2003年12月3日

古田史学会報

59号

1、稲荷山鉄剣銘文
の新展開について
古田武彦

2、大前神社
碑文検討応援記
水野孝夫

3、神籠石
古代山城を訪ねて
下山昌孝

4、「宇佐八幡宮文書」
の九州年号
古賀達也

5、太安萬侶 その五
称制の謎と紀の法則
斎藤里喜代

6、連載小説「彩神」第十話
若草の賦(2)
深津栄美

7、ウヒヂニ・ツノグイ
の神々の考察
西井健一郎

8、二倍年暦の世界
『曾子』『荀子』の二倍年暦
古賀達也

9、『古田史学いろは歌留多』
解説付冊子」
「FURUTA SIGAKU
壹の字バッヂ」の作成

 

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太安萬侶  その一その二その三その四その5


太安萬侶 その五

称制の謎と紀の法則

小金井市 斎藤里喜代

はじめに

 『日本書紀』は九州年号等によって確かにあった九州王朝を抹殺した書物である。その上九州王朝の記事を近畿王朝記事に転換した書物である。今は太安萬侶が苦悩のすえ残した日本書紀の法則を解いて九州王朝の記事の原形を取り出すのみである。
法則その一、是歳条、是月条は近畿王朝以外の別王朝の別時代の記事である。
法則その二、固有名詞や代名詞の一部省略、一部添加はしても改定は絶対にしない。元史料のまま書く。表記の違う名は、別文献である。法則その三、またの名、更の名は別人である。
法則その四、名をもらせりは敗戦国九州王朝の人物であり、名は解っている。
法則その五、割注以外の振り仮名は漢文に疎い近畿王朝の史官たちのための意訳である。
法則その六、摂政と称制は九州王朝と近畿王朝の天皇の男女の差や戦で留守がちの天皇の転換のトリックである。
 以上は長年の私の疑問を解決した結果の法則であり、その証明は突き詰めているうちはおもしろいのだが、書く段になるとつまらないので、後半でまとめて書く事にする


一、称制の謎

 前から天智天皇の称制には疑問を持っていた。舒明天皇と皇后の間に生まれた第一皇子葛城皇子が天智天皇だという。当然次期天皇であって不思議はない。しかし母の皇后が次期天皇、皇極天皇となった。皇極六四五年大化の改新には中大兄として大活躍しているのに次の天皇は皇極の弟の孝徳天皇である。孝徳天皇の崩御でまた母の皇極が斉明として返り咲く。その間皇太子は天智天皇である。そして斉明の崩御で七年の称制が始まる。
 どう考えても不自然である。岩波大系本補注十六─五によると皇太子は 中国で皇帝の嫡子を皇太子といい、皇帝のあとつぎであった。
 皇太子が天皇の後を継がないで、いつまでも、つまり五代の天皇の皇太子でいることは異常ではないだろうか。その上七年も称制と称して天皇位につかない。
 それに称制を岩波大系本補注二七─一ではこう説明している。称制とは、史記、呂后紀「中略」、また漢書、高后紀「中略太后臨朝称制」とあるように、中国では本来、天子が幼少のとき、皇大后が代わって政令を行なうことを意味する言葉であったが、日本においては、天智天皇が斉明天皇の崩後に称制して、七年正月初めて即位し、天武天皇の崩後、持統天皇が「臨朝称制」(朱鳥元年九月条)し、四年正月にいたって即位したことから知られるように、先帝が崩じたのち、新帝がいまだ即位の儀を行なわずに執政することを称制といった。とあるのである。
 要するに中国の称制は摂政と同じで、日本の場合も特殊なのは天智七年と持統四年だけなのだ。称制に特殊な意味を持たせて、摂政と区別したのは安萬侶である。
 天智天皇のとき、はじめ七年は九州では天皇が百済の戦いに行って留守がちで、皇太子が大活躍する。それを近畿の記事に変換するとき、天智が天皇に即位すると、皇太子は弘文天皇になってしまうので、称制に特殊な意味を持たせたのであろう。
 それから持統の始めは九州年号の朱鳥元年九月の記事なので、九州の天皇が幼くて皇大后が四年臨朝称制していた可能性がある。


