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 『邪馬一国への道標』(角川文庫)

第4章 四〜七世紀の盲点

古田武彦

十四 一大率の探究 ーー『宋書』をめぐって

一大率への疑い

 『宋書』全体をしらみつぶしにしらべているうちに、望外の幸に恵まれました。問題の「一大率」。その文字の真の意味が判明したのです。
 わたしははじめ、この「一大率」を“一大国の率(軍団)”ではないか、と考えたことがありました。『「邪馬台国」はなかった』を書く前です。しかし、『三国志』全体を再三しらべてゆくうち、「一大石」「一大[虫也]じや」といった用法にぶっつかりました。“一つの大きな石”“一つの大きな蛇へび”という意味です。
[虫也](じや)は、蛇の異体字。JIS第3水準ユニコード8675


 そこで「ああ、『一大率』も、この慣用語形の一つだな」と思い直さざるをえませんでした。「『三国志』全体の用法に立って倭人伝の語句を理解する」。この方法論に立つかぎり、これ以外の方法はありません。いかに自分が“これはうまい思いつきだ”と思っていても、それが史料事実によって裏切られれば、スッキリ捨て去る。それが大事だ、と思います。『三国志』全体のしめすところ、陳寿(ちんじゅ)はこの“一つの大きな”という言い方がなかなか好きなのですから。英語で言えば文字通り“a big ーー”、です。
 こういう言い方をする時の話し手(もしくは書き手)の心理を考えてみましょう。「普通わたしたちの見ているような石。それより大き目の石が一つ」。「普通わたしたちの知っている蛇。それより大きな蛇が一匹いて」そういった感じです。その普通の「石」や普通の「蛇」という“普通の基準”は、もちろん中国の事物です。
 ここでは事物の名は「率そつ」です。ですから「中国で言う、普通の『率』に比べて、ずっと大きい『率』、 ーーこういった感じで使われているのです。少なくと中国(西晋朝)の読者は、そううけとるわけです。この点から見て、最近時として説かれる“一大率は中国側の設置した官名”という説(松本清張さん、江上波夫さん)には、残念ながら全く成立の余地がないようです。なぜなら、中国側の軍団や官職なら、それを呼ぶ名前(固有名詞)がチャンとあるはずです。だったらズバリそれに従って呼ぶのが中国側の正史として当然です。それを“一つの大きな”などと、物珍しげな呼び方をするいわれなど、全くないからです。
 第三国の人間が倭地に来て、偶然中国側の軍団を見た、といった状況ならともかく、ここは「中国の天子の命をうけた、帯方郡の太守の輩下」たる郡使が見、中国の天子直属の史局の一員たる陳寿が書いているのですから、「それは何物か。正規の名前が分らない」。そんな馬鹿な話は考えてみても全くありえないのです。

 

