稲荷山鉄剣銘文の新展開について 古田武彦
神籠石
古代山城を訪ねて
川崎市 下山昌孝〔「多元的古代」研究会・関東 事務局長〕
古代倭国の山城、北九州に分布する神籠石、或いは太宰府の大野城や瀬戸内海周辺の古代山城は、一般には朝鮮式山城とされている。しかし古田武彦氏は最近「神籠石は基底部に列石を一列・一段に配する独特な構造を持っており、倭国式山城である」と述べている(本年一月、唐原神籠石見学会にて)。私も多くの神籠石や朝鮮式山城、そして中国東北部に分布する高句麗山城を実際に見た結果として、古田先生の仮説に賛成する。
古代山城の分布図は添付の通りであるが、それらは極めて限られた地域、北九州と瀬戸内海周辺に集中している。これらの内、大和王朝防衛のために設けられた山城は高安城のみである。日本書紀と続日本紀には天智六年の築城記事(六六七年、白村江戦後五年も経っている)以降、数多くの記事が記録されている。近畿天皇家防衛の拠点であるから、今まで数々の調査が行われた筈であるが、現在までの所、敷石造り建物跡二棟が発掘されただけで、城壁(石塁や土塁)や城門など山城を示す遺構は全く発見されていない。築城自体を疑問とせざるを得ない。
(一)神籠石を訪ねて
(1) 高良山神籠石(久留米市):高良大社に登って行くと、途中に列石や土塁を見る事ができる。現在、北側の城壁はほとんど崩壊しているが、南側の中腹に神籠石状の列石と土塁が残っている。有明海を睨んだ要所に位置している。
(2) オツボ山神籠石(佐賀県武雄市):武雄市街地の南、杵島山の西麓の小丘陵に神籠石がある。城壁の全長は約一・八km、途中に六ヶ所の城門・水門がある。一九六三年に鏡山猛氏(九州大学)が発掘調査を行った。長さ一m位の切石を一列・一段に敷き並べ(列石)、その上面と背面に版築による土塁を築いている。又、土塁の前面には平均三m間隔で柱穴列があったと報告している。このような構造はほとんどの神籠石に共通しており、神籠石特有のものである。鏡山氏は柱間隔が平均三mだったことから、唐尺(一尺=二九・五cm)が使われていたとして、七世紀後半の築造と判断した。しかし、これは南朝の小尺(二四・五cm)でほぼ十二尺であり、唐尺として時代を特定するのは、少し無理がある。オツボ山は有明海側から見ると杵島連峰の蔭に隠れていて、有明海を意識した山城とも云いにくい。
(3) 帯隈山神籠石(佐賀市):佐賀市の北東部に帯隈山(標高一七八m)があり、山頂付近を頂点として、東西の尾根筋に神籠石が築かれている。オツボ山調査の翌年、やはり鏡山猛氏らによって発掘調査が行われた。城壁の総延長は約二・四kmであり、山頂の北に北門跡が確認されたが、南側の谷に在る筈の水門や城門は、水田や用水池として開発されてしまったので、今は何も残っていない。本年一月に古田先生と一緒に山の中腹まで登ったが、佐賀市街地とその先に有明海を望むことができた。
(4) 女山神籠石(山門郡瀬高町):東から延びてきた丘陵の末端にある。山頂から南北に伸びる尾根にそって、神籠石の列石や土塁が連なり(総延長推定三km)、麓の谷には四ヶ所の水門が残っている。神籠石群の中では、列石・水門共に残っている貴重な例である。神籠石の頂点に立ってみると、豊かな水田地帯の先に有明海を望み、その先には対岸の多良岳も良く見える。
(5) 把木神籠石(朝倉郡杷木町):杷木町の東の丘陵(標高二〇〇m)に神籠石が築かれている。城壁の全長は二・五kmであり、水門が二ヶ所確認されている。
(6) 雷山神籠石(福岡県前原市):玄海灘を望む雷山の中腹に築かれた神籠石。雷神社の西、不動池の周囲に、南・北の水門とそれを囲むような列石が残っている。地元では不動池周辺しか調査していないが、山城全体の規模や構造を知るには、周りの尾根筋なども含めて調査をすることが是非必要であり、前原市のきちんとした調査を希望する。
(7) 鹿毛馬神籠石(嘉穂郡頴田町):響灘から遠賀川を遡って、その中流にあるの小丘陵(海抜八〇m)に築かれている。城壁の延長は約二kmで、今でも一m程の切石を並べた列石が延々と連なっている。麓の谷にある城門と水門二箇所が発掘調査された。
