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 『邪馬一国への道標』(角川文庫)

第4章 四〜七世紀の盲点

古田武彦

十五 太宰府の素性 ーー『宋書』をめぐって

最後の珠玉

 『宋書』の背後に隠されていた、最後の珠玉。 ーーそれは「太宰府だざいふ」です。
 前から『宋書』をめくるたびに気がついていました。ページをめくるごとに“気になる”単語が飛び出してくるのです。たとえば「開府儀同三司」「〜〜六州諸軍事」さらに「太宰」といった言葉がひっきりなしに交錯する、そういった感じです。これらの言葉は、すぐわたしに倭国伝の中の、有名な倭王武の上表文、あの前後の一節を思いおこさせました。
「『・・・竊(ひそか)に自ら開府儀同三司を仮し、其の余は威(み)な仮授して、以(もつ)て忠節を勧(すす)む』と。詔して武を使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に除す」
 これらとよく似た感じの官名の“サンプル”を一身にになっている人物がいます。それは、江夏文献王、義恭(ぎきょう)。彼の生涯の官名遍歴を具体例として追跡してみましょう。
 彼は高祖(宋の第一代、武帝。四二〇〜四二二)がことに寵愛(ちょうあい)した子供で、「幼にして明穎(めいえい あきらかでさとい)姿顔美麗」、他の子供たちの及ぶところではなかった、と書かれています。いわゆる“秘蔵っ子”です。彼は景平二年(四二四)「監かん、南予なんよ・予・司・雍・秦しん・并へい、六州の諸軍事、冠軍将軍、南予州刺史しし」という官名をもらい、歴陽(安徽あんき省和県)に赴任(ふにん)した、と言います。時に十二歳。“可愛らしい将軍”だったことでしょう。
 ここにあらわれている「諸軍事」というのは、上にあげられた六州に対する軍事的支配権、というわけですが、ここには一つの“カラクリ”があります。はじめの南予州と予州の二州はたしかに宋(南朝劉宋りゅうそう)の領域内です。ところが、あとの四州は、北朝側、魏(ぎ 北魏)の域内なのです。「そんな、ばかな。他国の領内に対して、何で」とおっしゃる方があるかもしれませんが、そこが大義名分論の“妙味”です。今、わたしたちは“南北朝”などと気安く呼んでいますが、当の五世紀時点では、そんな言葉はありません。南朝側の宋の視点では、北半はたまたま「叛乱賊軍の不法占領下にある」ということになります。ですから、当然、その領域内の各州あての軍事担当者の官職名が必要、というわけです。北魏の側から言うと、事態は当然逆になるわけです。
 さて、高祖の“秘蔵っ子”義恭は、元嘉九年(四三二)次のような官号を与えられます。十九歳頃のことです。
 「徴して都督、南[亠/兌]なんえん・徐・[亠/兌]・青せい・冀・幽、六州、予州の梁郡、諸軍事、征北将軍、開府儀同三司 、南[亠/兌]州刺史と為り、広陵に鎮す」(宋書武三王伝)
[亠/兌]は、亠の下に兌。JIS第3水準ユニコード5157

