古田史学会報
2002年10月 1日 No.52
古田史学会報五十二号 |
発行 古田史学の会 代表 水野孝夫
新・古典批判「二倍年暦の世界」2 仏陀の二倍年暦(後編) 京都市 古賀達也
『神武が来た道』に思う 生駒市 伊東義彰
「五月(さつき)様が……!?」
天若彦(あめのわかひこ)は元より、姉妹も棒立ちになる。楠の梢から洞窟へ吸い込まれた星とは、五月の事だったのか……楠は木の国(現佐賀県基山付近)ではありふれた植物だし、五月と滾(たぎつ)は大屋彦の養女になっているのだから、それは判る。しかし、太陽をかき消す程星がぶつかり合うとは……?
「どうしてそんな……?」
詰め寄られて兵士は、
「未(ひつじ)の国(午後二時)に五月様は木の国の小舟を一艘仕立てて沖津ノ宮へ乗り込まれ、二度とここから出ないと申されて岩屋へ閉じ籠もってしまわれたのだそうです。突然の事で多紀理(たきり)様もお弱りで、とにかく巫女方は至急用意を整え、沖津ノ宮へ向かうようにとのお妃様の御命令です。太陽が不意に雲隠れしたのは五月様への神のお怒り、とお后様の太占(ふつまに)には表れたそうでございますから。」
途方に暮れた顔で答えた。
豊秋津妃(とよあきつ)の命が下ったからは、姉妹もいつまでも固唾(かたづ)を飲んではいられなかった。理由はどうあれ、一刻も早く太陽を呼び戻さねばならない。
沖津ノ宮は北に対海(つみ 対馬)、西に一大(壱岐)、南に木の国、東に天一根(あまつひとね 姫島)を控えた天国のほぼ中心に当たる。大屋島と小屋島の二島から成り、聖なる宇宙神天御中主(あめのみなかぬし)を祭る所として「お言わず様」─滅多にその名を口にするのも阻かられる、と畏敬されていた。そこへ、五月が闖入(ちんにゅう)したというのだ。五月と滾は大屋彦との養子縁組を神々に託した身、天国から見れば今は他処者(よそもの)だ。加えて、沖津ノ宮の巫女長多紀理は八千矛(やちほこ)との子を妊(みごも)り、安静にしていなければならない体の筈だ。誓いを破り、聖所を荒らしたとあっては、神が怒るのは当然だろう。
(五月様、一体どうされたのです? あなたが追って行こうとされた「風」とは、何を意味するのですか……?)
麻羅(まら)の一族の灯す松明(たいまつ)を掲げた舟行列が闇の海上をよぎって行く間中、鈿(ウズめ)は亀甲文様の謎を解明し切れない自分の非力に歯がみし続けていた。
舟が「門」に当たる小屋島を回り、沖ノ島の浜辺に着くと、鳴女が真先に飛び下りた。だが、仄(ほの)暗い中で狙いが狂ったのか、鳴女(ナキめ)は汳手にのめって転倒してしまった。白衣の裾が大きくめくれて頭に被さり、枯れ木のような両足が砂に突っ立つ。
舟子(かこ)達は緊張を破られ、
「無理すンなよ、婆さん。」
「そういうのを年寄りの冷や水、てんだ。」
「幾ら神様でも、梅干しの捧げ物(モン)は喜ばねエぜ。」
一斉に嘲笑を浴びせかけた。
「ええい、うるさい! わしゃ、五月様の乳人(めのと)じゃ。あの方を説得出来るのは、わししかおらんのじゃ!」
鳴女はどなったが、砂埃(ぼこり)に咳き込んで言葉もろくに聞き取れない。
「どうぞお入り下さいませ。」
多紀理の侍女が呼び、鈿女らは腰の痛さに呻いている鳴女を舟子達に任せ、岩屋への坂を登って行った。沖津ノ宮は原則として男子禁制なので、水夫達は「門」まで巫女(みこ)達を送り届ける事しか許されない。
鈿女らは多紀理の侍女の案内で、まず岩屋の傍の入江で身を清め、巫女かんなぎ)の印の青と白の元結いで髪を結び上げて背に垂らし、白衣に真紅や黒、沈金の襷(たすき)と袈裟を着ける。袈裟は天竺(インド)の神官の着ける物だが、倭地でも祭儀に用いられるようになっていた。
岩屋正面には多紀理の従者達が榊(さかき)の枝々に紅白や青の旗をなびかせ、無数の松明に磨き抜いた銅の鏡が厳かに光り、臙脂(えんじ)や橙(だいだい オレンジ色)、深緑の勾玉(たま)が透明な燦(きら)めきを放っている。見るからに力のありそうな兵士二人が頑丈な大樽を並べたて、両脇に腰を下ろした。笛や太鼓を抱えた伶人(れいじん 楽士)
の一団も彼方に見える。巫女(みこ)達が舞い始めたら、すかさず合いの手を入れる積もりらしい。
が、いかにも待ち構えていたといわんばかりの物々しさは、逆に若い巫女達を圧倒してしまった。
「あなた、踊りなさいよ。」
「いいえ、お先に……。」
小声で譲り合っていると、
「時間がないんだ。誰でも良い、早く祭壇に上がれ。」
王族の代表としてついて来ていた天若彦が、丁度前にいた巫女の背中を突々いた。それは鈿女だった。天若彦に切っ先で小突かれるのは、命令されたに等しい。
(父祖の御霊(みたま)、お守り下さい──!)
