2003年10月10日

古田史学会報

58号

1、『平家物語』の九州年号
  古賀達也

2、突帯文土器と支石墓
  伊東義彰

3、太安萬侶その四
苦悩の選択
  斎藤里喜代

4、二倍年暦の世界5
『荘子』の二倍年暦
  古賀達也

5、高天が原の神々の考察
  西井健一郎

6、市民タイムス
善光寺如来と聖徳太子

7、連載小説「彩神」第十話
  若草の賦(1)

8、いろは歌留多贈呈
鬯草のこと
事務局便り

 

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太安萬侶  その一その二その三その四その5


太安萬侶 その四

苦悩の選択

小金井市 斎藤里喜代

はじめに

 太安萬侶その三(日本書紀成立)古田史学会報 No.五六・十四頁の一段目第五行目「解けるのである。意味不明だった多人長」は前ページの四段目後ろから二行目の「行のダブり」であるので、無視してほしい。
 さて、その一(出自)、その二(古事記成立)、その三(日本書紀成立)と連載してきた。この四(苦悩の選択)で締めくくろうとしたが、日本書紀における九州王朝の記事の使い方のトリックが天智称制記事によってわかったので、その五(称制の謎と、紀作成の法則)と続ける事にした。日本書紀作成の法則を作ったのは安萬侶を除いては考えられないのである。その二で、お約束した梅沢伊勢三氏の紀前記後説と、古田武彦氏の注目した伏生の話はここ、その四(苦悩の選択)で触れることにした。
 また、その一で、二個所の脱文章が有ったのだが、その一の中では差し障りが無かったのでそのまま進めてきた。しかし、この苦悩の選択を書くにおいて、必要なインパクトが弱くなっているので、脱文章を入れてその個所を再構築したいとおもう。

 

一、出自

 『弘仁私記序』には「夫れ日本書紀は一品舎人親王・従四位下勲五等太朝臣安麻呂等、 勅を奉じて撰した所也」とあり、
 脱文章 (1)[『日本紀竟宴和歌』の延喜六年(九〇六) 「日本書紀は一品舎人親王・従四位下(太朝臣安満)等、勅を奉じて撰した所也り」とあり、]
 天慶六年(九四三)には「勅、一品舎人親王・従四位下(太朝臣安麻呂)等、 俾撰録日本書紀」とある。

 この三つの元史料は別である。(安麻呂)(安満)(安萬侶)と名前の表記が違うのは、複数の別史料からの引用だと思う。『弘仁私記』の多人長ばかりが安萬侶の日本書紀制作を唱えているのではない。「従四位下」が揃っているのは『続日本紀』と墓誌により明白な、卒年の位階で言っているのである。
 「安満」は安萬侶から派生した愛称である。安麻呂からではないのがはっきりした。「麻」は「ま」しか読めないが、「萬」と「満」は「まん」である。そして阿本仲麻呂が中国で「仲満」(ちゅうまん)と呼ばれていたことは有名である。これも仲萬侶もしくは仲万呂が正式名ではなかったかと思う。
  『続日本紀』では「まろ」はほとんど「麻呂」であり、たまに「麻侶」とか「万呂」があり、「麻呂」は近畿の通称ではないだろうか。
 脱文章(2) [多臣(おほのおみ)蒋敷(こもしき)は九州王朝の臣下である。]六六一年九月皇太子は百済の王子豊璋に彼(こもしき)の妹を妻し、狭井連等、軍五千余を率いて本郷に送らしむ。
 この二個所の脱文章は「太安萬侶その一出自」の太安萬侶の出自が九州王朝である事を強化させるものだった。

 

