2003年12月3日

古田史学会報

59号

1、稲荷山鉄剣銘文
の新展開について
古田武彦

2、大前神社
碑文検討応援記
水野孝夫

3、神籠石
古代山城を訪ねて
下山昌孝

4、「宇佐八幡宮文書」
の九州年号
古賀達也

5、太安萬侶 その五
称制の謎と紀の法則
斎藤里喜代

6、連載小説「彩神」第十話
若草の賦(2)
深津栄美

7、ウヒヂニ・ツノグイ
の神々の考察
西井健一郎

8、二倍年暦の世界
『曾子』『荀子』の二倍年暦
古賀達也

9、『古田史学いろは歌留多』
解説付冊子」
「FURUTA SIGAKU
壹の字バッヂ」の作成

 

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稲荷山鉄剣銘文の新展開について 古田武彦


大前神社碑文検討応援記

奈良市 水野孝夫

1. 検討に到る事情

 埼玉稲荷山鉄剣銘文に、「斯鬼宮」がある。古田武彦氏は、稲荷山の近くの「シキ」を求め、栃木県藤岡町字磯城宮に大前神社があり、石碑銘に「大前神社其先号磯城宮」とあることを確認して、ここを第一候補とした(注(1) )
 ところが最近、地元の藤岡町歴史民俗資料館のメンバー(石川善克氏、尾島忠信氏等)から「この字地名は明治一〇年頃に、地元のインテリがつけた新しいものである。その証拠となる文書が個人宅に残っていた」との説が提唱されているらしい。
 そのため、古田武彦氏はその点を確認するために、碑文等を再確認し、結果を二〇〇三年十月十九日につくば大学で行われた日本思想史学会で報告された。本記は、その調査に協力した経過報告である。


2.検討の経過

 石碑の銘文全体を検討することになり、多元関東のメンバーで拓本をとられたところ、銘文は森鴎村という、明治時代の漢学者が作ったものとわかった。
 鴎村遺稿集(注(2) )が発行されていることもわかったが、多元関東の高田さん調査では地元図書館等では入手困難であった。飯田満麿氏のインターネット検索により購入可能とわかり、購入して、古田史学の会から古田氏に贈呈することにした。本は八月末に入荷したが、古田氏はロシア旅行直前であり、氏が本に接せられたのは帰国後になった。

 

碑文の、関東と当会のメンバーで読み取った中間結果

 大前神社拝殿新築應募諸君姓名抜萃碑
下毛野都賀郡大前神社其先号磯城宮早既列式内國幣社而来千有餘年徳之幽明及祠之葺□時有變遷然村民相率春秋祭祀不亦懈為餐雖由式内名祠抑將神靈異他之所致也明治維新之際縣廰改撰郷社神徳更著遠近帰依参拝日多因勧募集金新築拝殿其功踰歳而得好卜本年如月三日落之応募金凡千圓強喜捨人員凡三千餘名其中特擢抜群多資者数百人列序其姓名以永定祭日禮拝之順次鐫諸四面以傳不朽云 明治十二年歳次戊寅三月下浣 [區鳥]村士興拝撰