 今回は南[亠/兌]州・徐州・[亠/兌]州・青州の四つが宋の域内の“実州”で、冀州・幽州は北朝内、例の名義だけの“虚州”です。これらの州はすべて都(建康)から見て北方にありますから、「征北将軍」という称号が与えられているわけです。
 ところでここに新たに与えられた官名、それが例の「開府儀同三司」です。この官名の解説をしてみましょう。まず、「開府」というのは、「〜〜府」という「府」(官省。官吏の止まる所)を開く権限を与える、ということで、『宋書』には、この「〜〜府」がたくさんでてきます。 ーー天府・大府・東府・州府・領軍府・司徒府・丞相府・大司馬府・太尉府・司空府・衛軍府・安北府・相国府・平北府といったように。
 次に「儀同三司」というのは、「儀は三司に同じ」つまり“儀礼上、三司と同じと認める”というわけで、その「三司」とは、「太尉たいい・司徒しと・司空しくう」の総称です。漢代に設けられた官名ですが、この南朝劉宋でも用いられていました。トップクラスの高官です。先にあげた「太尉府」「司徒府」「司空府」などは、これらの高官統轄下におかれた「府」ですが、これに準じた府を開く権限を与える。これが「開府儀同三司」です。
 戦前、日本の軍隊でも「佐官待遇」といった言葉があったようです。年配の方はご存じだと思いますが、あれです。「大佐・中佐・少佐」といった佐官そのものではないが、それに準ずる待遇を与える、というわけです。
 魏の黄権(こうけん)にはじまったといわれる、この「開府儀同三司」の官名は、この『宋書』にもしばしばあらわれてきます。
 こうしてみると、倭王武がまず自称した上で、その承認を求めたという、この一連の称号は、この天子の“秘蔵っ子”義恭の称号のスタイルそっくりだ、 ーーこの点にまず注目しておきたいと思います。つまり倭王側は、この南朝内部の官名構成をよく“のみこんだ”上で、自称したり、追認要請したり、しているわけです。このような官号昇進コースの“上あがり”はどこか。それをしめすものが、この江夏王義恭が死んだときの官号です。
 「大明八年(四六四)前廃帝即位し、詔して曰(いわ)く、『・・・太宰、江夏王義恭、新たに中書監、太尉に除す。・・・』」(宋書武三王伝)
 「太宰と太尉」の兼任。すなわち「太宰府と太尉府(「三司」の筆頭)」を共に統轄していたのです。事実、その前々年には、
 「大明六年(四六二)司徒府を解く。太宰府は旧(もと)の辟召(へきしょう 任官)に依る」
 として、彼が「太宰府」を統轄していたことが明記されています。そしてその上はーー 、もう天子しかありません。しかし、彼は天子にはなれませんでした。大明八年、世祖(孝武帝)の死と共に天子の座についた新帝(「前廃帝」)によって突如虐殺(ぎゃくさつ)されてしまったからです。
 それは年号の変った永光元年(四六四)の八月のことでした。新帝はみずから羽林の兵(うりんのへい 近衛兵)をつれて彼(義恭)の邸宅を急襲し、彼と四人の子供を皆殺しにします。それだけではありません。彼の死体を切り割(さ)き、腸や胃を分ち裂(さ)き、目玉(眼精)をえぐり取り、これを蜜(みつ)にひたして、「鬼目粽きもくそう」(粽は“ちまき”)と称した、と書かれています。ナンバーワンがナンバーツーを憎しみをこめて消し去る。そういう図のようです。

 

開府儀同三司

 さて、右の官名関係を『宋書』百官志(下)によって整理してみましょう。全部で「九品」に分れています)。
 太傅たいふ・太保たいほ・太宰たいさい。太尉・司徒・司空。大司馬・大将軍。諸位従公。(右第一品)
 特進
 驃騎ひようき・車騎しゃき・衛将軍・諸大将軍。諸持節都督。(右第二品)
(この表では「太傅・太保・太宰」の順で書かれていますが、実際の順位はちがっています。それは先の江夏王義恭の昇進順位にもしめされています。また百官志の「上」では、「太宰一人・・・太傅一人・・・太保一人」という順位で書かれています)
 倭王武は「使持節都督」「安東大将軍」に任ぜられていますから、「第二品」に属します。そして同時に「開府儀同三司」つまり、第一品の「太尉・司徒・司空」に準ずる位置を自称したのです。
 これは直接には、高句麗(こうくり)王と“はりあう”ところに直接の動機があったように思われます。なぜなら高句麗王はすでに、
「(大明七年〔四六三〕七月)征東大将軍、高麗王高[王連]こうれん、車騎大将軍、開府儀同三司に進号す」(宋書孝武帝紀)
[王連]は、JIS第3水準ユニコード7489

 とあるからです。倭王武の上表文は、この十五年後ですが、そこには、
「而(しか)るに句麗無道にして、図りて見呑(けんどん)を欲し、辺隷を掠(りゃく)抄し、虔劉(けんりゅう)して已(や)まず」
 と、高句麗を最大の敵対者として訴えています。そのあとで例の「開府儀同三司」の自称に及ぶのですから、「あの高句麗王がもらっているのに、なぜおれが」という口吻(こうふん)が感じられます。
 しかし高句麗に対して、宋朝の期待するところは大きかったようです。
 「元嘉十六年(四三九)太祖、北討せんと欲し、[王連](れん 高句麗王、[王連])に詔して馬を送らしむ。高[王連]、馬八百匹を献ず」(宋書九十七高句麗伝)

