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IV倭の五王の史料批判 『よみがえる九州王朝
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九州王朝の築後遷宮 ーー玉垂命と九州王朝の都(新・古代学第4集) 古賀達也
古田武彦
『三国志」につづく中国の史書は『宋書』である。この宋は五世紀の南朝劉宋(四二〇〜四七九)だ。『後漢書」を書いた范曄も、『三国志』の注を作った裴松之(はいしょうし)も、この国の人である。陳寿の在世した晋(西晋、二六五〜三一六、東晋、三一七〜四二〇)の歴史を書いた『晋書』は、ずっとあと、唐代(房玄齢ぼうげんれい、〜六四八)の成立だ。だから、梁の沈約(しんやく)の書いた『宋書』が、『三国志』ののちの最初の史書となった。
沈約は南朝劉宋の文帝、元嘉十八年(四四一)に生れ、梁の武帝の天監(てんかん)十二年(五一三)、七十三歳で死んだ(梁書十三)。南朝劉宋の滅んだ順帝の昇明三年(四七九)には、沈約はすでに三十九歳であった。それゆえ、かれにとって『宋書』はまさに同時代史である。また宋ーー斉ーー梁の三代はいずれも、いわゆる「禅譲」(帝位がその位を世襲させず、平和的に他に譲ること)だった。つまり、宋代の朝廷文書を沈約は活用できたのである。だから、『宋書』の記事は『三国志』の場合と同様、きわめて信頼度が高い。その『宋書』の倭国伝に出現するのが「倭の五王」の記事だ。
わたしのように、戦前に小・中学校を出た者は、こんな名前は聞いたことがなかった。教科書に全然出ていなかったからである。しかし、戦後の教科書には高校はもちろん中学の教科書にもかならず出ている。だから、この名前は戦後の教育をうけた人には常識となっている。今、『宋書』の「倭の五王」記事の全文を左に掲げよう。
倭国は高麗(り)の東南大海の中に在り。世ゝ貢職を修む。
(1) 高祖の永初二年、詔して曰く「倭讃、万里貢を修む。遠誠宜しく甄(あらわ)すべく、除授を賜う可し」と。
(2) 太祖の元嘉二年、讃、又司馬曹達を遣わして表を奉り方物を献ず。讃死して弟珍立つ。使を遣わして貢献し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称し、表して除正せられんことを求む。詔して安東将軍・倭国王に除す。珍、又倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む。詔して並びに聴(ゆる)す。
(3) 二十年、倭国王済、使を遣わして奉献す。復た以って安東将軍・倭国王と為す。
(4) 二十八年、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加え、安東将軍は故(もと)の如く、并びに上(たてまつ)る所の二十三人を軍郡に除す。済死す。世子興、使を遣わして貢献す。
(5) 世祖の大明六年、詔して曰く「倭王世子興、奕世載(すなわ)ち忠、藩を外海に作(な)し、化を稟(う)け境を寧(やす)んじ、恭しく貢職を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべく、安東将軍・倭国王とす可し」と。興死して弟武立ち、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称す。
(6) 順帝の昇明二年、使を遣わして表を上る。曰く「封国は偏遠にして、藩を外に作(な)す。昔より祖禰(でい)躬(みず)から甲冑を環*(つらぬ)き、山川を跋渉し、寧処に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。王道融泰にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。累葉朝宗して歳に愆(あやま)らず。臣、下愚なりと雖も、恭なくも先緒を胤(つ)ぎ、統ぶる所を駆率し、天極に帰崇し、道百済を遙(へ)て、船舫を装治す。而るに句麗無道にして、図りて見呑を欲し、辺隷を掠抄し、虔劉(けんりゅう)して已まず、毎(つね)に稽滞を致し、以って良風を失い、路に進むと曰うと謂も、或は通じ或は不(しか)らず。