「邪馬壹国」と「邪馬臺国」
尾張旭市 斎田幸雄
後漢書の「邪馬臺国」について、古田武彦氏は次のように述べている。
『三国志の魏志倭人伝の「邪馬壹国」は「女王の都する所」であり、「七万余戸」の大国である。いわば、今日の「東京都」に当る。
「後漢書」の笵曄は、ーーその「大国」ではなく、その「大国」の中枢部、「その大倭王の居する」ところの名を記した、それが「邪馬臺国」だ。ーーーいわば「都城」に当るべき「邪馬臺国」と、一大広域(七万余戸)を指示した「邪馬壹国」とは、絶対にこれを混同することが、許されない。』〔倭人伝の全貌(一) (多元№五一)〕
これは、氏のこれまでの論旨を超えた見解のように拝承する。
『「邪馬臺国」はなかった』『失われた九州王朝』等の著書によれば、
i 、「邪馬臺国」の「臺」は三世紀の魏にとって、“天子の宮殿とその直属の中央政庁”という特殊の意味を有する神聖至高の文字であって、邪馬という卑字にこの至尊の文字「臺」を用いた「邪馬臺国」という国名など容認される筈がない。
ii、「邪馬壹国」の「壹」は、魏・晋朝に遠夷朝貢し臣従することを示す簡古な用字であり、「邪馬壹国」の「壹」、壹与の「壹」字もこの歴史的由来を負うた熟語で、的確に表現している。
iii、漢代における「闕」の字は「天子の宮殿」または「天子その人」をさす至尊の文字であるとし、王沈の(魏書・鮮卑伝)の 大人名「闕機」の「闕」字を陳寿は(三国志・魏志鮮卑伝)において、同一大人名の「闕」字を避けて「厥機」と表記した。前代(漢代)の至尊文字をも回避している。その陳寿が、同じく夷蛮たる倭国の国名に「当代の至高の貴字」である「臺」を使用する可能性は絶無である。とし、これを[厥の論証」と名ずけた。
iv、後漢書倭伝には、著名な次の一節が掲載されている。
「国、皆王を称し、世世統を伝う。その大倭王は邪馬臺国に居る。」
ーー四、五世紀に至り東アジアは「臺の氾濫」の中にあり、その最東の端に倭国が加わり「邪馬臺国」と呼ばれることは、何の不思議もない。しかし、『後漢書』に「邪馬臺国」とあるのを根拠に、『三国志』の「邪馬壹国」をあやまりとして訂正することはまちがっている。
v、『三国志』に表されたような、“天子の独占する”「臺」字使用ーーーは、建興四年(三一六)、西晋の滅亡をもって終りを告げた。
大要以上の通りで、主に倭国の中心国名は「邪馬臺国」か「邪馬壹国」かの問題であったと考えられる。
先ず、この従来の論旨に対し、私見を述べたい。
三世紀の倭国の中心国名は九州の『邪馬臺国』であつた。倭国が三十国に統合され、其の中の一国家それが「耶馬臺国」である。邪馬臺国が三十国を統属した後、景初二年六月(二三八)の遣使朝貢を期に、「邪馬壹国」と改号された。すなわち「臺」字が至尊の文字であることを理由にこれを避け、かつ、魏朝に朝貢臣従する女王国を賞で、魏の明帝により「邪馬壹国」の国号に改められた。
これを、「厥の論証」により、『邪馬駘国』等の同音異字とすることも許容されるが、「壹」字を採り、遠夷朝貢し臣従することを示す魏朝好みの用字である。
魏志・倭人伝に「南、邪馬壹国に至る女王の都する所」とあるは、「女王の都するところは、明帝により、国名を邪馬臺国から邪馬壹国へと改められたことを周知する意図をもこめた記事である。ところが、「邪馬壹国」はこの記事限りで、以後はすべて「女王国」と記しているが、明帝の死(二三九)に伴い、自然「「邪馬壹国」の国号を避けたのではなかろうか。
魏・晋朝において至尊の文字とされた「臺」は西晋の滅亡(三一六)をもって終了した。また「邪馬壹国」の「壹」字の意義も終了した。西晋朝の滅亡により、早急に中国新王朝との国交樹立を図るべきときに、旧王朝より与えられた「邪馬壹国」の国号をそのまま継続することなど、ありえないことで、「臺の氾濫」を俟つまでもなく、西晋朝滅亡と同時に本来の国号『邪馬臺国』に戻ったのであって、そのことを更めて説明表記する要はない。この点、倭国を日本国と改めた場合とは、事情が異なるこというまでもない。
