学問の方法と倫理9 熟田津論争によせて(会報53号)
「安徳台」余話 『平家物語』の九州年号 古賀達也(会報58号)
学問の方法と倫理10
再び熟田津論争によせて
京都市 古賀達也
はじめに
会報 No.五三に発表した拙論「学問の方法と倫理9 熟田津論争によせて」に対して、反論が寄せられた。「Tokyo東京古田会News」 No.八九(二〇〇三年一月、古田武彦と古代史を研究する会発行)所収の次の四編である。
編集部(福永晋三)【熟田津論争について】古田史学会報の熟田津論簡約
平松幸一 -- 熟田津論争に寄せて
高見大地1:25000地形図の読み方(その1) -- 「新北」論争へのコメント
福永晋三[魚是]倭の興亡その二─倭国の成立と新北神話
※以下、「編集部(福永晋三)」稿、平松稿、高見稿、福永稿と記す。
これら四編あわせて十頁に及び、全二四頁中の約四割に達する。これだけ反論していただければ研究者冥利に尽きるというものである。感謝申し上げたい。しかし残念ながら、その内容を吟味したところ拙論への反論になっていないばかりではなく、福永説・平松説への擁護にも成り得ていない。以下、「学問の方法」に関する問題を中心にして、何故そうなのかを明瞭に説明していきたい。
学説のプライオリティーについて
「編集部(福永晋三)」稿において、冒頭で力石稿「万葉八番歌」(古田史学会報 No.五三)と古賀稿「学問の方法と倫理9熟田津論争によせて」(同)の概要を紹介された後、「意見」として次のような文が付されている。
「1この新しい方法こそ、福永晋三の「『万葉集』の軌跡─『万葉集』の成立の新視点」(新・古代学第4集)に始まったものであり、八番歌の新比定も福永伸子・晋三に始まったものであることは動かし難い。事実誤認である。」
この文だけでは何が事実誤認であると主張されているのかわかりにくいので若干補足すると、ひとつは、わたしが「学問の方法と倫理9熟田津論争によせて」(以下、古賀稿と略す)において述べた次の冒頭部分である。
「『万葉集』史料批判の方法において、古田武彦氏は歌本文は一次史料であり、左注などは『万葉集』編纂者による二次史料であり、それらを区別して一次史料を基本史料とするという方法論を提起された。言われてしまえばあまりにも当然であるが、この新しい学問の方法により古田学派内で万葉集研究は飛躍的に発展した。」
この『万葉集』史料批判の新しい方法を提唱したのが古田武彦氏であるとしたことを、同「編集部(福永晋三)」は事実誤認とされたのである。しかし、事実誤認はわたしではなく、「編集部(福永晋三)」の方である。なぜなら、『新・古代学』第4集(一九九九年十一月発行)以前に、同趣旨を古田武彦氏は一九九八年六月二八日の講演「失われた『万葉集』─黒塚と、歌謡の史料批判─」(大阪市天満研修センター)で発表されており、その概要が『古田史学会報』
No.二七(一九九八年八月十五日発行)に掲載され、『古田武彦講演集98』(一九九九年一月十四日、古田史学の会発行)にもほぼ全容が収録されているからだ。更に、これより以前にわたしはこの考え方を古田氏より直接に聞いている。
以上の事実から、「編集部(福永晋三)」が古田氏のプライオリティーを侵害していることは明白であり、事実誤認は「編集部(福永晋三)」の方である。「古田武彦と古代史を研究する会」の機関紙で、こともあろうにその編集部が古田氏の学説のプライオリティーを誤認し侵害するのはいかがなものであろうか。
もうひとつの事実誤認についても指摘しておこう。「八番歌の新比定も福永伸子・晋三に始まったものであることは動かし難い。事実誤認である。」とある部分だ。これは一体わたしに言うべき問題だろうか。というのも、八番歌の新比定(鞍手郡新北説)が福永伸子・晋三氏によることは古賀稿において明確にしており、両氏へのプライオリティー侵害などわたしはやっていないからである。わたしは次のように記した。
