古田史学会報
2002年12月 3日 No.53
古田史学会報五十三号 |
発行 古田史学の会 代表 水野孝夫
福岡市 力石巌
万葉集の第八番歌、周知の額田王の歌、「熟田津に船乗りせむと……」のあの「にぎたづ」の地が発見されたと聞いてからもう四年ほどになる。最初の発見者は立川市の福永伸子氏で、発表は夫の晋三氏であったと下山昌孝氏が書いている(注1)。福永氏の「にぎたづ」の比定地は、福岡県鞍手町新北。これに対して下山氏は反論し、佐賀県諸富町の旧新北村が「にぎたづ」であるとした。
多数の反論、賛成論が出されたが、その後、下山氏は諸富町に現地調査を決行し自説を一層深化伸展せしめた(注2)。この結果、「にぎたづ」論は下山説に落ち着いたものと思っていた。ところが、今夏、福永晋三氏は「倭国易姓革命」の考証に伴って「鞍手町新北」説を補強し自説の復活を果たした(注3)。
本稿では、これまでの先学の「にぎたづ」論を参考にしながら、浅学を惧れず初心者の目から見た「にぎたづ」を検討考察する。
万葉集には額田王の作とされる歌十三首ある。長歌三首、短歌十首である。全十首の短歌は次の通り。
《額田王の歌》資料1
i 綜麻かたの林の前のさ野榛の衣に付く なす目に付くわが背 (集十九)
ii あかねさす紫野行き標野行き野守は見 ずや君が袖振る (集二十)
iii 古に恋ふらむ鳥はほととぎすけだしや 鳴きし我がおもへるごと(集一一二)
iv み吉野の玉松が枝は愛しきかも君がみ 言を持ちて通はく (集一一三)
v かからむとかねて知りせば大御船泊て し泊りに標結はましを (集一五一)
vi 君待つと我が恋いをれば我がやどの 簾動かし秋の風吹く (集四八八)
vii 三輪山を然も隠すか雲だにも心あらな も隠そうべしや (集十八)
viii 熟田津に船乗りせと月待てば潮もか なひぬ今は漕ぎ出でな (集八)
ix 秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の みやこの仮盧し思ほゆ (集七)
x 莫囂円隣之大相七兄爪謁気わが背子が い立たせりけむ厳橿が本 (集九)
額田王は天武天皇の妃であり、後に天智天皇に召されたとの説もある。十首の歌は歌風の異同によって三区分することができる。 i 〜 vi が額田姫王の作で、vii〜
x は姫王の作でない。これが結論である。理由は以下の通り。
i は「男心をくすぐる天性のコケティッシズム」と古田武彦先生に評された歌。ii,iii,iv も同様、個性的、情熱的で誰が評しても「疑問の無い」額田姫王の歌である。
v,vi はやや身構えた歌だが天智帝に関する歌であり姫王の歌と考える他別の解釈はない。vii 〜x は、先の歌に比べその歌風が歴然として異なること、加えて歌の趣旨、歌の左注、姫王の立場から考えて、姫王の歌では有り得ないと判断される。以上、あえて額田王の全短歌を挙げて「八番歌」が姫王の作でないことを確認した。
実際、vii は井戸王の作であると解明されているし(注4)、また、福永晋三氏によれば viii は、神功皇后の三韓征伐の船出の歌であり、x は従来、訓読さえも解明されていなかったが、氏は初めてこれを解読し、やはり神功皇后の歌とした(訓は福永氏による)。
iv は考察中とのことである。いずれにしても vii〜x の作者は額田姫王とは別人の額田王と名のる人物と考えられる。
「斉明紀」によれば、百済救援のため斉明率いる船団は、斉明七年一月六日、摂津の難波京を出発、一月八日、備前大伯海(おほくのうみ)に到る。一月十四日、伊予の熟田津の石湯行宮に泊まる(出発から八日たっている)。そして、二ヶ月余りたった三月二十五日、「御船、還りて娜大津に至る」とある。熟田津から娜大津までの距離は難波から熟田津までと比べて短いのに日数は逆に八倍以上もかかっている。湯治が目的でない故、これは長すぎる。「八番歌」の出港の際のあの緊迫感をどう説明するか、考えられない悠長さである。歌の趣旨と斉明の行動目的との間の「著しい齟齬」、これは「八番歌」が斉明天皇の歌でないことの明白な証左と考えられる。
岩波文庫の『日本書紀』斉明七年の項の注には、「還りて」の説明として、「熟田津は寄り道。本来の航路に戻っての意。」とある。しかし地図を見れば分かるように、難波津から娜大津までの瀬戸内海航路では熟田津が主航路から大きく離れている訳ではない。ほぼ主航路の上にあるといって良いくらいである。熟田津に立寄って行くのに、普通、「還りて」とはいえない。では、「還りて」とは何か。又、斉明船団は二ヶ月余、何処で何をしていたのであろうか。
備中国風土記の邇磨郷の記事に、「斉明天皇西征の時、従行した皇太子(中大兄)が或る郷に下船したところ村人の意気軒昂なる様を見て天皇に申し上げた。天皇は詔を下し、試みに此の郷で軍士を徴したところ、たちどころに勝兵二万人を得て大いに悦んだ。しかし後に、天皇は朝倉宮で崩じたので終に此の軍を遣はさなかった。」とある(注5)。