五率の道理

 では、中国で普通の「率」とは何か。これが分りませんでした。『三国志』の場合、「ひきいる」という動詞形ではよく出てきます。また「大率」というと、「おおむね」という副詞の意味で使われており、こことは全然別です。そこでわたしの頭の中に「?」が貯蔵されていたのです。ところが、『宋書』百官志(下)をしらべているとき、次の文面にぶっつかったのです。大切なところですから、全文あげます。
「太子左衛(さへい)率、七人。太子右衛(うへい)率、二人。二率の職は二衛の如し。秦の時は直に衛率(えいそつ)と云う。漢、之に因(よ)る。門衛を主(つかさど)る。晋の初(二二六)、中衛率と曰(い)う。泰始(二六五〜二七四)分れて左右と為(な)し、各(おのおの)、一軍を領す。恵帝の時(二九〇〜三〇六)愍懐(びんかい)太子、東宮に在り。加えて前後二率を置く。成都王の穎(えい)、太弟為(た)り。又中衛を置く。是を五率と為す。
 江左(東晋の建国、三一六)の初、前後二率を省(はぶ)く。孝武の太元中(三七六〜三九六)、又置く。皆、丞(じよう 副官)有り。晋の初、置く。宋の世、止めて左右二率を置く。秩(ちつ)、旧四百石」
 要旨は次のようです。
 「『率』とは『衛』のことだ。秦の時代はただストレートに『衛率』と言っていた。漢もこれに従った。その職務は、要するに『門衛を主つかさどる』ことだ。
 その設置数は時代によって増減した。西晋の初は一つ。やがて二つとなり、それぞれ一軍を支配していた。次いで恵帝のとき、二つふやして四つ。やがてさらに一つまして五つとなった。そしてこれを『五率』と称した。
 その後、西晋が亡んで(三一六)、建康に東晋が建国したとき、二つ減って三つ。孝武帝のとき、またもとの『五率』が復活した。これにはそれぞれ「丞じよう」と呼ばれる副官がついている。これは西晋の初からのことだ。
 現在の宋(南朝劉宋りゅうそう)の時代になってからは、縮減され、三つ減らして二つ。『太子左衛率』と『太子右衛率』だ。その定員は前者が七人、後者が二人である」
 結局、「率」とは「天子の都を守る門衛」のことです。王家の一族の筆頭たる、太子がこれを支配し、「率」の数だけ、「一軍」があった。つまり「五率」なら「五軍」です。
 その数は時代によって変ったが、最盛時は西晋の恵帯のとき。陳寿の最晩年です。そのころ、この「率」はぐんぐんふえつづけていたのです。西晋時代全体でいえば「一 ーー 二 ーー 四 ーー 五」という伸び方で、衆目を奪っていたのです。すなわち、陳寿が『三国志』を書き終ったころ、洛陽(らくよう)とは「五率に囲まれた都」だったのです。そして『三国志』の最初の読者たちにとってもまた(『三国志』でも、「更令《そっこうれい》」〈呉志八〉として出現する「率」がこの用法です)。
 このような当時の読者の視点から見ると、倭人伝に「一大率」とあるとき、そのイメージは明白です。「女王の都の門衛たる、一つの大きな軍団」。 ーーこれ以外にありません。すなわち、「邪馬台国」ファンにはあまりにも著名な、この呼び名自身が実はズバリ証言していたのです。この伊都国(糸島水道付近)の地から山(高祖たかす山)一つ越えたところ、その博多湾岸こそ女王の都であることを。
 思えば、わたしがはじめて高祖山に登ってこの「糸島水道」の地を遠望したときの絶景、それは“生涯の記憶に残る”美しさでした。頂上の平地は、樹木がしげりすぎて、今は展望がきかなくなっていますが、それから少しさがったところ。右手(東)は眼下に博多湾岸、歩をかえして左手(尾根の西)に出れば、同じく眼下に絵巻物のような糸島平野。はるかに光る唐津湾。 ーー同行の小吹さん(読売テレビの方)と共に、しばし息をのんで見つめていたのをハッキリ覚えています。