「例えば、八番歌『熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかないぬ今は漕ぎいでな』に見える熟田津の所在地について活発な論争がなされている。その主たる比定地は福岡県鞍手郡新北(福永晋三・伸子両氏、注1.)と有明海の佐賀県諸富町新北(下山昌孝氏、注2.)の二説であり、それらを巡って賛否両論が出されている。」
このように鞍手郡新北説が福永伸子・晋三両氏によるものであることを明瞭に記しているし、論文末尾の注1.には管見で及ぶ範囲の両氏の論稿を発表年次まで付して記した。これのどこが「事実誤認」なのであろうか。それとも、古賀が福永氏のプライオリティーを侵害するような人物であると読者に思わせるのが目的なのであろうか。ちなみに、古賀稿のこの部分は見事にカットして引用されており、東京古田会ニュース読者にはわからない仕組みになっている。
さらに付け加えれば、もし福永氏のプライオリティーを侵害している者があるとすれば、それは他ならぬ平松幸一氏の方ではないか。「編集部(福永晋三)」稿が掲載されている十頁の隣(十一頁)に掲載された平松稿冒頭に次の文がある。
「平松試論は、福永説や文中で取上げられた下山説以前(1999年9月、東京古田会ニュース69号)に発表したものであり、かつ、他人の説とは関係なく、独立の論拠に基づいて展開したものである。」
このように、鞍手郡新北が熟田津であるとする平松試論(「新北が津であった時」)が、福永説や下山説よりも早く発表され、他人の説とは関係なく展開したと、平松氏はそのプライオリティーを主張されているのだ。したがって、「編集部(福永晋三)」が、わたしがやってもいない福永氏へのプライオリティー侵害を非難されるのは、まことに見当違いも甚だしい。同紙編集方針は理解に苦しむとしか言いようがない。(注1.)
学問論争の基本ルールについて
「編集部(福永晋三)」稿のように、わたしがやってもいないことを非難されるのも困りものだが、自らが言ったことに口をつぐんで「反論」されるのも困ったものである。そのわかりやすい例が平松稿に見えるので、指摘しておこう。
わたしは平松氏の「新北が津であった時」を次のように批判した。
「自説に都合の良い場所(鞍手郡新北)を港にしたいためとはいえ、その付近の海岸線だけを一〇〜一五メートル上昇させるのは不可能である。もし鞍手郡・遠賀郡の海岸線が上昇すれば、同時に日本中(正確には世界中)の海岸線が上昇し、全国の等高線一〇〜一五メートル以下に多数存在する弥生時代・古墳時代の遺跡は軒並み水没する。こんなことは小学生でもわかる理屈だ。現に遠賀川流域に弥生や古墳の遺跡が多数存在しているが、福永説・平松説が正しければ、これらも水没するのである。」
ここでの要点は、前半の「自説に都合の良い場所(鞍手郡新北)を港にしたいためとはいえ、その付近の海岸線だけを一〇〜一五メートル上昇させるのは不可能である。」という部分で、後半はその理由である。しかし、今回の平松稿ではこの前半部分はカットし、後半部分を引用し、「一見科学的に見えて、実は非科学的な、現実の世界では起こり得ないことを云われる。部分的な現象はそのまま全体には当てはめられない。」と反論された。そして、「この辺りはいわゆるリアス式海岸地形で、大体標高10メートル前後以下の低地は遠賀川やその支流の運んできた土砂、いわゆる沖積土で覆われている。」と、あたかも土砂の堆積により新北は陸化したもので、海面水位の変化ではないかの如く読者に対して装われるのである。
平松氏は自説や自らが書いた論文の内容をもう忘れられたのであろうか。わたしが批判した『新・古代学』第5集の平松稿では、「標高一〇メートルの等高線をたどって、新北周辺の当時の海岸線を再現」した地図を掲載(一四七頁)した上で、氏は次のように書かれている。
「遠賀川本流の等高線二〇メートルの地点には、川津の地名があり、高潮時でも海水面がこの高度までは来ていなかったことが分かる。」(一四八頁、傍点は古賀による)
「従って、ここでいう『難波』は現在の苅田町の当時の海岸線(現標高一〇〜一五メートル)辺りを指していると考えられる。」(一五〇頁)