この記事は「斉明紀」とも対応しており、これを考えれば、斉明船団は熟田津に長期碇泊していた訳ではないことが分かる。二万人もの徴兵を動員するには軍組織の編成、軍船軍器の調達等々かなりの手間ひまがかかる。船団を備中まで差し戻して軍の再編を行った後、船首を再び西に向け、還りて航行して娜大津に入港した。このように考えれば、「三ヶ月の空白」の謎に納得がいく。
「この歌の解釈は諸説多岐詳細にわたり、難問山積す」(注6)、といわれている通り解釈には多くの先蹤がある。
1)熟田津とは何処か
下山氏によれば、肥前国新北、和泉国和田、磐城国仁木田、伊予国熟田津、鞍手郡新分郷を「熟田津」の関連地としている。人麻呂も「和田津(にぎたつ)」を歌っている(集一三一、一三八)。伊予には「にきた」の地名がないので、多元史観の中では、鞍手郡新北(福永説)、諸富町新北(下山説)の二択問題となっているのである。
福永説は歴史的事件、事跡との関連が実によく対応している。氏の説は、奇想にみえるが豊かな知的発想と論拠に支えられているため、反論は容易でない。私は、「熟田津」は鞍手郡新北ではないと考える。二択問題の中では下山説を採る。諸富町新北が古くからの良港であったことは下山論考に尽きているので省略し、ここでは地理的観点から鞍手郡新北がなぜ不適当であるかを述べる。
まず第一、縄文時代の末期には遠賀潟は縮退し鞍手郡新北は陸化していた(資料2)。虫生津、古月、新延、猪倉、小牧、光田、天神橋は新北から2キロメートル以上離れた水際の地であった。貝塚は標高5メートルの等高線上に分布している。弥生時代以後の鞍手郡新北は三方山に囲まれた低地となり西川が流れていた。新北を取りまいている多数(八〇以上)の弥生以降の遺跡が発掘されている。
第二、潮の干満の話がある(注2)。
「遠賀川は蘆屋浦より潮差し入り垣生中間に至る二里半とぞ云々」
とあり、従って新北にも西川から潮が差し入ったのではないか(注2・3)、という問題を考える。
西川と遠賀川は平行して流れており河川縦断勾配は両者ほぼ同様と考えられる。資料3は遠賀川の感潮域が中間(なかま)市垣生に達している状態を概念図で示している。河口(芦屋港)の干満差は約2メートル、高水位の標高は1メートル20センチメートル前後である(芦屋漁協調べ、九月)。河川の流れが定常流(流量、流相が不変の流れ)であれば、感潮区間の干満差は、河口で最大、上流点(垣生)で零となる。上流点では水面勾配の変化に伴い水位が若干増位する(緩和水頭)。河川の水は絶え間なく流下して来るが高水域に入れば潮水と混じり流速を失う。しかし流量が変わらないため水位が上がる(ベルヌーイの定理)。新北に潮差し入ったとすれば、新北の水位は、図の中間(垣生)と同じ状態になる。即ち干満差ほぼ零(5メートル以下)となる。以上によって、弥生時代以後の新北は陸地であり、西川に潮が入って来ても干満差は生じないことが解る。従って、鞍手郡新北は熟田津ではないと判断される。
2)船乗りせむと
これには、「出航」と「船遊び」の二説がある。「にぎたづ」の歌の緊迫した語気から考えれば「出航」が妥当する。遠くへ遠征するからこそ出航のかけ声に決意がみなぎるのであって、近辺の川、潮沼での「遊覧」や「神遊」びならなんでこんなに気迫のこもった言葉で「船出」を宣する必要があろうか。「遊覧」や「神遊」びなら小船でよく、「船出」よりも、むしろ「遊興」や「儀式」に力点が置かれるのではないだろうか。なお、潮待ちするほどの大型(5屯以上)の回遊船の出現は中近世以降と思われる。
3)月待てば
月の出(明り)を待つ、月の渡り(位置)を待つ、満月を待つ(神霊的慣習)の3案が考えられる。私は、出航に際して潮位の上がるのを待っているのだと考える。天空での月の位置は補助目盛(キャリブレイタ)である。特定の山や木等の真上に月が渡り到ったとき、満潮となる。その時を待っているのである。船出に月明りや満月は必ずしも必要でない。星や山影、島影が見えればよい。船乗りには、濃霧、暴風雨、外洋での航行不能(停止)が一番恐ろしい。
4)潮もかなひぬ
この潮を「潮位」ではなく「潮流」とみなす説がある。月を見て、「潮流」が期待通りの方向と流速になったとき出航すると考える説である。海峡部なら考えられなくもない。しかし熟田津の近くに潮待ちするほどの海峡はない。やはり、「潮位」とみるのが自然で意味の通り具合もよい。
5)今は漕ぎ出でな
とも綱を放て、さあ漕ぎ出すぞ! 気迫のこもったかけ声。魚釣りでも遊覧でもない。命運をかけた出港だ。目指すは韓半島。「天智紀」等によれば、船兵二万七千、軍船一千艘等とあり、とても一軍港に収容できる船数ではない。遠賀潟、洞海湾、伊万里湾、有明海等の沿岸に軍港が散在していたはずである。ちょうど戦前の神戸や呉、長崎や佐世保のように。
諸富町新北(寺井津)の場合、干満差5メートル以上、故に敵襲に対して不利ではないかとの意見がある。これは干潮時、船が干潟に座州することを措定していると思うが、その時敵船も又同じく動けないことを忘れてはいないだろうか。仮に敵船が航行可能で来襲して来るとしても、島原の早崎瀬戸を通過して九〇キロメートルも北にある寺井津に達するには、ほぼ一日を要する。防人(崎守)がこれを見逃すはずはない。寺井津は、筑後川河口の湾曲した分流部(早津江川)を港としているため洪水時、本流の衝撃を受けず、澪も深く広い。初めて寺井津を訪れた時、倭船にとっては自然の良港であることを直感した。
