生駒市 伊東義彰
古事記によれば、神武が熊野から紀伊半島を横断したとき、最初に出会った国つ神は「贄持之子」で、吉野河の河尻に到った時に出会ったとされています。
吉野河の河尻が、一般的な意味での河尻、河川の河口付近(下流域)を意味するならば、神武の紀伊半島横断行程はわけのわからないものになり、別の解釈を持ち込まなければ理解できないものになってしまいます。しかし、河尻を一般的な意味ではなく、特徴ある地形を表現したものではないかと考えると、吉野河に「尻」と称される地形があったことになり、それを「吉野河の河尻」と呼んだに過ぎず、吉野川上流域の一地名であった可能性があることになります。
「贄持之子」の次ぎに神武が出会った「井氷鹿」の伝承にちなんで、明治三十四年に「碇(いかり)」から「井光」に字を改めた大字「井光(いかり)」やその隣接する大字「井戸」には、「野尻」や「井尻」など「尻」をともなった小字が現存しており、今は残っていませんが、「河尻」という地形に基づく地名があった可能性が考えられます。塩尻、江尻、谷尻、田尻、野尻湖など「尻」をともなう地名が山深きところに現存していることから見ても、「河尻」を河川の河口付近を意味する言葉としてのみ考えるのは如何なものかと思われます。また、現存する川尻の地名が河口付近にのみあるとは限らないことも、併せて申し添えておきます。(会報No.48
「神武が来た道について」を参照)
神武が「吉野河の河尻」で出会ったのは「贄持之子」です。
大字「井光」や「井戸」など「野尻」「井尻」の小字が残るところから少し下流へ行ったところに川上村役場があり、その東側の吉野川沿いに形成された河岸段丘に「丹生川上神社上社」と言う神社があります。ダムが造られ水没するので発掘調査(平成十二年十一月・橿原考古学研究所)をしたところ、縄文時代の遺跡が現れ、近畿初の環状列石が発見されたとしてマスコミが取り上げていましたから、ご存知の方もおいでかと思います。縄文早期〜晩期にかけての土器や石器が数多く発見されました。その中に、色鮮やかな「朱」を塗った土器片がありました。念のため、ベンガラではないかと訊いてみましたら、朱に間違いないとのことでした。朱とは「丹」のことですから、丹生川上神社の名前と合致し、このあたりが朱(丹)と関係の深い土地だったことがわかります(現地説明会には、古田先生、木村氏、西村氏とご一緒しました)。
古田先生から、「贄持」は「にへもち」と読むのではないか、そして、「に」は「丹」、「へ」は「あたり」、「も」は「集落」、「ち」は「神聖・神」を意味するものではないか、とのご教示を受けました。「ち」を古事記の振り仮名通り「つ」と読めば、吉野川上流部の「津」のあるところになります。
ご教示通りだとすると、神武の紀伊半島横断行程には、きわめて臨地性に富んだ遺跡・遺物も存在していることになり、神武が吉野川上流のこのあたりで出会ったのは、「井氷鹿」ではなく「贄持之子」ではないかと考えられ、伝承にちなんで「碇」の字を「井光」に改めた大字「井光」近辺で「井光」に出会ったのではないと言うことになります。そう言えば「贄持之子」ははっきりと「吉野河の河尻」で出会ったとされていますが、「井氷鹿」と出会った場所に吉野河は出てきませんし、日本書紀の「井光」も同じで、吉野とあるだけで吉野川は出てこないのです。と言うことは、井氷鹿・井光と出会った場所を吉野川流域に限定して考える必然性は無いことになります。
吉野には、吉野川もあれば吉野山もあり、十津川流域さえもその一部は吉野なのですから、吉野川流域以外の吉野に井氷鹿・井光の伝承があっても何の不思議もありません。私は、大字井光や井光川、井光神社などの「井光」の字にとらわれすぎて、この地と「井氷鹿」を結びつけていたようです。
吉野町役場を尋ねて井光のことを訊かなかったら、井光(いひり)の伝承が吉野山にあったことすら知ることが出来なかったと思います。吉野町の商工・観光案内書や地図にも井光神社や井光の井戸は一切載っていないのですから、その伝承を知る由もありません。たまたま、古田先生から、本居宣長の古事記伝に載っている「飯貝(いひがい)」に井光の伝承があるかどうかお訊ねがあったので、それを確かめるために町役場を訪れ、吉野山に今もある「井光(いひかり)神社」と「井光の井戸」の話を聞くことが出来ました。古事記伝に載っている本命の「飯貝」には、伝承はないとのことでした。
明治の廃仏毀釈政策が行われるまで、今は角川書店の別邸「井光(いひかり)山荘」になっているところにあった桜本(さくらもと)坊という寺院の旧境内に「井光神社」があり、町を挙げてのお祭りが行われていたとのことですが、今は井光山荘の門脇に古色蒼然たる祠を残すのみとなっています(桜本坊は、吉野山のさらに奥に移築されています)。その桜本坊を尋ね、近くの「井光(いこう)山」という額を掲げた小さなお寺に「井光の井戸」があると教えられ、そのお寺の檀家だという親切な土産物屋の御主人に案内してもらいました。お寺そのものは峰道から西に張り出した狭い尾根に建っているので北側が谷になっており、その谷へ下る樹木の生い茂った急な斜面の途中に「井光の井戸」がありました。直径五十cmぐらい、深さも同じぐらいの小さなもので、もちろん水など湛えていません。四本の棒で囲んで縄が張ってなかったら、とてもそれとはわからないでしょう。横に「井光の宮伝承・・・」と書かれた禿げた杭が立っていました。それらしく見せるような細工は一切施しておらず、昔から伝えられたままの姿で保存されてきたものと思われます。