 とあるように、大量の馬が献上されています。その上「北魏に対する東辺からの圧力」も期待していたことは当然でしょう。宋朝はこの倭王の要求をうけいれませんでした。ために倭王側の不満を買ったようです。何しろ、倭王は、西晋の滅亡(三一六)後、朝鮮半島中央部の楽浪(らくろう)・帯方(たいほう)郡が空白化した、その間隙(かんげき)をぬって、東夷世界において「中原に鹿を逐(お)う」大決戦を高句麗にいどんでいたのですから(その状勢に対する、高句麗側からの記念碑、それがあの有名な高句麗好太王碑です)。
 これ以後、倭王の“自己誇示”はいよいよ昂進(こうしん)し、ついには中国の天子とみずからを対等におく「日出ずる処の天子」の自称にまで至ったことは、すでによくご承知ですが、その一点に至る前に、“必至の関門”があります。 ーーそれは臣下としての最高位、「太宰」の自称です。
 すでに『失われた九州王朝』で論じましたように、七世紀になってイ妥(たい)王の多利思北孤(たりしほこ)が天子を自称した時点、そのときは中国側の大勢は一変していたのです。禎明(ていめい)三年(五八九)北朝、隋の南征軍が建業*(けんぎよう 今の南京)に殺到しました。南朝の陳(ちん)の天子(後主)は宮中の井戸に身を投げようとして果さず、隋軍に捕えられて「王公百司」と共に長安に連れ去られます。その結果、南朝は滅亡し、南北朝時代は終り、隋の天下統一は成ったのです。このあと、十八年目の隋の大業三年(六〇七)に「日出ずる処の天子」の自称が表われます。
業*は、業に阜偏。JIS第3水準ユニコード9134

 このことは何を意味するか。 ーーそれは南北朝対立時代、倭王にとって「天子」は「南朝の天子だけ」でした。北朝の天子は「ただ北方の夷蛮(いばん 索虜)が大義に反して、天子を自称しているだけ」。そう見えていたのです。その肝心の「南朝の天子」亡き今、隋の天子と自分とは、対等だ。 ーーこれが多利思北孤の「天子自称の論理」だった、と思われます。
 とすると、南朝との国交が健在だった当時、倭王の自称は、たかだか「臣下としての最高位」どまりに依然とどまっていた、と考えなければなりません。 ーー「太宰」です。すなわち、倭王の都、それは「太宰府」と称されていたのです。では、日本列島の中に「太宰府」なるものが存在した痕跡があるでしょうか。ご存じのように一つだけあります。ズバリ言えば、それが倭国の都です。

 

