大前神社碑文検討応援記 水野孝夫
稲荷山鉄剣象嵌の金純度 -- 蛍光X線分析で二成分発見 肥沼孝治(会報59号)
二〇〇三年度 日本思想史学会 報告レジメ
稲荷山鉄剣銘文の新展開について
「関東磯城宮」拓出と全面調査
古田武彦
(一)埼玉稲荷山古墳の銘文ある鉄剣は、当古墳の副室から出土した。然るに、肝心の主室の被葬者には全くノータッチのままで、問題の副室の被葬者(「乎獲居臣」)は、はるかに遠い大和の「中心権力者」(「獲加多支鹵大王」)との「関係」のみを誇示(「虚示」)したとされている。これは冷静に見て不自然ではないか。
(二)右の読解が(岸俊男、大野晋氏等によって)なされたとき、実は当古墳の内部が右のような「主室、副室」の関係の、二(あるいは三)墓室のあることは、(当読解者等には)全く認識されていなかった。これは事実である。そのような状態の中での読解が今に至るまで、依然二十五年間ひきつづき、「定説」のように位置づけられ、教科書にも採用されている。これは不合理ではないか。
(三)近年、年輪年代測定や14C放射性炭素年代測定によって、従来の「考古学編年」が少なくとも「約一〇〇年前後」、さかのぼって「訂正」せられねばならぬ状況となっている。(約七〜八割) (1)。従って二十五年前(一九七八)、この鉄剣銘文の「辛亥」年を以て、「四七一」年に当て、倭王武の時代(南朝劉宋の順帝の昇明二年、四七八頃)に相当する、としてきた、そしてこれを大和の雄略天皇に当ててきた従来説は、(新しい14Cや年輪の年代測定に対応させて)学問的に再考慮・再検討されねばならぬこと、必然である。然るに、最近(二〇〇三年九月二十七日(土))の埼玉県の県立さきたま資料館のシンポジウムでも全くこれが顧慮されていない。これらは学問的な誠実性を公人として欠くものではないか。同時に、大学や高校等の学校教育上においても、「率直に事実に対面することを回避せよ。」と、若者たちに教えていることにならないか。不当である。
(四)さらに、当銘文にある「斯鬼宮」を雄略天皇の宮の地に当てた従来説の場合、疑点があった。なぜなら古事記・日本書紀において、「磯城」に宮居をもつ、とされているのは「崇神・垂仁」の二天皇であり、雄略天皇(「長谷」)はこれに妥当していない。当初からこの問題の「矛盾」が“隠され”てきた。各シンポジウムでも、(当初の講演を除き)この問題に対する反対意見の持主(たとえば古田)に対しては、その学的討議者から、常に「排除」しつづけてきた。不公正である。
(五) 古田は栃木県藤岡町の「磯城宮」をもって、この銘文の「斯鬼宮」に当ててきたが、最近、藤岡町の三つの字地名に疑問が出された。地元研究者(石川善克氏 (2))から、明治十年の文書によって同地の字地名三個が「改名」されている事実が報告された。(「飯塚・小池・大崎→登美・豊城・佐代」)。そしてこれを以て記・紀・新撰姓氏録の姓氏名による「改名」と解されたのである。しかし次の二点から、この解釈には「不審」がある。
1. 記・紀や、ことに新撰姓氏録には、たとえ「豊城入彦命」関連に限ってみても、数多くの姓氏名が出現する。その中から(たとえば)「佐代」といった姓氏名を“抜き出す”べき必然性がない。
2. 「豊城」は、いわば「良き」有名人であるが、「登美」は(「登美毘古」のように)神武天皇に敵対した「逆賊」として著名の有名人である。隣り合った「字地名」として、故意に、このような正・反の両地名を記・紀等から“採用”すべき必然性がない。従ってこの「三・字地名」の「改名」を以て「明治のイデオロギーによる改名」とみなすのは、不合理である。
(六)その上、今回、大前神社(栃木県藤岡町)の明治十二年の石碑に対し、周密に(三回にわたり (3))全面拓本を採取し、その立碑状況、及び碑文執筆者(森鴎村)の学風等を精査したところ、この「其の先、磯城宮と号す」の一句を以て、「明治期のイデオロギー的創作」のことと見なす見地は、全く不可能であることが判明した。その理由は
1. 鴎村の学風は、着実かつ実証的であり、隣国(水戸藩)の水戸学のような学風とは全く異なっている。(『鴎村先生遺稿』、『同、続篇』)
2. 鴎村には「里社改号記」(続篇)の論文があり、猥りなる「神社の改号」に対し、その不当性の非難が周到に強調されている。
3. 当日(明治十二年四月三日)には、当神社に村民等の寄付者(三千余名)たち数多くの参列者の前で、落成式が挙行され、この石碑が披露されている。すなわち、右の一句は「村民周知」のところとみなす他はない。
4. 当時の宮司(鈴木徳成)は旧幕時代から明治に至る、当地の旧家の名士である。鴎村は彼の尊敬する学者であった。
(七)もっとも注目すべきは、左の一点である。「明治十二年には、問題の稲荷山の鉄剣銘は全く知られていなかった」。それ故、「大和の磯城宮」と書かず、ストレートに「斯鬼宮」と書かれている鉄剣銘の宮名として、この関東の(約二十三キロメートル近くの)「磯城宮」の名を無視することは、研究者が客観的立場に立とうとする限り、許されない。右を平然と「無視」してきたのは、逆に、明治以降の、また敗戦以降の「天皇家中心史観のイデオロギー」を至上の基準とする、現代の学風を赤裸々に証言するものではあるまいか。
(八)この問題は、次の諸点への研究をうながすこととなろう。
1. この大前神社の周辺には「境宮」「鷲宮」「北宮」「宇佐宮」、有名な「宇都宮」といった「宮」号名が他にも分布している。
2. 「天国府」(あまこふ)のような近隣地名は近畿には存在しない。逆に関東には「国府津」の類の地名が少なからず分布する。(「甲府」もその一か。)。また「常陸国風土記」には「天降る」の類の表現が頻出している。これらにつき、「近畿中心主義のイデオロギー史観」から決然と脱出し、新たな史料批判と客観的な多元史観による冷静な研究が深く広く期待せられているのである。 (4)
(二〇〇三年十月五日 記)
(注)
(1)多元 No.五六、五七参照
(2)「大前の地名」、藤岡史談、第六号(平成十二年)
(3)高田かつ子、長井敬二、下山昌孝、笠原桂子、小松孝子、安藤哲朗氏のご協力
(4)当問題については、古田『関東に大王あり』(創世記、現在は新泉社刊)参照
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