韓国の仁川港( インチョン 干満差9メートル)では、五十屯級の船が干潟の泥砂の上に座っていたのを思い出す。無料の乾船渠(ドック)なのだろう。
ここまで書いていて、ふと書棚に目をやると『万葉集の向こう側』が置いてあった。今夏、「磐井の乱シンポジウム」の時の売れ残りの一冊を買ったのだった。書棚に突込んだまま忘れていた。鉛筆を指に挟んだままペラペラめくるうち、あっと手を止めた。「熟田津」が出ている。息を凝らして「東朝と熟田津の歌」という一説を読んだ。そこには、「斉明天皇は豊前難波津を発し伊予の石湯の行宮に行く。そこで朝鮮遠征の議論を十分固めた上で熟田津を出港したのではないか」と幻視する趣旨が書いてある。全くの新説、発想は違うが出港地は伊予の熟田津であり従来説の復活である。興味深い新説だ。しかもこの説だと「還りて娜大津に至る」のは何の他奇もない、自然だ。「幻想史学」の威力と思う。著者、室伏志畔氏の「八番歌」の解釈はこうだ。倭国の分王朝(東王朝)が朝鮮遠征に条件を付け、本朝(月がシンボル)からの返使をしびれを切らして待っていた。月からの使者がようやく到着し、「諾」と伝えたので「潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」となった。とのことである(注7)。なるほど、そういう解釈もあるのか、このぶんだと「にぎたづ」論もまだまだ続きそうだ。そう思うと疲れがどっと出てきた。
実証史学であれ幻想史学であれ、真実を把んでいれば結果は同じだ。同じ結論に向かう。しかし、いずれにしても「証明」がなければ、「仮説」や「予想」あるいは「通説」のままで残り「定説」にはならない。「フェルマーの定理」が三五〇年余りの長期にわたり「予想」であり続けたように。
〔了〕
(注)
(注1)下山昌孝「にぎたづ考」、『多元』三六号、「多元的古代」研究会・関東編。
(注2)下山昌孝「にぎたづ考」その2、『多元』三八号、「多元的古代」研究会・関東編。
(注3)福永晋三「万葉の軌跡?」、『新・古代学』六集、二〇〇二年七月、新泉社。
(注4)古田武彦「額田王と井戸王」、『人麻呂の運命』一九九四年、原書房。
(注5)古田武彦「狂心の天皇」、『多元』三八号。岩波・日本古典文学大系四八六〜七頁。
(注6)新日本古典文学大系1『万葉集一』一九九九年五月、岩波書店。
(注7)室伏志畔『万葉集の向こう側』二〇〇二年七月、五月書房。 ○その他
会員からのお便り
相模原市 冨川ケイ子
前略
十月の例会にまた参加させていただきありがとうございました。皆様の研究発表を楽しくうかがいました。私の勉強はなかなかはかどらないのですが、細々とでも続けていく元気が出ました。十一月は都合で出席できないので、いくつか気がついた点を書かせていただきます。
まず、二倍年暦は世界中の古典に痕跡が残されているはずだ、とのことですが、筑摩世界文學系1『古代オリエント集』(訳者代表・杉勇、昭和五三年、筑摩書房刊)の中に、百十歳は「古代エジプト人の理想の年齢だった」との記述を見つけました(五一七頁注)。同書からいくつかのテキストを挙げます。
一、「ウェストカー・パピルスの物語」(屋形禎亮訳。解説によると、ベルリン博物館蔵、パピルスに書写されたのはヒクソス時代の末〔前千六百年前後〕、物語は少なくとも第十二王朝〔前二十世紀〕、祖形の口承は第五王朝〔前二五世紀〕に遡るという。)同書四一九〜四二〇頁。王子デデフホルがクフ王に魔法使いジェディの人となりを紹介する段。
「平民の男で、名前はジェディという、ジェド・スネフルに住んでおります。百十歳になる平民の男で、今でもまだ(日に)五百個のパンと肉、そして牡牛の肩肉(前半分)をたいらげ、百本のビールをのみます。・・・」
二、「宰相プタハヘテプの教訓」(屋形禎亮訳。解説によると、第五王朝末(前二千四百年頃)の作という。)同書五一七頁。最初に述べた、注のある部分です。
「われは至福の座に(いたる)まで王のため正義を行ないたるが故に、先祖たちにもまさる寵愛をえて、王の与え給いし百十年の生命を達成せり。」
三、「オンク・シェションクイの教訓」(杉勇訳。解説によると、エジプト後期の教訓文学の一つ。)同書五六八頁
「若いうちに息子が得られるよう、二十歳になったら妻を娶るがよい。」
この部分は二倍年暦とは言えないかもしれません。
四、「「後期エジプト選文集」より」(杉勇訳。解説によると、後期エジプトでは学習のための模範文例がパピルス紙やオストラコン〔陶片〕に多数残されており、当時の世相を知る資料になっているという。)同書六三九頁
「おお、王の右にあって扇を持つ者、神ゲブの広間の皇太子、「永劫の地平」にある神社の司祭、王の真の書記官、王に愛されたる人、あなたのご境遇が百万回も生を受けた人のようでありますように。「二つの邦」の創始の神、神々を創りたもうたアメン・ラーがあなたのためにお力をふるわれますように。また、あなたの御口はすこやかにて、いかなるきずもあなたには見し得ませぬによって、この神が王の恩寵をあなたに授けたまいますように。時の王、正義を愛する神ホルスのご愛顧を受けられますように。この世で百十の齢をまっとうされますように。・・・」