鈿女は、襷代りに肩にまとった母の形見の領巾(ひれ)をかき合わせ、樽の舞台に跳ね上がった。
タン、タン、タン、タタン! タン!
爪先が、小気味よく板を踏み鳴らす。笛や太鼓が、一斉に樽の響きに和した。
白百合の花束のような幣に榊の青葉がまつわり、散り零れる。黒髪が跳ね踊る度に白衣や袈裟がずり落ち始め、艶(つや)やかな首筋やはだけた胸の膨らみ、太腿や腰のうねりが妖しく人々の目を射る。黄金(こがね)色の肌に鴇(とき)色の領巾は悩ましく絡みもつれ、ちりばめられた螺鈿(らでん)が汗の滴さながら乙女の裸身を燦(さざ)めかせる様は絢爛(けんらん)たる観物(みもの)だった。
篠(しの)つく雨が大地を潤し、雲が切れて日が射し、暖かい靄が一面に立ち昇る。天にも地にも物のうごめく気配が漲り、風が吹き、緑が芽吹き、草木が生い茂り、花々を巡る虫達の羽音が大気を震わせる。鳥がさえずり、鹿も狼も猪までが地を駆け、生命の息吹は地平の果てへと広がって行き、若い水神が花の乙女を誘う。日光の女神が樹木の精に愛を囁く。闇に覆われ、霧に閉ざされ、死に絶えていた世界に明るさが満ちたのだ。太陽こそは生命(いのち)の源、万物を育(はぐく)み、寿(ことほ)ぐ「神」だ。蘇(よみがえ)り給え、太陽よ。我が母の名にかけて、大地の子らを憐れみ、偉大なる宇宙神(アメノミナカヌシ)よ、汝の息子、気高き曽富理(ソホリ)を返し給え──
(良いぞ、鈿女。その調子だ。)
天若彦は心の中(うち)で激励しつつ、剣を抜き放った。刃(やいば)が凄味を帯びて、闇に無数の光りの輪を弾(はじ)く。
それを合図に他の巫女達も踊りに加わり、伶人達が足元に置いた籠の中で東天紅(とうてんこう 鶏)共も、
「けけろう!」
「けけろう!」
と、羽ばたき始めた。
どよめきは岩屋の奥へも達したとみえ、
「うるさいわねえ。眠れやしないじゃないの……!」
五月と覚しい癇性(かんしょう)な声が、鈿女の耳を刺す。
(今だ!)
鈿女は素早く兵士らに向かい、幣(ぬき)を打ち振った。
兵士らは勢い良く岩戸に飛びつき、僅かな隙間に手をかけて力任せにこじあける。
「な、何をする!? 無礼者──!」
五月はうろたえたが、男の力に叶う訳はない。左右から腕をつかまれ、祭壇の前へ引きずり出された。
けけろう、けけろう、けけろうと喚き立てていた東天紅が揃って、
と、首をもたげる。
途端に、日輪が闇をつんざき、樽の上に片膝突いて背をそらせ、両手を掲げた鈿女の頭上に赫々(あかあか)と眩いた。 (完)
会員からのお便り
福岡市 大原和司
昨日はお疲れ様でした。
昨日お話した「年に二度の正月」の痕跡を、あれから探してみました。その結果、旧7月15日、つまり今の「盆」が、二回目の正月であったと思われる痕跡が多く見つかりました。(これって、いまさら「発見」するようなこと
ではありませんか?)
