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国際教育シンポジウム
二一世紀教育における「公」・「共」・「私」をめぐって
─古田武彦氏の発言─
二〇〇三年一月二五日、東京学芸大学教育センターで、『二一世紀教育における「公」・「共」・「私」をめぐって』と題して行われた「国際教育シンポジウム」において、古田武彦氏はパネリストとして出席された。
◎シンポジウムプログラム
○基調講演
金 泰正氏
(将来世代総合研究助長、元韓国国立忠北大学行政大学院院長)
○パネリスト
〃 古田武彦氏 (元昭和薬科大学教授)
〃 鈴木慎一氏 (早稲田大学教育学部教授)
〃 長尾史郎氏 (明治大学経営学部教授)
〃 松本健一氏 (麗沢大学国際経済学部教授)
○司会 西村俊一氏 (東京学芸大学教育センター教授)
基調講演
「二一世紀教育と公共哲学」
シンポジウム
「日本及び日本人の公共観と二一世紀教育」
全体については、報告書が出るとのことで、省略する。
◆ ◆ ◆
(古田氏の発言)
かねてから文庫本一つをもって旅行したいと思っていましたが、今日は念願かなって実行できました。持って来ましたのは、プラトンの『国家(下)』です。新幹線の中で読みますと、次のような一節がございました。
ソクラテス「では同一の自然的素質が、知恵と虚偽との両方を愛するというようなことが、はたしてありうるだろうか」
弟子「けっしてありえません」
この対話が、私のいうことのベースになると思います。
今日、話したいことは四つありまして、
一、教育の本質論
二、教育に関する歴史論
三、教育に関する経済論
四、教育に関する政治論
であります。
○教育の本質
学校教育とは一定の資格を渡す所、そして次の資格への道を開く所。しかし「教育」とは命を渡すこと、「学校教育」ではありません。本当の教育です。—これが私の「定義」です。この二者の間には近くて深い溝があるのですが、これは次の機会をもって話させていただきます。
○教育における歴史
二は、歴史の問題です。お手元に「神籠石」の分布図がありますが、皆さん歴史で習ったことがないと思います。教科書にもでておりませんが、「神籠石」を度外視して歴史を語ることはできません。教科書にでていないということは、「虚偽を教えている」ものです。「神籠石」というのは古代的な山城で、軍事要塞です。これだけありますから「要塞群」です。時代は白村江の戦闘の前、七世紀以前です。五世紀前後にいた「倭の五王」讃・珍・済・興・武。この時の戦闘相手は高句麗・新羅で高句麗が主、味方は倭・百済で倭が主であった。これは鴨緑江北岸にある有名な高句麗好太王碑の四面に刻まれた碑文の述べる所です。
この好太王碑のすぐ北側に丸都山城—軍事要塞が築かれている。高句麗がこれをバックにして軍事行動をやっていた。それ一つではなく、周辺に幾つものそれを取巻く軍事要塞があったのは当然です。
去年、滋賀県立大学で、古代武器研究会というのが作られて、その会合があり、韓国の考古学者が複数招かれ発表をした。五世紀ごろ百済及び新羅には、いずれも深い堀や石を積んだ軍事要塞が築かれた遺跡が次々と見つかっているという。それに対し日本の学者からは、「近畿では五世紀ごろにそのような軍事要塞を作った痕跡は全くない」、学芸員の方も来ておられたが、口々にそういう話だった。東海でも関東でも同じ。そこで自由討論のような形で、司会者がその前の討論を総括して「朝鮮半島側では五世紀ごろ大変に軍事要塞が作られていた。それに対し日本側では軍事要塞が全くなかった。このコントラストが今回の結論ですね」と申しました。
そこで私は手を上げ、(丁度その日、わたしがポスターセッションという、展示のようなことを休憩時間に見てもらうように沢山出していたが、「古田史学の会」のメンバーが手伝ってくれて、この神籠石の分布図などを「ご自由にお持ちください」という形で提供していた)「今日ご覧いただいたように、神籠石という軍事要塞が九州にたくさん発見されています。この軍事要塞を前提にすれば、朝鮮半島側と全く対応している。何もおかしくない。朝鮮半島側以上に強固に万一に備えたことが分かる。これを入れてお考えいただければいいと思います」と申しました。司会者はちょっと慌てられて、「また後で」みたいな形でその場は終わったんですが、皆さんお判りのように、「倭の五王は大和なんかじゃない」ということです。この軍事要塞に囲まれたなかは、太宰府・筑後川流域です。それが倭の五王の中心です。そう考えれば何も不思議はない。皆さんが教科書で習ったような、「大和が全ての中心だ」という話では全然説明ができないんです。できないからこの図は教科書から除いてある。教科書から除かれたことも、今日初めて知った方がいらっしゃるでしょう。知らぬが仏とはこのことです。
