2003年10月10日

古田史学会報

58号

1、『平家物語』の九州年号
  古賀達也

2、突帯文土器と支石墓
  伊東義彰

3、太安萬侶その四
苦悩の選択
  斎藤里喜代

4、二倍年暦の世界5
『荘子』の二倍年暦
  古賀達也

5、高天が原の神々の考察
  西井健一郎

6、市民タイムス
善光寺如来と聖徳太子

7、連載小説「彩神」第十話
  若草の賦(1)

8、いろは歌留多贈呈
  鬯草のこと
  事務局便り


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突帯文土器と支石墓

生駒市 伊東義彰

突帯文(とったいもん)土器

 突帯文土器とは、縄文晩期から弥生早期にかけて九州から東海地方東部までの広い範囲に成立した土器の名称で、口縁部や肩部に突帯(刻み目の入ったものが多い)と呼ばれる粘土の帯を貼り付けた特徴的な甕のことです。壺・鉢・高坏(たかつき)など日常に使う土器を伴うことが多いので、これらのセットを突帯文土器様式と呼んでいます。
 突帯文土器様式の、従来の縄文土器と異なる特徴は次の通りです。
(1) 壺の出現。壺は従来の縄文土器にはない器種で、朝鮮半島の無文土器の影響を受けて出現したものとされています。丹塗磨研土器と呼ばれる小型の壺が多く見られます。
(2) 土器の組み合わせの変化。縄文土器は、甕(かめ)と浅鉢の組み合わせが基本ですが、壺が出現したことにより浅鉢の比率が低くなって、かわりに壺の比率が高くなっていきます。
(3) 新しい甕の出現。突帯文がめぐらない無文で、口が少し外向きに開く特徴を持つ甕が加わり始めました。この甕が、次ぎに成立する板付I 式甕の祖型であるとされています。残念ながら、わたしの目では、この甕と板付I 式甕の見分けは 突帯文土器できませんでした。
 このような特色を持った土器をまとめて夜臼式(ゆうすしき)土器と呼び、従来の縄文土器との間に違いが現れたのは、水稲農耕が導入されて、生活様式に大きな変化が生じたことの反映であるとされています。

水稲農耕の始まりと突帯文土器

 今から二十数年前、福岡県の板付遺跡で、弥生初期の水田跡から二百数十個の足跡とともに、縄文晩期とされていた夜臼式土器、いわゆる突帯文土器様式の土器しか出土しない単純層が現れ、そこから足跡の残った水田跡・炭化した米粒・畦道・柵を打ち込んだ水門・排水溝などが見つかりました。それまで弥生時代から始まったとされていた本格的な水稲農耕が、縄文晩期から既に行われていたことが証明されました。
 それまで縄文土器とされていた夜臼式土器しか出土しない水稲農耕遺跡が見つかったのですから、専門家の間で議論が沸騰したのは言うまでもありません。板付遺跡の発見は、弥生時代の始まりをどう考えるか、という重大な問題を含んでいるからです。
 従来どおりの時代区分に従えば、水稲農耕は縄文晩期から始まったということになり、また、水稲農耕の始まりを以て弥生時代の始まりだとすると、弥生時代の始まりが早くなって縄文晩期に食い込むことになります。「弥生早期」という概念は「水稲農耕の始まりを以て弥生時代の始まり」とする考えから生み出されたもので、弥生土器の使用を以て弥生時代の始まりとする従来の土器編年による時代区分から一歩踏み出した概念です。
 弥生早期とは、水稲農耕とともに夜臼式土器(突帯文土器様式)のみが使用されていた時期で、紀元前五世紀の初めごろから始まったとされています。その理由は夜臼式土器の出現がその時期だとされているからで、その意味では土器による編年から一歩も踏み出していないと言った方が当たっているかも知れません。
 夜臼式土器の次に現れるのが遠賀川系(おんががわけい)土器と言われる弥生前期の土器です。前述の板付I 式甕(土器)は、この中でもっとも古い形式とされ、これらの遠賀川系土器をつくった人々が、旧来の夜臼式土器をつくった人々とともに暮らしていた時期、つまり遠賀川系土器と夜臼式土器がともに使われていた時期を「弥生前期前半」とし、縄文色を持った夜臼式土器が姿を消して板付II式と呼ばれる土器を中心とする遠賀川系土器のみが使われるようになった時期を「弥生前期後半」としているわけです。
 まとめると次のようになります。