太宰府の論理

 この点、さらに念を入れて吟味してみましょう。
 この「太宰」という言葉のもつ論理性、それは“臣下の中のナンバーワン”だ、ということです。いってみれば“総理大臣”です。後世の「大宰相」などという言葉にも、この用語の名残なごりが感じられます。もし、近畿の天皇家を“日本列島版天子”として、それを中心点とした「太宰府」だ、としましょう。そのことは、平たく言えば“近畿の天皇家が博多に総理大臣をおいた”ということを意味します。そんな形跡があるでしょうか。 ーーありません。
 またこれが、例の“自称”だった、としましょう。では「博多の豪族がみずから近畿天皇家の総理大臣だ、と自称した」。そんな史実がありましょうか。 ーーありません。そう言えば、日本の古典にこの「太宰府」が登場する、その登場の仕方が奇妙なのです。『古事記』には出てきません。『日本書紀』で最初に出てくるのは、次の記事です。
 「(天智十年十一月)対馬国司(つしまのこくし)、使を筑紫大宰府(だざいふ)に遣わして言う」
 これは、例の筑紫君(ちくしのきみ)薩夜麻(さちやま h野馬)が筑後の軍丁博麻らの奴隷身代金によって帰ってきたときの件(くだり)です。ここでいきなり筑紫の「大宰府」が出てきます。「いついつにこの地に近畿天皇家は太宰府をおいた」という設置記事など、一切なしに(「筑紫の大宰」の初出は、同じ『日本書紀』の推古紀。十七年の四月ですが、ここでも“いきなり”の出現です)。
 これはよく考えてみれば、天下の奇怪事です。なぜなら、これがもし、はしばしの、いわば枝葉末節の官庁なら、「そこまでは書き切れなかったのだろう」ですませることもできましょう。しかし「太宰府」というのは、いま言いましたように、いわば「総理府」にあたります。それを「つい、書き忘れたのだろう」などという処理、それはあまりといえばあまり。勝手きわまるものではないでしょうか。
 この問題の指さす帰結、それは明白です。近畿天皇家の「正史」たる『日本書紀』。この「正史」にとっては、「はじめに大宰府ありき」なのです。ということは、この“中央官庁”の名称は、近畿天皇家がつけたものではない。 ーーこれがのがれがたい結論です。
 この点は、東アジア古代の“常識”から見れば、さらに一点の疑いもなく明白です。なぜなら、「府」というのは、いうまでもなく中国語です。そして「〜〜府」というのは、先にあげたように、本来中国の天子のもとの官庁名です。ですから、古代東アジア世界において、「〜〜府」とあれば、まず第一に、「中国の天子の都を原点においた『〜〜府』ではないか」。そう考えるのがことの順序です。そしてそのような視点では、どうしても律し切れないとき、はじめて「これは中国の制度を模倣した、周辺の『夷蛮いばん』の国、たとえば『メイド・イン〜〜国』の都を中心としたミニチュア版の『〜府』ではないか」。こう考えをすすめるのが、筋道ではないでしょうか。
 そのような正当な思考の順序を追わず、「『日本書紀』に出てくるのだから、設置記事があろうとなかろうと、近畿天皇家の任命によるもの以外にはありえないし。こういった、怠惰な、あるいは傲慢(ごうまん)な態度で処理し通してきた日本史学界。それは、わたしには見事な“思考の逆立ち”の好例と見えているのですが、“僻目ひがめ”でしょうか。
 “日本列島は永遠の昔から近畿天皇家が中心”というイデオロギーを、「論証無用の前提」としてきた戦前史学。いわゆる皇国史観の亡霊に、しっかりと今も両肩をおさえられ、さらなる前進をはばまれている。 ーーわたしの目には、戦後史学の姿がそのように見えているのです
(『日本書紀』にあらわれている、もう一つの「大宰」。それは「吉備きびの大宰」〈天武八年三月九日条〉です。西日本に複数あらわれる「大宰」。 ーーただ吉備の場合、「大宰府」としては出てきません。 ーーこれこそ、日本列島の西部領域が南朝系大政治圏の一端にあったことを物語る、「夷蛮の自称」の例だと思われますが、この点あらためて詳論の機会をえたいと思います)。

 

