2003年10月10日

古田史学会報

58号

1、『平家物語』の九州年号
  古賀達也

2、突帯文土器と支石墓
  伊東義彰

3、太安萬侶その四
苦悩の選択
  斎藤里喜代

4、二倍年暦の世界5
『荘子』の二倍年暦
  古賀達也

5、高天が原の神々の考察
  西井健一郎

6、市民タイムス
善光寺如来と聖徳太子

7、連載小説「彩神」第十話
  若草の賦(1)

8、いろは歌留多贈呈
鬯草のこと
事務局便り

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善光寺如来と聖徳太子の往復書簡

九州年号の秘密

古賀達也

 奈良の法隆寺の寺宝に「聖徳太子の御文箱」と呼ばれているものがあります。その中には信州の善光寺如来が聖徳太子に宛てた手紙が入っていると伝えられてきました。X線撮影でも三通の文書の存在が確かめられています。封印されていますので、誰も読んだ人はいないはずでした。ところが、明治政府の強引な調査(明治五年)により開封され、そのうちの一通だけ写しが国立東京博物館に存在します。その文面は次のようなものです。

「一念構揚無息留何況七日大功徳我待衆生心無間汝能濱度山豆不護二月廿五日勝髪調御」

 最後の「勝髪」とは聖徳太子のこととされています。他の二通は写しがありません。また、法隆寺の方針として、未来永劫にわたって開封しないことが決められていますので、今後も見ることはできません。
 しかしちょっとおかしなことに気付きます。『日本書紀』によれば、法隆寺は天智九(六七〇)年に火災で全焼し、「一屋も餘ること無し」と記されています。それなのになぜ善光寺如来からの書簡は無事だったのでしょうか。もし無事であったのなら、そのことが『日本書紀』に記されていないのも変です。また、聖徳太子はともかくとしても、仏像である善光寺如来が手紙を書くというのも妙なものです。
 こうした疑問を解くために、封印された法隆寺の方は無理でも、善光寺には記録が残っているのではないかと調査しました。すると、あったのです。もちろん後代の写しですが、善光寺如来と聖徳太子の書簡とされるものが、三往復合計六通記録されていたのです。
 それは『善光寺縁起』などに掲載されていたのですが、中でもわたしが注目したのは『善光寺縁起集註』という江戸時代に書かれたものでした。そこには、先の手紙(返信)に対応する、聖徳太子から善光寺如来に出した次の文がありました。

「御使黒木臣名號稻揚七日巳此斯爲報廣大恩仰願本師彌陀尊助我済度常護念命長七年丙子二月十三日進上本師如来費前斑鳩厩戸勝髪上」

 ここで注目されるのが、「命長七年」という年号です。このような年号は大和朝廷にはありません。この他にも、『善光寺縁起』には「喜楽」「師安」「知僧」「金光」「定居」「告貴」「願転」「命長」「白維」という年号が散見されます。鎌倉時代に成立した『平家物語』にも「善光寺炎上」の段に「金光」という年号が残されています。
 これら一見して馴染みのない年号を、江戸時代の学者、鶴峯戊申はその著書『襲国偽僧考』に記しています。鶴峯はこれらの年号を「九州年号」という古写本から写したと書き留めています。また、古くは平安時代に成立した『二中歴』という辞典にも、これらの年号が連綿と記されています。
 年号とは政治的権力者が発布するものですから、近畿の大和朝廷が未だ年号を作っていなかった時代(六世紀から七世紀)に、九州には年号を公布し得た権力者がいたことになります。これを歴史家の古田武彦氏は九州王朝と名づけ、志賀島の金印をもらった倭奴国から卑弥呼の邪馬壹国へと続いた、日本列島を代表する王朝(倭国)であったとされました。
 そうすると、善光寺如来と聖徳太子の書簡とされていたものも、実は九州王朝と善光寺の間で取り交わされたものではないでしょうか。一方、法隆寺の本尊である釈迦三尊像光背銘に記された「法興」という年号も大和朝廷のものではなく、『襲国偽槽考』に九州年号として紹介されています。とすると、焼けた法隆寺が再建された時、その本尊として九州王朝の寺院にあった釈迦三尊像を法隆寺に持ってきたことになります(古田武彦説)。そして、善光寺との書簡も。
 このことを九月七日、松本での古田史学の会で詳しく発表いたします。

◇古賀達也氏は一九五五年福岡県生まれ。染料・染色技術の開発研究者。一九九四年古田史学の会を設立、事務局長に就任。著書に『「君が代」うずまく源流』(共著・新泉社)、『古代史徹底論争』(共著・騒々堂)、『九州王朝の論理』(共著・明石書店)がある。

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 これは会報の公開です。史料批判はやがて発表される、『新・古代学』第一集〜第八集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜十集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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