二、素服(しろふく)

 「斉明紀七年七月二十四日崩。皇太子素服称制。」素服は岩波大系本頭注では「麻衣の御服。素は白。白の麻衣は万葉二三〇にも「白たえの衣」とある。」と書いてある。しかし「素」が「白」なら「素服」は白服でしかない。振り仮名の「あさものみそ」はその振り仮名の出来た時代の解釈であろう。しかし『日本書紀』を作ったばかりの解釈は書いてあるとおり「しろふく」でよいとおもう。
 なぜそうおもうかというと、私の生まれ故郷埼玉県秩父市の端っこ中宮地町の葬式では、母の娘のころ、列席者の喪服は死者と同じように白装束で、男は頭には幽霊と同じ三角の白い布のはちまきをして、女は白い絹の着物に白い絹の帯そして頭に白い鉢巻き様のひもをするのである。母は今でも喪服の絹の白帯を東京用に黒く染めた帯を持っていて話してくれる。要するに素服(白服)は単なる「喪服」だろうとおもう。
 最近私も秩父の田舎の葬式に出たが、読経のさい、頭に藁一本と榊のような葉を一枚乗せられ、男の人用には幽霊が頭にする三角の布のはちまきが用意されていた。葬式を仕切るのは地区の総代であり、近所中が協力する。墓も寺のものでなく地区のものである。きつねが化ける時木の葉を頭に載せるのと、きつねが稲荷の使いなのと関係があるのだろうか。
 秩父と九州と近畿を結ぶものは七〇八年和銅の献上である。これは対馬の金の次の献上である。対馬は九州王朝直属の国だが、秩父は遠い関東の武蔵の国である。何を献上しても近畿王朝は喜ぶだろう。悪く言えば最初の寝返りだろう。
 気はいいが早とちりで、すぐ集団的にまとまってしまうお国柄は古くは秩父事件、新しくは伝染しない病気の療養施設の建設を応対した、市役所事務員が伝染すると誤って伝えたことから発生した追い出し事件でわかる。
 和銅の献上が周辺の国のどこより早いのは分かるが、九州王朝の支配していた全国の中で一番というのは、いやはやとしか言いようがない。 そんな秩父の古い形式の葬式が、九州か近畿かの素服の皇太子が天皇の喪の期間に喪服のまま、ほんの一時期臨時の政務をとっておかしくない、とおもわせる。

 

三、称制の中の天皇と大皇弟

 天智称制七年間に「天皇」の文字が一回出てくる。岩波の称制の説明どうりだとしたら、「天皇」は死んだ斉明である。しかし生きた「天皇」として出てくる。三年春三月九日条 「天皇、大皇弟に命じて冠位の階を増し換ふること、(中略)是を二十六階とす」
 岩波は頭注で、この「天皇」を「皇太子の中大兄(天智)のこと。即位は七年なので天皇とあるのはおかしい」といっている。「おかしい」これこそ安萬侶のメッセージなのである。「天皇」は九州王朝の天皇であり、「大皇弟」は天皇の弟か叔父である。けっして頭注でいうように「中大兄皇子の弟の大海人皇子」ではないのである。
 この「大皇弟」は孝徳紀の白雉四年是歳条に太子が倭京に遷りたいとして、皇太子が天皇の反対を押し切り、皇祖母尊と間人皇后と皇弟等を率いて倭飛鳥河辺行宮行った。と出てくる。同じ孝徳紀の白雉五年十月一日皇太子が天皇の病気のため皇祖母尊と間人皇后と皇弟と公卿等を率いて、難波宮に帰ってくる。この皇弟と同じであろう。
 するとこの二つの皇弟は九州年号であるので九州の天皇の弟である。この天皇は十月十日に崩御するので、ここ白雉に出てくる皇太子と皇弟は斉明紀には天皇と大皇弟となったと考えられる。この活発な天皇は戦で留守がちなので、彼の息子の皇太子と大皇弟が内政を担当していたのだとおもう。
 先ほどの頭注ではその後に「皇弟を尊んで大皇弟と記したものか。八年十月条に東宮大皇弟とある」と続けているが、八年は九州の皇太子の即位後である。その即位が日本書紀本文の七年正月三日か或本いうの六年の三月かは聡明な多元主義の皆さんの判断に任せよう。
 つまり百済救援の戦いに忙しく留守勝ちな天皇の代わりに九州国内の政務を執っていたのは皇太子と大皇弟なのである。五世紀倭王武の上表文にあるとおり、天皇は自ら甲冑に身を包み前線で戦っているのだ。
 天皇が捕虜になると、皇太子が即位して新天皇になつたか、あるいは単に皇太子が死んだかした。そのとき大皇弟は皇太子の位に着いたが、歳をくっているので皇太子とは言わずに同じ意味の東宮を名乗ったのである。それで即位後の八年には東宮大皇弟として出てくる。ピタリとはまるのである。岩波の解釈だと、変なところがいっぱい出てくる。私の解釈だと自然である。なんの疑問点もでてこない。私の解釈はどこか変であろうか?