「近畿は天皇陵がすごい」と言っても、お墓だけで戦闘はできません。教室で対話があれば、学生が質問したら、教師は絶句してしまう。日本の学生はおとなしいから、そういう質問せずにきたから、教師もやって来られた、皮肉に言うとそうなります。このことは非常に怖い話で、七世紀前半にもこれは存在したはずで、十七条の憲法はどこで作られたか?聖徳太子が作ったとされています。それなら神籠石の外で作られたものですね。あの憲法の中には「君をば天とす。臣をば地とす」といい、君を天下で唯一だといっています。それなら神籠石の中とはどういう関係になるか?意味不明だ。中にいる人物が作ったのなら、その外も全部自分の直接間接の支配下にある、神籠石がその中心部を守っている、そこで言った言葉ならば話は解る。「外」では解りません。「日本書紀に書いてあるから聖徳太子に間違いない」と思い込んでいる。「歴史は暗記である。おかしくても暗記さえすれば資格試験に通れる。いい成績も取れるし大学にも入れる」という姿勢でやってきた。しかしちょっと疑問を持って「五世紀の大和は、あれだけ朝鮮半島と戦ったのに、全然防御施設がないのはなぜだ?」と質問したら先生は絶句するのです。だから「対話がない」ことは素晴らしい、皮肉に言いますとそうなります。
私の考えでは、こんな歪んだ歴史を学んで出来るのは歪んだ人間である。歪んだ人間の持つ愛国心は歪んだ愛国心である。歪んだ人間の持つ人類愛は歪んだ人類愛である。そう思います。
○教育の中の経済
新聞に京大の教授が書いていました。大学院の博士課程の男子の学生が、課程が済んで結婚しようとした。ところが彼は奨学資金を借りていて、その額が一千万円に達していた。婚約者側の家では、「そんな借金を抱えている人とは結婚できない」と、破談になった。こんな教育制度でいいだろうかというのです。これは女性研究者の場合もっと深刻でして、持参金を持って嫁入りするという習慣がありますが、「マイナスの持参金を持って嫁入りするつもりか、厚かましい」と言われる。そういうことで、結婚を断念した、という例を聞いております。
これが日本の教育界の現状です。教育界の人もそれを結果的に知らん顔している。文部科学省の大臣も、小泉首相も知らん顔をしている。就任当時「米百俵」の例を引いて、外国まで行って話して感心されたとか、言っていたではないですか。「経済が大変だから学生が大変な目に遭っても知らん」では、何が「米百俵」ですか。奨学資金返済の上に、障害とか、別の要素が加わったら、そういう学生に自殺する人が出るのではないでしょうか。それでもいい、外国で宣伝できればいい、そういう首相を我々は持っている。教育関係者を持っているのです。余りにも情けないですね。
この制度の発案者は、頭のいい人で、利子だけ国が負担してやれば、あとは当人が返せばいいという「合理的」な教育・経済政策をやっているんだと思っているのでしょうね。
この話は早速文部科学大臣や小泉首相の耳に入れていただいて、「米百俵」の話がホラ話でないならば、そして見栄を張って外国に法外な金をバラまく位なら、日本の将来を担う青年男女がこれほど窮しているのを救わなくて、何が大臣だ、と言っても言い過ぎではないと思います。
○教育における政治
今の時期に「教育シンポジウム」を開いておいて、「拉致」問題に触れなかったとしたら、問題だろうと思うのです。後世、「あのシンポジウムは何をやっていたんだ」と批判されると思う。
私は、この拉致問題によって「『日本国憲法前文』は偽りだ」ということが証明されたと思う。「周りの国は全部善意の国である。だからわれわれも平和憲法で行くんだ」と書いてあるじゃないですか。私は敗戦直後の当時青年教師でしたから、「よくアメリカはこんなものを作らせたな」と思っていました。これはアメリカが超一流の軍備をもって常駐していることとセットなのです。セットでなくて、アメリカが本当に良いと思ったのなら「隗より始めよ」、アメリカがまず丸裸の平和憲法にして、軍備を全廃すればいい。それなら本当にいいと思って日本にやらせたことになる。現実は反対で、超一流の軍事力を半世紀以上も日本に常駐させている。それとセットだから、日本人には軍隊を持たせない。これが「平和憲法」ですね。言わなくても皆そう思っている。教える教師も同じ。そのうちに朝鮮動乱などで、軍隊ゼロでは具合が悪い、補助部隊にしよう、で、自衛隊という名前で持たせたのです。
ですから日本の軍事体制はアメリカ軍が主、自衛隊が従であることは誰でもよく知っている。この形で行けば日本の生命財産は安全ですよ、ということになっていた。ところがある日突然外国に連れて行かれたわけですから、一番責任を感じなければならないのはアメリカです。あまり解り切っているからどの新聞も書かない。でも考えてみればそれしかない。日本の自前の体制ではない、補助部隊です。それだから「協力金」を払っているでしょう。それだのに彼等は義務を果たさず、日本国民が拉致されたのです。
この件で国会で政党が色々言っていますが、それは枝葉末節で、一番の問題は米軍・自衛隊が任務を果たしていなかった。「日本国憲法」は誤ったメッセージを伝えてきた、ということだと思います。
今、学校教育の現場は大変だと思います。憲法を教えていて、生徒が「こんなの嘘です、拉致されたじゃないですか」と言われたら、答える言葉がないでしょう。ごまかしたり、偽の言葉でやらなくてはならない。生徒が先生を信頼できなくしている。知らん顔しているのは、文部科学省の大臣や小泉首相です。教育者はこの問題に、正直に立ち向かわなくてはならないと思います。
(以上、まとめ、文責・安藤哲郎
(編集部)
本記事は「多元」No. 五四(二〇〇三年三月)より転載させていただきました。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。 新古代学の扉 インターネット事務局 E-mail は、ここから。
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