九州の論理

 このテーマを決定的に裏づけるもの、それは「九州」です。わたしが『三国志』の全体をしらべていたとき、はじめハッとしたのは、この「九州」という言葉がくりかえし出てくることです。“何でこんなところに九州が”といぶかったのですが、しらべてみれば何のことはありません。古代中国本来の、それも眼目をなす用法だったのです。
 「禹、九州を分つ」(尚書禹貢)
 中国の伝説的聖天子、禹が天下を九つに分けて統治した、というのです。
 このあと、「九州」の語は代々の典籍、史書にうけつがれて「天下」を意味する重要な政治用語となってゆきます。
 「凡おおよそ九州、千七百七十三国」(礼記らいき、王制)
 「天に九野有り、地に九州有り」(呂覧ろらん、有如)
 「禹の九州を序する、是なり」(史記、[馬芻]衍すうえん伝)
 「今、魏、九州に跨帯こたいす」(蜀しよく志十四)
[馬芻]衍(すうえん)の[馬芻]は、JIS第4水準ユニコード9A36
 前(一五八頁)にあげた「十四州を統廃合して九州にする」という、後代のわたしたちには“馬鹿馬鹿しく”見える、あの動きも、この正統的な政治概念が基盤になっていたわけです。
 さて、この用語の核心は、ただ“州が九つに分れている”というのではありません。それは「天子の下の直接統治領域」というにあるのです。いわゆる「夷蛮いばん」とは、この「九州」の外にあって、中国の天子に対して貢献の礼をとるべきもの、そう考えられていたのです。これは、わたしのような無知な人間こそ驚いたのですが、古代東アジアのインテリの教養の中ではまず第一クラス、いわば“常識中の常識”だったわけです。
 こう考えてくると、この日本列島における「九州」。この名前が実は不思議な“歴史の光”を帯びていることに気づかざるをえません。
 地名は、普通いつつけられたか、明らかでないことが多い、といえましょう。それだけにいろいろ後代の研究者の“都合”で“勝手な解釈”がほどこされることが多いわけです。しかし、中には、その用語の特殊な成り立ちからして、明らかに“素性の古さ”、さらには“素性そのもの”が明らかになる場合があります。
 今、わたしにとって印象的な事例をあげますと、わたしの住んでいる京都府の向日(むこう)市に「太極殿だいごくでん」という変った田畠の字(あざ)がありました。土地の人に「なぜそんな地名が」と聞いてみても分りません。「何か知らんけど、昔からそう言いますのや」というわけです。
 ところが、最近、現地の考古学者・中山修一さんの執念が実り、かつては「まぼろし」と言われた長岡京が、その全貌(ぜんぼう)を現わしてきました。・・・と、その中心に当る「太極殿」の跡が、まさに字(あざ)、太極殿の付近だったのです。「面白いもんですねえ」。この話をしてくださった中山さんの朴訥(ぼくとつ)な声のひびきを思い出します。実は九州にも、これに似た問題があります。吉田東伍(とうご)の『大日本地名辞書』の筑前、筑紫郡の「太宰府址」の項に次のような記事があります。
 「又此辺の田畠の字を内裏趾、紫辰殿(ししんでん)などといふといへり、其は安徳天皇しばらく此所に鳳駕(ほうが)をとゞめ給ひしによりての名なりとぞ(此に内裏跡云々うんぬんとあるは虚誕のみ)」
 ここに書かれていることは、三段に分れています。
 (一)ここ(都府楼址)のあたりの田畠の字(あざ)に、「内裏跡」「紫辰殿」などという、変った、田畠の字がある。
 (二)これは、あの平家と共に壇浦(だんのうら)に没した安徳天皇が、ここにしばらく滞在されたから、ついた名だろう、と言う者がある。
 (三)しかし、ここで「内裏跡云々」というのは、とんでもない“ウソ”にきまっている。
 つまり、(一)は土地の農民たちの伝承であり、同時に「なぜかは知らないが、昔からそう言ってきた」地名なのです。これに対し、(二)は土地のインテリなどが“かこつけた”もの知り顔の講釈でしょう。(三)は明治の吉田東伍の批評でしょう。「虚誕きょたんのみ」ときめつけられた、その対象が(二)だけか、(一)(二)ともにか。この短文からはハッキリしませんが、おそらく(一)(二)ともだろうと思います。
 “安徳天皇の御座所”説など、史実から見てありえないこと、これは当然です。してみれば、こんなところにこんな大層な地名などあるはずがない。 ーーこれが「皇国史観」盛行時に生きた東伍の判断だったとしても、“無理からぬ”ところです。“(二)のような浮説に立って、無知な百姓どもが(一)のようなだいそれた「字」をつけたのだろう”と。こういう思考の仕方です。
 しかし、農民にとって日常の必要物である土地の「字」というものは、インテリや学者の机の上の「浮説」にもとづいてつけられる、そんな性格のものではありません。
 「長岡京など実在しなかった。だのに“太極殿だいごくでん”などという字があるのはおかしい。おそらく『続日本紀しょくにほんぎ』の記事を盲信した学者の“浮説ふせつ”にまどわされて、無知な百姓がつけたのだろう」。 ーーもし、中山さんの「長岡京発見」以前に、こんな「学説」をのべていた学者があったとしたら、さぞかし“恥をかく”こととなったでしょう。幸いにも、この字の存在は、それほど注目を浴びず、従って学界で論議もされずに来ましたけれども。

