2002年12月3日 No.53
学問の方法と倫理 九
京都市 古賀達也
『万葉集』史料批判の方法において、古田武彦氏は歌本文は一次史料であり、左注などは『万葉集』編纂者による二次史料であり、それらを区別して一次史料を基本史料とするという方法論を提起された。言われてしまえばあまりにも当然であるが、この新しい学問の方法により古田学派内で万葉集研究は飛躍的に発展した。例えば、八番歌「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかないぬ今は漕ぎいでな」に見える熟田津の所在地について活発な論争がなされている。その主たる比定地は福岡県鞍手郡新北(福永晋三・伸子両氏、注1). )と有明海の佐賀県諸富町新北(下山昌孝氏、注2). )の二説であり、それらを巡って賛否両論が出されている。わたしは下山氏が提唱された諸富町新北説が最有力であると考えているが(注3). )、今回、福永晋三氏の論稿とそれをとりまく諸論について検証し、学問の方法と倫理について論及する。
福永論稿を検証するにあたり、氏の最新稿である「万葉集の軌跡㈼─『日本書紀』との共同改竄」(『新・古代学』6集所収)を対象としたい。同稿は旧稿二編(注4).
)をまとめて加筆補正されたものであると記されており、氏の最新の考察結果と考えられるからである。
福永氏が唱えられた鞍手郡新北説が成立するためには、次の点を証明しなければならない。それは八番歌が歌われた時代、鞍手郡新北は船が出入りできる津(港)であったこと、干満の差(水位)が其の地まで影響していたこと、この二つである。従って、鞍手郡新北説への反論がこの点に集中したのも当然である。この条件は解釈や可能性の問題ではなく、仮説成立の為の絶対条件だからだ。例えば下山氏は次のように批判された。
「弥生時代になると、遠賀川流域の陸化は急速に進んだようで、多数の弥生遺跡が、現在の河岸からそれほど離れていない所に築かれている。(中略)従って弥生時代以降に、古遠賀湾が存在した可能性は殆ど無いと言えるであろう。」(「『にぎたつ』考」、『多元』No.
三六)
「福永氏が古遠賀湾の存在や鞍手町新北まで潮の干満が影響するという事を主張したいのであれば、弥生時代の古遠賀湾の存在を示す徴証や、弥生・古墳時代の遺跡分布などを現地調査し、併せて遠賀川及び西川における潮の遡航についても、事実を確認した上で論証を進められるように期待する。」(「『にぎたつ』考その2」、『多元』No.
三八)
これら下山氏の指摘は要を得て的確である。対して、福永氏は新稿においてどのように反論されたのかを見てみよう。
「ここが(鞍手郡新北)、津であり得たことは、平松幸一氏が論証して下さっているが、大日本地名辞書にも次のような記事がある。(中略)
○続風土記云、寛永五年、遠賀川は蘆屋浦より、潮さし入り、垣生中間に至る二里半とぞ、本川の西に鞍手郡新北村より来る川あり、西川と名つく、是も汐満つれば蘆屋より泝る。
寛永五年(一六二八)の時点で、潮が新北村にさかのぼるのである。弥生時代に潮の満ち引きする「弥生遠賀湾」を想定することは、決して無理ではなかろうと思われる。」(「万葉集の軌跡㈼─『日本書紀』との共同改竄」、『新・古代学』6集)
以上の様であるが、下山氏の指摘に対して正面から答えられていないのみならず、下山氏による批判があることさえも記されていない。しかも、大日本地名辞書の文に関しては誤読もされている。大日本地名辞書が引用している続風土記の文には遠賀川は垣生中間まで潮が遡るとあるが、西川については新北村から流れて来ていると記されているのであって、蘆屋浦から新北まで潮が遡るとは書かれていない。これを福永氏は新北村まで潮が遡っていると誤読されているのである。新北まで潮が遡らないことは、本号に掲載されている力石稿「万葉八番歌」でも明らかにされているので参照されたい。
この福永氏による誤読はこの新稿で初めてなされたのではなく、その元となった旧稿(注5). )でも行われており、旧稿での誤読を下山氏が既に指摘されてきたにもかかわらず(注6).