四、法則その一の証明

 是歳条、是月条は近畿王朝以外の別王朝の別時代の記事である。
この法則を見つけたきっかけは推古紀二十八年是歳条を見たときである。「何だこの記事には固有名詞も年月日もないんだな。これだとどの記事の後へもくっ付けられる」とおもった。読み下し文を岩波大系本から引いてみよう。
 是歳、皇太子・嶋大臣、共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部併せて公民等の本記を録す。
 どうであろう。皇太子はどの天皇にも居る。嶋大臣はあだ名、つまりニックネームである。推古紀三十四年夏五月大臣薨条に庭の中に小なる池を開けれり。よりて小なる嶋を池の中に興く。故、時の人、嶋大臣と曰う。とある。


五、法則その二の証明

 『日本書紀』では固有名詞や代名詞の一部省略、一部添加をしても改定は絶対しない。元史料のまま書く。表記の違う名は別文献である。この証明の前にひな型の『古事記』にその逡巡が見られるので、『古事記』データーから書く事にする。
 『古事記』のデーター
 アマテルは三〇個中二十八個が「天照大御神」で統一されている。後の二個は上巻中巻一個ずつ「天照大神」である。
 スサノオは二〇個中十四個が「速須佐之男命」で統一されかかっている。後の六個は「建速須佐之男命」三個、「須佐之男命」二個、「須佐能男命」一個である。
 イザナキは十九個中十三個は「伊邪那岐命」で統一されかかっている。後の六個は「伊邪那岐大御神」二個、「伊邪那岐大神」一個、「伊邪那伎大神」一個、「伊邪那岐神」一個、「伊邪那伎命」一個である。
 イザナミは十六個中十一個が「伊邪那美命」で統一されかかっている。後の五つは「伊邪那美神」である。
アマテルは統一しているが他のは統一を途中で止めた状態と見る。
 その反対の極にあるのがオオゲツヒメである。六個中全部違うのである。大気津比売神・大気都比売・大宜津比売神・大宜都比売・大宜都比売神・大気都比売神わざと違えてあるように少しずつ違う。『古事記』での試行錯誤の結果が『日本書紀』に現れている。元の資料どうり忠実に写しているのである。
 『日本書紀』のデーター
 アマテル
 第五段本文ーー「日神」一個・「大日メ*貴(おおひるめのむち)」一個・一書云「天照大神」一個・一書云「天照大日め尊(あまてるおおひるめのみこと)」一個
 第五段第一一書──「大日メ*尊(おおひるめのみこと)」二個
 第五段第二一書──「蛭子(ひるこ)」一個
 第五段第六一書──「天照大神」二個
 第五段第十一一書──「天照大神」五個
 第六段本文──「天照大神」五個・「姉」三個・「阿姉」一個
 第六段第一一書──「日神」四個・「姉」一個
 第六段第二一書──「天照大神」四個・「姉」二個 第六段第三一書──「日神」五個
 第七段本文──「天照大神」六個
 第七段第一一書──「稚日女尊」二個・「天照大神」一個
 第七段第二一書──「日神」七個・「日神尊」一個
 第七段第三一書──「日神」九個・「姉」四個