臣が亡考済、実に冠讐の天路を擁塞(ようそく)するを忿(いか)り、控弦(こうげん)百万、義声に感激し、方(まさ)に大挙せんと欲せしも、奄(とも)に父兄を喪い、垂成の功をして一簣(き)に獲ざらしむ。居りて諒闇(りょうあん)に在り、兵甲を動かさず。是を以って、偃息(えんそく)して未だ捷(か)たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申(の)べんと欲す。義士虎賁(こほん)文武功を効(いた)し、白刃前今に交わるとも亦顧みざる所なり。若し帝徳の覆載を以って、此の彊(きょう)敵を摧(くじ)き克く方難を靖んぜば、前功を替えること無けん。竊(ひそ)かに自ら開府儀同三司を仮し、其の余は成(み)な仮授して、以って忠節を勧む」と。詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に除す。
環*は、玉偏の代わりに手偏。JIS第3水準ユニコード64D0
右のうち、(1)〜(3)は著者沈約の三歳〜三十八歳のときの記事だ。つまり倭王武の上表文は沈約三十八歳のときの事件だったのである。
さて、この五人の倭王は、応神(第十五代)から雄略(第二十一代)までの七人の天皇の中の、いずれかに当る、というのが江戸時代より明治・大正・昭和三代を通じて、日本古代史学界の「定説」である。
今、簡略にそれらの説を表示しよう。
(一)讃 ーー(1) 履中りちゅう(第十七代)説 ーー松下見林・志村[木貞]幹・新井白石・白鳥清・藤間生大とうませいた・原島礼二
(2) 仁徳(第十六代)説 ーー 星野恒ひさし・吉田東伍・菅政友・久米邦武・那珂通世なかみちよ・岩井大慧・池内宏・原勝郎・太田亮・坂本太郎・水野裕
(3) 履中もしくは仁徳説 ーー 津田左右吉・井上光貞・上田正昭(やや(2)に近い)
(4) 応神(第十五代)説 ーー 前田直典
志村[木貞]幹の[木貞]は、木偏に貞。JIS第3水準ユニコード6968
(二)珍 ーー(1) 反正(第十八代)説 ーー 前田直典以外
(2) 仁徳説 ーー 前田直典
(三)済 ーー 允恭(第十九代)説 異説なし
(四)興 ーー(1) 安康(第二十代)説 水野裕以外
(2) 木梨軽皇子きなしのかるのみこ説 水野裕
(五)武 ーー 雄略(第二十一代)説 異説なし
(水野裕は『梁書』の「弥」を(一)と(二)の間に入れて、これを履中とする)
右の表中、前田・水野説は異色の説であり、孤立している。これについてはあとでのべることとする。この両説を除くと、(二)〜(五)はほぼ一定している。(五)の武が雄略(大泊瀬幼武、オホハツセワカタケ)であることは確実だ、と見られている。だから、その一代前、二代前と一つ一つ遡ってゆけば、おのずから各天皇の指定は一定するわけである。
では、なぜ(一)の場合だけ、履中と仁徳に各学者が分裂しているのであろうか。分裂は矛盾の表現であり、矛盾は真実が露呈する場所である。この「讃の分裂」をしらべてみよう。
武に当る雄略は第二十一代だから、その四代前の讃は当然第十七代の履中でなければならぬ。代数の対応はつぎのようだ。
(1) 讃 ーー (第十七代)履中
(2) 珍 ーー (第十八代)反正
(3) 済 ーー (第十九代)允恭
(4) 興 ーー (第二十代)安康
(5) 武 ーー (第二十一代)雄略
それゆえ最初に「倭の五王と各代天皇との比定」を行なった見林が「讃=履中」説をとったのは当然である。しかしこの履中説には深い矛盾があった。「晋安帝の時、倭王賛有り」〈梁書五十四、諸夷、倭〉。「(晋安帝、義煕九年)是の歳、高句麗・倭国及び西南夷銅頭大師並びに方物を献ず」〈普書十、安帝紀〉。この両記述から見ると、讃は東晋の義煕九年(四一三、すでに朝貢している。すなわち宋書(2)(本書一一四ぺージ参照)の元嘉二年(四二五)の朝貢まで、少なくとも足かけ十三年以上在位していることとなる。
またつぎの珍は元嘉十五年(四三八)に貢献し、受号している「(文帝、元嘉十五年)己巳、倭国王珍を以って安東将軍と為す。・・・・是の歳、武都王河南国・高麗国・倭国・扶南国・林邑国並びに使を遣わし、方物を献ず」〈宋書、文帝本紀〉。これは元嘉二年(四二五)から、足かけ十四年目である。したがって讃・珍二代の在位年数の合計は少なくとも二十六年以上ということになる。