 閑話休題。最近、小林秀雄さんの『本居宣長もとおりのりなが』という本が出ました。新聞でそれを知り、早速近所の本屋さんに走りました。というのは、青年のころ、小林さんの文章にしばしばふれていた時期、ゴッホ・モーツアルトなど、そこには一つの新鮮な世界があったの憶えています。その後、ながらくのご無沙汰だったのですが、今回“ぜひ”と思ったのは、もちろん「本居宣長」という対象です。
 わたしの古代史の研究にとって、“大切な人”であっただけに、「あの小林さんがこの人をどのように」という気持が働いたようです。ちょうど一年前の吉本隆明さんの『最後の親鸞』のときも、同じような“胸のざわめき”を覚えたのを記憶しています(古田『わたしひとりの親鸞しんらん』毎日新聞社刊、収録)。
 さて、読みはじめると、さすがに小林さんらしい、対象の本質をさぐり、人問の深所にふれる、鋭利な筆致がつづいていたのですが、次の一節に目がとまったとき、「小林さん、あなたもまた」と、深い歎息をつかざるをえませんでした。
 「『古事記傳』といふ劃期的な仕事は、非常に確實な研究だつたので、本文の批評や訓法の決定は言ふに及ばず、總論的に述べられた研究の諸見解も、今日の學問の進歩を以てしても、殆ど動じないと言つていゝやうだが、・・・」(三二四頁)
 このような文章は、小林さんが「今日の學問」なるものを、正確にキャッチしておられた上で、書きうる文面であること、それは自明です。「言つていゝやうだが」と、断定は避けてある、といってみたところで、それは言葉のあやにすぎません。「なるほど、宣長の研究は、今日もほぼ認められているのだな」。小林さんの“権威”を信ずる、多くの読者がそのようにうけとってもやむをえぬ、そういう筆致です。そして小林さんは宣長を古伝説に対する「最初にして最後の、覺め切つた愛讀者」(五六八頁)だと讃美するに至っておられます。
 しかし、わたしの目には、ちがって見えています。宣長の業績には、大きな矛盾と弱点があります。その事実をしっかり正視しなければ、未来の本当の「愛読」も研究も一歩もすすめない。「今日の學問」は、そのような地点にさしかかっているのです。今、一、二の例だけ抜き出してみましょう。
 第一。宣長は、例の「邪馬臺国」。これに「ヤマト」という明快な訓をふって、今日までの「邪馬台国」研究界の大勢を決定づけた第一人者です(『馭戎慨言ぎょうじゅうかいげん』)。
 もちろんこの原文改定の創始者は、松下見林ですが、明治の古典学者たちに与えた影響力からいえば、見林は宣長の比ではありません。彼らは宣長の訓法や本文の批評に対して“絶対的な”信頼をおいていたのですから。この「邪馬臺国」という字面自体が、『三国志』の倭人伝中の中心国名としては、あやまっていること、それはわたしがくりかえしのべたところです。しかし、それは今、さておきましょう。さておいた上でも、なおかつ、二つの問題があります。
 その一つ。「古典の姿が後代人の頭から見ておかしい、と見えても、なまなかな判断で、さかしらに疑ってはならない」。これが宣長のくりかえし力説した、彼の学問の本質だったはずです。ところが、彼自身が見事にこれをふみにじり、原文の「邪馬壹国」を、後代の“さかしら”で書き変えて使っているのです。そしてその「本文の批評」上の自己矛盾に気づきさえしていないのです。“よその国の古典など、いくらさかしらに書き直してもいい”。 ーー彼には、そう言いうる資格があるのでしょうか。
 その二。もし「邪馬臺」という字面を採用したとしても、これを「ヤマト」と読む場合、必要なことは何でしょうか。それは『三国志』全文の中から「臺」を「ト」という音の表音表記として使った例があるか、どうか。 ーーこの検査です。宣長が『古事記伝』で展開したやり方に従えば、それは不可避のはずです。だのに、そんな手間を一切かけず、彼は断乎(だんこ)、「ヤマト」と読んだのです。なぜでしょう。 ーー「日本列鳥の中で正当に倭王と称しうるのは、恐れ多くも古(いにしえ)より天皇のみ」。この信念が、易々として、この手間をはぶかせたのです。
 もっとも、現代の多くの学者も、今なおその手間をはぶいたまま、「邪馬台国」を「ヤマト」と読んだり、講釈したりしています。その“怠惰たいだな”現況を指して、小林さんは「殆ど動じない」と、これを皮肉られたのでしょうか。

南至邪馬壹国女王之都之所 第4章 四〜七世紀の盲点,十四 一大率の探究 『宋書』をめぐって 邪馬一国への道標 角川文庫 古田武彦


 第二。例の天孫降臨神話。ニニギの命(みこと)が祖母の天照大神から命(めい)をうけ、天国(あまくに)から筑紫へと“天下る”説話です。
 その一。この「天下あまくだる」を、宣長は文字通り“天上から降りる”意と解しました。これを疑うのは、“後代人のさかしら心”だ、というわけです。そのため、「『古事記』『日本書紀』を通じて、「天下った」対象地が筑紫、出雲、新羅(しらぎ)の三領域しかない。“天上から”だったら、もっと他の領域にも直接至れるはずだ」という、子供でももつ、率直な疑問から目をふさぎました。そのため、「天国の原領域は、右の三領域内部の海上の島々だ」という、平明で確実な真理に到着できなかったのです。
 その二。降臨地たる「筑紫ちくしの日向ひむかの高千穂のくしふる峯たけ」を宮崎県の「日向」と独断したため、『古事記』の地の文の用例では、「筑紫」は九州島全体ではなく、福岡県の筑前領域を指している、という事実に目をふさいだのです(豊国の宇佐」「竺紫の岡田宮」 ーーともに神武記ーー という書き分けがそれを証明しています)。
 その三。宣長は右のような宮崎県境降臨説に立ったため、降臨直後にニニギが語った「詔(みことのり)」として書かれている次の一文が理解できなくなりました。