百十歳というのが二倍年暦の、実際にありうる年齢だったのか、注にあるように単なる願望、理想だったのか、もう一つはっきりしないように思いますが、ご参考までに。
次に、研究会の時に言いかけてそのままにした兄ウカシ、弟ウカシは男性か女性か、という問題について、なお補足させていただきます。
歴史書と名のつく書物に女性が登場することはめったにありません。たまに出てきても添え物、よくて彩り程度です。人口の半分は女性のはずなのに、寂しい限りでございます。このことは、日本書紀の神武天皇紀を少しずつ読んでいて気がつきました。まず弟ウカシについてですが、敵地を怪しまれずに通行するために老嫗に変装したことが書かれています。始め、新参者の忠誠心を試すために女装させたのだろう、などと憤慨していたのですが、神武天皇の元からの家臣として名前の出る(二人のうちの)一人、道臣命(日臣命から改名、大伴氏の先祖)に「嚴媛」という別名が授与されて、女性だとわかった時に、それなら弟ウカシも本来が女性だから老嫗に変装したと考えた方が自然だ、と思いなおしたのです。同じ時、椎根津彦は「老父」に変装しています。男性だからでしょう。
では、兄ウカシは? この人物は、「機」を使って神武勢力に対抗しようとしています。国史大系版(吉川弘文館)の日本書紀では「機」に「オシ」の振りがなが当ててありますが、古事記に「押機」とある影響ではないでしょうか。岩波書店刊行の日本思想大系版の古事記では、「紀は単に「機」に作り、下文に「蹈機而圧死」とあるので、踏むと大石が落下してきて圧死する仕掛けがしてあったものか。」(一二三頁の注)と恐ろしげな仕掛けのような解釈がされています。
日本書紀巻第一の「是後素戔鳴尊之爲行也甚無状」で始まる節の第一「一書」では、
「一書曰、是後稚日女尊坐于齋服殿、而織神之御服也、素戔鳴尊見之、則逆剥斑駒投入之殿内、稚日女尊乃驚而墮〔機〕以所持梭傷體而神退矣」(国史体系)
とあり、「機」には「ハタ」「ハタモノ」の振りがながほどこされ、前後の文章を合わせれば、明らかに機織り道具であります。同じ日本書紀の中で、「機」の文字を一方で「ハタモノ」と読み、一方で「オシ」と読むのでは、ダブルスタンダードになりましょう。仕掛けが何も無かったとは思いませんが、「ハタ」は、どう改造しようと、基本的に「ハタ」では? 兄ウカシはおそらく、最先端のハイテク「ハタ」をお見せしましょう、と相手を釣り出すつもりだったのでしょう。
日本書紀の神代の巻上では、素戔鳴尊が投げ入れた斑駒に驚いて怪我をし、「神退」ることになった稚日女尊は、「尊」の尊称で呼ばれる女神でした。後の律令の時代には、糸や布を差し出すのが女性一般の租税の一種となりましたが、機織りが女神や女王のお仕事だった時代がきっとあったのです。機織り機でいわば労災死を遂げた稚日女尊が女性であるように、機織り機で敵をおびき寄せようとした兄ウカシもまた、女性であったはずです。その上、兄ウカシが「機」にかけようとした相手方の首長もまた、本来は(神武天皇ではなく)女性だったことが想定できます。
機織り機を種に敵をおびき寄せるというのは、男性の発想ではありますまい。ウカシの文字がけものへんに骨(猾)であることから、兄ウカシ弟ウカシは獣の骨で占いをする巫女の女王たちだったことでしょう。
同じ神武紀に登場する兄磯城と弟磯城については、性別を考える材料が見当たらないため、断定はできません。ただ、どちらも弟の方が裏切っているのが示唆的です。外部からの強い圧力がかかった時、先行きの不透明な情勢が出現した時のナンバーツーの行動として、うなずけるものがあります。神武自身にしたところが、長兄は戦死、ほかの兄たちは、父は天神、母は海神なのに、どうしてこんな苦労をするのか、と不平を言って、行動を別にした(海に入った、あるいは常世の国へ行った)ように描かれています。
神武もまた、兄たちを裏切ったのかもしれません。
研究会の時、ウカシは地名で、神社も存在する、ということを教えていただきました。手元の漢和辞典(長岡規矩也編『携帯新漢和辞典』昭和四四年、三省堂)によれば、「猾」は漢音カ(クワ)ツ、呉音カ(クワ)チ、
1) ワルガシコい、 2) ミダす、とあり、ウカシの読みはありません。獣骨による占いを根拠とした自称なのか、ワルガシコさや秩序をミダす点に着目した敵側からの命名なのか、わかりません。地名だとすると落ち着きます。ここではあくまでも神武紀の記述のみでの推論です。同じ記事の中に天香山が登場しますが、それは奈良の天香具山なのか、古田先生がご著書『古代史の十字路』でおっしゃるように、豊後の国の鶴見岳なのか。老父にばけた椎根津彦と老嫗にばけた弟ウカシの採取してきた天香山の頂の土で、平[分/瓦]、天手抉、嚴[分/瓦]を作り、水なしに飴を作り、戦勝祈願のために、嚴[分/瓦](中身はなんでしょう?)を口を下にして川に沈め、魚を「浮流」(この文字面は古賀さんの論文〔「古田史学会報」No.
