古田史学会報 2002年10月1日 No.52
古田史学から見た『新しい歴史教科書』
京都市 古賀達也
昨年来、話題となった『新しい歴史教科書』(扶桑社)の市販本を読んでの率直な感想は、古代史については他の教科書同様非学問的であり、近代史は従来の「自虐教科書」の対極にあり功罪相半ば、というものであった。そしてその古代史と近代史に通底しているのはイデオロギー優先の姿勢であると感じ取れた。
同書に対し、今回わたしの専攻分野である古代史について、忌憚無く意見を述べさせていただき、その背景にある近畿天皇家一元史観というイデオロギー(戦後型皇国史観)を、古田史学に基づいて明らかにしてみたいと思う。
『新しい歴史教科書』市販本三二頁「古代国家の形成」に志賀島の金印が紹介されており、金印の写真と印影のキャンプションに「何と書いてあるのだろうか。とっては何の動物の形だろうか。」という問いが記されている。この問いは学問的に見ても大変良い問いである。こうした素朴な疑問こそ、学問の方法論や古代の真実への洞察力を深めるための格好のテーマとなるのである。ところが、同書にはその方法論は示されておらず、「結論」も誤っている。
同書に、「漢委奴国王」という金印の読みは直接には記されておらず、『後漢書』東夷伝に見える「倭奴国」を「倭の奴国」との読みで紹介している。通常、金印は「漢の委の奴国王」と三段国名(漢、委、奴をそれぞれ国名と見なす読み方)で読まれているが、同書でもそれに準じた「倭の奴国」という国名表記がなされている。ところが、定説とされるこの金印の読みはイデオロギーから決められたものであり、学問的方法により求められた帰結でないこと、あまり知られていないようだ。
問題は二つある。一つはこの五文字をどこで区切って読むか。二つはどういう音を当てるかである。一つずつ検討してみよう。
一つ目の問題だが、二通りの区切り方が可能である。同書でも援用されている「漢の委の奴国王」という三段国名読みと、 「漢の委奴国王」という二段国名読みだ(漢、委奴の二国名と見なす読み方)。どちらが正しい読みかを考えるのが学問であり、その考える力と方法論を教えるのが教育だとわたしは思うのであるが、同書(恐らくは他の歴史教科書も)にはそのことが触れられていない。
方法は簡単明瞭だ。古代中国の印、特に周辺諸国へ授与した印文のルールを調べ、そのルールに則って読めばよいのである。結論を言えば、古代中国王朝が周辺諸国(夷蛮)に授与した印文は、基本的にはA国(中国王朝)からB国(中国へ臣従した周辺諸国)へという二段国名表記である、一部例外として、授与者側である中国王朝名が省略された一段国名表記が存在する。しかし、A国がB国の中のC国へ贈ったなどという三段国名表記は皆無なのだ(注1)。従って、志賀島の金印もそのルールに従って読まなければならないこと、理の当然であり、多言を要すまい。
それでは次の問題として、委奴国はどのような音が妥当であろうか。『新しい歴史教科書』を初め、多くの本では倭や委を「わ」と読み、奴を「な」と読ませているが、これは無茶である。「委」はwiとしか読めないし、「奴」に至ってはどう転んでも「な」などとは読めない。「奴」はdo、nuせいぜいnoと読むのが限界である。その証拠に、金印の横に掲載された東アジアの地図(同書三二頁)には中国の北方異民族の強国「北匈奴」に対して、「きょうど」とルビがふってある。すなわち「奴」を「ど」と読んでいるのだ。ならば、『後漢書』の「倭奴国」も「倭の奴国」ではなく、せめて「倭の奴国」とするべきであろう。この教科書で学んだ生徒から、匈奴の奴はドと読み、倭奴の奴はナと読むのはおかしいではないかと問われたら、教師は何と返答するつもりであろうか。
このように論理的、学問的に同印文を見たとき、その読みは次のようにならざるを得ない。すなわち、「漢の委奴国王」あるいは「漢の委奴国王」である(厳密には委は「ゐ(wi)」)。なお付言すれば、「委」に人偏が付いた「倭」は音韻変化により後代にはwaと読まれるが、金印を授与した後漢代ではwiと読まれていた可能性が高い。なぜなら当の金印中の「倭」に相当する国名部分に「委(wi)」が使用されているからだ。これは当時、倭と委が同音であったことを示す用例なのである。
このように、金印の読みについてこれほど単純明快な方法と結論が古田武彦氏によって三十年も前から提起(『失われた九州王朝』朝日新聞社刊、一九七三年)されてきたにも関わらず、何故、未だに三段国名が採用されているのであろうか。それは、イデオロギー(近畿天皇家一元史観)と金印の出土地点に深く関わっている。