(8) 御所ヶ谷神籠石(福岡県行橋市):行橋市と勝山町の境にある、ホトギ山(標高二四七m)の山頂付近から北と東に延びる尾根に築かれている。北九州の瀬戸内海側に置かれた神籠石である。城壁の延長は約三km、高さ三~五mの土塁があり、底部には列石が連なっている。七ヶ所の城門・水門があり、中門などは幅三〇m・高さ七~八mの大規模なものである。
(9) 唐原神籠石(福岡県築上郡):御所ヶ谷の南東に位置し、共に周防灘を睨んでいる。二年前に発見された、九州で九番目の神籠石である。全面的な調査はこれからのようだが、東門脇に礎石造りの大型建物が在り、神籠石としては終末期の築造と推定されている。
山口県熊毛郡大和町にある「石城山城」は、神籠石か朝鮮式山城か、研究者により意見が分かれている。私自身は残念ながら現場を見ていないので何とも判断できない。
太宰府のすぐ南、筑紫野市に阿志岐神籠石が発見されたと、内倉武久氏が「太宰府は日本の首都だった」で報告している(注(1). )。宮地嶽(標高三三九m)を頂点として西側に展開している山城であるが、まだ麓の城壁の一部が調査されただけのようである(筑紫野市教育委員会に確認した)。
(二)朝鮮式山城を訪ねて
(1) 大野城(福岡県太宰府市と宇美町):太宰府・都府楼跡の北、四王寺山(標高四一〇m)の山頂から、北西側に展開する山城である。一般には日本書紀の記述から、白村江の敗戦後に築かれたとしている。しかし古田武彦氏が何時も指摘しているように、白村江の後には唐の進駐軍が筑紫に来ているのであり、そのような時に「唐に対する山城」などを築かれる筈がない。大野城はそれよりかなり前に築かれた朝鮮式山城であると推測される。石塁・土塁の総延長は約六・五㎞に及び、古代山城の中では最大規模である。城門は四ヶ所が確認され、城内に七〇棟以上の礎石造り建物跡が発掘されている。
大野城から派生する尾根に連なって水城(総延長約一・二kmの堰堤)が築かれ、山城と水城が一体となった防御施設を構成している。水城も従来の学説では白村江戦後(七世紀後半)の築造とされているが、内倉武久氏が確認したところによると(注一)、炭素年代で四三〇±三〇年(較正値は五四〇±四〇年)とのデータがあり、六世紀前半以前の築造と考えてまず間違いない。
大野城は九州王朝の都・太宰府都城の北にあり、高句麗の都・集安の国内城と丸都山城と同様な配置である。
(2) 基肄城〈佐賀県基山町〉:太宰府の南、基山(海抜四〇四m)から南方に展開している。城壁の総延長は四・三km、4ヶ所の城門が確認されている。城内には四十棟以上の礎石建物跡が発掘されており、大野城と対になった有明海側を睨む山城である。
(3) 金田城(長崎県下県郡・対馬):対馬の浅茅湾の奥深くにある。日本書紀には天智六年(六六七)に高安城などと共に築城されたと記録されている。地元美津島町では平成五年以降発掘調査を継続している。土塁や城門(三ヶ所)、山頂に近い平地に数棟の掘立て柱建物跡などを確認している。平成七年度の調査で、土塁を割って断面を調べた所、現在の土塁の下から新たな土塁(版築工法)が発見された。後期土塁は七世紀だとしても、前期土塁は五~六世紀に遡る可能性を示している。内倉武久氏の調査によれば、前期土塁中の木炭の炭素年代は(1).五八五±四五年、(2).六二〇±三〇年を示しているとの事である。
(4) 鞠智城(熊本県菊鹿町):菊池川上流に位置する菊鹿町の、標高一四〇m程の米原台地にある。全長五kmの土塁が廻り、四ヶ所の城門が確認されている。城内には数多くの礎石建物跡があり、特に八角形の建物跡が確認されているのは注目に値する。
(5) 鬼ノ城(岡山県総社市):総社市の北にある鬼城山(標高約四百m)に築かれた山城である。鬼城山は北側に稜線が連なり、南側は緩い斜面が、比高差百mの範囲に広がっている。山城はこの緩傾斜の台地に築かれおり、城門四ヶ所、水門五ヵ所、角楼跡一ヶ所、礎石建物跡数棟などが発掘された。城壁の延長は約三㎞であり、北門周辺では花崗岩の切石を一列・一段に連らね、その上に土塁が築かれている。神籠石と同様の構造である。南側にある城壁・城門・角楼・水門などは、石垣が高く築かれ、大野城の石垣や城門と良く似ている。鬼ノ城は始め神籠石型の山城として築き、その後大野城型の山城として改築された可能性が高い。五~七世紀にわたる長期の築城と、その後の改築を考えるべきであろう。