四九〕で拝見しましたが、関係があるのでしょうか?)させ、水面にあっぷあっぷさせた、とあります。毒物を流したのでなければいいのですが、もし鶴見岳の土なら火山性でしょうから、そういう成分が含まれていても不思議ではないかもしれません。
[分/瓦] は分の下に瓦です。
神武紀に登場するもう一人の女王、菟狹(うさ)津媛にも触れておこうと思います。彼女と菟狹津彦は、治める領地もない神武兄弟に一柱騰宮を作って提供したばかりか、神武の家来・天種子命と菟狹津姫は結婚します。神武紀の中で、命の尊称で呼ばれるのは、神武の一族(兄弟父子と妃)を除けば、道臣命とこの天種子命の二人だけです。「天」のカンムリがつく点に注目すれば、天種子命は、天神の子孫と名乗る神武一族よりも格が上なのではないか、とも考えられます。ちなみに、天種子命は、「日本書紀索引」(吉川弘文館)によると、ここ神武紀にだけ登場する人物です。一国一城のあるじである菟狹津姫が、領地も家もない一党の、しかも家来ふぜい(「侍臣」と書かれています)と結婚するのは、バランスが悪い(昔はつりあいを大切にしたはずです)ように思うのですが、根拠としてはいささか薄弱なので、違和感がある、とだけ述べておきます。
女装して敵を殺害した有名な人物に日本武尊がいます。景行紀によれば、殺された熊襲の魁帥である川上梟帥には取石鹿文(とりしかや)という別名がありました。同じ景行紀には熊襲梟帥(たける)の二人の娘として市乾鹿文(いちふかや)と市鹿文(いちかや)の名が出ています。鹿文(かや)が女性に対する敬称の類だとしたら、日本武尊にその名(日本武皇子)を授けた取石鹿文こと川上梟帥(たける)は女性だったことになります。かの卑弥呼が婢千人に囲まれてめったに人前に出ることもなかったように、日本武尊は川上梟帥に接近しようとしたら女装するほか手段がなかったのでしょう。神武紀には、弟ウカシが、倭国の磯城邑には磯城八十梟帥、高尾張邑には赤銅八十梟帥がいて、天皇に敵対している、と訴える場面があります。この梟帥たちも女性だったのでしょうか。
思いつくまま綴るうちにずいぶん長くなってしまいました。十二月の会合を楽しみにいたします。
草々
二〇〇二年十月二三日
〈エジプト年暦のみ闘論に掲載)
会員からのお便り
昨年十月、東京でお会いしてからごぶさたしておりまして申しわけありません。現在の職務がなかなかに忙しく、例会出席や「古田史学会報」への投稿もできないままです。もちろん、真剣な意志と論稿を書く能力がないことが一番の理由ですが。
さて、古田先生には古代史を観る眼を育てていただき、本当に感謝しております。
ところで、いくつか疑問を述べさせてください。一つ目は「万葉の十字路」の一節に関するものです。古田先生はその中で【〈籠よ み籠もち〉の歌は雄略にあらず、丹後の現在の籠神社近くを舞台に歌われたもの】とか【ヤマトの神と丹後トヨウケの神の歌】と言う新見解を出しておられます。丹後人としては嬉しいのですが、少し強引かなとも思います。かつての籠神社宮司さんの証言や「熊野郡誌」掲載の古老の口碑、久美浜町に残る「仲原家文書」によっても、海部氏は養老年間まで久美浜町海士にいたと見て取れます。これは、実は国宝祝部氏系図からも推測できるのです。祝部氏系図中の養老年間に祝部として奉職した人物が二〜三系統かさなっていることが以前から注意されてきました。
海部直[イ吾]佰道祝「従乙巳養老元年合卅五年奉仕」─────────────
児海部直愛志「従養老三年至于天平勝宝元年合卅一年奉仕」─────
児海部直千鳥祝「従養老五年至于養老十五年仕奉」・弟海部直千足・弟海部直千成
というように養老年間中、祝が重複するように記載されているのも久美浜町川上海士と天橋立籠神社との並立を示唆しているように思えます。広辞苑(昭和三〇年版)には籠神社のことを「こもりじんじゃ」とも説明しています。その根拠はわからないのですが、「籠」は確かに「こもる」とも読みます。そして久美浜町海士には「小森」という姓がたいへんに多いのです(私の妻の母は海士出身で旧姓小森です)。また、大江町元伊勢神社のある所を「河守(こうもり)」と言いますので、三系統の祝がいても理屈に合いそうです。それから、久美浜町海士の近く、川上の須田(黄金の環頭太刀が出た湯舟坂2号墳がある)には古田さんが人名かと考えられた「押奈戸手」とひょっとして関係あるかなと思ってもみるような姓、「戸出(とで)」さん「土出(どで)」さんもいるのです。また、もともと海士にいた海部氏が現在伝世鏡として所有している「奥つ鏡」「辺つ鏡」(前漢・後漢鏡)についてです。海士の矢田神社(古い伝統を持つ式内社)は海部直の祖「建田背命」を祭っているのですが、相殿に「建田背命」の子、「和田津見命(海神)」三柱の、「表和田津見命」「中和田津見命」「底和田津見命」を祭っています。これはあの金印が出土したすぐ近くにある志賀海神社の祭神と一緒なのだそうです。弥生北部九州と何か関係ありそうにも思えます。