後漢書・倭伝に
「邪馬臺国、皆王を称し、世世統を伝う。その大倭王は邪馬臺国に居る。」
魏・晋朝滅亡直後の倭国の中心国名は「邪馬臺国」であること、前述のとおりで、大倭王も卑弥呼と同様、九州のこの首都「邪馬臺国」に居る。と述べている。「邪馬壹国」の国名は三世紀の魏志倭人伝にのみ見られ、その前後の史書には見当たらない。たとえば、
「後漢書」倭伝ーー 国皆王を称し世世統を伝う。其大倭王は、邪馬臺国に居る。
「梁書」諸夷伝・倭ー祁馬臺国は即ち倭王の居る所。・・・卑弥呼の宗女、臺與。
「隋書」イ妥*国伝ーー 魏志の所謂邪馬臺という者也
いづれも、「邪馬臺国」であり、「邪馬壹国」ではない。魏・晋朝の滅亡により、本来の国号「邪馬臺国」に戻ったことは自明のことであるから、どの史書もこのことについて触れていないのは当然だ。もし、『邪馬壹国』を踏襲するのであれば、その場合こそ、その理由を説明しなければならないだろう。また「梁書」は「壹與」を「臺與」とこれも本来の名に戻しているが、とくにその理由を述べないのも、前述同様当然のことである。
『「邪馬壹国」=「邪馬倭国」 「壹与」=「倭与」』これは語彙の追求により生じた見解であって、史書には「邪馬壹国」・「邪馬臺国」・「壹與」・「臺與」の他の記録は見当たらない。なお「臺與」を「壹與」と改名したのは、「厥の論証」の前例より類推す
れば、陳寿の手によるものではないか、とも推察される。
イ妥*(たい)は、人偏に妥。ユニコード4fc0
さて、最初の氏の論旨にかえり、検討したい。
『三国志の魏志倭人伝の「邪馬壹国」は「女王の都する所」であり、「七万余戸」の大国である。「後漢書」の笵曄は、右の記載事実を知っていた。だから、その「大国」ではなく、その「大国」の中枢部、「その大倭王の居する」ところの名を記した、それが「邪馬臺国」だ。』
すなわち、首都の中の一居城にあたる区域これを「邪馬臺国」というのだ。と述べておられるが、常識的に国名とは称し難いような小地域を「邪馬臺国」と指称されている。また、その「大国」とは、「邪馬壹国」の事と思われるが、もしそうであるなれば、五世紀にも「邪馬壹国」が健在であったことを是認されることとなる。
三世紀の「邪馬壹国」は、宮室内に千人の.婢に囲まれた卑弥呼が妖気せまる鬼道の祭司を行い、他方、男弟と大人、高官(伊支馬・彌馬升・彌馬獲支・奴佳ー)等は(張政等を交え)政治と軍事を掌握し、強権をもって執行。その権力と圧制により軍事、生産、雑役に駆使される下戸と.奴婢。このような国家組織であり、常に狗奴国と敵対し卑弥呼の晩年には、魏朝の救援を受け、ようやく存続する不安定な国家であった。
卑弥呼の鬼道は、霊界と現世を仲立ちし祖霊の声を衆に託宣し、巧みに衆を惑わす祭事であって、(政庁、大人、高官等より)供出された女奴千人は、この祭事を盛上げるためだけの要員である。命ずるままに振舞う千人の女奴に囲まれて巫女の演出する祭事そのものは、妖気せまる異状なもので、ときには、奴婢を犠に供することも、卑弥呼の死に伴う百余人の奴婢を殉葬する思想よりして絶無とはいえない。
これが三世紀倭国の人心を収攬し、統属をはかる効果的な古代的政治手法であったのだ。宮室、楼観には、常時武器を持つ者により内外を守衛した。即ち外敵のみならず、内なる女奴の反抗にも備えていたこと明らかである。
ここで、卑弥呼の死に伴う、殉葬について述べる。
「卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者、.奴婢百余人。」