痕跡を大きく分けると以下のようなものです。
1).7月15日、つまり盆を「正月」と呼ぶ地域がある。
2).正月と盆、およびその前後の行事にさまざまな類似、対応関係がある。(春の正月も、もとは1月1日ではなく、1月15日であった痕跡がある)
1).お盆を「正月」と呼んでいた痕跡は以下のとおりです。
1. 大分県姫島では旧正月を「春正月」、盆(旧7月)を「秋正月」といい、前者は米の餅、後者は 麦の餅を食べる
http://contest.thinkquest.gr.jp/tqj1998/10089/page2/kokuritu-12.html
2. 長野県伊那など:盆の時期を「盆正月」と呼ぶ。
http://www.shinmai.co.jp/kanko/saijiki/00032.html
3. 奄美大島では、「夏の正月」を祝う風習がある。ただし、旧暦8月。
http://www.minaminippon.co.jp/bunka/nantou/0809.htm「南島雑話」名越左源太
2).正月と盆及びその前後の行事の類似、対応関 係は以下のとおりです。
(1)前月の末:祓い、清めの神事。
1. 12月末:年越しの大祓(多数)と節分
2. 6月末:夏越の大祓(多数)と半夏生(野菜類を食べることや労働などを禁ずる物忌みの日)
茅の輪くぐりなども共通する
(2)7日:祓い・みそぎに関する祭り。
1. 1月7日:七日正月、七草(多数)、鬼火(久 留米など各地)等の祭り
2. 7月7日:七夕(祓いと迎えの行事が全国多 数)
http://www.tanabata77.com/jp/whats/nihon.html
(3)15日:(もともとの正月)火を使う祭り
1. 1月15日:どんど焼き
小豆粥を食べるのも、正月の名残か
2. 7月15日:送り火
(4)16日:閻魔参り
1. 1月16日:初閻魔
2. 7月16日:閻魔の大斎日
ともに、「薮入り」(帰省)という習慣もある
(5)その他の正月と盆の行事の類似点
1. 正月:門松、灯明、餅
2. 盆:盆花、迎え火、餅
以上です。
ネットで調べただけなので、原典に遡っていないところが気になりますが(どういう本を読めばいいんでしょうね)、なにか研究のお役に立てますでしょうか?
小金井市 斎藤里喜代
『続日本紀』の太安萬侶に関する記事は次の五つのみである。
一、(七〇四文武)慶雲元年(甲辰)春正月 癸巳(七日)、正六位下太朝臣安麻呂に 並びに従五位下。
二、(七一一元明)和銅四年(辛亥)夏四月 壬午(七日)、詔して文武百寮の成選の 者に位を叙したまふ。正五位下太朝臣 安麻呂に並びに正五位上。
三、(七一五元明)霊亀元年(乙卯)春正月 癸巳(十日)、正五位上太朝臣安麻呂に 並びに従四位下。
四、(七一六元正)霊亀二年(丙辰)九月乙 未(二三日)、従四位下太阿さん安麻呂 を以て氏長と為す。
五、(七二三元正)養老七年(癸亥)秋七月 庚午(七日)、民部卿従四位下太朝臣安 麻呂卒しぬ。
この五つのみであり、表記は全て「安麻呂」である。
「氏長」とは氏上とも書き朝廷が定めた氏の長をいう。氏上は氏神を祭り、氏寺を管理し、氏人の改賜姓を申請した。と新大系本『続日本紀』補注1・四七にある(編集部注:岩波新日本古典文学大系)。
「民部卿」とは民部省の長官で、民部省とは律令制の八省の一主計寮・主税寮を管し、戸籍・租税・賦役など全国の民政・財政を担当。と広辞苑にある。
この様な政府高官のエリートたる太朝臣安萬侶に元明天皇が(七一一)和銅四年九月十八日にした古事記撰録の詔と和銅五年正月二十八日の古事記の献上が『続日本紀』にはカットされている。
さらに『弘仁私記序』は「夫れ日本書紀は一品舎人親王・従四位下勲五等太朝臣安麻呂等、勅を奉じて撰した所也り」とあり、天慶六年には「勅、一品舎人親王・従四位下太朝臣安麻呂等、俾撰日本書紀」とある。