いろいろとわくわくしますが、しかし、いずれにしましても、近年とみに有名になった籠神社のルーツについては慎重な検討がいるということ、宮司さんもかつての歴史的事実からジャンプしてややハイテンションな説明をしがちになっておられないかということ、「籠」という字やその他のことだけでこの神社を〈籠よみ籠もち〉の歌と関係づけるにはもう少し別の論証も必要だということを感じています。
二つ目に「浦島太郎」の末裔として質問させてください。古田さんは多倍年暦の証明の一つとして「浦島太郎三百年生存問題」を取り上げ、南方に六倍年暦(結局現在の五十年で、妥当な生存期間)の土地が在った証拠と確か言っておられたと思います。古賀さんも最近の会報でそれを紹介なさっていたと思うのですが、これは勘違いだと思いますのでその理由を述べてみます。「昔の世に水の江の浦島というものがあって、ひとり海上に出て、二度と帰ってこない。もう三百年あまりの年がたった。(丹後国風土記逸文)」と浦島子に語ったのは南方人ではなく里人の丹後人でした。倭人である丹後人が六倍年暦を使っていたというのはちょっと無理な話ですし、語り手を取り違えた推理だったと言えないでしょうか。
しかし、この話は実は古田さんたちの多倍年暦には有利なのです。雄略紀二二年(一応西暦四七八年)に丹後を出発した浦島子が二倍年暦の地、倭国(丹後)にその暦で三百年後に帰ってきました。現在の年暦百五十年後に帰ってきたのですから四七八+一五〇=六二八年に丹後に到着したのです。「古老の相伝える旧聞異事」を掲載した風土記の書かれた8世紀段階では、浦島子帰国はまさに「古老の相伝える旧聞異事」として矛盾なく語られることができるのです。読者も、かつて二倍年暦を使っていたことを知りながら読むので、合理的に理解することができたはずです。ところで、平安時代に書かれた『水鏡』には常世の国におもむいた浦島子が天長二年(八二五年)に帰ってきたと書かれているようです。これは二倍年暦の記憶が薄れてしまった9世紀日本人が四七八+三〇〇=八〇〇年頃に帰国するはず、という解釈から起こったフィーバーだろうと思うのですがどうでしょう。
以上、非礼を省みず疑問に感じたことを書かせていただきました。あるいは私の方が間違っているかも知れませんのでそうであればご指摘くださるとありがたいです。急に寒くなってきました。お体、お大切に。
〈十月二七日ちょっと暇なひとときを使って〉
池田市 山内玲子
『多元』No. 五〇で「対馬・壱岐古代史の旅」、横浜市・清水淹氏の報告の中の一部「豊玉町仁位の和多都実神社(延喜式名神大社)に行く」の紹介で、三角形の鳥居に囲まれるように磯良エビスという霊石があるという記事について一言申し上げます。
京都左京区太秦(うずまさ)に「蚕(かいこ)の社(やしろ)」という神社があります。主殿の左隣に泉が湧いていまして、その上に三角の鳥居があります。掲示板には「木嶋坐天照御魂神社」(コノシマニイマスアマテルミタマジンジャ)としてあります。又、三角形の鳥居は景教の影響ではないかと思われるが判明しない、と書かれています。写真を添えることが出来ませんのが残念ですが、とても立派な鳥居です。京都へ行かれることがある時は一度お訪ねになるとよいと思います。
交通の便は、京福電車、四条大宮発嵐山行き、「蚕の社」下車。駅のすぐそばに一ノ鳥居があり、約七百メートル北に位置しています。次の駅が「太秦」で、映画村、広隆寺があり、その次の駅が「帷子(かたびら)の辻(つじ)」で南西八百メートル位の所に蛇塚古墳(元は前方後円墳)があります。
奈良市 水野孝夫
「山柿(さんし)の門」とは、和歌の道のことをいう。「山柿の門に入る」とは和歌を学ぶことである。この「山柿」とは通説では万葉歌人の、 A.山部赤人と柿本人麿のこと、とされている。万葉学者の佐々木信綱氏にB.山上憶良と柿本人麿のこと、とする説がある。わたしは憶良と人麿説に説得力を感じていたのだが、室伏志畔氏が著書(1)、(2)で赤人と人麿説をとられたので、考え直してみた。
赤人と人麿説の根拠は昔から古今和歌集の仮名序にあったようだ。仮名序には「山の辺のあか人といふ人ありけり、哥にあやしく、たへなりけり。人丸は赤人がかみにたゝん事かたく、あかひとは人まろがしもにたゝんことかたくなむありける」とあり、古田武彦氏はこれを「人丸は・・以下の二つの文は、どちらも赤人の方が上だと述べている」と解された(3)ことは、会員方はご存知のとおりである。しかしここには「山柿」の語があるわけではない。室伏氏はこの古田説を踏まえて、赤人の歌を見直し、「不尽の山を望くる歌」(万葉集・巻三・三一七)はすごい歌で、当時の人が「あやしく、たへなりけり」としたのももっともであるとされたのである。なぜすごい歌なのかは、氏の本を読んで欲しい。
