神武古道 -- 歴史学の本質(新古代学第6集)
わたしひとりの八咫烏
名古屋市 林 俊彦
古田先生が「新・古代学第六集」で発表された「神武古道 -- 歴史学の本質」は神武実在を論証する力作ですが、その一部、「八咫烏」をめぐる部分にはいささか納得できず、考えるほどに異論がふくらんできました。公表して御批判をあおごうと思います。
1、八咫烏
「今、天より八咫烏を遣はさむ。故、其の八咫烏引導きてむ。其の立たむ後より幸行でますべし。」という古事記の表現や「八咫烏の子孫」と称する人たちの存在をもって古田先生は「八咫烏は人間」とされます。しかし伝承の世界では、動物の行動を擬人的に描写したり、「先祖は動物、子孫は人間」とする話はよくあるパターンに過ぎません。「八咫烏」は素直にカラスの一種と読むべきと私は思いますが。
ついで古田先生は黒曜石を「からすんまくら」と呼ぶことから、巨大な黒曜石を以て「宝物」(神の映りたまう座)とし、これを「八咫のからす」と呼んだ、という説を立てます。そうして縄文時代の「黒曜石の山師」が転じて「金属の山師」となったとし栄光の過去から「八咫烏」を自称していた。そして「尾根歩きのプロ」として招かれたといわれるのです。しかし巨大な黒曜石なら「八咫のからすんまくら」となるべきでしょう。「からす」だけで黒曜石を意味する例が他にあるのでしょうか。また道案内の役は現地で調達するのが常識でしょう。「尾根歩きのプロ」なら日本全国の尾根をどこでも行けるものでしょうか。
さらに古田先生は「今、天より」の句から天国領域=壱岐・対馬付近からやってきたとします。はるか壱岐・対馬から、放浪を続ける神武たちをどうやって発見できたのでしょうか。
ところで、同じく(海路で)道案内をした槁根津日子(古事記)は「此は倭國造等の祖」となります。珍彦(日本書紀)は椎根津彦の名をもらい倭國造となります。それなのに八咫烏には報いはありません(日本書紀では何かが与えられた模様)。さらに日本書紀では「頭八咫烏」を追いかけた日臣命が「道臣命」の名をもらいます。追いかけた側がはるかに賞賛されたのです。やはり八咫烏は人間ではありません。
よく知られていることですが、カラスは人里近くに巣を作り生活します。従って、カラスの後を追えば、人家を発見できる可能性はかなり高いわけです。協力を期待できない現地人や、遠地から来て現場不案内な仲間よりずっと頼りになるでしょう。神武たちの行動はまことにリーズナブルなものです。
八咫烏の段は結局、動物に従うことによって窮地を脱することができた、という伝承の一つでしょう。古事記によれば大国主神はスサノオノミコトの娘スセリヒメを手に入れようとし、野で火に囲まれる試練にあいます。彼は鼠についていき巣穴に隠れ、難を逃れました。これも同例です。
2、八咫烏の実寸
さて「八咫烏」はその名の示す通り普通の大きさのカラスではないようです。太安万侶は古事記序文で「大烏吉野に導きき」とします。確かに「咫」は「説文に『中婦人手長八寸、謂之咫』とあり、音はシ。周制の八寸、今の十六センチ弱」(岩波古典文学大系『日本書紀上』)と考えると随分大きな烏を想定せざるを得ません。しかしそんな巨大カラスは古代も現代も実在しません。
古代人は誇大表現を好んだと投げ出すべきでしょうか。いいえ「咫」は中国語としてではなく倭語「アタ」として考えるべきです。すると古田先生自身が指摘されたことですが、「八咫鏡」がまず想定されます。「『八咫』は長さ。手(指)はばの八倍の長さである」となります。本当は伊勢神宮が「八咫鏡」を公開してくれるとよいのですが。次善の策として考古学的に、過去発掘されたうちで最大の鏡をみると、平原遺跡出土の四六.五センチがあります。これ以下の大きさが「八咫」ということでしょう。なお古事記では「八咫鏡」ではなく「八尺鏡(訓八尺云八阿多)」と表記しています。
すると意外なことに「八咫烏」とはいささか小さめなカラスとなります。参考までに日本に生息しているカラス類の平均的な大きさは、最大のワタリガラスで六一センチ、ハシブトガラス五六.五センチ、ハシボソガラス五〇センチ、ミヤマガラス四七センチ、カササギ四五センチなどのようです。