縄文晩期 〜紀元前五世紀初めごろ。甕と浅鉢の組み合わせが中心。
弥生早期 紀元前五世紀初めごろ?紀元前三世紀初めごろ。水稲農耕の始まった時期。突帯文土器様式(夜臼式土器)の出現と、この土器のみが使われていた時期。
弥生前期前半 紀元前三世紀初めごろ〜紀元前三世紀中ごろ。突帯文土器様式と遠賀川系土器(弥生前期の土器)がともに使われていた時期。
弥生前期後半 紀元前三世紀中ごろ〜紀元前二世紀初めごろ。縄文色を持った土器が姿を消して、遠賀川系土器のみが使われるようになった時期。
 以上のように、夜臼式土器の編年によれば、北部九州での水稲農耕の始まりは紀元前五世紀初めごろとなり、それから約二百年間を弥生早期と呼んでいるわけです。
 新聞(平成一五年五月二〇日)で報じられた、「国立歴史民俗博物館」の研究チームによる、AMS(加速器質量分析計)を用いた放射性炭素年代測定法によれば、水稲農耕の開始時期は紀元前一〇〇〇年となっています。この分析に使われた土器が、板付I 式甕の祖型とされる「突帯がめぐらず、無文で、口が少し外向きに開く特徴を持つ」甕、すなわち、北部九州において弥生早期とされる突帯文土器様式(夜臼式土器)に含まれる新しい形の甕です(突帯文土器説明の(3) )。
 近畿地方にも突帯文土器が多数出土し、土器片に籾圧痕も見つかっているものの、この時期の水田跡が見つかっていないところから、本格的な水稲農耕の開始は遠賀川系土器との共用の時期、いわゆる弥生前期前半(紀元前三世紀初めごろ)から始まったものとされています。つまり近畿地方や東海地方東部は、突帯文土器が使われていたにもかかわらず「弥生早期」がなかったことになります。そうすると、水稲農耕は北部九州で始まってから二百年余の歳月をかけて近畿地方に伝わったことになります。瀬戸内海という九州と近畿を結ぶ大動脈の存在を考えるとき、あまりにも長い歳月がかかりすぎているのではないでしょうか。