ところで「山柿の門」の語句をはじめて使った歌人はというと、万葉集の編者かとされている大伴家持であるようだ。万葉集には「山柿」の語は二箇所あり、巻十七の三九六九歌と三九七三歌の前に付された題詞の中に現われる。三九六九歌の題詞は大伴家持自身が書いたものと考えられる。時は天平十九(747)年春、家持は越中守に在任しており、この春には病気だった。彼は病床から次官であった大伴宿弥池主と毎日のように歌のやりとりをしている。池主あての漢文の手紙に歌が付き、最後に何月何日・大伴宿弥家持と署名した形式になっている。題詞は、この手紙文なのである。
「幼き年にいまだ《山柿の門》に逕らずして、裁歌の趣は詞を〈聚林〉に失ふ・・」。(私は幼い時に《山柿の門》の風に学び到らず、歌を作るにもどのようなことばを選ぶべきかを知らなかった・・)。
ここにはじめて「山柿の門」の語が現われる。三九七三歌の題詞は池主からの返事で、「山柿歌泉 比此如蔑」(山柿の歌も、あなた<家持>のこれとは比べものにならない)というオベンチャラになっている。家持には憶良の歌に和す歌があり、前記「〈聚林〉に失ふ・・」が憶良の「類聚歌林」という書名を踏まえていることから、憶良に傾倒していたことが明らかであり、また柿本人麿に傾倒していたことも明らかであるが、山部赤人に傾倒していたようには見えないのだが。
わたしの考え。家持は「山柿=憶良と人麿」と考えていたのだが、古今集序文(紀貫之?)がこれを「山柿=赤人と人麿」に変質させたのである。本心からか、なにかを隠すためかという問題はあるが。
(注)
(1)『万葉集の向こう側』、五月書房、二 〇〇二年七月。
(2)『日本古代史の南船北馬』、二〇〇二 年十月、同時代社。
(3)『古代史の十字路・・万葉批判』第九章、 東洋書林、二〇〇一年四月。
松山市 合田洋一
十月二十日(日)、古田史学の会事務局長古賀達也氏、全国世話人木村賢司氏のお二人を迎えて、北条市立ふるさと館に於いて、「古田史学の会・四国」の発会式と、古賀氏の記念講演が行われましたのでご報告致します。
出席者十九名、現在会員数十五名、世話人には竹田覚氏(北条市立ふるさと館・館長)が選出されました。そして、木村氏より「古田史学の会・四国」の旗が寄贈されました。
発会式のあと、古賀氏の記念講演に移り、その演題は、
1)“にぎたづ”について
2)『三国志』魏志倭人伝は世界史を変える
─二倍年暦の史料批判─
でありましたが、特に“にぎたづ”については、当地に関するテーマでもあり、活発な質問が相次ぎました。
殆どの出席者にとっては、従来の松山市内や北条市内の各所に比定地を求める説より知らなかったことなので、古賀氏の“にぎたづは有明海にあった”(下山昌孝説)、つまり、佐賀県諸富町新北説は、参加者一同、驚きの極みの中にも、その論証には充分首肯けるものがあったようです。
この発会式を期に、会員一同尚一層の“古代に真実を求めて”ロマン溢れる古田史学・多元史観の探究に務めることを誓いあいました。
〔8頁に発会式の写真と北条市広報「ほうじょう」平成十四年十月号を転載 新城山で縄文巨石群 発見公報内容は略〕
〔写真〕「古田史学の会・四国」発会式 なし
新・古典批判「二倍年暦の世界」3 孔子の二倍年暦 古賀達也
会外からのお便り
菊池市 藤崎英昭
拝啓
猛暑もいつの間にか記憶の彼方に、朝夕の涼気が確実な季節の足どりを教えてくれます。お元気でご活躍の様子、ご同慶の至りです。
さて、いつも「会報」を贈って頂きありがとうこざいます。興味深く読ませて頂いています。特に、今回の「会報」では二つの論文に強く引かれました。それは二つとも古賀君の論文で「仏陀の二倍年暦」というものと「志賀島の金印の読み方」というものです。それというのも、私が今しがた読み終えた「日本仏教史」(末木文美土・著)との関連で興味を引かれたからです。
この本の中では、仏陀の生年については、紀元前6〜5世紀、または紀元前5〜4世紀と併記してあるだけで、さらりと流してあります。しかし、後段の末法思想のところでは少し突っ込んで記してあります。
末法とは、仏滅後二〇〇〇年を経て、仏の教えのみ残って修行も悟りもなくなるという暗黒の時代のことを言うそうですが、平安時代、末法第一年は一〇五二年(永承七年)と信じられていたようです。これから逆算すると、仏滅年代は紀元前九五〇年頃となり、現代の説とは全くかけ離れていますが、その頃はその時代の社会不安を反映して、まことしやかに信じられていたようです。
この仏滅年代の紀元前九五〇年というのは中国では周の穆王五三年壬申にあたるとされています。その根拠は「周書異記」によるとされるのですが、その「周書異記」というのは、唐代の初めに捏造されたもののようです。