しかし『続日本紀』の日本書紀完成記事には太朝臣安麻呂の名がカットされている。なぜであろか。安麻呂が九州王朝出身の為ではないか。
私は安麻呂・安満・安萬侶と名前の表記が違うのは複数の別資料からの引用だと思う。そして古事記序文の「正五位勲五等太朝臣安萬侶」は自署名であり、墓誌銘の「従四位下勲五等太朝臣安萬侶」は多朝臣(太朝臣)一族の正式の署名であるとおもう。
「太」字は近畿王朝では「太宰府」にも許されなかった文字である。九州では今日でも、官公庁関係は「大宰府」、地元では「太宰府」と争っている。
「太氏」も安萬侶の登場までは「多氏」であり、宝亀元年十月以後再び「多氏」に戻ると『続日本紀』補注3・三〇にある。
私は「多氏」ではなく「太氏」が本当の字ではないかと思っている。そして「安萬侶」の「萬侶」表記も、九州王朝ではざらにあった表記ではないかとあたりをつけた。
「太朝臣安萬侶の出自は九州王朝」という仮説をたてたのだ。しかしそれは意外にも簡単に証明できたのだ。
「(六六一年)九月に、皇太子、長津宮に御す。織冠を以て、百済の王子豊璋に授けたまふ。復多臣(おほのきみ)蒋敷(こもしき)の妹を妻す。乃ち大山下狭井連檳榔・小山下秦造田来津を遣して、軍五千餘を率て、本郷に衛り送らしむ。是に、豊璋が國に入る時に、福信迎え来、稽首みて國朝の政を奉て、皆悉に委ねたてまつる」
私は、この皇太子は近畿王朝の称制の皇太子天智では有り得ないとおもう。
人質の百済の王子に軍五千餘を付けて、百済の王にしてしまえるのは九州王朝の天子の留守を預かっている九州王朝の皇太子以外に有り得ないであろう。
そして腹心の部下の妹を百済王となる豊璋に妻としてスパイがわりにつけて、送るのも天子の留守を預かる全権を委ねられた皇太子以外に有り得ないであろう。
この六六一年という年は九州王朝の敗戦の白村江の戦いの一年前である。多臣蒋敷(こもしき)は和州五郡神社神名帳大略注解に引く久安五年多神社注進状には、太安麻呂の祖父とする(岩波日本文学大系『日本書紀・下』三五三頭注)。
従って太安麻呂は九州王朝の出である。
一、名前のお国柄
アルパチーノというハリウッドの俳優がいる。字面からはっきりとイタリア系アメリカ人であることがわかる。黒髪で顔もローマの壁画から抜け出てきたようだ。彼はデビュー当時はアルパシーノと名乗っていた。
また俳優から米大統領になったロナルド・レーガンも俳優時代はリーガンと名乗っていて、大統領になった時、故郷の親族の人々にレーガンと発音するのが正しいことを確かめて以来、レーガンと名乗った。
太朝臣安萬侶も自署名と親族が書いたであろう墓誌銘が同じなのだから正式名であろう。
二、呉氏の暦法
そして、洞田一典氏が「『太安万侶墓誌』干支の謎を解く」『新・古代学第六集』で明らかにした「墓誌の日付の干支」養老七年十二月十五日乙巳が「続日本紀の暦法」に一致せず、呉の孫氏の用いていた乾象暦にのみ一致することも、太安萬侶の出自が九州王朝の南の方の出であることを示している。
九州王朝出身の太安萬侶は「古事記・日本書紀の作者」という名誉を捨てさせられ、出世という実を採らされたのでは無いだろうか。
(二〇〇二年八月二〇日記)
古田史学から見た『新しい歴史教科書』志賀島の金印の読み方 京都市 古賀達也
泉南郡 室伏志畔
大阪での古田武彦講演会の後の懇親会で、私は「九州の天照神社の祭神は饒速日命(ニギハヤヒ)なのに、対馬の阿麻氏*留神社の祭神を天照大神にしていいのでしょうか」と疑問を呈した。
それは、このところの古田武彦の研究が、天孫降臨と神武東征を再論証する「天照実在」と「神武実在」の論証となって現れ、ここ三十年におよぶ倭国建国と大和建国過程の再確認作業が行われていることに関わる。この二つの論証は、倭国と大和国家の権力を性格づけるものだけに、その主体と舞台の確認は何にもまして重要だからである。