「孝徳朝の幻の都、難波長柄豊碕宮(常陸、播磨風土記には豊前大朝と記されている)(六四六年)の候補地も筑紫の海の続き、北九州の当時の海岸線、標高一〇〜一五メートルあたり以外には考え難い。」(一五一頁)
このように、平松氏は明確に海水面やその高度を問題とされており、いわゆる縄文海進のような海水面の上昇により鞍手郡新北などが当時(平松説では七世紀後半)港であったと主張されているのである。少なくともそうとしか読みとれないし、土砂の堆積や地面の隆起など全く触れられてもいない。従って、わたしは平松説を海水面の上昇を前提としたものと理解し、先のような批判を行ったのである。ところが、今回の平松稿ではこのような自らの論文の内容に対しては、全く口をつぐみ、海水面やその高度を自説成立の前提としたことなどなかったかのような反論をなされたのである。こうしたやり方はアンフェアであり、学問論争の基本ルールを逸脱しているとしか言いようがない。
なお、これと同じわたしへの批判が高見稿でもなされているが、高見氏もまた平松試論の内容(海水面の上昇を前提とする主張)とそれに対応するわたしの批判内容を誤解され、平松氏と同様の論難に奔られたようである。
事実と推論・結論について
今回の四編中、見るべき内容を含んでいたのは高見稿であった。とりわけ地形図の見方など、傾聴に値すべき点、少なくなかった。今後の研究に役立たせたいと思う。更に高見稿の結論は、弥生時代の鞍手郡新北付近の海面水位を標高二〜三メートルと見なしてもよい、というものであり、従って、七世紀に標高十〜十五メートルが海岸線であったことを前提とする平松試論は全く成立しないということが、良く読むと論証されている。この点に於いても高見稿は評価できる。
しかしながら、高見稿は考古学的事実から導き出された推論や結論が不十分である。また、その結論は福永説を擁護したものでもない。この点を説明したい。
高見稿で特記すべきポイントは新北の近くにある新延貝塚に注目された点である。縄文貝塚である新延貝塚が使用されていた時代、海岸線がその付近に位置したことが想定できるだけに、その考古学的事実は海岸線復原の根拠となりうるからだ。高見氏は鞍手町教育委員会による新延貝塚発掘報告書から、縄文前期から縄文後期の土器が出土している事実を紹介されている。そして、「つまり、貝塚は海の傍らにあったと考えられ、したがって、その傍らの低地である現在の水田は海であったと見なせる。」と推定された。わたしもこの推定に異論はない。
しかし、もし高見氏が紹介された通りであれば、この考古学的事実から導き出せるもう一つの推論と結論がある。それは、出土土器の編年から新延貝塚は縄文前期から後期にかけて使用されており、その期間は近くに海岸線があったと見なしうるが、縄文晩期から弥生期にかけては貝塚として利用された痕跡が無く、したがって縄文晩期以降は陸化が進んで海岸線は遠く離れてしまった。この推論である。そしてこの推論は、新延貝塚より更に西川上流に位置する新北も同様に陸化が進み、縄文晩期以降は海岸線は遠く離れた、という結論へと向かわざるを得ないのである。残念ながら、高見氏は考古学的出土事実が指し示す肝要の一点を見落とされたのではあるまいか。
なお、同ニュース編集後記(飯岡由紀雄氏)に次の一文がある。
「福永新北説を強力に援護する高見さんの論稿が登場。楽しみです。」(二四頁)
これは事実誤認もしくは何かの錯覚であろう。仮に高見稿の、弥生時代の鞍手郡新北付近の海面水位を標高二〜三メートルと見なしてもよい、という結論が正しかったとしても、それがどうして福永説への強力な援護になるのだろうか。なぜなら、福永説は「古墳時代の新北は港」説であり、弥生時代ではないからだ。わたしが批判した『新・古代学』第6集の福永稿「万葉集の軌跡II─『日本書紀』との共同改竄」には、次のように書かれている。
「右のような自問自答を繰り返しながら、終には神功皇后の船出の歌に落ち着き始めた。(中略)女帝は神功皇后。三韓征伐の船出の歌だった。」