)、福永氏は新稿においても訂正も反論もせずにそのまま採用された。こうした対応は真摯な学問論争とは言い難く、理解に苦しむものである。
それだけではない。「ここが、津であり得たことは、平松幸一氏が論証して下さっている」とあるが、肝心の平松氏の「論証」なるものの内容も出典も明記されていないのは何故であろうか。もし、平松氏の「論証」が成立しているのなら、それこそ下山氏の批判に対する有効な反論と成りうるのであり、はっきりと紹介すればよい。この肝心の「論証」なるものを伏せられては読者は検証も反論もできない。自説の根幹に関わる論証であるだけに、はっきりと明記すべきである。
この平松氏の「論証」とは『新・古代学』5集に掲載された「新北が津であった時」という論文と思われるが、はたして福永氏がいうように論証が成立しているのかを次に検証する。
平松氏の「新北が津であった時」(『新・古代学』5集)は福永新稿(『新・古代学』6集)の一年前に出されている。平松稿は冒頭次のような書き出しで始まる。
「福岡県鞍手郡鞍手町新北(古名:新分、読み:にぎた)という地名があることを聞き、さっそく地形図(二万五千分の一)で標高を調べたら、ちょうど一〇メートルであった。」
そして、氏は次のように論旨を展開される。
「標高一〇メートルの等高線をたどって、新北周辺の当時の海岸線を再現してみた。」
「新北津の歌が唄われた頃、遠賀内湾の海岸線は標高一〇ないし一五メートルの間にあった、と想定する。」
このように平松氏は万葉八番歌の熟田津を、福永説に基づいて鞍手郡新北と最初に決めた上で、その新北が津(港)になるように海面を一〇〜一五メートル上昇させた。そして、その仮想海岸線上に○○津や××浦とつく「化石地名」が多数存在することを地形図から拾い上げられ、次のように結論づけられた。
「いつの頃か、明確に時期を特定することはまだできないけれど、有文字の歴史時代のある時、海岸線がこの付近にあったことは確かであろう。」
「第三次百済救援軍には、薩夜麻自らが総司令官として乗船することになった。時は六六三年初秋の七月、新北の津で月の出を待ち、潮位を確かめていよいよ出陣という時、中大兄や大海人と共に岸で見送る巫女歌姫額田王が、百済まで一ヶ月ほどの航海の安全を祈り、水軍の戦勝を期して朗詠したのがこの歌であった、】と、私は想像する。
名歌“熟田津・・・”の生まれた時、場所、情景について御同感頂けたであろうか?」
一旦は、「いつの頃か、明確に時期を特定することはまだできない」とされていたのが、いつのまにか論証抜きで六六三年とされた事について今回は追及しないが、平松稿は福永説に基づいて鞍手郡新北説を採用し、いつの時代とも特定できないまま海岸線を一〇〜一五メートル上昇させられたのであり、別に福永説の正当性を論証されたものでは全くないのである。むしろ、平松氏は福永説という仮説の上に仮説を積み上げただけで、それを福永氏が「平松幸一氏が論証して下さっている」などというのは、よく言って同義反復、はっきり言えば自説の致命的欠陥をごまかすための“テクニック”と思われてもしかたないのではあるまいか。これでは、平松説の紹介や出典を明記できなかったのも当然かもしれない。
この平松稿には他にも多くの論理的誤りがある。二点だけ指摘しておこう。一つは、自説に都合の良い場所(鞍手郡新北)を港にしたいためとはいえ、その付近の海岸線だけを一〇〜一五メートル上昇させるのは不可能である。もし鞍手郡・遠賀郡の海岸線が上昇すれば、同時に日本中(正確には世界中)の海岸線が上昇し、全国の等高線一〇〜一五メートル以下に多数存在する弥生時代・古墳時代の遺跡は軒並み水没する。こんなことは小学生でもわかる理屈だ。現に遠賀川流域に弥生や古墳の遺跡が多数存在しているが、福永説・平松説が正しければ、これらも水没するのである。
二点目は、「有文字の歴史時代のある時、海岸線がこの付近にあったことは確かであろう。」とされた点だ。日本の地図には、地名が漢字か仮名で書かれているが、それら地名が有文字時代に付けられたのか無文字時代につけられたのか、平松氏はどうやって区別されたのであろうか。以前、私は縄文海進現象を利用して、同一等高線上の類似地名調査による縄文語復原の可能性を論じたことがある(注7).