支石墓の出現

 紀元前一六〇〇年頃、遼東半島(遼寧省)から吉林省南部の地域に出現した支石墓は、紀元前七〜八世紀ごろまで造り続けられたとされています。中国で「石棚」と呼ばれている支石墓は、地上に板石で四角い石室のような構造物を造り、その上に大きな石を載せたテーブル状の形をしています。地上に高く巨石が聳え、それをささえるように板石で箱形の墓室が築かれています。西ヨーロッパのドルメンとよく似た形をしており、築造後も出入りできる構造で、複数の人を順次埋葬できるようになっています。
 紀元前一〇世紀ごろに、このテーブル形の支石墓が朝鮮半島に伝播し、紀元前三世紀ごろまで造り続けられますが、半島を南下するにつれて構造や形状に変化が現れます。
 平壌付近の大同江流域には約一五〇〇〇基の支石墓があると言われており、ここの支石墓は遼寧省と同じテーブル形のもので「北方式」と呼ばれています。
 西南部の全羅道を中心とする半島南部には、碁盤形・蓋石形といわれる「南方式」支石墓が二万数千基あまり集中しており、北部九州に伝わったのはこの「南方式」です。「南方式」支石墓は埋葬施設が地下に設置され、地表には石が置かれるだけのもので、埋葬後出入りすることができず、原則として一人しか埋葬できません。南へ伝播する過程で構造変化を起こした、とされています。
 ヨーロッパのドルメンも農耕との深い関係を指摘されていますが、東アジアの支石墓も農耕の伝播と無関係ではなく、朝鮮半島への伝播は同時に水稲農耕を伴ったとされています。同じことは日本列島についても言えるわけで、支石墓という墓制を持った人々が水稲農耕とともに、弥生早期・紀元前五世紀初めごろに北部九州へ伝えたものとされています。 日本への伝播については一つの謎があります。朝鮮半島と北部九州を結ぶ通路にあたる対馬・壱岐からは長年の調査にもかかわらず、支石墓が発見されていないのです。つまり、支石墓は対馬・壱岐を通り越して北部九州へ伝わったことになります。水稲農耕とともに伝わったとされるところからすると、対馬・壱岐は水稲農耕によほど適しない地形と地質の島だったのでしょうか。
 弥生早期に北部九州沿岸部に伝わった支石墓は、その後瀬戸内海や山口県の沿岸でも見つかっています。また次第に内陸部にも伝わり、弥生中期後半・紀元前一世紀ごろのものとされる久玖岡本遺跡の支石墓が最後の時期のものとされています。ただし、久玖岡本遺跡の年代については、同遺跡からたくさんの前漢鏡とともに出土した、後漢後半の二世紀ごろから製作が始まり、魏・晋時代に盛行したとされる「キ*鳳鏡」の年代との関係から、三世紀前後ではないかとする考えもあります。そうすると、銅鏡以外にも多くの副葬品を伴った同遺跡の支石墓とされる「王墓」の年代も三世紀前後のものということになり、支石墓の最終段階も大きくずれ込むことになります。
     キ*鳳鏡のキ*は、インターネットでは説明表示できません。冬頭編、ユニコード番号8641

水稲農耕の伝播

 土器編年による時代判定からすると、突帯文土器は紀元前五世紀のものとされているので、水稲農耕の伝播は弥生早期、もしくは縄文晩期末ごろということになります。ところが朝鮮半島へは紀元前一〇世紀ごろに支石墓とともに伝わったとされていますから、それから日本列島へ水稲農耕が伝わるまで、実に五〇〇年余の歳月を経たことになります。わたしなど素人の目から見ても、いくら何でも長過ぎはしないか、と映ります。
 紀元前七〜八世紀ごろまでには朝鮮半島全体に水稲農耕が広がったとされていますから、それからでも二〇〇〜三〇〇年かかって日本列島に伝わったことになります。朝鮮半島南部と北部九州の間は海でさえぎられているとは言え、一つの文化が伝わるのに、一衣帯水の海を二〇〇〜三〇〇年もかかって渡ってくるとはとても思えません。
 兵庫県武庫荘遺跡の「弥生中期中葉(紀元前後)」の土器を伴う大型建物のヒノキの柱が年輪年代法によって、紀元前二四五年直後の伐採と測定された例や、兵庫県東武庫遺跡の「弥生前期後半(紀元前二世紀後半)」の土器を周溝に伴う木棺の小口板(ヒノキ)が同じく年輪年代法で紀元前四四五年と測定された例を見ると、従来の土器編年による年代をかなり遡っています。武庫荘遺跡は二百数十年遡って弥生前期中ごろ、東武庫遺跡も三〇〇年ぐらい遡って弥生早期の初めごろになってしまいます。弥生早期の初めごろと言えば、北部九州で水稲農耕が始まり、夜臼式土器(突帯文土器様式)が形成され始めたころと重なってしまい、土器編年による時代区分は完全に成り立たなくなってしまいます。紀元前五世紀の中ごろには近畿地方で既に水稲耕作が行われ、遠賀川系土器が既に使われていたことになってしまうからです。東武庫遺跡の例に従えば、夜臼式土器は紀元前五世紀よりもっと早い時期に使われていたことになってしまいます。
 本当は、紀元前五世紀ごろには近畿地方で水稲農耕が既に行われており、北部九州で水稲農耕が始まったのはそれよりもさらに前だったのではないでしょうか。そう考えると、水稲農耕の北部九州への伝播と朝鮮半島への伝播のあまりにも大きい時間の隔たりが少しでも短くなってきます。