そして、その船出を仲哀九年(三二〇)頃のようなニュアンスで話が続いていることから、四世紀のこととされているようである。従って、四世紀であれば古墳時代であり、弥生時代ではない。当否は別として、三世紀をも古墳時代とする説さえある。
このように、福永説は「古墳時代の新北は港」説であるにも関わらず、何をどう勘違いされたのか弥生時代の海岸線に論が集中しているのはちょっと理解しがたい光景ではある。もっとも、飯岡氏を責めるのも酷のようだ。当の福永氏本人が福永稿末尾に「今回も、新北が弥生期に海であったことの確信はいよいよ強まった。」(二一頁)などと書かれているからだ。これを読んだ人が、福永説は「弥生時代の新北は港」説だと勘違いするのも無理からぬことかもしれない。福永氏も自説を忘れてしまわれたのだろうか。それとも四世紀を弥生時代とする新説でもひらめかれたのであろうか。それらなばそうと、はっきりと表明し、その根拠を提示していただきたいものである。
基本論証の欠落について
前稿ではふれなかった問題がある。それは福永説成立のための基本論証の欠落、この問題である。普通、仮説にはその成立のために不可欠の基本論証ともいうべきものがある。福永説における、その不可欠の基本論証とは八番歌「熟田津」の歌が四世紀に成立したという論証である。この基本論証が成立して初めて、作者や熟田津の比定などへ進展できるのだ。しかし、福永稿のどこをどう読んでもこの基本論証が成立していないばかりでなく、論証そのものがなされていない。四世紀に成立したという論証抜きで、弥生期の海岸線がどうの、神功皇后がこうのと、論証抜きの仮説(アイデア)が次から次へと積み上げられているばかりである。これは仮説の重構であり、学問の方法として許されるところではない。それも、根幹をなすべき基本論証を欠いたままである。
この点、平松説は八番歌成立の時期を左注に基づき七世紀とされており、左注に記された年代と歌本文そのものに齟齬が無い限り、成立年代に関しては学問の方法として問題ない。これは文献史学における史料批判の方法論に関する問題であるが、福永氏にはこのことが理解されていないようだ。読者のためにもう少し詳しく述べたい。
御存じのように、魏志倭人伝には邪馬壹国と表記されているが、古田氏のように原文通り邪馬壹国と読む方には論証は不要であり、原文に書かれていない邪馬台国と読み替えたい方にこそ論証責任が発生する。その逆ではない(注2.)。
今回の八番歌の場合は、歌本文には作成年代を特定できるような内容はなく、左注には七世紀の歌とされているので、とりあえず左注に従って七世紀の成立としても方法論上の問題はなく、とりたてて論証は要求されない。もちろん、一次史料と二次史料の間に齟齬があれば当然一次史料を優先しなければならない、というのが古田氏の提唱された新しい『万葉集』史料批判の方法であることは既に述べた通りである。逆に、八番歌の左注が示す七世紀成立というのは間違いであり、四世紀成立であると言いたいのであれば、そう言いたい方に論証責任が発生するのである。ところが、この論証責任を福永氏は果たしておられない。論証抜きの原文改定である邪馬台国論者と同次元の誤りを氏は犯しておられるのである。
おわりに
本稿は古田史学の会・関西例会(二月)で発表した内容をまとめたものである。その発表の際、「Tokyo東京古田会News」 No.八九をテキストとして使わせていただいた。なお、「編集部(福永晋三)」稿において、わたしや下山昌孝氏に対して「独裁」「海賊版」などと誹謗中傷する文言が散見されたが、これは学問の方法ではなく、学問の倫理に属する問題であり、別に論ずる機会が訪れるであろう。
(二〇〇三年二月二二日記)
(注)
注1.平松試論(一九九九年九月、東京古田会ニュース六九号)の発表以前に、鞍手郡新北説が福永氏により「多元的古代」研究会・関東の例会で口頭発表されていると、『新・古代学』5集の平松稿(「新北が津であった時」)末尾に編集部注(東京古田会編集)が付け加えられている。それにより同説のプライオリティーが平松氏ではなく福永氏にあると、わたしは認識していた。その認識は現在も変わっていない。