古田武彦は私がそれを饒速日命にしたことについて、「今後の研究課題とさせていただきます」とされたので、待つほかないが、私がなぜそうした疑問をもったかについては一言しておくべきかと思い、これを書く。
天孫降臨論は古田史学の白眉に当たる。戦後史学が顧みなかった天上からの邇邇芸命(ニニギ)の降臨神話を、対馬海流上の島々の亦の名が、例えば壱岐は天比登都柱で対馬が天之狭手依比売と天の一字をもつことから、そここそが天(海人)国だとし、そこからの邇邇芸命の九州への侵攻が天孫降臨であったとした。これは、これまでの天上からの荒唐無稽と思われた降臨神話を歴史に奪回し、それを海人族による征服事業とした。加えてその降臨地を、通説が南九州の宮崎や鹿児島に比定したのに対し、『古事記』の「竺紫の日向の高千穂の久志布留多気」とあるところから、それを筑前の高祖山連峰の糸島郡の日向にあるクシフル岳がふさわしいとし、それを「天照の反乱」とした。その根拠として、対馬の阿麻?留神社を「天照大神の原産地」とし、氏子総代の話から天照大神は「出雲の一の子分」に位置づけたことはよく知られている。
しかし記紀はこの天孫降臨の命令主体について、高皇産霊命(タカミムスビ)、あるいは高皇産霊命と天照大神の二人、また天照大神とする三説を載せているのは周知のところである。この三様の見解の背景に記紀の次の邇邇芸命系譜があった。
天照大神——天忍穂耳命
‖——邇邇芸命
高皇産霊命—萬幡豊秋津師媛
天孫降臨地の高祖神社の現在の祭神は天津日高彦火火出見命・玉依比売命・息長足姫命と皇神に関係ある神々を祭っているが、江戸時代までは社名は高祖比[口羊]神社(『筑前国続風土記附録』)あるいは高祖大明神社(『筑陽記』)とあり、高皇産霊命系の高祖比u´盗_が祭祀されていたことは確実である。これは天孫降臨の命令主体を高皇産霊命とするものであろう。それが後にねじられ天照大神側の功業となったのが現在の伝承である。
それは『古事記』にある「天邇岐志国邇岐志天津日高彦番能邇邇芸命」の冠詞の一部である「天邇岐志国邇岐志」を、私は美称として「アマニキシ、クニニキシ」と読むのを排し、「天のニキシの国のニキシ」とし、邇は美称、岐は壱岐、志こそが本貫を示すものと考えたところ、壱岐の一大国の跡地である原の辻遺跡から二、三キロのところに志原が現れた。原が源泉の意味をもつなら、志原こそ邇邇芸命の本貫の中心地ではないのか。それは邇邇芸命が何よりも高皇産霊命の天孫であることを示すものであろう。というのは、高皇産霊命の本源にある高御祖神社も壱岐にあり、別在する月読神社(祭神・月読命)と共に壱岐の箱崎八幡宮のあったという伝承(『日本の神々1』)を踏まえるなら、現在の有り様はその廃神毀社を語るものであろう。
この月神を祭祀する高皇産霊命の足跡は、私の幻視によれば、壱岐の月読神社(高御祖神社)→天孫降臨地の高祖神社→太宰府天満宮→筑後の高良大社と辿ったのである。それは倭国王の移動と別ではない。その高良大社は高良玉垂命を祭祀するが、その初代・玉垂命の御廟に隣接して月読神社があることを古賀達也は発見し、私の論理を首肯した。それは「筑後の高良大社も壱岐の月読神社も高神さんと呼ばれています」という灰塚照明の発見に恐ろしく重なっていくのである。つまり大和朝廷において天照大神を中心とする皇神(すめがみ)が闊歩したように、倭国では高皇産霊命系の高神が神統譜の中心にあったのだ。