日本列島の中心権力者は古代から近畿天皇家のみであるという、『古事記』『日本書紀』に基づいた近畿天皇家一元史観から見れば、漢の光武帝が倭国の代表者に与えたはずの金印が大和ではなく筑紫の志賀島から出土したことは、自らのイデオロギーに抵触する考古学的事実であった。従って、大和へ持ってくる途中に志賀島で落としたのだろうとか、「奴」という卑字があるため、捨てたのだろうとかの珍説奇説が研究史上出現した。そして、落ち着いた先が、大和朝廷(倭国)の中の一支配領域たる筑紫の奴国へ贈られたもの、とする説だった。これであれば、志賀島から出土したことが一応説明できるからだ。こうして三段国名読みという苦肉の策が近畿天皇家一元史観に矛盾しない定説として、今日まで採用されてきたのである。そして「奴国」は博多湾岸の地名であった「那の津」に対応するとして、「奴」という字の読みに、それまでは誰も読まなかったナという音を採用したのであった。
以上、「定説」となった金印の読みは、学問的方法論の帰結としてではなく、既にあったイデオロギーを優先させるために考え出されたものであることが、おわかりいただけたであろう。もし今後も、志賀島の金印だけは三段国名で読むべきだという人があれば、史料根拠を示しての論証責任はその人にこそ発生する。その責任を果たさずに従来の三段国名を教科書などに採用するのであれば、それは学問とは別次元のイデオロギーに取り憑かれているか、体制や学閥へのおもねりと受け取られても仕方ないのではあるまいか。なお、この指摘が『新しい歴史教科書』に留まらず、全ての歴史教科書や研究者・教育者に対しても問われていることを付け加えておきたい。
『新しい歴史教科書』には、他にも金印に関しておかしな表現がある。次の部分だ。
「このとき授けられたと思われる金印が、江戸時代に志賀島(福岡県)で発見されたので、中国皇帝と日本列島の使者との交渉はあったと考えられている。」
ここの「中国皇帝と日本列島の使者との交渉」という表現はかなり恣意的である。交渉の当事者が、片や中国皇帝、片や日本列島の使者というのは不適切な表現だ。中国皇帝と交渉があったのは使者ではなく日本列島の代表者とするべきである。しかし、この教科書の執筆者は近畿天皇家一元史観の立場から、北部九州の地方豪族(大和朝廷の使者)に過ぎない奴国と漢が交渉していただけで、倭国たる大和朝廷との直接交渉ではないという立場を前提としているようである。そして、同書に掲載されている東アジアの地図でも、本州島に「倭」と記され、福岡市付近の一地点を示す赤点の下に小さい字で「奴」と記されていることも、こうした意識の現れであろう。
また、「交渉」という用語も適切とは言えない。何故なら当時の中国(漢)と日本列島(倭国)は臣従関係にあり、臣従の証として朝貢してきた倭国に対して、光武帝は金印を賜ったのである。従って、両者の上下関係は明白であるにもかかわらず、「交渉」という上下関係が不明確な用語を敢えて用いるところに、同教科書執筆者の共通したイデオロギーが見え隠れしていると言っては言い過ぎだろうか。
こうした捉え方が非学問的であることは既に述べたとおりであるが、同時に金印の持つ政治的意義についても、無視ないし軽視されていることも指摘しておかなければならない。
中国は周囲の諸国に対して臣従を求め、それに応じて朝貢してきた諸国に対して、中国配下の王であることを承認した印を授ける政治的制度がある。その場合、印にはそれぞれランクがあり、金印はその最上位に位置する。その下は銀印、銅印などであり、金印が授与される国は配下の国々の中でもトップクラスの有力国に限られる。他方、中国の皇帝自身の印は玉印であり、その紐には皇帝のシンボルである龍があしらわれている。志賀島の金印の紐は蛇であり、ここでも龍(中国)と蛇(委奴国)という上下関係が明確に表現されている。
このことから、金印を授けられた委奴国は周辺諸国の中でも、漢にとって最大級に重視された国であることが分かるのだ。金印は「倭国の中の奴国」などという地方豪族の王に与えられるものではないのである。こうした金印の持つ政治的意義から見ても、「漢の委の奴国王」などという読みが成立しないことは明白だ。金印の印影をよく見て欲しい。漢の一字は他の字の二倍の大きさであり、漢が委奴国の上位にあることを自ら主張している。そして、材質が金であること、蛇紐を持つことは、その配下の国々の中でも委奴国がトップクラスであることを漢が認めている証拠なのである。
このような東アジア的スケールの政治的意義を有す金印が、近畿なる大和ではなく筑紫の志賀島から出土した事実は、日本列島の代表者たる委奴国が筑紫にあった事を指し示し、いかなるイデオロギーを以てしてもこの歴史の真実を消し去ることは不可能である。
さて、それでは金印に関する古田史学の最新の研究状況についてご紹介したい。
数ある周辺諸国の中で、何故日本列島の委奴国王に金印を授与されることになったのであろうか。この疑問に答えたのが古田武彦氏である(注2)。光武帝が委奴国王に金印を授与した記事は『後漢書』倭伝に見える。