日本書紀編集者は困惑したのでしょう。「頭八咫烏」と表記します。「頭だけでも八咫ある大きな烏」と考えたようです。しかし古事記の原文「八咫烏」を素直に読む限り、神武たちは「いささか小さな烏」に出会ったのです。
3、古代の寸法体系
ここで日本書紀から興味深い記述を紹介します。いわゆる天孫降臨の時、ニニギたちの前に立ちはだかったサルタヒコは「其の鼻の長さ七咫(あた)、背の長さ七尺(さか)餘。當に七尋(ひろ)と言ふべし」と表現されます。この「七尋」の神は巨人だったのでしょうか。古代人には誇張して表現する習癖があったのでしょうか。ならば、私の「咫」をめぐる仮説も崩壊します。しかし古事記によればサルタヒコは比良夫貝に手をはさまれ溺れたことがあるそうです。沖縄を含め日本の海域には大して大きな貝)例えばオオシャコガイ)は存在しません。
また古事記によればヤマトタケルは東征のとき、景行天皇から「比比羅木の八尋矛」を与えられます。ヤマトタケルの身長は「一丈」と表現されますが、特に人間離れした長身との伝承はありません。この矛が実用である限り、「八尋」とは意外に短いようです。他に神武の父、ウガヤフキアエズノミコトが産まれるとき、その母豊玉姫は八尋ワニの姿になります。「八尋ワニ」といえばジョーズのような巨大なサメが想像されますが、実際は普通の妊婦がこもる産屋に納まる程度の大きさなのです。なおニニギノミコトの妻、コノハナノサクヤヒメは火をつけた「戸無き八尋殿」の中で三つ子を生みます。更に允恭紀十四年、淡路島で「六十尋」の海底に潜り大アワビを取ったものの力尽きて死んだ男狭磯がいますが、人間の素潜りの能力は水深二〇メートル位でしょう。
古代の神も英雄も通常の人間のサイズと特にかけ離れてはいませんでした。こうしたことから、私には「一尋」は三〇センチ程度と思えます。結局サルタヒコは大きくても二メートル超、ボブ・サップとかジャイアント馬場程度の背だったと思われます。(鼻はドゴール大統領程度の大きさか?)
これが事実なら、イザナギ、イザナミが最初に作った「八尋殿」は新婚さんに相応しいとても小さなマイホームだったわけです。古代の倭人は予想外に小さな単位の体系を持っていたのではないでしょうか。古代人の説話、神話に誇張はない、きわめてリアルであると私は考えます。
以上のことから仮に「からす」が黒曜石を指すとしても「八咫がらす」の示す意味は「巨大な鉱石」とはならないはずです。縄文時代の「黒曜石の山師」の誇りある自称とはなりえません。
4、吉野は佐賀
さて、この「八咫烏」の話は、なぜか神武ではなく「天神御子」の話に変わっています。そして「八咫烏」に導かれて着くのは「吉野河の河尻」です。現地の地理に合わないと昔から問題になっているところです。
古田先生は「河尻」を地名とし「○尻」は「ふっくらした丘陵部を指す自然地名」で塩尻など山地でも「河尻」の地名はありうるとされます。古田先生がかつて「盗まれた神話」で聖(ひじり)神を分析されたように地名語尾「シリ」には「背後の地」という意味もありえます。しかし問題は「河尻」が地名なのかでしょう。「川の名+地名」という表現方法が成立するのでしょうか。例えば「木曽川の名古屋」とか。仮に古代はあったとしても「河尻」という地名そのものは山地では今だに発見されていません。強引過ぎます。
ここでも記紀の例の手口、地名の類似をきっかけとして九州王朝の史書(日本旧記)から説話を切り取り挿入するという操作がなされているのではないでしょうか。古賀達也さんがこの分野の研究で大きな成果をあげています。そしてこの「吉野河」は佐賀県の吉野川(現在の嘉瀬川)と思われます。「天神御子=ニニギノミコト」は佐賀県の吉野に現れたのだと私は思います。
5、八咫烏はカササギ