しかも、『梁書』では、讃の時代は東晋の安定(三九五〜四一八)の時代と相当している、といっているのであるから、右の義煕九年以前から、讃の治世はつづいていたように見える(安帝の初年からとすると、約十八年を追加せねばならぬ)。また珍も、つぎの済が朝貢した元嘉二十年(四四三)までの、いずれかの年代に死んだのであり、右の元嘉十五年(四三八)以後何年かの在位年数は加えねばならない。
ところが、『日本書紀』によれば、「履中 ーー六年、反正 ーー五年」と、二天皇の合計在位年数はわずか十一年にすぎぬ。右の二十六年という最少年数の半分にも足りぬ。しかも、『日本書紀』の年代数は一般に“実数値より多い”と見られている。たとえば各天皇の寿命は百歳を超えるものが続出しているのである。しかるにここだけは、この二天皇の在位年数が実際の在位年数の半分以下だと見ねばならぬ。
「讃=履中」説は、このような無理を犯しているのである(木村武夫「讃と珍との比定に関する一考察」も、この無理を指摘している)。
このような履中説の無理を救うために案出されたのが、星野恒・那珂通世等の「讃=仁徳」説である。『日本書紀』で仁徳は「八十七年」という長期間の在位年数だ。だから先の在位年数問題は一挙に解決する。
しかし代って新たな困難が立ち現れる。『宋書』では、珍は讃の弟である、と記せられている。しかし「讃=仁徳」説をとると、讃と珍(反正)との続柄は、親子であって兄弟とはならぬ。「(仁徳)二年の春三月辛未に朔戊寅に、磐之媛命を立てて皇后とす。皇后、大兄去来穂別おほえのいざほわけ天皇・住吉仲すみのえのなかつ皇子・瑞歯別みづはわけ天皇・雄朝津間稚子宿禰をあさつまわくごのすくね天皇を生あれませり」〈日本書紀、仁徳紀〉。この瑞歯別天皇が、反正である。だから「仁徳 ーー 反正」間が親子であることは疑えない。ここで例によって“宋書は、親子をまちがえて兄弟と書いたのだろう”という誤伝説へすすまざるをえないのである。
これに対して「讃=履中」説の論者は“自説に不都合な続柄記載を誤伝・誤写の類だといって切り抜けるのは無理だ”と反論する。
しかしながら、今わたしが両説の争いを外から見ると、事は簡単だ。すなわち、年代が非か、続柄が非か、要はおたがいに他を攻撃するとき、まことに鋭い。 ーーこの事実、それは「讃=履中」説をとっても、「讃=仁徳」説をとっても、“あちら立てればこちらが立たず”のたとえの通り、ともに新たな矛盾に出合って解決できぬ。そういう悩みがあざやかに示されているのである。
これはことの性質上、「讃」に限定できる問題ではない。なぜなら、「讃」を誰に比定するか、という問題は、「倭の五王」というワン・セットの中の一つだ。ところが、その「讃」が日中どちらかの史料の一部を削り変えなくては、おさまりきらない、としたら、どうしても「倭の五王」群全体が「日本の天皇群」と果して幸いに結合できるのか?という問題へと、わたしたちの目は向ざるをえない。
倭の五王の中で、比定すべき天皇がもっとも確実だ、と見られているのは、最後の「武」だ。これだけはどんな論者も反対しない。
ところが、その「武」に奇妙な問題がある。『宋書』に次ぐ『南斉書』『梁書』にも、この武の奉献・授号記事があらわれる。
(A) 建元元年(四七九)、斉の高帝建元元年、進めて新たに使持節都督、倭新羅任那加羅秦韓六国(原本通り)諸軍事安東大将軍倭王武に除し、号して鎮東大将軍と為す。〈南斉書、倭国伝〉
(B) 天監元年(五〇二)、梁の武帝(天監元年)鎮東大将軍倭王武、進めて征東将軍と号せしむ。〈梁書、武帝紀中、第二〉
ところが、雄略天皇は『日本書紀』では四五六〜七九の治世となっているから、右の『梁書』の武帝紀に記された「武」への授号記事(五〇二)は、雄略の治世をはるかにオーバーしているのである。