卑弥呼の死は正始八、九年(二四七、八)頃と思われるが、その際抵抗する術のない.奴.婢百余人の者が一斉に拉致され、卑弥呼女王に集団で無理矢理殉葬させられた。この目をおおう悲惨な事件は、内外の奴隷史にも引用、注目されている。
思うに、当時の邪馬壹国は、下戸と奴隷に依存する国家社会で、中間階層は経済的に窮乏し、また犯罪のみ返りに急速に下戸または奴隷に転落し、加えて、戦争により得た捕虜の奴隷化等により絶えず多数の奴隷人口を容し、為政者は、奴隷を生きた道具として安易に使役、処置していたこと歴然としており、これこそが、「邪馬壹国」の体質そのものであった。
千人もの.婢を宮室に集致して祭祀の道具として使役し、また百余人の.奴婢を拉致して女王の死の供儀に殺害し埋土する。いずれも、「邪馬壹国」と傘下の三十国の人々に女王国為政者の強権力を誇示し、畏怖を煽るための一大祭事であったのだ。
五世紀の倭国の中心国「邪馬臺国」には、大倭王が居城し、もはや、婢千人を容する巫女の幻惑的虚構の政治は通用せず、.統属された三十国には、皆国王がそれぞれの国を統治し、大倭王に臣従しており、宗朝(南朝)に朝貢するも、その救援を受けることなく、比較的安定した国家であった。
三世紀卑弥呼の不安定な王朝が、五世紀まで存続したか、どうか。『「邪馬臺国と邪馬壹国はともに中心国名そのものは「邪馬」だけだ。すなわち「三世紀の邪馬壹国」と五世紀の「邪馬臺国」とは同一王朝である。』と邪馬を共有するから同一王朝とみることには、是非を論ずる余地があるように思われる。
壹与の最後の遣使朝貢を泰始二年(二六六)とすれば、その後西晋の滅亡(三一六)までの間、半世紀にわたり一度も遣使がなく、国交が途絶えていたが、これは異状ではなかろうか。思うに、魏朝の禅譲により、張政等の倭国滞在はその本分を失し、泰始二年(二六六)壹與の遣使朝貢に同道帰国したことにより、強大な援護国を失い、壹與の女王国は、権威の失墜と政情不安を増幅し、その後の遣使朝貢の国家行事も果せなくなった。また、西晋王朝は、張政等より直々倭国の現状を聴取、国交再開に慎重を期したのではなかろうか。彼此考慮するとき、卑弥呼王朝がすんなりと倭王旨・倭讃へと継続したか、軽々に論ずる事はできない。
二〇〇三・五・一〇
【参考資料】
魏志倭人伝に、卑弥呼以死、(中略)殉葬者.奴婢百餘とある事、屈竟の証拠なれ。
卑弥呼の神功皇后の御事なる事は、余の征三韓考に詳なり。
こは野蛮の国王酋長ともの世を終ふるに際し、そか従属は、酋長ともの財産と同一なるをもて、之を殺戮して、其の死に従はしめ、死者の魂を慰めんとの観念より出てたるものにして、能く我か太古の俗を探りて、其の状態を写したるものと謂ひつへし。また同じ亜細亜中なる夫餘にも、当時此の俗あり。
後漢書夫餘伝に、死即有ー槨無ー棺、殺ー人殉ー葬、多者以ー百数
(阿部弘蔵 日本奴隷史 10.11p)
奴隷の殺害
ーーもちろん、儀式のために奴隷を殺すことは広く行われていた。すべての大陸で、すべての主要文明の初期には、一時的に存在した。膨大な数の奴隷が初期の中国の皇帝とともにしばしば生きたまま埋められた。日本では前二、三世紀(訳注¨著者は. 前二、三世紀としているが、紀元後二、三世紀の間違い)に百人もの奴隷が女帝とともに埋められた。この慣行は古代近東で、また初期のヨーロッパやアジア民族の間で広く行われていた。
(オルランド・パターソン著。奥田曉子訳 世界の奴隷制の歴史 415.6p)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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