[區鳥]村の[區鳥]は、JIS第3水準ユニコード9DD7

 この文で「抑將神靈異他之所致也」の部分の意味が重要だと思ったが、難解である。
 将のふつうの読みは「ひきいる」だが、「神霊をひきいる」そんな偉い神様は見当がつかない。将は「平将門」のことかと疑った。この地方は平将門が活躍したご当地である。
 しばらくは平将門についての本ばかり読んだ。抑のふつうの読みは「そもそも」であるが、「将をおさえる神霊」と読めないか?森鴎村は将門の天慶の乱についても触れている。しかし将門は逆賊として扱われていて、鴎村が将門を神様扱いすることはありえないことがわかった。しかし将門を破った田原藤太のことは顕彰していて、「将をおさえる神霊」が田原藤太の神霊という可能性もあるような気はする。ただ碑文のこの部分の直前の文字も未確定があるので、ここまでで保留した。
 次に「如月三日」である。「四月三日」かも知れない。この碑文が三月下旬に作られ、拝殿が「本年X月三日、落之(これを落す=落成した)」と過去形に読めば、Xは三月下旬よりも以前でないとおかしい。だから「如月」を当てた。拝殿工事が「歳をこえた」とあるからには、最初は旧年中に完成させたかったが、残念ながら延期になったように読める。なぜ残念か、参拝者が最も多いのは正月の初詣だからだ、と考えた。それなら新暦の正月が無理なら、旧暦の正月に合わせようとするだろう。この時代の農村なら、まだ旧正月が一般的だったろう。ところが明治十二年の旧暦元旦は二月二日なのである。
 また、この神社の例祭日は、現在も四月三日である。この中間案で現碑の確認を待つほかはない。九月二十七日、関東の高田、安藤両氏は、ヤブ蚊と戦いながら文字を確認された。その結果が次である。

 大前神社拝殿新築應募諸君姓名抜萃碑
下毛野都賀郡大前神社其先号磯城宮早既列式内國幣社而来千有餘年徳之幽明及祠之葺□時有變遷然村民相率春秋祭祀不少懈為是雖由式内名祠抑將神靈異他之所致也明治維新之際縣廰改撰郷社神徳更著遠近帰依参拝日多因勧募集金新築拝殿其功踰歳而竣乃卜本年四月三日落之□□金凡千圓強喜捨人員凡三千餘名其中特擢抜群多資者数百人列序其姓名以永定祭日禮拝之順次鐫諸石面以傳不朽云 明治十二年歳次戊寅三月下浣 [區鳥]村士興拝撰


3.最後の一字

 古田氏の発表資料の準備がほぼ終わったところで、高田・安藤両氏が重要な発見をされた。「春秋祭祀不少懈為是」と読んできた部分の「為」は「焉」だというのである。
(1) の口絵写真には「磯城宮」と並んで「少懈焉」の三文字が鮮明に写っている。現在では現碑に直接あたっても判然としない文字が、二十四年前には鮮明だったということである。劣化の進行に驚く。

 

4.碑文の残る問題点

A.明治十二年歳次戊寅 という干支は一年ずれている。 現行年表では、明治十一戊寅、十二己卯、である。しかし鴎村文例で、文政二年、明治二二年の干支は年表どおりである。鴎村の暦認識が一年ずれていたとは考えられない。森鴎村が碑文を撰したのは、石を彫る準備もあり、明治十一年の三月下旬だったのであろう。しかし落成は明治十二年になってしまった。結局石屋さんが無理につじつまを合わせたと考えるほかはない。
B.式内・・列・・而来「千有余年」には疑問。
 延喜年間(元年九〇一)から明治十二年(一八七九)までは、千年を超えない。しかし鴎村「田原族譜跋」中に「而天慶以降。経歳千有余年。源遠而派別。」がある。天慶元年九三八で、天慶年間からはいよいよ千年を超えない。森鴎村は年代計算を誤まる人だったのか?
 この問題は古田氏が解決された。上記文には句読点「。」があるが、森鴎村が漢文に句読点を付したはずはない。遺稿集を編集した門人の、句読点誤りである。結局、「而来千有余年」はこの神社が大前神社として延喜式神名帳に登録されるより以前の「磯城宮と号した」時代から「千有余年」だと森鴎村は認識していたことになる。

