です。それに縄文時代に名前がなかったはずもない。とうぜん「大山(おおやま)」と言ったはずです。それをある時期から漢語によみ替えた。おもしろいのは漢音でなくて呉音で表現していることです。「サン」でなく「セン」ですから。ですから「おおやまですか。」と、尋ねますと「違います。だいせんです。」と返事がくる仕掛けになっている。
 それと祭神が大国主であるので、よけいにガッカリした。三十年ほど前、大国主探求に行った最初のころ石見の国、そこに大国村があります。そこで旅館に泊まった。そこでは旧家が一軒だけ旅館を営んでおられた。そこの家は、「あの方は賊に追われて逃げてこられました。私の家でお匿(かくま)いした方でございます。」と答えられ、そういう家の伝承を誇りとしている家があった。
 別の郷土史に詳しい方に紹介されまして、お聞きした伝承では、「あの方には、私どもはたいへん迷惑致しました。大変女好きな、あちこちの村の女を従わしては、それを元に勢力を張る。そういうことがひじょうに上手な方です。それでわれわれ村の者はたいへん迷惑いたしました。」と言われ、私が「大国主は、この村の方ですか」と尋ねると、「いえ、いえ!この村の方では決してございません。よそからお出でになった方で御座います。」と答えられ、とんでもないことを言う、そのような応答だった。
 再度、「よそと言われるがどこですか。」と尋ねると、「それは、どこから来られたか分かりませんが、村の方では決してございません。」と奇妙な問答をかわした。まるで戦国時代としての、弥生の秀吉の話を聞いているように感じた。そういう浮き名を現在まで流している。
 それでこの時に分かったことは、大国主のイメージは、小学校いらい学校で習ったイメージとはたいへん違っている。よそからやって来て、機知才覚で、女たらしを政治手腕の道具に使って、アッという間に勢力を拡大していった。そして乱暴でかつ頭のよい、はしこい奴である。そういうイメージで、この村では語り伝えておられる。そうだったのか。はじめて、古代史を見る目が変わってきたという経験をした。
 そういうことがありますので、島根県大山(だいせん)の祭神が大国主なので、がっかりした。しかしこれは私の、ものを見る目があさかっただけの話です。『古事記』にもある有名なワニ鮫の話(因幡の白兎)。いわゆる八人の兄さんたちと一緒に行った。そこに兎が出てきてワニ鮫に皮を剥がれた。それを治そうと、八人の兄さんたちが、塩水が良いとか、こうしたら良いとか、教えてくれた。兎がそれに従ったら、余計にひどくなり泣き叫んでいた。一番最後にやってきた大国主が、ガマの穂にくるまったら良いと教え、従ったら治った。この話です。私も小学校でこの演劇をやらされたことがあります。
 次に島根県大山(だいせん)へ行って驚いたことは現在でも薬草の山である。あらゆる薬草が揃っています。そのように宣伝でしょうが言っています。そのたくさんの薬草があるということは、大国主いぜんの、それぞれの薬草の神様が多数居られた。八十神がいます。ところがその薬草の神様はインチキだ。これらの神様はダメである。一番薬草が効くのは、大国主の薬草である。これからは新しき女好きの弥生戦国の秀吉・大国主の時代だ。そういう大国主のコマーシャルの説話です。そうは考えていなかったけれども、考えてみるとそのような話です。つまり大山(だいせん)と多くの関わりを持った説話です。そうしますと大国主以前に、たくさんの薬草の神様が居られた山であり、それはとうぜん大山(おおやま)です。大山(だいせん)ではなくて、大山(おおやま)です。
 その大山(おおやま)の主神が「大山咋(おおやまくい)」です。その「咋 クイ」と言いますのは、北方の大河である黒竜江の下流にいた蝦(クイ)族の問題と連なっていると考えます。その蝦(クイ)族の人々については、萩原真子(おぎはら しんこ)さんという方の非常に優れた論文があります。
(小論「アムール下流域の『クイ』に由来する氏族について」『フオクロア』第三号、ジャパン・パブリシャーズ刊、一九七八年一月、所収、当時は旧姓小川。国際商科大学<現、東京経済大学> ー古田武彦『真実の東北王朝』駿々堂参照)
 その方が埼玉の国際商科大学に在籍時発表された論文、これが非常に印象に残っています。それは蝦夷(えみし)・蝦夷(えぞ)という字に、共通に「蝦(カイ)」という字が書いてあります。これの意味を分析されまして、これは蝦(くい)族の蝦(クイ)が元になっているのではないかと論じておられる。私はこの考え方が、ひじょうに筋が通っていると考えています。
 以下は私の理解です。「蝦(カイ・クイ)」と言う字には「虫」編が付いていますが、その「虫」編を取ると「遥(はる)かなる」という意味になる。倭人は東夷ですが、中国人は東夷を知っています。それよりもっと東のそれより遠方の遥(はる)かなる東夷という意味を込めて、「蝦(カイ・クイ)」という字をあてた。中国人らしく非常にうまい文字使いです。これには原音が必要ですが、中国人は「クイ kui」という音を元にして、「蝦(カイ クァイ、kui,kuyi)」という音を当てた。
 その「クイ」ですが、たくさん日本列島に出てきます。青森県の名久井岳、青森から見ると一つの山ですが、岩手から見ると二つに見える。男女陰陽の山。その麓(ふもと)の八戸から広大な縄文遺跡が出てきた。
 その次が上九一色村。これも元の字地名は「上クイ」があります。北陸には羽咋(ハグイ)。神武の奥さんの親父さんがいた大阪の高槻の三島溝[木厥](ミゾクイ)。岡山に行きまして鯉喰(コイクイ)神社がある。鬼であるといわれた温羅が鯉に変身し流れに身を隠したという地名説話。九州に「クイ」がないという話もありましたが、『明治前期字地名調査票』(ウマニ書房)を見ますと、かなりあります。それで全国にかなりの「咋 クイ」がある。
(聴講者ー福井県の「フクイ」もあります。)
 福井もそうですね。「福」という字は漢語です。字に騙されています。フク・イではなく、フ・クイですね。
 この「クイ」は明らかに天皇家以前の称号です。天皇家が「クイ」を任命したという記録はない。これらの「クイ」は、「大山咋」の「クイ」です。「大山咋(おおやまくい)」という神様はひじょうに古い。『古事記』・『日本書紀』という新しい段階の神様ではない。
 
