拝可美葦牙彦舅尊の正体 -- 記紀の神々の出自を探るii(会報57号)
オホトノヂは大戸日別国の祖神 -- 記紀の神々の出自を探るV-(1)-(神世7代の神々 中編 大戸之道(1) )(会報60号)高天が原の神々の考察
記紀の神々の出自を探るIII
大阪市 西井健一郎
記紀に載る神々は空想の所産ではなく、何らかの実体を反映したものである。この前提に立ち、記紀の記述の中に隠されたその実像の手かがりを探索している。今回は、書紀では創世神話の第4の一書にのみ載る高天が原に生まれた神々の出自を探る。
1.記紀に見る高天が原の神々
天御中主を初めとする高天が原の神々は、大和朝の始元神にあたる筈なのに、書紀に於ける扱いは低い。本文は国常立(とこたち)・国狭槌(さづち)・豊斟淳(くむぬ)の三神で始まり、続く第1の一書ではそれら神々に豊国主と葉木国尊などが加わり、第2の一書は前回述べた可美葦牙彦舅(うましあしかびひこじ)、第3はこれら神を繰り返し、やっと第4になって高天が原グループの神々を載せる。しかも、次のように又曰くを付けてだ。
“一書曰、天地初判、始有倶生之神。號國常立尊。次國狭槌尊。又曰、高天原所生神名、天御中主(あめのみなかぬし)。次高皇産靈(たかみむすび)尊。次神皇産靈(かみむすひ)尊。皇産靈、此云美武本毘。”(岩波文庫30-004-1日本書紀(一)、以下文庫本・紀(一)と略記、より)
この文では、一般社会では天地の初めに国の常立尊・狭槌尊が生まれ、また別の場所のつまり高天原では天御中主尊・高皇産靈尊・神皇産靈尊の高天が原グループが生まれていたと云っている、と読めなくもない。その点、古事記は天御中主尊から始めている。於高天原と述べ、葦牙彦舅が続く。
“天地初發之時、於高天原成神名成神名、天之御中主神。‥。次高御産巣日(たかみむすび)神。次神産巣日(かみむすひ)神。此三柱神者、並獨神成坐而、隠身也。
次國稚如浮脂而、久羅下那州多陀用弊流之時、如葦牙因萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遅神。・・・。次天之常立神。・・・。此二柱神亦、獨神成坐而、隠身也。”(岩波文庫30-001-1 古事記、以下文庫本・記と略記、による)
ただ、こちらの文でも、「あめつちが初めて発生した時、(他の場所のことは知らないけれど) 高天が原においては」と読めなくはない。準拠した本は、「天地(あめつち)初めて發(ひら)けし時、高天の原に成れる神の名は」と訳すが。
紀に先行し、九州王朝存亡の危機に対処して大和朝の歴史観を統一すべく作られた古事記がせっかく高天原グループを冒頭に掲げ始元の神としているのに、全国に歴史を知らしめる書紀では第4の位置にあるのが不思議である。推測するに、大和朝圏外の人たちにとって、高天原の伝承は一般的でなく、常立や狭槌、豊斟淳の方がよく知られていたためであろう。
記紀の成立についての考察はさておき、高天原グループ三神の身元調査を開始しよう。
2.天御中主は中国主尊からの発想か
この高天が原グループは天(あま)国の神々であり、その本拠地は壱岐・対馬など海峡の島にある、と先生が論証されている。特に、一大国と倭人伝に書かせた壱岐の島は当時、天国と名乗っていたのではないだろうか。一大とは天の上棒を前にずらせた、九九才を白寿というような天の表記法と見る。多分、魏の天子をはばかって天と書かけずに、一大と報告したものだろう。
また、天は対馬だけを指し、壱岐には活(いく)を当てている場合(時代)がある。次回の角(つの)クイ神と活クイ神などはその例で、対馬と壱岐との咋(くい)を指す。そして、それらの国の支配者をモデルにしたのが、高天が原の神々である。