注2.論証責任の所在問題については、本連載1. 「『邪馬台国』はなかったの眼目」(古田史学会報三七号)において論じた。
(補)誤読問題について
学問論争において、対象とする相手の文章の文脈を正確に読み取った上で批判しなければならないことは基本ルールの一つであり、当然のことと思うのだが、福永氏にはどうもそうした点に問題があるように感じられる。
たとえば、わたしは前稿において福永氏による誤読を次のように指摘した。
「大日本地名辞書が引用している続風土記の文には遠賀川は垣生中間まで潮が遡るとあるが、西川については新北村から流れて来ていると記されているのであって、蘆屋浦から新北まで潮が遡るとは書かれていない。これを福永氏は新北村まで潮が遡っていると誤読されているのである。(中略)この福永氏による誤読はこの新稿で初めてなされたのではなく、その元となった旧稿でも行われており、旧稿での誤読を下山氏が既に指摘されてきたにもかかわらず、福永氏は新稿においても訂正も反論もせずにそのまま採用された。こうした対応は真摯な学問論争とは言い難く、理解に苦しむものである。」(古田史学会報 No.五三)
というのも、福永氏は次のように大日本地名辞書の文を読解されていたからだ。
「○続風土記云、寛永五年、遠賀川は蘆屋浦より、潮さし入り、垣生中間に至る二里半とぞ、本川の西に鞍手郡新北村より来る川あり、西川と名つく、是も汐満れば蘆屋より泝る。寛永五年(一六二八)の時点で、潮が新北までさかのぼるのである。」
(『新・古代学』6集)
このように、大日本地名辞書の文には西川について1.新北村から流れてきている、2.潮が満ちれば遡る、という二点が記されており、新北村まで遡るとは書かれていない。にもかかわらず、福永氏は二つの文を「合成」して、本来書かれてもいない「新北までさかのぼる」という意味に誤読されたのである。この誤読を最初に下山氏が詳しく指摘されていたので、わたしもそのことを簡単に紹介した。ところが、今回福永稿では古賀が「泝る」という字を読めなかったと、勝手に論点を誤解され次のように揶揄された。
「私に百歩譲って誤りがあるとするなら、それは「泝」字に振り仮名を付けなかったこと、および一文の口語訳を付けなかったことぐらいだろうか。
漢和辞典に「泝」は「遡」「溯」と同字であり、音はソ、訓はさかのぼるとある。決して誤読ではない。(中略)蛇足ながら、科学的な諸氏も、もう少し漢字や古文の学習にも励んでいただきたい。ノーベル賞受賞の田中耕一氏も「日本語は大切に」と述懐されていた。いやしくも古代史の研究をする者には不可欠の要素と思われる。ご忠告する。」
わたしは確かに漢字や古文に堪能ではないが、漢和辞典ぐらいは引けるし、当然引いた上で、「泝る」を「さかのぼる」と読み、福永氏の漢字の読みではなく文脈の誤読を指摘したのである。ところが、福永氏は大日本地名辞書を誤読されただけではなく、私の批判までも文脈を正しく理解されず、的はずれな反論と揶揄に終始された。
なお、わたしは前稿を執筆する前に、同内容を「古田史学の会・関西例会(二〇〇二年十一月十六日)」で発表した。そのレジュメには『新・古代学』6集の福永論文の当該部分を掲載し、氏の誤読部分等に傍線まで引いて参加者に配り、その「泝る」を「さかのぼる」と正しく読み上げ、氏の誤読を詳しく解説した。この事は例会参加者全員が聞いておられるところである。
福永氏は現代日本語文の読解力をもう少しつけてから学問論争に挑まれたほうがよいのではあるまいか。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。 新古代学の扉 インターネット事務局 E-mail は、ここから。
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