遠賀川流域の六ケ岳を中心に物部二十五部人の地名が色濃く遺存するが、それに重なるように天照神社があり、祭神・天照国照彦天火明櫛玉饒速日命を見ることができる。それはこの地方の古物神社、剣神社、八剣神社が、いずれも物部系の剣信仰圏に関係していることから見ても、その妥当性を知ることができる。また筑後に目を向けるなら、その一の宮である高良大社もまた物部氏の深く関係し、同地の赤星神社は筑紫弦田物部の祖・天津赤星を祭祀し、また同地の伊勢天照御祖神社の祭神が天照国照彦天火明尊(饒速日命)であることを保証している。このように九州は天照大神の影なぞついぞ見ぬ、饒速日命信仰圏以外でないのである。それは物部一族が、「筑後国の三潴・山門・御井・竹野・生葉の各郡を中心として、筑前国では嘉麻・鞍手両郡・西には肥前国の三根・松浦・壱岐へとひろがり、東は豊後国まで分布する」(『日本の神々1』)という奥野正男の言に重なる。それは四国をへて近畿に及び、大和国にある鏡作坐天照御魂神社、他田(おさだ)坐天照御魂神社、新屋坐天照御魂神社、それに山城国葛野郡木島坐天照御魂神社の祭神もまた、奥野正男は饒速日命を祀るという古い伝承に行き着いている。
このことは物部氏が出雲の神裔であることは『先代旧事本紀』に明らかで、天孫降臨事件は、出雲の日神である饒速日命の支配地域外の筑紫に、高皇産霊命一族による月読信仰が入り、筑後で合体したことを語るものである。そして時経ってこの月神信仰に代わり、その傍系の一族が大和朝廷に至る支配を確立するにつれ、再び日神信仰が立ち上がったとき、かつての饒速日命信仰を剽窃しつつ、天照大神が立ち上がったのである。神宮司庁は天照大神を祭祀する神社を天照神社と呼ぶことなく、神明神社としていることによっても明らかで、それは現在、全国に一万五千社近く分布するという。
対馬の研究家・永留久恵は阿麻氏*留神社の祭神について、宝歴十年(一七六〇)の『対馬国大小神社帳』は「照日権現神社。祭神天疎向津姫神。右者旧号天照乃神社」としたが、これは伊勢の五十鈴宮の付会だとし、天明年間の著である『対馬州神社大帳』に「祭神対馬下県主日神命。又名天照魂命……高御魂尊之孫裔也。皇孫降臨之時供奉之神也」とあるのを著者・藤仲郷の見識を示すものとし、伴信友の『神名帳考証』にある「旧事紀ニ天日神命対馬県主等ノ祖トアリ。接スルニ高魂命ノ子也」と合わせそれを確認するものとしている。私はこの永留久恵の研究が、その祭神を対馬下県主の日神とし、高御魂尊之孫裔、つまり邇邇芸命を指すものとしたことを重くみたい。おそらく対馬下県主である邇邇芸命は日神を祭祀する役目にあったのだ。その祭神の亦の名・天照魂命をそこに拾うとき、そこに祭祀されていた日神は、やはり饒速日命とするほかないのではないか。
ところで古田武彦は先の『古事記』にある邇邇芸命の冠詞の一部である「天津日高彦番能」からその職能を、対馬の比田勝の港の海軍長官としたことは有名である。その比田勝の地名は、佐護茂久が宗賀茂との戦いにおける戦勝記念に、比田方(潟)を改めたものとする論証を灰塚照明は「九州古代史の会」のNEWS九五号で行っており、また『万葉集』にもそこを比多我多(比多潟)とする歌、「比田潟の磯の若布の立ち乱え吾をか待つなも昨夜も今夜も(巻一四 三五六三)」を拾っている以上、この古田説はもはや取れないのではないか。それよりもその「天津日高彦番能」を、天国の日神を警護するのが高皇産霊命の役目で、このとき、実際にその任に当たったのがその孫・邇邇芸命であったとした方がいいように思われる。このことが祭神を高御魂尊之孫裔とするに至った理由ではないのか。また永留久恵によって斥けられた『対馬国大小神社帳』にある阿麻氏*留神社の祭神・天疎向津姫神を大野七三は天照大神に重ねているが(『旧事本紀』)、古田武彦はこれを踏まえて言われたのだろうか。
私の幻視では、天国勢力の信仰は、天神信仰=饒速日命→天孫(高神)信仰=高皇産霊命→皇神(皇孫)信仰=天照大神の三つが、九州では複雑に重層しており、この共同幻想の改変を無視した九州王朝説は、やはり苦しく思われるのだが、どうだろうか。会員諸氏の批判を乞う。
(H一四.八.二八)
氏*は、氏の下に一。
「古田史学会報」論文採用基準を制定
編集部