二、太安萬侶の苦悩の選択および伏生説

 『日本書紀』は九州王朝を抹殺した書物である。その上九州王朝の記事を近畿王朝の記事に転換した書物である。そしてそれを指揮したのは太安萬侶である。
 古田武彦氏は昭和二十年の論文「古事記序文の成立について ──尚書正義の影響に関する考察」で伏生が秦の焚書を逃れて尚書を壁蔵して二十九得た話をC)「誦習」について── で触れた。
 その際、伏生を阿礼になぞらえたが、安萬侶は伏生を自分になぞらえたかったに相違ない。なぜなら、彼の目の前に有る夥しい九州王朝の蔵書は、これから作る偽りの国史『日本書紀』完成後に、貴重な中国の書物を除いてすべて焼かれる運命にあるのだ。しかも九州王朝の歴史を知っている貴族たちに笑われないように、新しい偽りの国史を作らねばならないのだ。つまり、天皇と書けば九州王朝出身の人は九州の天皇を思い、近畿王朝の人は近畿の天皇を思い浮かべる。『日本書紀』はそういう書物なのである。
 太安萬侶の苦悩はいかばかりであろうか。それに紀清人、三宅藤麻呂ら大勢の元九州王朝の史官たちの近畿王朝の新しい職場を失わせたくはない。それには元明天皇のもとで、持統天皇までの大うその歴史書をつくるプロジェクトを絶対に成功させねばならない。九州王朝の存在は解る人には解るように、知らない近畿朝廷内の人には気づかないように上手く作らねばならない。
 古田氏が気づいた古事記序文から受ける伏生の影は太安萬侶自身の事だったのだ。

 

三、古事記序文添加文説

 「その二古事記成立」では、「古事記の成立を具体的に述べているのは直接証拠の序文のみである」として論をはった。しかし古田説論者の中にも「序文を後世の添加文として除外し」ている人がいるので、その誤解を解いて、置こうとおもう。そしてその人たちには、ぜひ序文の第二段後半から序文の終わりまでをじっくり目を通して欲しいと思う。
 誤解の根本は添加文論者も言っている、本文と序文の成立の年代差である。たしかに本文と序文の年代差はある。序文をよく見れば太安萬侶は本文に対して「上古のとき言意ならびに朴にして」といっている。本文は『先代旧辞』のダイジェストと言っていて、これが大方の論者の言っている『原古事記』の正体であり、序文の七一二年は上表文であることをもって、動かないのである。
 動くのは本文の方であり、本文の年代は『帝皇日継』『先代旧辞』のまとめられた天武期以前、推古以後である。
 A、記紀が一番古い書物ではない。日本書紀一書群は伝説ではなく字の通り書物群であり、ひとつひとつが記紀と同じようなまとまった書物である。そして、その方が古い。
 B、始めて漢字が使われたのは五世紀より古い。『日本書紀』と『続日本紀』の「始めて」は近畿王朝の「始めて」である。近畿王朝の始めての貨幣「和同開珎」より古い「富本銭」が出てきたのは記憶に新しい。その点近畿は遅れていたらしい。
 九州王朝の漢字は金印の一世紀から使われだし、九州と海流で結ばれている関東王朝でも『万葉集』収録の東歌の完全一字一音の万葉仮名が定着していた。
 この事はたとえ古田氏が否定したとしても、古田氏の説の延長上にある事はまちがいなく東歌の一字一音以外は古田氏はしゃべっている。
 このA、Bの認識があり、そして序文を謙虚に読めば、序文が七一二年より後になるという誤った認識は生まれないとおもう。第一『古事記』が七一二年に出来たと書かれているのは序文のみである。序文が後世の添加文だとしたら、本文は推古以後の、いつ出来たかという根拠を失う事になる。

 

四、紀前記後説

 「紀前記後説」とはいっても梅沢伊勢三氏は記が七一二年、紀が七二〇年成立という順序を疑っているわけではない。「紀前記後説」というのは『記紀批判』に対して学界が名づけた説であるらしい。(『続記紀批判』の序五行目)
 梅沢伊勢三氏はいう。
 1『古事記』の神代の巻の方が『日本書紀』神代の巻より完成されている。
 2神世七代に限れば『古事記』の説に、『日本書紀』各書の説がほとんど網羅集録されているという事実である。(表1)

梅沢伊勢三『続記紀批判』P.64

 3「記紀はほぼ共通の資料から作られた二つの書物である」という、動かし得ぬ事実を基礎としてこれを考察するならば・・・以下省略。(表2)