基肄城跡 十五 太宰府の素性ー『宋書』をめぐって 邪馬一国への道標 角川文庫 古田武彦


 わたしも、同じような経験をしたことがあります。太宰府の西南、基山の上に山城址(さんじようし)があります。その亡ぼされた城に門の趾(あと)が三つあります(左図 萩原越・仏谷・北帝の三門)。最初の萩原門は萩原越を経て萩原村へ連なっていますから、何の不思議もない名前です。次の仏谷門。これも今はありませんが、この基山につらなる峰々には、多くの亡ぼされた仏寺があったといいます。ちょうど京都の東山(ひがしやま)、比叡(ひえい)山の峰々のように。そこに向った門ですから、「仏谷門」という名も、そのものズバリです。
 不思議なのは、最後の「北帝門」。「北」とは天子の座です。後世、「北面の武士」という言葉がありますが、南から“北なる天子の座”に向つていたから、この称があることは、よく知られています。その意味では、ここの門も正しく義にかなった名前なのですが、問題は ーー“誰が北帝なのか”です。
 当然、ここ基山の山城にその北帝なる者がいたことになりますが、それは誰か。
 土地の高校で考古学に没頭しておられる先生にお聞きしてみましたが、分りません。「天智天皇が来られたから、言うのではないでしょうか」といったお話。そういえば、山城跡に麗々しく、「天智天皇欽仰碑」(精しくは「天智天皇御聖徳奉讃銅標」)なるものが建てられていますが、肝心の天智天皇の“本家本元”ともいうべき大津京をはじめ、近畿(奈良・京都・大阪)には「北帝門」などという門はありません。ですから、“近畿なる都をまねて”というわけにはいかないのです。また天智天皇と「仏谷門」とどう関係づけるのか。無理な話と言わざるをえません。これも、東伍風に言えば、「虚誕のみ」と言うしかありません。要は、
 (一)「北帝門」「仏谷門」といった名称が古い城の門趾にあり、土地の人々はそれを伝承してきた。
 (二)後代のインテリや学者が近畿中央史観(いわゆる皇国史観)にもとづいて、これを天智天皇の御座所として“権威づけ”しようとした。
 こういう次第ではないでしょうか。従って「虚誕」として斥(しりぞ)けられるべきは(二)であって、(一)ではないのです。現にその石垣や門址、礎石等が現存しているのですから。
 このようにしてみると、南方筑後平野の彼方を眼下にした「北帝」がここにいた。そう考えるほかありません。それはおそらく太宰府あとの「内裏跡」や「紫宸殿ししんでん」と一連の名前だった、と思われます。そしてその一望の平野には、あの人形原、石人石馬、装飾古墳群がひろがっているのです。

 

三段の論理

 以上の観点から見れば、「九州」は、「北帝」を原点とした“中国のミニチュア版”の呼び名である、という帰結が浮び上ってきます。
 もし、近畿天皇家の側でこの名前をつけたとすれば、日本列島全体を「九州」と呼んでいるはずです。せめて、近畿とその周辺を「九州」と呼んでいなければ話になりません(現にこの「近畿」という地名は“天子の居城の周辺”という性格を帯びた命名です)。
 なぜなら、わたしのような無知の現代探究者だからこそ、『三国志』の中に「九州」が出てくるのを見てびっくりしたのですが、古代東アジアのインテリにとって、それが「中国の天子を原点にした天下」を意味する語であったことは、自明の常識であったはずです。『尚書』にも、『礼記』にも、『史記』にも、『漢書』にも、そして『三国志』にも、めくれば必ず出てくる中枢の政治用語なのですから。
 ですから「つけてみたら、偶然一致していた」。そんなそらとぼけた話はありえないのです。この点、四国とはちがいます。この場合は単に四つの国があるから四国です。ですが、九州はただ“九つの国”というわけではありません。
 「筑前・筑後」のように「前・後」に分けたり、「日向」のように一つきりだったり、何とか無理やりあわせて“九つだから”と言ってみても、それなら「九国」とか「九邦」とか言えばいいわけです。ですからやはり、この「九州」は、中国の用法のミニチュア版としてつけられたもの、と見るほかないのです。それは『隋書』イ妥(たい)国伝に書かれた“阿蘇山の国”。 ーーその倭王がみずからを「日出ずる処の天子」と称した、その直接統治領域を指す、由緒(ゆいしょ)ある呼び名だったのです。
 わたしはかつて『失われた九州王朝』を書いたとき、この「九州」の原義とメイド・イン・ジャパンの「九州」との関係について、すでに気づいていました。だからこそ「筑紫王朝」でなく、「九州王朝」という呼び名を使ったのです。わたしたちが二十世紀の今日、なお「九州」という呼び名を日常に使っているのは、まさに“ドーナツ化現象”を地でゆくものだったわけです。すなわち、文明中心でかつて使われていた言語もしぐは風俗といった文化現象が、その中心部では失われても周縁部に残存する。 ーーその好例だったのです。でも、あの本のさいは、この「九州」という地名の使いはじめの時期が日本の文献でつきとめにくかったこともあり、直接ふれるのを避けていました。
 しかし、今、「太宰府の論証」に到達することができ、「開府儀同三司→太宰府→九州」という三段の論理が一本の線として結びつくこととなりました。それは、中国側の正史『宋書そうじょ』から『隋書』へとつづく歴史の内実とピッタリ相応していた。 ーーそれが今、歴史の明るみへと論証の光を浴びることとなったのです。