ならば佐賀県には「八咫烏=いささか小さな烏」はいるのか?います。カラス科に属する鵲(カササギ)です。中国、朝鮮ではありふれた鳥ですが、日本にはほとんど存在せず、ただ「佐賀平野をほぼ分布の中心として同県下の平野部の全域・長崎県の早岐地方の平野部・福岡県の柳川大牟田地方だけにすんでいる」のです。カササギは徹底的な留鳥でほとんど移動しないので生息区域が増減するだけで昔からこの地域だけに限定して生存していたのです。なおミヤマガラスも寸法の上では八咫烏の候補になりますが、冬季に日本に飛来する冬鳥ですから、記紀の状況描写による限り、該当しないようです。
こんな説を立てると地元の方はきっと反発するでしょう。カササギは現地ではカチガラス(他にキシャガラス、チョウセンガラス、コウライガラス等)と呼び、秀吉の朝鮮出兵の時、朝鮮から持ち込まれたもので、そんなに古い時代にはいなかったと。しかし、それは俗説の部類であって確たる根拠のある説ではないのです。
また古代史ファンは魏志倭人伝を持ち出すでしょう。「その地(邪馬壱国)には牛馬虎豹羊鵲無し」を。しかし、ここは問題の多い一節で実際には倭国に牛馬は存在していました。また古田先生の分析によれば、魏の使節は九州北岸部に到着しただけですから、佐賀平野には未だ知識がなかったのでしょう。
6、天国の領域
最後の問題、「今、天より八咫烏を遣はさむ」です。古田先生の指摘では古代において、天(国)は「壱岐・対馬を中心とした概念」となります。ところがカササギは壱岐・対馬には生息しません。しかし、天国の「北端」は朝鮮半島に届いていたのではないでしょうか。九州王朝の任那への執拗なこだわりはそのためでしょう。もっともカササギは天照以前からすでに九州へ持ち込まれていたと思われます(天照以前の権力によって)。だからこそ索敵の手がかりとできたと思われます。
記紀ともに神武説話の基本骨格は歴史の事実を反映したものだった。ただニニギノミコトの成功譚で粉飾されていた。神武が見たのは普通の烏だった。そして「八咫烏」とは実はカササギだった!いかがでしょう。
7、補遺1
鵲について日本書紀に以下の記事があります。
推古天皇五年冬十一月「吉士磐金を新羅に遣す」。六年夏四月に「難波吉士磐金、新羅より至りて、鵲二隻を献る。乃ち難波杜に養はしむ。因りて枝に巣ひて産めり。秋八月の己亥の朔に、新羅、孔雀一隻を貢れり」。これは大和王権にとって、鵲が孔雀と同等なほど珍鳥だからこそ成り立つわけです。つまり推古期にいたっても大和王権は、朝鮮半島では鵲はざらにいることすら知らなかったのです。
なお「播磨国風土記」讃容郡・船引山の条に「此の山に鵲住めり。一、韓国の烏といふ。枯木の穴にすみ、春時見えて、夏は見えず」とあります。他に岩波「風土記」で壱岐國逸文として「壱岐の嶋ニ鳥アリ。コレヲバ新羅烏ト云フ。麦ノタネマク時、群ガリ飛ビテ、麦ヲクラフト云々」という文を掲載しています。これがじゅうぶん信頼できる史料となれば、天国の中心領域にもカササギはいたわけです。いずれにせよ日本にカササギを持ち込む努力は古代の各地で連綿と続いていたようです。
8、補遺2
八咫烏の話に関連して「一尋は三〇センチ程度」としました。すると山幸彦の説話に登場する一尋ワニを問題にする人がいるでしょう。そんな小さなワニ(鮫)に人が乗れるかと。ご安心ください。鮫はサメ肌の持ち主。大小に関わらず、人の乗り物には向きません。無理にしがみついても血まみれになるだけです。それはともかくどんな文脈でこの一尋ワニが登場するかです。山幸彦が海神宮から帰る時、海神はワニたちを集めて「誰は幾日に送り奉りて、覆奏すぞ」と問い、「故、各己が身の尋長の随に、日を限りて白す」となり、一尋ワニが「僕は一日に送りて即ち還り来む」となるわけです。
つまり小さなワニほど速く泳げる?と聞き手を一瞬の錯覚に誘おうとするのです。しかし送ってくれた一尋ワニに山幸彦は「紐小刀」を与えます(古事記)。これは褒章をけちったわけではなく、一尋ワニの身の丈にあわせたのでしょう。アメノウズメノミコトがナマコの口を裂くのに「紐小刀」を使っています。その大きさが想像できます。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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