太安萬侶 その二
古事記成立
小金井市 斎藤里喜代
はじめに
古事記序文は古事記の出来方を記した唯一の資料であることは誰も異存はないとおもう。このことは古事記成立について書くたびに確認していることなので、他の会報を読んでいる人には耳たこかも知れない。しかし古田史学会報には初めてであるので許してください。
従来説は抽象的な裏読みばかりで、序文の具体的個所の分析は古田先生ですらしていない。私は裏読みは裏読みで価値があると思っている。たとえば古田説の伏生の話とか梅沢伊勢三説の紀前記後説と紀が延々天武から元正まで続いたプロジェクト説などはこの連載の終わりの方でそれに基づく発表をしようと思っている。
しかし裏読みは表読み有っての裏読みであると思う。従来説が表読みができなかったのは九州王朝説とONラインと白村江の敗戦の考えがなかったからである。
一、序文の構成
まず序文は次のような構成になっている。
1. 臣安萬侶言以下上巻(神代の巻)の概略
2. 神倭天皇の事蹟
3. (崇神天皇)の事蹟=賢后
4. (仁徳天皇)の事蹟=聖帝
5. (成武天皇)の事蹟=近つ淡海遠つ飛鳥
6. 飛鳥清原大宮御大八州天皇(天武天皇)への賛辞
7. 天武天皇の詔
A「帝紀」及び「本辞」既に正実に違い、多く虚偽を加う。
B「帝紀」を撰録、「旧辞」を討かくし、削偽定実して後葉に流へむと欲す。
8. 舎人稗田阿礼年二十八
天武天皇、阿礼に勅語『帝皇日継』『先代旧辞』の完成としょう習
9. (元明)皇帝陛下への賛辞
10. (元明天皇)の詔
A「旧辞」の誤りたがえるを惜しみ、「先紀」の謬錯を正す。
B和銅四年九月十八日臣安萬侶に詔して稗田阿礼よむ所の勅語の「旧辞」を撰録(ダイジェスト)して献上せよ。
11. 子細に採りひろいぬ。
12. 漢字での音訓の表しかたに悩む。姓日下、名帯、本のまま改めず
13. 天地開闢より小治田の御世におわる。上中下巻、献上す。
14. 和銅五年正月二十八日正五位勲五等太安萬侶(自著名)
以上だ。
7. から14. が古事記の成り立ちを具体的に記した所だ。これに白村江の敗戦とO・Nラインを入れると図(1)になる。
二、「帝皇日継」と「先代旧辞」の成立
7. Aの天武天皇が間違っていると指摘した「帝紀」と「本辞」というもの正体は、九州王朝の「帝紀」の下に多数の「本辞」があるという図式である。これを図(2)に示した。多数の「本辞」とは臣、連、伴造、国造、百八十部の「公民の本記」である。当然のことに、近畿王朝の歴史書はその他大勢の「本辞」の中にあり、公民の本記に属していた。
しかし白村江に出兵しなかった近畿王朝は、力を温存していて、天武天皇が壬申の乱で、勝利した後は気がつけばナンバーツウになっていた。ほかの地方の敗戦の痛手がいかにひどかったかがわかる。そして、ほかの地方の上にたった近畿王朝は九州王朝の一の子分になったことを各地に知らせる必要を感じたのだと思う。つまり図(3)にしようと思ったのだ。
そこで 7. Bになる。そして落日の九州王朝の「帝紀」を近畿王朝に都合の良いように造作した。それが『帝皇日継』という書物の正体である。
そしてその他大勢の「本辞」から昇格させた、近畿王朝の歴史書は「旧辞」として検討して事実を調べて明らかにした。それが『先代旧辞』という書物の正体である。学者たちが良く持ち出す「原古事記」の正体は『先代旧辞』である。
8. そして天武天皇は稗田阿礼に勅語して、それらを読み習わさせて広めさせようとしたが、運が移り世が異なって挫折したのである。このときは、当然のごとく九州王朝の臣下の太安萬侶は関与していないのである。
三、現状『古事記』の成立
9. から14. が現状古事記の成立である。図(1)と表(1)を見て私自身びっくりしたのだが、九州王朝の「帝紀」は七○一年のO・Nラインを過ぎると「先紀」と名が変わってしまうのだ。oldの「帝紀」は時代遅れの「先紀」と呼ばれ省みられることもなくなる。みごとに対応している。恐ろしいくらいだ。
9. は元明天皇への賛辞
10. は元明天皇の詔で
10. Aは天武天皇が「本辞」としていた臣、連、伴造、国造、百八十部の「公民の本記」を「旧辞」として間違っていると惜しむが、実際には捨て置く。「先紀」も間違っているので、正しくする。といっているのだ。
10. Bは七一一年九月十八日安萬侶に稗田阿礼がよむところの天武天皇の勅語の旧辞つまり『先代旧辞』をダイジェストして献上せよというので、11. 子細に検討して良さそうなところを採り拾った。というのだ。
13. 神代より推古まで上中下三巻をなんと四ヶ月と十日で献上してしまったのだ。
14. その献上が七一二年正月二十八日である。そして序文にも本文にも題名を除けば古事記という書名はない。
これが現状『古事記』である。決して正史の作られかたではない。それに表(1)にあるように『続日本紀』には同じ元明天皇が『古事記』完成のたった二年後の七一四年(和銅七年)二月十日に従六位上紀朝臣清人と正八位下三宅朝臣藤麻呂に詔して国史を撰しませた。とある。(これは少数意見の日本書紀説を取りたい)つまり元明天皇はこの国史編纂のためのひな型として天武天皇勅語の『先代旧辞』のダイジェスト版が欲しかったのだ。この国史に関して先人はあまり関心を持っていないようだ。ここに舎人親王の名が無いせいであろう。しかし七二〇年のこれより先と勅の下った日を濁しているのが変である。もちろん太安萬侶が『続日本紀』で歴史書に関して抹殺されているのはその一に書いた通りだ。(二〇〇三年一月十五日記)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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