「建武中元二年、倭奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の南界を極むるや、光武賜うに印綬を以てす。」
この文は従来次のように読まれてきた。
「倭の奴国……倭国の極南界なり。・・・」(岩波文庫)
原文は次のとおりだ。
「倭国之極南界也光武賜以印綬」
従来はこの文を分けて、前半を「倭国の極南界なり」と読み、後半と切り離して理解していた。これに対して、古田氏は「也」という字には終尾辞としての「なり」の他に、接続詞としての「や」という用法があり、この場合、接続詞の「や」と読むべきであるとされた。そうすると、光武帝が倭国に金印を授与した理由が前半部分にあることになり、当文面の理解として大変分かりやすくなるのである。すなわち、倭国が南界(南の果て)を極めたので、金印を授与した、という文章構成になる。従来の読みでは、光武帝の金印授与記事が唐突に現れ、その理由も不明ということになり、読みとして不自然だった。
また、従来の読みでは福岡県が倭国の極南界ということになるが、もっと南の諸国とも国交があった漢にとって、北部九州に当たる福岡県では「極南界」と呼べるような位置ではない。やはり、ここは「南界を極めるや」と読んだほうが自然である。
それでは倭国が極めた南界とはどこだろうか。同じ『後漢書』倭伝に次の記事がある。
「侏儒より東南、船を行くこと一年、裸国・黒歯国に至る。使駅の伝うる所ここに極まる。」
倭国の侏儒(四国の南西部)より東南へ航海一年(二倍年暦による。実際は半年。注3)で裸国・黒歯国に至ったという倭人からの伝聞情報を記し、使駅伝える所がここに極まると述べているのだ。従って、同じ倭伝中の「倭国が南界を極めた」という記事は、倭人が裸国・黒歯国まで至ったことと理解せざるを得ないのである。そして、この偉業に対して光武帝は金印を授与したのだ。漢にとっては配下の倭国が南界を極めたということは、そのまま漢の政治的認識範囲の拡大を意味するのであるから、金印を与えるにふさわしい業績であろう。
それではこの裸国・黒歯国とはどこか。それは中南米(ペルー・エクアドル)だ。初めて聞かれる方は、まさかと思われるだろう。無理もない。しかし、次の事実を見ていただきたい。
一、エクアドルのバルディビア遺跡やコロンビアのサン・ハシント遺跡等から日本の縄文式土器とそっくりの土器が出土する(米国スミソニアン博物館のエバンス博士・メガーズ博士らの発掘報告が著名)。
二、アンデスの奥地のインディオと日本人(特に九州や離島)に同じヒトT細胞白血病(HTLV)が多く見られる(田島和雄、愛知ガンセンター疫学部長の報告がある)。
三、中南米の古代のミイラから日本列島に多い寄生虫の化石が見られる。この寄生虫は寒さに弱く、ベーリング海峡経由の人の移動では伝播できないが、温暖な黒潮に乗っての人の移動(航海)なら可能。
四、『後漢書』倭伝などにあるように、四国の足摺岬付近から黒潮に乗ると、約半年で中南米に到着する。ちなみに足摺岬は日本列島と黒潮が近接する髄一の地点である。日本列島へ帰るには赤道反流の利用により可能。
以上のように、いずれの事実も日本列島から中南米への伝播(人の移動)を指し示すのである。詳しくは古田武彦氏の著作を参照されたい(注4)。
『新しい歴史教科書』と金印を題材に、最後は古田史学の最新の成果も報告させていただいた。古代日本人のグローバルな活躍の一端がご理解いただけたかと思う。子供達の歴史離れの声を耳にするが、「暗記中心の歴史教育」ではなく、未知を探る学問の方法論を中心とした「考える歴史教育」こそ、今まさに求められているのではあるまいか。わたしが古田史学に出会って、古代史が好きになったのも、この未知への挑戦と論理的な思考方法が古田氏の著作に満ちているからであった。この喜びを子供達にも味わってもらいたいが、それには古田史学に基づいた、真に新しい歴史教科書が必要である。教育現場で日々頑張っておられる方々に深く期待し、本稿を終えたい。
(注)
1 古田武彦『失われた九州王朝』(一九七三年、朝日新聞社刊。その後、朝日文庫に収録)に詳しく論じられているので参照されたい。ただし、同書は事実上絶版状態で、残念ながら朝日新聞社も何故か増刷の意志はないようである。明石書店から刊行中の「古田武彦著作集」に収録予定。
2 古田武彦『古代史の未来』明石書店刊、一九九八年。
3古代の倭国は一年間を二つにわけ、二年と計算する暦法を採用していたことが、古田武彦氏により明らかにされている。古田武彦『「邪馬台国」はなかった』(朝日文庫)。
4古田武彦『海の古代史』原書房刊、一九九六年。
〔筆者注〕本稿は福岡県の教育関係者の団体、福岡県浮羽三井教育耳納会の会誌『耳納』に寄稿したものである。
〔参考資料〕扶桑社『新しい歴史教科書』市販本三二頁より。
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