 それに対して、近くて違う段階の神が「大山津見」です。「ツミ」は港の「津 ツ」と女神の「神 ミ」です。これも縄文の女の神様です。島根県大山(だいせん)へ行きますと、湾が入り込んでいまして、船が泊まるには非常に港だ。そういうことを確認してきました。そこの港の神様が「大山津見」です。そして山自身が「おおやま」です。それで、ながらくの疑問がいちおう解決した。
あと行うべきことは大山津見・大山咋の分布を『神社名鑑』など調べて確認しなければなりませんが。三島水軍も大山津見です。それに神護石の一番東の端の山口県岩城(いわき)山の中にある神社も大山津見です。
(聴講者ー鳥海山も大山津見。山王神社も大山咋。日吉神社も大山咋。日枝神社も大山咋。村上水軍も大山津見。)
 このように大山津見・大山咋がつぎつぎ思い浮かぶ。ですから大山津見・大山咋は凄い勢力です。
 それでもう一度活用しなければならないと考えていますのが、『東日流外三郡誌』です。秋田孝季が津保化族の方言などを書き込んでいますので、秋田孝季は言語学的な関心があって、ずいぶん書き込んでいます。それらを一度見直して活用すれば今までの狭いものの見方を、乗り越えられるのではないか。

 これと似た問題を述べますと、金達寿(キム ダルス)さんという方が、日本語の中に朝鮮語で説明できるものがある。そういうことを言われてショックを与えた。二・三十年前ですがそれに従って日本語は朝鮮語で説明できるのだと考える人たちもいる。非常に興味深い提起であり、言語に対する興味深い関心を与え、有効なショック療法であった。しかし金達寿さんが言われていることが本当であるかと言うと疑問が多い。本当でないことがたくさんある。例をあげますと、「ウリナラ」。これは韓国語で「我が祖国」という意味である。奈良県に「ナラ」が有るが、韓国語である。日本人が知らないだけだ。朝鮮から来た帰化人が奈良県である大和に住んでいた証拠である。最初の頃言われて、後何回も言われている。しかし私の理解では、これは残念ながらペケである。
 なぜかというと日本語の方では「ナラ」という地名はやたらにある。字地名などでは何度も出てくる。このあたりでは奈良県のナラだけではなく、有名な銅鐸の出土した東奈良遺跡のナラもある。福岡県でも小銅鐸が出てきた所をナラと言う。日本中ナラだらけ。
 なぜかと言うと簡単な話で、「均す ナラス」という動詞がある。日本ではだいたい山地が多く、初めから平野である所はほとんどない。だから住もうと思えば山地を平らにして均さないと住めない。均した所を「ナラ」と言う。つまり動詞と名詞がセットに成っている。ところが韓国語では「ナラ」という名詞はあるけれども、「ナラス」という動詞は韓国語にはない。ところが日本では均したところを、銅鐸が出土したような所を「ナラ」と言っているように、動詞と名詞がセットに成っている。私は動詞と名詞がセットに成っている方が主で、成っていない方が従であると考える。つまり韓国語で言っている「ウリナラ」の「ナラ」というのは日本語である。こう言うと怒る方が居られるが、いくら怒っても仕方がない。学問にイデオロギーを持ち込むのは間違い。そうなる。
 これも言い出すと、面白すぎて色々ありますが、時間の関係で途中の論証を省いて述べますと『山海経(せんがいきょう)』という中国周の時代の末期に当たる戦国時代の本があります。日本で言えば縄文晩期に当たります。その中に今の平壌(ピョンアン)あたりに蓋国(ガイコク)という国があった。その南側は倭である。こういうことが書いてある。つまり倭人が居た。