九州の弥生早期の主な遺跡

*板付遺跡(福岡県)  本文で既述。
*菜畑遺跡(佐賀県) 水田の水路、畦、畦を補強する矢板、木製や石製の農耕具。朝鮮半島系磨製石剣(弥生前期前半)。
*野田目遺跡(福岡県) 水路と井堰、水口、石包丁。
*曲り田遺跡(福岡県) 日本最古の鍛造の板状鉄斧、三〇軒余の住居跡、炭化米、石包丁、石鎌、水田跡は未発見。
*江辻遺跡(福岡県) 最古の環濠集落跡、住居は全て朝鮮系の松菊里型住居、石包丁石斧、朝鮮系柳葉形磨製石鏃(墓に副葬)、木棺墓。
*有田七田前遺跡(福岡県)*橋本一丁田遺跡(福岡県)*雀居遺跡(福岡県)など。

主な支石墓(碁盤形・蓋石形)

*新町(福岡県) 五〇基以上、最古の支石墓(二四号墓ー磨製石鏃が被葬者に突き刺さった人骨)、副葬された壺(突帯文土器様式)、柳葉形磨製石鏃、人骨は縄文人的特徴(風習的抜歯痕あり)。
*支登(福岡県) 一〇基、四点の柳葉形磨製石鏃。
*大友(佐賀県) 人骨は縄文的特徴(風習的抜歯痕あり)、壺を副葬、貝輪。
*三雲加賀石(福岡県) 柳葉形磨製石鏃。
*田久松ヶ浦 粗製箱式石棺墓、磨製石剣。
*久玖岡本(福岡県) 弥生中期後半のもので支石墓の最後の時期、支石あり、前漢鏡三〇面内外・銅剣・銅戈・ガラス璧など豪華副葬品、甕棺。

その他の遺跡

*三崎山遺跡(山形県) 縄文後期(約三千年前)、青銅製の刀子、日本最古の青銅器。
*曲り田遺跡(福岡県) 弥生早期、日本最古の鉄器(前述)。
*今川遺跡(福岡県) 弥生前期中葉、弥生最古の青銅器(銅鏃・銅鑿─細形銅剣の祖形である中国遼寧式銅剣の破片の一部を加工したもの)。
*堅田遺跡(和歌山県) 弥生前期中葉、青銅製?の石製鋳型、日本最古の青銅器工房跡。朝鮮系松菊里型住居跡。

参考文献・資料

*大阪府立弥生文化博物館図録
 弥生創世記(平成十五年春季特別展)、発掘「倭人伝」海の王都、壱岐・原の辻遺跡展(国特別史跡指定記念、平成十四年二月)、渡来人登場(平成十一年春季特別展)
*堅田遺跡 弥生前期環濠集落(和歌山県御坊市、二〇〇〇年十一月)
*朝日新聞(平成十五年五月二十日、二十一日)
*謎の巨石文化を考える(平成十五年月、国際シンポジウム記録集、財団法人ユネスコ・アジア文化センター文化遺産保護協力事務所)
*年輪年代学は過去をどこまで語れるか(平成十二年二月、奈文研国際シンポジウム抄録集)
*埋蔵文化財ニュース99(平成十二年六月、年輪年代法の最新ニュース、奈良国立文化財研究所、埋蔵文化財センター)
*春日市史(福岡県春日市役所)
*古鏡 樋口隆康著、新潮社(昭和五十四年十月)
*「邪馬台国」徹底論争第一巻 東方史学会・古田武彦編、新泉社(一九九二年六月)
*古代史をひらく独創の十三の扉 古田武彦著、原書房(一九九二年十月)


 これは会報の公開です。史料批判はやがて発表される、『新・古代学』第一集〜第八集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜十集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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