その筆頭の天御中主とは、文庫本・記の註に、「高天原の中心の主宰神」とある。そのつもりで、記は初発の神に置いたのだろう。しかし、その原像は中国主(なかつくにぬし)にあろう。豊国主や大国主の称号が残されている以上、中ツ国主が居ても不思議ではない。わからないのは、天御中主と祀られた元中国主尊が中ツ国から天国へ攻め入った人だったのか、逆に天国出身の中国王だったかである。
次の高御産巣日神こと高木神の言動は、中ツ国から壱岐へ左遷された王族の子孫が中ツ国の支配権を主張しているように見えるから、前者の状況下にあったのではと思う。この中ツ国とは、筑紫である。葦原中国と使い、葦原と組み合わされているが、前稿の“可美葦牙彦舅”で述べたように葦国は山陰地方であり、中ツ国は本来中州(なかつ)国と呼ばれていた北部九州を指す。そして、南部九州の豊との3ヶ国で神話時代の日本国の領域を形成していたと考える。
3.神武紀の中州は、元は筑紫国
この中州の国名は紀にその存在が記されている。それが神武紀に載るウチツクニと振られた「中州」である。古賀達也氏がかつて当報で述べられたように、神武東征の記事の中にはニニギ(またはホホデミ)による筑紫攻略時の伝承が挿入されている。その原字が利用された例がこの「中州」である。
神武紀戊午四月条には、(龍田は生駒の向こうにあるから大阪人には解せない)龍田から引き返し生駒山を越えようとする場面。“乃還更欲東踰膽駒山、而入中州。時長髄彦聞之曰”、訳に「更に東のかた胆駒山を踰えて、中州(うちつくに)に入らむと欲す」とある「中州」。
また、同六月条の高倉下が剣を届け、目覚めた神武の軍が「既にして皇師、中州に趣(おもぶ)かむとす」。原文は“既而皇師、欲趣中州。”とある「中州」。
これらの中州は、元々は長髄彦(中州根彦)が支配していた北部九州の中ス国(博多周辺)を指している。文中に近畿の地名がちりばめてあるが、出所はニニギ戦記である。なぜなら、当時、奈良をウチツクニとかナカスといった筈がないから。大昔の奈良盆地は、先述したように、葉木国か、許の国、オワ国、下がってワキ国と呼ばれていた。我説では、3世紀でも狗古智卑狗の狗奴国だったのだ。
他の神武紀への取り込み例では、その高倉下の話の後、道に迷い天照大神から遣わされた頭八咫烏を追い従う場面で、“是時、大伴氏之遠祖日臣命、帥大來目、督將元戎、[踏]山啓行”がある。これは神代紀ニニギ降臨の第4の一書の“(則引開天磐戸、排分天八重雲、以奉降之。)于時、大伴連遠祖天忍日命、帥來目部遠祖天?津大來目、背負天磐靫、”の転写である。
神武東征時の伝承は、九州からの子息手研耳命の暗殺、同時に行われたであろう九州からの子飼い部下の排除、によって消えた。やむなく7世紀まで豊国に残っていたニニギの筑紫征伐の伝承を記紀に組み入れたと思われる。
戻って、天御中主のネーミングは、天国がナカス国に侵略する蓋然性を示すものとして、記は冒頭に記したものだろう。
4.タカミムスヒ(紀:高皇産靈尊・記 :高御産巣日神)と天孫降臨
高天原の第二の神、タカミムスヒの業績は天孫降臨の下命につきる。それは出雲政権からの国土の強奪である。ただ、全土の支配機構の本譲ではなく、関門海峡から北九州へかけての西部部分への侵入の許可らしい。もう一つは出雲神の一番弟子だと先生に教わった天照の、出雲神からの独立と壱岐神との連合の承認だろう。