)。これなどは、縄文海進という科学的に年代が推定できる場合にのみ成立する方法であるが、氏のように七世紀の海岸線が現在より一〇〜一五メートル高く、その付近の地名がその頃(有文字の歴史時代)に作られたとする根拠は何であろうか。そのような科学的根拠などあるはずはないと思うのだが、氏の論理展開は理解不可能である。
古田史学・多元史観を代表する雑誌『新・古代学』には、科学的・論理的・実証的な論文こそがふさわしい。同誌5集と6集の編集には福永晋三氏(東京古田会)が参画されたと聞いているが、いみじくも藤沢徹氏(東京古田会会長)が『新・古代学』5集の編集後記に記されている通り、学術論文は「試論の組立が主観的でなく、論証・理論が充分成立するもの」が採用されるべきである。
わたしは職業柄、学術論文等(染色化学・染料化学)を読んだり書いたりしているが、自然科学の研究誌に採用される論文は、仮説だけではなくそれを証明した実験データと実験方法、参考引用した先行論文の明記は、最低限の必要用件である。この当然のことが古田史学・多元史観の中において、遵守しようとしない傾向が一部の論者にあることは残念である。たとえば、「豊前王朝説」論者などはその最たるものだ。自説に不利な考古学的事実(注8).
)や史料事実にはふれずに、仮説の上に仮説を重ね続け、その結果、できあがった歴史象はグロテスクでさえある。「例えば倭国東朝などといわれるものは、それを主張している人の観念の産物に過ぎず、史料を以て存在を証明できるものではないでしょう」(注9).
)という批判の声が出るのも当然なのである。
なお、この指摘は学問の「自由」や表現の「自由」とは全くの別次元の問題である。このことを念のため付言しておきたい。
(注)
1). 福永晋三「『日本紀』と万葉集の齟齬─倭国史再発見の契機─」、『tokyo古田会news』第七三号、二〇〇〇年五月。 福永伸子「万葉の面影《額田王》」、『tokyo古田会news』第七〇号、一九九九年十一月。
福永晋三「万葉集の軌跡プロローグ」、『tokyo古田会news』第七〇号、一九九九年十一月。
福永伸子「万葉の面影《額田王》」、『多元』?三八、二〇〇〇年八月。
福永晋三「古代の霧晴れて─国譲りと国戻し─」、『tokyo古田会news』第七五号、二〇〇〇年九月。
福永晋三「万葉集の軌跡㈼─『日本書紀』との共同改竄」、『新・古代学』6集所収。新泉社、二〇〇二年七月。
2). 下山昌孝「『にぎたつ』考」、『多元』 No.三六、二〇〇〇年四月。
下山昌孝「『にぎたつ』考その2」、『多元』 No.三八、二〇〇〇年八月。
下山昌孝「古代の佐賀平野と有明海」、『多元』 No.四二、二〇〇一年四月。
3). 古賀達也「肥前熟田津考─下山論稿によせて」『多元』 No.三七、二〇〇〇年六月。
4). 福永晋三「『日本紀』と万葉集の齟齬─倭国史再発見の契機─」、『tokyo古田会news』第七三号、二〇〇〇年五月。
福永晋三「古代の霧晴れて─国譲りと国戻し─」、『tokyo古田会news』第七五号、二〇〇〇年九月。
5). 福永晋三「『日本紀』と万葉集の齟齬─倭国史再発見の契機─」、『tokyo古田会news』第七三号、二〇〇〇年五月。
6). 下山昌孝「『にぎたつ』考その2」、『多元』 No.三八、二〇〇〇年八月。
7). 古賀達也「『言語考古学』の成立(序説)」、『古田史学会報』 No.二二、一九九七年十月。
8). 豊前に太宰府に匹敵する、あるいは準ずる政庁遺構がないこと、神籠石群が囲んでいるのは太宰府や筑後川中流域であり、豊前ではないことをわたしは指摘したが(「倭王の『系図』と都域」古田史学会報No.四六、二〇〇一年十月。)、豊前王朝論者からの反論も応答も見ない。
9). 小松洋二「白村江以後の倭国(8)」、『─「倭国」を徹底して研究する─九州古代史の会NEWS』 No.一〇五、二〇〇二年九月
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実をめて』(明石書店)第一〜六集が適当です。(全国の主要な公立図書館に御座います。)
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