メ*は、[雨/口三つ/女]。JIS第3水準、ユニコード5B41

 どうであろう。こうしてみると、書物によって表記が違うのがわかるであろう。つまり一書の中はほとんど同じ名なのである。「姉」というのは「スサノオ」の発している言葉である。「姉」は安萬侶のトリックかもしれない。とにかく元資料のまま書かれていることはこのデーターを見れば一目瞭然であろう。

 

六、法則その三の証明

 またの名、更の名は別人である。
 「上宮太子」でやってみよう。
用明天皇と穴穂部間人皇后の第一皇子「厩戸皇子」更名「豊耳聰聖徳」(ママ)或名「豊聰耳法大王」或云「法主王」是皇子初居上宮
用明二年「厩戸皇子」
推古元年 立「厩戸豊聰耳皇子」為す皇太子。居、宮南上殿、「上宮厩戸豊聰耳太子」
推古二年から二十八年是歳条まですべて「皇太子」で十九個
推古二十九年春二月五日半夜「厩戸豊聰耳皇子命」薨宇斑鳩宮
是月条 葬「上宮太子」於磯長陵。慧慈聞く「上宮皇太子」薨。為「皇太子」請僧。「上宮豊聰耳皇子」。今「太子」既に薨。「上宮太子」「上宮太子之聖」
 どうであろう。初めと終わりにバラエティーに富んだ名が列挙されているが、中間はすべて皇太子である。終わりの、推古二十九年、薨の斑鳩宮は「厩戸豊聰耳皇子命」で近畿、是月条は葬式で「上宮太子」系で九州である。はっきり史料が分かれているのである。厩戸皇子と上宮太子は別人である。
 「天智天皇」でもやってみよう。
 舒明二年春正月十二日立宝皇女、為皇后。生。一曰く「葛城皇子」(割注近江大津宮御宇天皇)
舒明十三年冬十月九日天皇崩宇百済宮。十八日是時条、「東宮開別皇子」年十六而誄之。
皇極紀 「中大兄」十六個
孝徳紀 「中大兄」七個 「皇太子」四個
斉明紀 「皇太子」
 葛城皇子と東宮開別皇子と中大兄と皇太子は別人の四人である。
 「古人大兄」でもやってみよう。
舒明紀 「古人皇子」一、「更の名大兄皇子」一、
皇極紀 「古人皇子」一、「古人大兄」三、「古人大兄皇子」一、
孝徳紀 「古人皇子」一、「古人大兄」七、「更の名古人大市皇子」二、「或本云古人太子」一、「或云吉野太子」一、「吉野皇子」一、「吉野古人皇子」一、「吉野大兄王」一、
 これは古人と吉野の二人の人物を無理矢理同一人物に仕立て上げようとしているのだ。


七、法則その四の証明

 名をもらせりは敗戦国九州王朝の人物であり、名は解っている。
 斉明四年四月エミシ征伐の阿部臣(名をもらせり)は、同じ四年の是歳条では越国守阿倍引田臣比羅夫討粛慎と詳しく書いてある。是歳条は九州王朝の可能性がある。
斉明五年も六年も阿倍臣は名をもらせりなのだ。五年は或本云阿倍引田比羅夫粛慎と戦うとあり、解っているのだ。六年三月は阿部臣(名をもらせり)は粛慎征伐で、五月是月条は阿倍引田臣(名をもらせり)も夷を五十人献上した。
 天智即位前紀に大山下狭井連檳榔小山下秦造田久津、或本にも同じく書いてあるのに、天智元年には狭井連(名をもらせり)朴市田久津とあり、解っていることみえみえである。


おわりに

 法則のその五、その六は既に書いたことの応用であるから、殊に証明しなくとも多元史観の皆さんにはお解りになると思うので、ここで筆を置こうとおもう。
    (二〇〇三年七月二十四日記了)


 これは会報の公開です。史料批判はやがて発表される、『新・古代学』第一集〜第八集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜十集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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