(注)
(1) 古田武彦、『関東に大王あり 稲荷山鉄剣の密室』㈱創世記、1979
(2) 『鴎村先生遺稿』正、続篇、1935-6発行、非売品

 以下に、古田武彦氏による、碑文の読み下しと、「大前の地名」と題する石川善克氏論文を掲載させていただく。

 大前神社、拝殿新築、應募の諸君姓名抜萃の碑
下毛野の都賀郡、大前神社。其先、磯城宮と号す。早く既に式内國幣社に列す。而来(じらい)、千有餘年、徳之幽明なる、祠之葺壊(穰か)の時に及び、」變遷有り。然れども、村民相率いて、春秋の祭祀、少しも懈(おこた)らず(焉)。是れ、式内の名祠に由ると雖ども、抑(そもそ)も神靈の他に致す所に異るを将(も)ってなり。明治維新之際、縣」廰の郷社を改撰し、神徳更に著し。遠近、帰依(きえ)参拝すること、日に多し。因りて勧募集金し、新たに拝殿を築くに、其の功、歳を踰えて竣す。乃(すなわ)ち本年四月三日を卜して、」之を落す。(○資〈費か〉)金凡そ千圓強、喜捨(きしゃ)の人員凡そ三千餘名。其の中、特に抜群の多資者数百人を擢んで其姓名を列序し、以て永く祭日を定む。」禮拝之順次、諸(これ)を石面に鐫(きざ)み、以て不朽に傳うと云う。
明治十二年(〈落之〉)歳次戊寅三月下浣    鴎村士興拝撰」
(当稿につき、水野孝夫、高田かつ子、安藤哲朗氏等のご協力を得た)

 大前の地名   石川 善克
  豊城・佐代・登美 大正時代の初めに編まれた「郷土史・赤麻村」(1) に以下のような記述がある。
 『「前」ヲ「崎」ト錯雑用イ来ルノ処、明治九年一月、飯塚ヲ登美、小池ヲ豊城、大崎ヲ佐代ト呼ビ、総称シテ大前ト唱フルナリト、今ニ口碑ニ存ス』 (第三章、第二節第二目大前ノ名ノ起リ)
 これは「大前」「大崎」と二様の呼び名で「大崎村」を言ってきた。そこで飯塚・小池・大崎を登美・豊城・佐代と改めたというのである。
 「図版一」は右の事実を補うために収載した。
 (図版一 翻刻)
 栃木県第一大区四ノ小区都賀郡大前村
 明治十歳  登美耕地旧飯塚村
 元永取調簿
 丁丑二月 日    (この部分省略)

 竪半帳の表紙である。「登美耕地旧飯塚村」で改名の事実が分かる。他にも数点同様の文書が存在する。何れも明治十年・十一年・十二年の文書である。
 図版一はこの事を証明するものとしてあげたもの。また、飯塚を登美と呼び、大崎を佐代とも呼称している事実を知っている人は、今も年配者に少なからず知られている。
       ◇
 大字大前の小字の名前には古雅な歴史上の地名が多いので、日頃から気になっていた。今回、図らずも明治初期に、地名の呼称の変更があったことを発見したことで、これらの地名の由縁について考察を試みることにした。 豊城(とよき)という語については「豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)」(豊木入日子命)の豊城であろうと思われる。登(と)美(み)は「登美首(とみのおびと)」の登美から採ったものであろう。また、佐代(さしろ)は「佐代公(さしろのきみ)」から採ったものであろうと思われる。
 つぎにこの呼称の出典を見てみよう。
【豊城命】古事記・中巻に豊木入日子命として神代年代の十代の崇神天皇の御子であるとする。上野君・下野君(上野国・下野国の国主)の祖先であるとする。
 また、日本書紀では崇神天皇の子として豊城命が記され、東国を治めるために派遣されたとある。
【佐代公】新撰姓氏録、河内国皇別では、豊城入彦命の子孫で敏達天皇が吉野川瀬に行幸の時、勇事があったので「佐代公」を賜ったと記されている。
【登美首】新撰姓氏録、河内国皇別に記され、佐代公と同祖で、その祖は豊城入彦命である。
【注】(1) 郷土史、赤麻村 ーー大正一四年の写本、編著者の記載はない。村の政治、経済、文化、歴史、民族等全般にわたっている。各種の統計表は明治四十年 ーー 四十五年のものなので大正初期に編纂されたものと推定できる。(*原論文には、この部分に、古事記、日本書紀、新撰姓氏録の説明があるが、引用を省略する。)