 日本では縄文時代晩期に当たる。事実、韓国の光州の博物館には日本の縄文土器とそっくりの土器が展示してある。韓国の学芸員に確認したが、九州の轟(とどろき)・曽畑式土器であるとはっきり答えられた。この土器がどっちからどっちに行ったかは別にして、韓国光州と九州熊本付近に同じ土器が存在することは疑いがない。山海経の記録には倭と書いてある。こういうテーマがある。

 山海経、海内北経。蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り、倭は燕に属す。

 このことは別の方から、韓国の史料からも言える。『三国史記』に書いてありますが、高句麗の建国の英雄、中国式には朱蒙という人物が居ます。その高句麗の初代王の第二夫人が、第一夫人にいじめられて長男・次男を連れてソウルあたりに来て、百済という国を造ったと書いてある。有難いことに年代が書いてある。紀元一世紀です。そこに居た人間を支配して救ってやったのだ。そういう言い方をしている。初め「十済」と名乗る。「十姓済民」、十の姓を持つ民を救ったから「十済」と称した。それが後に百の姓を持つ民を救ったから「百済」と名乗った。「救ってやったのだ。」というのは、要するに征服支配した。それを征服者側から言っている。
 日本人が百済を「ヒャクサイ」という言い方をしないで、「クダラ」というのは、「百済(くだら)」は日本語だと考えています。「ら」で終わる日本語は多い。羅(ら)は村(むら)空(そら)の「ら」である。「くだ」は、果物の「くだ」。豊かなという意味だと思う。「くだら」は「実り多き豊かな土地」という意味だと考える。「くだらん」はそれの否定語。とにかく倭人が居たところに、BC一世紀に騎馬民族が侵入して百済が出来た。倭人が居たら倭語が使われていなければおかしい。
 わたしは「ウリナラ」の「ウリ」は間違いなく騎馬民族語であると考える。なぜかというと「ウリ」は「私の」という第一人称の所有格。これを征服者が被征服者の言葉で自分のことを言うとは。そんな馬鹿な征服者はいない。絶対に自分のことは、自分の言葉で言う。「ウリ」は本来の騎馬民族語である。もし「ナラ」という言葉が騎馬民族語の「ナラ」なら一番目には集安(高句麗の主都)を指さなければならない。あるいはもっと北から騎馬民族が来たのなら、その故郷である中央アジアを指し、そう呼ばなければならない。「ウリナラ」は必ず現在の朝鮮半島を指している。 つまり「ナラ」は倭語である。
 元に戻り、「ナラス」「ナラ」とセットに成っている方と、成っていない方がある。こういう場合は、セットに成っている方から、セットに成っていない方に伝播したのである。こう考える。朝鮮から日本に伝播したものもあるし、お互いに影響し有っていても、一向にかまわない。だいたい海峡は隔てていても近いのから、あちらからこちらに影響しても当たり前であるし、逆にこちらからあちらに影響しても当たり前で、何の不思議もない。当たり前だ。その当たり前の話をしているだけである。この当たり前を戦前はもちろん戦後もやらずに来た。この研究を今から行わなければならない。


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