伊勢神本に祀った天照大御神を、大和朝廷が始祖神として大々的に教宣してきたためか、天孫ニニギもまた天照の意向によって降臨したようなイメージがある。しかし、書紀では、ほとんどの一書がタカミムスヒの命令で降りたと記す(記は高木神の命を以って天照が詔している)。天照が独自に忍穂耳尊を降す例は、紀では下記のように一例しかない。しかもその例では万幡媛を思兼命の妹と表現し、これら兄妹の父高木神の名をわざと記していない。タカミムスヒの名を出すことを嫌がった勢力がいたらしい。
〈ニニギに降臨を命じた神〉
本文 高皇産靈尊
第1一書 天照大御神
第2一書 高皇産靈尊(天照は鏡を授与)
第3一書 ホホデミの誕生譚
第4一書 高皇産靈尊
第5一書 ホホデミの誕生譚
第6一書 高皇産靈尊
5.タカ・カミ・ムスヒが本名か
このタカミムスヒの神の高(たか)とは、形容詞であるとともに地名と見るのがもっともらしい。天照が天石窟へ入り恒闇(とこやみ)になった時、紀の天岩戸の第1の一書では、八十万神が集った地名が天高市とある。アマ国のタカ地区の市場とすれば、その地の出身か。同神の返し矢で死んだ妹婿の天稚彦のお悔やみにくる、大国主と胸形の多紀理毘賣との子、味耜“高”彦根神もその高地区に関係があるのかも。
なお、この味耜高彦根(あじすきたかひこね)の「味は可美の意」と文庫本・紀(一)の補注にある。となると、大国主の一族はウマシ氏を名乗り、その祖アシカビヒコヂを祀っていたのだ。
ついでの新たな疑問は、その昔は「可美」はウマシではなくカミと発声し、「神様」の意味に使われてきたのでは、というものである。つまり、カミ・アシカビ・ヒコヂと唱えられていたと考えられる。また、大国主一族もカミ族と呼ばれていたのでは。
記の高御産巣日は、仮名書きするとタ・カミ・ムスヒでもある。神産巣日神には御がつかないから、頭にタをつけた神産巣日神の一族あるいは後裔のようにもみえる。出雲と融和を図った神産巣日と違い、出雲の乗っ取りを図った高御産巣日は別種との意味で「他」神産巣日と呼ばれたのかもしれない。もっとも、タカ・カミ・ムスヒが詰まった可能性の方が大きいが。
6.神話社会は女尊社会だった
このタカ派のタカミムスヒの不思議なところは、葦原中国を譲れと大国主にいいながら自分の息子、例えば思兼神に継がせようとしていない点である。
高御産巣日神の子の思金神(紀では、思兼神)は、天の石屋戸騒動の時(記)、天の安の河原に集まった八百萬の神の一人で対策を考えさせられる神である。また天孫降臨記では、「次に思金神は、前の事を取り持ちて、政(まつりごと)せよ(註に訳あり=神の朝廷の政事を身に引き受けて。)」と天照に命じられる立場にいる。彼はタカミムスヒの息なのに、宰相の地位であってトップではない。
なぜ、息子がトップになれなかったか。考えられることは、天照で代表されるように当時は女系の政治社会であり、トップになれるのは女性だけ。したがって、降臨の本当のトップリーダーはニニギでもなく母の万幡媛だった。後代の卑弥呼の場合と同じように、彼女に仕える男祭祀者がニニギで、実の政治は思金神がとった、と考えると筋は立つ。
ニニギではなく、高木神の娘であるその母の万幡媛が幼少のニニギを抱いて北部九州へ攻め込んだという西村秀己氏説が、実態に近いのではなかろうか。憶測をたくましくすれば、万幡媛を先祖にいただく火之戸幡姫の娘でホの国の女王だった千千姫が、対馬から速日国に侵攻し「勝速日」を名乗った忍穂耳との忘れ形見のニニギを抱いて領土拡大に乗り出した姿を想う。
7.カミムスヒは女神だった
高天原の三神の内、最も尊ばれていたらしい神が第三の神産巣日神である。