鬼ノ城東南端の第二展望台に立ち、東側の谷(血吸川)を見下ろすと、水城状の遺構がはっきり見える。周りは一面の水田であるが、その中に一直線の堰堤が築かれ民家が数軒建っている。発掘調査によると版築工法による築造であり、水城であった可能性はかなり高い。山城と水城の組合わせは倭国内の各地にあったと考えるべきではなかろうか。
鬼ノ城から東へ約三〇km、岡山市の東端に大廻小廻山城がある。標高約二〇〇mの大廻り山と小廻り山を頂点に、延長約三kmの城壁(土塁)が築かれ、水門と見られる遺構もある。鬼ノ城と同時代の山城と見られているが、付近一帯は敗戦後農家に分譲され。現在は果樹園として開発されている。古代山城の全貌を見ることはできない。
(三)高句麗山城を訪ねて
丸都山城(中国吉林省集安市):高句麗は紀元前一世紀に建国されたが(注(2).)、当初の都城は遼寧省桓仁に置かれていた(五女山城がある)。高句麗の勢力範囲が拡大すると共に、二世紀後半(或いはそれ以前)に、鴨緑江沿いの集安に都を移した。鴨緑江北岸の平地に「国内城」を築いて治世の都とし、その北方の山中に丸都山城を置いた。「三国志・毋丘倹伝」には、「正始年間(二四〇~二四八年)、二度にわたる高句麗討伐を行い、丸都山に登り高句麗の都を破壊した。高句麗王・位宮は遠く粛慎の地まで逃げた。」と記されている。
丸都山城は、山頂から東南と西南に延びる尾根に沿って、楕円形状に城壁(石塁と土塁)が連なり(延長約七km)、途中に五ヵ所の城門がある。南門跡に立つと門は残っていないが、両側の城壁は高く聳えている。川に沿ってしばらく登るとやや広い盆地があり、その辺りに多くの建物跡が発掘された。宮殿跡、役所跡、兵舎跡、倉庫跡などが多数築かれていた。なお、集安市内には、切石積みの国内城城壁がかなりの距離にわたって残っている。
高句麗山城としては、他に桓仁市の五女山城、撫順市の高爾山城、遼陽市の燕山城(旧白岩城)などを見学した。
(四)まとめ
大野城型の古代山城は、その築造から見て朝鮮式山城と言える。神籠石は独特の構造を持っており、倭国式山城と云っても良いと考える。大野城型山城は大規模であり標高四百m位の山に築かれている。神籠石は小規模で標高二百m位の低丘陵に築かれている。高句麗の山城を見ても、丸都山城のように大規模なものもあるが、神籠石と同規模の山城も沢山ある。
築造年代について、一般的には神籠石が六世紀末~七世紀、大野城型山城は日本書紀の記載をベースにして七世紀後半とされている。実際には神籠石は四~七世紀、大野城型山城は六~七世紀の築造という可能性が高い。
神籠石や古代山城の築城時期として、五世紀が重要な意味を持っているように思われる。高句麗「好太王碑」を見ても、倭国は四世紀末から五世紀にかけて、度々朝鮮半島に出兵し、高句麗と対決していた。「宋書」の倭の五王の記事も、倭国の朝鮮出兵を裏付けている。倭王・武などに対して、宋の皇帝は半島内諸国の軍事権を認めているのである。
大量の倭国軍が朝鮮半島に渡り、高句麗と対決していた。この時、倭国の多くの将兵は、高句麗や半島南部の山城を良く見てきたと思われる。倭国自身の防衛拠点を造る時に、高句麗の山城を参考にして、まず北九州に神籠石型の山城を築いた。その後、より大規模な大野城型山城を築いたとすれば、無理のない理解が得られるのではないだろうか。
(本稿は平成十五年二月九日、多元的古代研究会の月例会で発表したものを、その後の知見に基づいて修正・加筆した。十月二四日記了。)
(注)
(1).内倉武久著「大宰府は日本の首都だった」(ミネルヴァ書房、二〇〇〇年六月三〇日発行)。内倉氏は炭素年代によって考古学年代を見直すべきだと主張し、数多くの資料を提示して、弥生から古墳時代の編年の大修正を求めている。
(2).高句麗の建国年代について「三国史記」は漢・孝元帝建昭二年(BC三七年)としている。しかし朝鮮民主主義人民共和国の考古学者の最近の研究によれば、鴨緑江流域に広く分布する積石塚墳墓の建設が、紀元前三世紀初頭から活発になる事など、数々の考古学的証拠をあげて、高句麗建国年はBC三七年から干支四巡繰上げて、BC二七七年とすべきである、と主張している。(李成市・早乙女雅博編「古代朝鮮の考古と歴史」〔雄山閣、二〇〇二年五月二〇日発行〕の中で、共和国・社会科学院考古学研究所の石光濬氏が明瞭に述べている。)
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