 古事記・日本書紀・新撰姓氏録など日本の古代の歴史書に載っている人名にあやかって改名している。つまり豊城入彦命が下野を始めとする東国鎮定に派遣されたこと、そして子孫が下野の国主になるという古事記の記述を踏まえての改名であろう。登美首、佐代公も豊城入彦命の子孫、つまり一族である。登美・佐代・豊城と崇神天皇の子孫で皇統に属する人名から採ったものであろうと考えられる。
 ところでこの豊城・登美・佐代の三呼称は現在は全く使用していない。これは、使用した期間が短期間だからであろう。明治十二年から「郡区町村編成法」が実施されて、大小区制が廃止となり、旧の郡町村名を使用することとなったためと思われる。つまり公式な場では明治十年頃から三・四年間の使用で終わってしまったからであろう。
        ◇
 なおこの豊城・登美・佐代は小字名として現在存在していることを付記しておきたい。
 小字名には、この前述の三つの呼称のほかに磯城宮・天国府・国造・水城島などの歴史的な用語の小字が存在している。別の機会に考察を試みたいと思う

 引用元・左記誌のp54-57
 藤岡史談 第六号
   平成十二年八月一日発行
藤岡町古文書研究会 会長 上岡一郎
〒三二三 ーー 一一〇八 
(電話番号は略)
栃木県下都賀郡藤岡町大字太田八〇八
印刷製本  イシダ印刷有限会社
     栃木市薗部町一 ー 九 ー 二七

 

古田氏の碑文読み下しに対する考察

 「其の中、特に抜群の多資者三百人を擢んで其姓名を列序し、以て永く祭日を定む。禮拝之順次、諸(これ)を石面に鐫(きざ)み、以て不朽に傳うと云う。」
 この読みでは、「資金を多く出した人を、ある時点で確定し、その結果、定めたのは〝祭日のみ〟であった」ととれる。わたしは、「資金順」で定めるのは「祭日での礼拝の順次」であって、祭日は占いの結果として定めたのだと考える。古田氏は「この時点で資金を出した人を“永く”順次とするのはおかしい。神社は今後も資金を出してくれる人を必要とし、今回出資してくれた人も没落するやも知れず、石に彫って“永く定める”ようなものではない」と説かれる。しかし神社の「氏子序列」の決め方は、このようなものではないだろうか。「祭日での礼拝の順次」は有力な来賓(たとえば栃木県知事)があったとしても、氏子の方が優先権がありますよとしているのではなかろうか。徳川時代でも、譜代ならば石高は少なくても、有力な外様大名よりは、将軍に拝謁の順次は“永く”先だったと思われる。

 

石川氏論文に対する考察

 氏の論文には説明不足と思われる部分がある。
「A.ところでこの豊城・登美・佐代の三呼称は現在は全く使用していない。」と「B.なおこの豊城・登美・佐代は小字名として現在存在していることを付記しておきたい。」
である。両立しない記述のように思える。
Aは「村名または大字名としては、現在は全く使用していない」の意味であろうか?
 一般的に、小字名のような小領域地名は、より広い領域の地名より変化が少ないものとわたしは考える。それを守ろうとする地元の人々が存在するからである。現代の町村合併問題でも論議されるように、地元の人々は旧地名を守ろうとする。合併後のより広域の地名に、自己の属する地名が昇格するなら賛成である。法令などで地域区分と名称を変更せざるを得ないとき、新領域名に、代表的な小地域名を昇格させることはよくある。
 豊城、登美、佐代の小字名が現存している以上は、明治十年頃にこの小字名は村名または大字名に一時的に昇格し、石川氏も触れられているように法令の変更で旧地名に戻ったときに、また小字名に戻ったのではないだろうか。
 この三地名は明治のはじめにできたのではなく、もっと古いものではないか。森鴎村が認識されているように、磯城宮が「千有余年」の伝統をもつならば、この三地名も同程度の伝統をもっていてもおかしくないのではなかろうか。


 これは会報の公開です。史料批判はやがて発表される、『新・古代学』第一集~第八集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一~十集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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