梅沢伊勢三『続記紀批判』P.60

 私の反論としては
 1に対しては
 『古事記』の神代の巻きは、『先代旧辞』として天武期に完成する前に、推古期にも完成しており、少なくても二重に手がはいっている。それの完成度は高いのは当たり前である。最後に中国と密接に関係のある九州王朝の史官、太安萬侶がこれから作る歴史書のひな型として陰陽五行説など土台にしたり、古い言葉を今風の漢字に直したりした。もとのまま改めなかったのは、姓の日下名の帯の類のみだった。これで締めて三重の手が入っている事になるのである。完成度は高いはずである。
 2に対しては
 『日本書紀』の場合膨大な九州王朝の蔵書の中から『古事記』に合わせて関連のある個所が有る一書を複数探し出し、それを一書群として括るという作業をしたのである。梅沢氏が近畿王朝一元主義で考え出した『日本書紀』から『古事記』という矢印は九州朝廷や関東王朝、出雲王朝という多元主義で考えた場合絶対無理なのである。矢印を逆にした方が自然である。
これは二三人ではできない。若いときから中国の書物に慣れ親しんだ、九州王朝の元史官総動員といってもよいくらいのプロジェクトだったのではないだろうか。それにはひな型がいるし、法則も必要だ。
 私は元史料を日本書紀にまとめるとき、(九州王朝の記事を近畿王朝に転換するとき)の法則をひとつ見つけた。それは固有名詞の一部省略はしても、改定は絶対にしない事である。『古事記』では「天照大御神」として安萬侶に統一されかかった神が、『日本書紀』では元資料どうりに、ある一書では単に「日神」であったり、ある一書では「天照大神」であったりしている。なぜ『古事記』で統一しかかったと言えるかというと、「天照」は『古事記』に三十個出てくるが、二十八が『古事記』にしか現れない「天照大御神」であとの二つは「天照大神」なのである。他の「いざなぎ」「すさのを」「わたつみ」も統一しかかってやめたような状態である。「オオゲツヒメ」に至っては六つ全部文字使いが少しずつ違うのだ。ここに至って安萬侶の腹が決まったのだと思う。名詞は原文を尊重しようと決めたのだ。
 梅沢氏の観察眼や着目点には頭が下がるが矢印は逆なのである。
 3に対しては
 『日本書紀』の各一書を、梅沢氏は今現在の『日本書紀』にある文章のみ記載されている断片資料と勘違いしている。一書は文字通り独立した一書物であり、九州王朝の歴史書を中心に関東王朝、吉備王朝その他中国、韓半島の書物の中から、近畿に関連する個所を『古事記』にそって抜き出したのである。
 わかり易くいえば、神功皇后のところに倭人伝の卑弥呼や壱与の記事があるからといって倭人伝はその記事だけで出来ているわけではなく、そして『三国志』は倭人伝ばかりで成り立っているわけではない。もっと大きな書物である。一書も同じである。
 高良大社に明治時代に残っていた古文書を焼くのに一週間かかったという記録がある。九州王朝の蔵書はそれどころではないだろう。
 『日本書紀』の元資料は九州王朝の蔵書だが、『古事記』の元資料は近畿王朝の歴史書であり、代表は『先代旧辞』である。たまたま『古事記』に沿って九州王朝の蔵書の関連記事を抜き出したのが、『日本書紀』の一書群なのだ。「記紀は共通の資料から作られた二つの書物」ではないのである。

 

五、おわりに

 『日本書紀』になく『古事記』だけある説話がある。そのひとつは「秋山の下氷壮夫と春山の霞壮夫」である。これはわたしの『古事記』は『日本書紀』のひな型説に反しているようにみえる。しかしこれは明白な理由で、没になったと考えられる。「春山の霞壮夫」は藤の花をまとったり、持って「いづしおとめの神」に求婚するのだが、これは藤原不比等へのおべっかの下心みえみえの説話ではないか。中臣鎌足が藤原姓をもらって泣いて喜んだり、藤原京が何年もしない内に廃京となった事に関係があるのだろうか。
 『日本書紀』は九州王朝の書物と近畿朝廷の書物の合体したものだ。それを可能にしたのは近畿朝廷の史官たちと九州王朝の元史官たちとの大型プロジェクトである。結局それは六年で完成したのだ。そして元明朝七〇八年から集められた九州王朝の禁書は日本書紀完成後、貴重品の中国の書物を除いて焼却された。そして九州王朝そのものも、年月を経て、人々の記憶から消えていったのである。

 称徳朝七六九年十月十日
 太宰本言う「この本は、子弟の徒、学者やや衆し、本庫には五経は本えているが三史(史記・漢書・後漢書)の正本がなく不便なので、列代の諸史一本給りたい」詔して、史記・漢書・後漢書・三国史・晋書・各一部賜う。

 近畿王朝の余裕が感じられる『続日本紀』の記事である。以上である。
(二〇〇三年六月一七日記了)


 これは会報の公開です。史料批判はやがて発表される、『新・古代学』第一集〜第八集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜十集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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