〈原文〉
此地者     此の地は
向韓国真来通 韓国からくにむかいて真来まき通り
笠沙之御前而 笠沙かささの御前みまえにして
朝日之直刺国 朝日の直刺たださす国
夕日之日照国 夕日の日照る国
(六字一句)〈読み下し ーー古田〉

 そこで宣長は敢然と、『古事記』の原文の“大量改悪”へと踏み切ったのです。
「そじしの韓国(=空国)を、笠沙の御前(みさき)真来通りて詔(の)りたまはく『此地(ここ)は、朝日の直刺す国、夕日の日照る国』」
 ニニギの「詔」の内容は、どこの土地でも通用する“万能の美辞”にすりかえられたのです。これなら、ニニギはどこででもこの案文一つおぼえていれば、一切通用することになりましょう。ちょうど現代の政治屋が選挙区の結婚式でのべる“きまり文句”よろしく。すなわち宣長は、古典固有の美しい個性を“後代人のさかしら”でチャチな文面に改変したのです。
 これに対し、改変されざる原文そのものは、この降臨地の特有の性格をズバリつかんでいます。
「ここは、韓国の対岸、そこからまっすぐに大道が通っているところ。それに笠沙(博多湾岸の御笠川流域)の前面に当る要衝(ようしょう)だ。そして朝日が(高祖山から)真向(まっこう)からかがやき、夕日の美しい国だ」と。つまり、わたくしが登り、そしてまざまざと見たように、高祖山から糸島水道の前原町あたりを見下(みお)ろして、古代的簡明さで語っている言葉です。ここに言う“一筋に通った大道”とは、あの「狗邪韓(こやかん)国→対海国→一大国→末盧(まつろ)国→伊都(いと)国」という、『三国志』の倭人伝にも書かれた、有名な“古代中央道”のことだったのです。
 少なくとも「韓国に向いて」の一句が原文にある限り、宣長は直ちに宮崎県境降臨説を捨てるべきでした。“古典を尊重する”という、彼の立場に従う限り。しかし、宣長は逆に、古典の方を見るも無残な姿に“切りきざんで”しまったのです。
 以上は、わたしが『「邪馬台国」はなかった』と『盗まれた神話』に明記したところです。
 小林さんは、今でもなお、以上のようなわたしの批判など、“とるに足らぬ一知半解”と見なし、知らぬ顔をしようとされるのでしょうか。わたしの提起に対して“とりあわない”顔をしている古代史研究界の大家たちに同(どう)じて。“小林さん、あなたもまた”。わたしがそう感じたのは、だからです。青年の頃敬愛していたあなたですから、失礼をかえりみずいわせていただきます。
 わたしは青年時代、村岡典嗣(つねつぐ)さんから学問の何たるかを学びました。文字どおり、村岡さんの“最後の弟子”であったことにひそかな誇りをもっていることを隠そうとは思いません。その村岡さんは若き日に一書『本居宣長もとおりのりなが』を書いて、そこからみずからの学問を出発させた方でしたが、何か事あるたびに、「本居さんは、ねえ。・・・」という口調で、親しい先輩のことをわたしに告げておくように、話して下さったのが、今も耳の底に残っています。たとえば「師の説に、な、なづみそ」(先生の説に拘泥こうでいするな)という宣長の言葉を学問の基本として、よく聞かせて下さいました。この言葉は、今も、村岡さんを通じて宣長からうけとった、わたしの宝です。
 ですから、わたしの知っている本居さんは、いたずらに賞美の辞を連ねるより、けれんみなく批判の刃をむける後学に対して、山桜の下の墓の中から莞爾(かんじ)としてほほえみかけてくれる人なのです。


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