 

わたしの失敗譚

 閑話休題。
 「開府儀同三司」から出発して、『宋書』百巻の文字の大海の中で、「太宰府」の三文字にめぐり会った。 ーーこれがわたしにとってどれほどの意味をもつ経験だったか。わたしの九州王朝論の性格からみて、容易に察していただけることと思います。樹海の中をさまよった旅人が、やっと木々のあいまから、目指す山頂を見た、そのときに似ていたかもしれません。
 そのはやる気持から、わたしはいささか“早とちり”をやったのです。「開府儀同三司」の「三司」とは「三公」とも言う(諸橋大漢和辞典)。そしてその「三公」とはーー 。『漢書』の百官公卿表(上)に次のようにあります。
「夏(か)・殷(いん)、聞(ぶん)を亡(うしな)う。周官は則(すなわ)ち備われり。・・・太師、太傅、太保、是を三公と為(な)す」
 この「太師」が「太宰」となり、『宋書』百官志(上)の冒頭には、
 「太宰一人。周の武王の時、周公且始めて之に居る。・・・
 太傅一人。周の成王の時、畢公、太傅たり・・・。
 太保一人。・・・周の武王の時、召公、太保たり・・・」
 とあったので“ハハア、宋朝は周制を採用(復古)したのだな”と考えてしまったのです。もちろん、そのこと自体は正しかったのですが、そこから“すると、宋代の「三司」はこれだ”と“速断”してしまったのです。“とすると、「開府儀同三司」とは、このベストスリー待遇のことだ”と考えが進展していったのです(『古代史の宝庫』)。
 しかし、これはまちがっていました。同じ『漢書』には、先のAの一文につづいて、

『宋書』における太宰府の用例(宋書武三王伝) 十五 太宰府の素性ー『宋書』をめぐって 邪馬一国への道標 角川文庫 古田武彦


 「或は説く。司馬は天を主(つかさ)どり、司徒は人を主り、司空は土地を主る。是を三公と為す」とあり、宋朝はこの系列の考え方を継承していたのです。つまり「司馬(のち、太尉)・司徒・司空」が「三司」というわけです。ところが、さらに漢ーー魏ーー西晋せいしんーー東晋ーー宋と、官名が次々とつけ加わった結果、

○1太宰ーー2太傅ーー3太保ーー4相国ーー5丞相ーー6太尉ーー7司徒ーー8司空ーー9大司馬ーー10大将軍
 という官名が同時に並置されるに至ったのです。
 何とかかんとか理由をつけて、“官号のバラエティ”をふやす。これは権力者が“人間をあやつる”ために発明した、すばらしい魔法のようです。ナポレオンもしかり、そしておそらく ーー現代もまた。
 しかも、「1〜3」の「三公」については、
「其の人無ければ則ち闕(か)く」(宋書百官志)
とありますから、“常置”ではなかったのです。また「4相国」についても、
「魏・晋以来、復(また)人臣の位に非ず」(同右)
とあって、“王族専用”だったようです。さらに「5丞相」についても、おかれたり、やめたり、改廃常ならぬ状況です。ですから、事実上は、「6太尉」以下が“最高クラス”の官号だったわけです。ここらあたりに、「太宰」の江夏王義恭が「三司」の筆頭に当る「(領)太尉」を兼任した、その背景がありそうです。
 ゴチャゴチャ書きましたが、要するに「開府儀同三司」とは、これら6〜8という“事実上の最高クラスの官号に準ずる(三司待遇)”という意味をもつ官号だったわけです。そして肝心の一事、それはこれら繁雑に発達し、輻湊(ふくそう)した南朝の官号群の、最終の里程標。それが「太宰」。そしてその直属官庁が「太宰府」だったことです。 ーーあとは「天子」しか残されていません。
 ですから、日本列島内のこの地名(太宰府)の来歴も、問答無用式の独断で近畿天皇家と結ぴつけるのでなく、より優先すべき撰択肢(せんたくし)のあることに目がむけられるべきです。すなわち、より先立つ“南朝官号群の大海”の中にひたしてみる、その冷静な手続きが必要だったのではないでしょうか。
 わたしは密林から高峰をいったん眼前にしながら、ふたたび岐路にまよい、断崖(だんがい)に至ったのち、やっと「太宰府」の山頂に達することができたようです。


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