また、これは古賀君にとっては常識に属することかもしれませんが、仏教公伝の年です。これも、「元興寺伽藍縁起」による五三八年説と、「日本書紀」による五五二年説がありますが、「日本書紀」の方は当時の社会的混乱を隠蔽するためか作為が多く、信用できないということで五三八年説の方が有力でした。ところが最近の朝鮮古代史の研究で、百済の王の即位年代に十四年ずつのずれを持つ二つの系統の根本資料があることが分かり、五三八年と五五二年の十四年のずれはこの異なった資料に基づいたためではと、仏教の公伝の年についてもまだまだ議論が続くようです。このように年代の特定については、いろいろと難しい問題があるようですが、今回の古賀君の「二倍年暦」の論文は、その発想がユニークで古代仏教史に多くの議論を投げかけるのではないかと期待しています。
もう一方の論文「志賀島の金印の読み方」は、当時の中国の印の表記法がどうであったのかということに尽きると思いますが、その意味では古賀君の指摘が当時の作法に則った読み方を示している訳で正しいと思います。
ご存知のように、日本の仏教でも漢文の仏典を訓読と言う方法で日本語化しています。訓読とは、漢文の原文をそのまま残し、返り点や送り仮名をつけることで日本語のように読むことで、翻訳の労、外国語習得の労が要らず、はなはだ便利は技法な訳ですが、一方で恣意的な読み方の入り込む余地があり、ややもすれば両刃の剣ともなりかねない方法です。
たとえば、「如是我聞」という漢文は、「是の如く我聞けり」と一般的には読みますが、平安初期の西大寺本「金光明教」では「是の如きことを我聞きたまへき」と読んでいます。そして、本来の漢文の語法からいくと後者の方がより真実の語法に近く、前者のように「如是」を副詞的に読む読み方は返って特殊な用法であったようです。
何れにしろ、この場合は大意にそう隔たりがありませんから大きな問題にはなりませんが、親鸞の「教行信証」での「無量寿経」の解釈ではかなりの強引は解釈が見られます。たとえば、「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念、至心回向、願生彼国、・・・・・」という原文を「もろもろの衆生、其の名号を聞き、信心歓喜せむこと、乃至一念せむ。至心に回向したまえり・・」と読んでいます。もろもろの衆生という主語が、「至心回向」では阿弥陀様が主語になり阿弥陀様が回向してくださった、という解釈になっています。文脈の上での突然の主語の変更は、かなりこじつけ的ですが、ここから阿弥陀仏の広大なはたらきにただおすがりするという、いわゆる親鸞の「他力信仰」が展開されていきます。
これをけしからんと見るのか、結構なことではないかと見るのか、立場によって様々でしょうが、聖者のことばと言えどもこのような恣意的な解釈に基づいていると言うことは、極めて日本的なことではないかと思います。このように漢文の読み方には、曲解とも言えるいろいろな解釈がなされているようです。
しかし、問題になっている「金印の読み方」、これには恣意的な解釈を許さない、厳とした当時の作法、ルールがあったと思います。当時のルールが「二段国名表記」であったなら、論を待たず古田氏の説が正しいということになります。
ところで今回読み終えた「日本仏教史」もなかなか面白い本でした。6世紀の半ばに伝えられたと言う仏教は、やがて聖徳太子により鎮護国家という巨大なイデオロギーに仕立てられ、ただ民衆にとっては畏怖すべき呪力を持った異教として流布されていったものと思われます。
平安前期に現れた二人の俊秀、最澄と空海の功績と二人の確執(これは司馬遼太郎・著、「空海の風景」に詳しいですが)、特に空海がいやらしいいやがらせをしているようです。何れにしても、この頃の仏教はまだ国家の仏教、貴族の仏教でありました。民衆が仏教を具体的にどのようにとらえていたのか、考えていたのか、行動を取ったのか興味あるところです。
長くなりますので、この辺で止めます。考えがまとまったら、また手紙を書きます。と言っても、私の場合、論をなすと言うよりどうしても二番煎じになってしまいます。これも性分、いたしかたないことと思っています。
京都も今からがきれいでしょう。懐かしく思い出されます。みなさまにもよろしくお伝えください。 敬具
学問の方法と倫理 九 熟田津論争によせて -- 福永・平松論稿を検証する 京都市 古賀達也
□□事務局だより□□□□□□
▼本号には会内外からのお便り三通を掲載。森さんは浦島太郎の御子孫、冨川さんは夜行バスで関西例会に参加されている熱心な方。
▼古田史学の会・四国が待望の発会。関係者のご尽力に感謝。
▼良いお年をお迎え下さい。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実をめて』(明石書店)第一〜六集が適当です。(全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから。
古田史学会報一覧に戻る
Created & Maintaince by" Yukio Yokota"