神武は三人の国つ神に出会ったあと、宇陀の穿(うかち)に出て、宇迦斯(うかし)兄弟に出会います。奈良県宇陀郡菟田野町の大字宇賀志や隣接する佐倉には、神武と宇迦斯兄弟の伝承やそれにまつわる多くの地名(例えば「血原」)・神社(宇賀神社、桜実神社)が現存しています。桜実神社の「八房の杉」は一見に値するでしょう(桜実神社の近くに神武歌謡に出てくる「高城」の地名あるも、あまりの急坂のため途中で挫折)。
吉野河の河尻、丹生川上神社上社、朱塗りの土器、井光神社や井光の井戸、国栖(石押分之子)などから考えて、神武は熊野から紀伊山地を横断して吉野へ至り、吉野から宇陀へ向かったのではないかと考える次第です。
重ねて申しますが、神武が吉野河で出会ったとされているのは「贄持之子」だけで、「井氷鹿」も「石押分之子」も河で出会ったとは書いてありません。吉野には吉野川もあれば吉野山もあり、十津川流域の一部さえ吉野なのです。宇陀に入るにあたって、後方確保(兵站基地)のために吉野地域一部の平定を行ったとしても何の不思議もありません。もっとも、まだ縄文の暮らしから抜けきれていない集落の人々は、神武の率いてきた軍勢(どのくらいの兵力かは想像の域を出ませんが)を目の当たりにして初めから抵抗を諦めたと思われますが。その上で、神武は再び、弥生の世界に突入を試みたのではないでしょうか。
熊野から紀伊山地を横断する縄文晩期からの交易ルートがあったとしても、あの嶮しい山々の連なった山地を神武とその一行だけで横断するのは、極めて困難どころか不可能だったのではないでしょうか。八咫烏という交易ルートを知り尽くしていたと思われる道案内者がいたればこそ峰伝い、尾根伝い、川伝いの道を踏破できたものと思われます。「道」という字を使いましたが、おそらく獣道を踏みならした程度のものだったのではないかと思われます。そんな程度の道を、少なくとも百人以上、あるいは二百人、三百人かも知れない軍勢が通れるだろうか、と言う疑問が浮かんできます。隊伍を組んで旗鼓堂々と行進することなどおよそ不可能なことは言うまでもありません。しかし、いつの時代でも道無き道を進軍して敵の背後に回ったり、奇襲攻撃を加えたりするのは軍隊の通常あるべき姿ではないでしょうか。それが出来ないような軍隊はものの役に立たないでしょう。この時代は乗り物など無いわけですから目的地へ行くには歩くしか方法はありませんから、歩くことにかけては我々現代人の遠く及ばない脚力を持っていたと思われます。
弥生時代には稲作が行われていたとは言え、米を常食できたのは大人・王などの支配階級だけで、下戸や奴婢など一般の人々は稲作の合間に、縄文時代と同じように狩猟採集に励んでいたことが遺跡から出土する動物の骨や堅果植物などで判明しています。弥生時代は、まだ、山深き道無き道を獲物を求めて駆け回らなければ、自分も家族も胃袋を満たすことが出来ない時代だったのです(弥生時代の方が、縄文時代の人より食生活が貧しくなったと言われています)。
奈良盆地の縄文晩期遺跡(橿原遺跡)からは、海生動物の骨が出土しています。どこから持ち込まれたものか特定は出来ませんが、紀伊半島沿岸で獲れたものではないかと思われるものに、鯨の骨があります。仮に紀伊半島沿岸で獲れたとしてもこの鯨がどのようなルートを通って奈良盆地に持ち込まれたか、これも特定できません。或いは船で河内湖に運ばれ、生駒山を越えて持ち込まれたかも知れません。紀伊半島を横断して持ち込まれたものとすると、その横断に要した日数は、鯨の肉が腐ってしまわない日数と言うことになります。それが何日ぐらいかというのは季節によっても違いがありますから一概に言えませんが、腐らないうちに届けなければ交易品としての価値が無くなってしまうでしょう。もちろん、軍勢を率いた神武はもっと日数がかかったと思われますが、紀伊半島横断の目安の一つになるのではないでしょうか。もっとも、鯨の骨付きの肉を保存食にする技術が当時あったとすれば話は変わりますが。
車で菟田野町へ行くには、大宇陀町を通り抜けなければなりません。その大宇陀町に柿本人麻呂公園があるのはご存知の方も多いかと存じます。まだ若いころにこの地を訪れ、「東の野に・・・」の歌がここで作られたのか、と感動したことを憶えていますが、今は、人気のない整備された広場に、馬に乗った柿本人麻呂が一人たたずんでいるのを眺めて、寂しさと虚しさだけがこみ上げて来るのをどうすることもできませんでした。
〔註〕縄文晩期からの交易ルートや吉備の影響、河尻の地名、川上村大字井光、などについては、会報No.48 (二月号)掲載の拙著「神武が来た道について」をご参照下さい。
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