古田史学会報は発刊以来、その名に恥じない好論を掲載してきました。これも古田先生を初めとして、寄稿して下さった会員諸氏並びに読者のご協力の賜と感謝しています。
他方、論旨や根拠が不明な論文があり、判りにくい、古田史学の学問の方法とは異質で会報掲載に相応しいとは思えない等というご批判の声も頂いています。
そこで、学術論文に関して採用基準を設け、読者に判りやすい紙面作りを進めることにしました。採用基準と要請事項は下記の通りですが、念のため付け加えれば、内容が古田説と異なったり批判していることを以て不採用となることはありません。あくまでも学術論文(歴史学)としての体を為しているかどうか、読者への配慮がなされているかどうかを問題とします。
ちなみに、これまではよほどのことが無い限り、会員の論文を不採用とはしてきませんでした。なお、エッセイ・文学作品・感想文・案内・紹介などにつきましては、この採用基準は適用されません。新人につきましては、これまで通り採用のハードルを低くするよう配慮します。
〔採用基準〕
1.冗長ではなく簡潔明瞭な文章であること(ページ数の制約から)。
2.新しい発見、新説が含まれていること。
3.論証の筋道が明瞭であること。
4.引用文献等の出典が明記されていること。著名でない出典については、刊行年・出版社名等が明記されていること。
5.他説を批判する場合、当該説の出典が明記されていること。
〔要請事項〕
1.難しい漢字や読みはルビをふってください。
2.ワープロ原稿はフロッピーも送付して下さい(パソコンに読みとれるフォーマットで)。
3.字数制限は特に設けませんが、長いものは『古代に真実を求めて』の方へご寄稿下さい。
4.内容によっては書き直しをお願いする場合があります。
以上の通りですが、要は読者が読んで為になる、判りやすい、再検証できるといった点に配慮していただきたいという事です。ご協力をお願いいたします。
古田史学の会・関西、新年懇親会(二〇〇二年一月十九日、於大阪)
倭(ヰ)人と蝦(クイ)人 古田武彦
中国の日本史研究者、古田説を評価
中国での日本史研究の第一人者、沈仁安氏(北京大学前教授)の著書『日本史研究序説』(二〇〇一年七月印刷)で古田説が紹介され、高い評価が示された。以下、紹介する。 〔編集部〕
古田武彦等の九州・大和「二王朝並立説」、これも伝統的観点に対する挑戦である。彼等の基本的観点は中国の歴史書に関係する倭国の記事:紀元一世紀に始まり、二世紀の倭国王帥升等、三世紀の邪馬台国、四世紀欠史の強国、五世紀の倭の五王、六世紀の磐井を経て、七世紀隋書のイ妥*国と旧唐書の倭国まで、これらを連綿と続く九州王朝の歴史である。
だが、「記紀」に記載されているのは大和王朝の歴史である。神武天皇は九州王朝の傍系で、志を得ず東方に新天地を求めた。困難や危険を経て、大和に居を定め、その子孫は強大な大和王朝を建立した。仲哀天皇は九州王朝の征服を企むが、結果敗死。しかし継体天皇は磐井国に遠征し、九州王朝を大和王朝の下に従属せしめ、以後九州王朝は衰落の一途を遂げる。七世紀大和王朝は隋唐制度を学び、律令国家へと変貌した。八世紀初頭、傍系の大和王朝はついに連綿と続いてきた本流である九州王朝を併呑し、また唐朝の承認を得た。
『旧唐書・倭国日本国伝』から中国の歴史書の書き方は一変し、『新唐書・日本国伝』の内容は「記紀」と一致する。
古田武彦等の二王朝並立説に対する賛同者は多くはないが、彼等の試みは中国の歴史書と「記紀」の記事間に有る多くの矛盾に合理的な解釈を提示し、重視に値するものである。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実をめて』(明石書店)第一〜六集が適当です。(全国の主要な公立図書館に御座います。)
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