まず、神産巣日神は女神である。なぜなら、神産巣日御祖命と記す場合があるからだ。例えば記の五穀起源の条で、大氣津比賣の死体に成った農産物の種を取らせるのが、神産巣日御祖命である。“於尻生大豆。故是神産巣日御祖命、令取茲、成種。”と記す。もっとも、文庫本の訳では、「故(かれ)ここに神産巣日の御祖(みおや)命、これを取らしめて、種となしき」と「の」を入れて読む。このため、種を取ったのはカミムスヒ神の母親神と受け取れる。しかし、原文は「神産巣日命“之”御祖命」ではない。
第二の例は、大国主が少名毘古那の身元を照会する場面である。まず久延毘古(案山子)が“答白此者神産巣日神之御子、少名毘古那神。”と答えたために、“故爾白上於神産巣日御祖命者、答告、此者實我子也。‥。故、汝葦原色許男命、為兄弟而、作堅其國。”とあり、ここでも原文は“神産巣日御祖命”である。
もう一例は、大国主が国譲りを承諾し、食事を献じるためにコックをさせた速秋津日子神の名を持つ水戸神の子、櫛八玉神が火を燧す場面の歌の中に載る。“於高天原者、神産巣日御祖命之、登陀流天之新巣之凝烟‥。”と、訳は「(この我がきれる火は、)高天の原には、神産巣日の御祖命の、とだる天の新巣のすすの、」とある。ここでも訳では「の」を入れて読まれているが、原文にはない。
御祖命が完全にある人物の母親を意味している例は、大国主が兄達に焼き石を抱かされ死んでしまい、その母親が神産巣日之命に生き返らすように頼みに行く場面にある。
“即於其石所燒著而死。爾其御祖命、哭患而、參上于請神産巣日之命時、‥。”
ここでは「其」が付いているから大国主の御祖命、つまり母親神とはっきり認識できる。しかし、先の三例の原文には中間に之や其のなどは入っていない。したがって、記では母親神が別に存在するのではなく、神産巣日自身が御祖命と明示している。
8.カミムスヒは神活本毘神と同一人?
では、彼女、神産巣日は誰の母親(みおや)か。それは速本佐之男と神大一(かみおおいち)比賣との子、大年神が娶る伊本比賣の母親であり、本名を神活本毘(かみいくすび)神という。高御産巣日の四・五代前の神らしい。我流に読めば、カム・イキ・ムスヒ、壱岐の始元神である。紀風に書けば、神壱岐の産霊か。
伝承されるうちに、イクが抜け、カミムスヒと称されたのだろう。さらに、壱岐の女祖神が「神」壱岐の産霊と呼ばれていたとすると、ウマシアシカビも神葦牙彦舅と呼ばれていた可能性が更に大きくなる。娘の伊本比賣は、伊都姫かもしれないから、壱岐から派遣された初期の女一大率だった、とすると話はおもしろくなるのだが。
なお、伊本比賣は、次回触れることになる大國御魂神・韓神・曾富理神・白日神・聖神の5神を生む。これらの神名は大年神の支配地を示していると考える。また、その姑の神大一比賣とは、大一がやはり天の字くずしとすると、神(かみ)天姫になる。まさか、同じ天国でも一大が壱岐で、大一が対馬を、とは考え過ぎだろう。
一方、これらの産霊が付く神は女神を表わしているとも取れ、となると高御産巣日も女神になる。そんな仮定をすると、天照と夫婦神にはできない理由がわかる。
また、紀では前述の少彦名命の身元照会を高皇産霊尊に行うが、“高皇産霊尊聞之而曰、吾所産兒、凡有一千五百座。其中一兒最悪、‥、必彼矣”と答える。紀において「産兒」が使われている例は少なく、特に男神が子供を持つときには「生兒」と記されている例が多いから、紀の編者は高皇産霊をお産ができる女神と認識していた可能性がある。とすると、高御産巣日は、かって壱岐を支配していたカミ・壱岐・ムスヒ、つまりカムイクスビと同じ地位についた、後代の高地区出身の女首長につけられた称号である。
以上、高天原の神々の身元の独断的推察である。
終
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