これに対し、井上光貞は「年代的にだいたい一致するのである」(『日本の歴史1』三七〇ぺージ)といっているが、わたしには不可解だ。雄略天皇が死んで二十三年目に、梁の武帝はなぜ「死せる倭王」に授号するのだろうか。この点、見林は正直だった。右の『南斉書』の記事について、この「武」は、雄略の次の清寧だ、といっているのである。清寧天皇の諱(いみな)も「白髪武広国押稚日本根子」であって、「武」の字をふくんでいるから、というのだ(松下見林の『異称日本伝』には、『梁書』の記事はとりあげられていない)。しかし、『梁書』の東夷伝の中には、武を興の弟だと記したのち、先の(A)の記事(『南斉書』倭国伝)や(B)の記事(『梁書』武帝紀)の内容を書いているから、これを別人と見るのは無理だ。
またこの問題を一応正面からとりあつかった藤間生大は、『梁書』の天監元年の授号について「この任官は武帝が総花的に行った即位に際しての任官の一つであったのである。武のあずかり知らぬ所でなされた任官である。五〇二年の武の任官をもって、武の在世をきめる証拠にすることはできない」(『倭の五王』)といっている。梁の天子は、倭王武がもう二十三年も前に死んだのを知らずに、うっかり授号してしまったのだ、というのである。このあと藤間は「『記紀』の年代をよりどころとして、この『梁書』の記事を抹殺することはゆきすぎである。今後の検討にあたいする記事である」と書いているが、わたしのような素人の見方からすれぱ、問題は至極、単純明快だ。すなわち、「武=雄略」という比定は成立できぬ。 ーーこれが唯一の答えである。次の年表を見よう。
四五六
雄略ーー四六二(大明六) 興への詔、興の死と弟武の即位
雄略ーー四七七(昇明元) 宗の順帝に倭国奉献
雄略ーー四七八(昇明二) 宗の順帝へ武の上表
四七九 雄略ーー四七九(建元元) 斉の高帝、武へ授号
四八〇
清寧
四八四
四八五
顕宗
四八七
四八八
仁賢
四九八
武烈ーー五〇二(天監元) 梁の武帝、武へ授号
(「興の死と弟武の即位」から「梁の武帝、武へ授号」が武の在位期間)
右の表に見るように、武は日本の天皇側では雄略〜清寧〜顕宗〜仁賢〜武烈の五代にわたっている。その治世は少なくとも二十六年(四七七〜五〇二)以上にわたり、『日本書紀』の記する雄略天皇の治世二十四年を確実にオーバーしている。このような事実は、「武」と雄略天皇の両人が同一人物ではない、という結論をまっすぐに示している。
さらに、『日本書紀』の年代は干支(えと)で(「干支」は六十年単位でくりかえす)示されている上、のちにのべるようにこれが百済系史料の年代と結合されている。だから、これを無視しない以上、六十年単位の変動はできても、二十数年といった、半端な年代移動はかえってむつかしい(『古事記』にも、独自の崩年干支がある)。
それなのに、これを“だいたい一致する”とか“うっかり死者に授与したのだろう”といった大まかな論法で、井上や藤間のような大家が処理し去ってきたのを見るとき、わたしは慄然とするほかない。
こんなことになったのはなぜだろう。方法的には、松下見林にはじまる「人名比定」が原因である。「今按、・・・・讃、履中天皇の諱いみな、去来穂別イサホワケの訓を略す。珍、反正天皇の諱。瑞歯別ミヅハワケ、瑞・珍の字形似る。故に訛りて珍と曰ふ。済、允恭天皇の誰、雄朝津間稚子ヲアサツマワクコ。津・済の字形似る。故に説りて之を称す。軍郡文献通考、職に作る。興、安康天皇の諱。穴穂アナホ訛りて興と書く。武、雄略天皇の諱、大泊瀬幼武オオハツセワカタケ、之を略するなり」(『異称日本伝』)。これを他の説と比較しながらまとめてみよう。
(1) 讃 ーー a 去来穂別(イサホワケ 履中)の第二音「サ」を「讃」と表記した。〈見林〉、
b 仁徳説の場合は、大鵜鶴(オホササギ 仁徳)の第三、四音の「サ」(または「ササ」)を「讃」と表記した。〈吉田東伍〉
(2) 珍 ーー 瑞歯別(ミズハワケ 反正)の第一字「瑞」を中国側がまちがえて「珍」と書いてしまった。〈見林〉
(3) 済 ーー a 雄朝津間稚子(ヲアサツマノワクコ 允恭)の第三字「津」を中国側でまちがえて「済」と書いてしまった。〈見林〉
b 右の允恭の第三、四音の「津間ツマ」は「妻ツマ」であり、この音「サイ」が「済」と記せられた。〈志水正司〉
(4) 興 ーー a 穴穂(アナホ 安康)がまちがえられて「興」と記せられた。〈見林〉
b 「穂」を「興」(ホン)とあやまった。〈新井白石〉
(5) 武 ーー 大泊瀬幼武(オホハツセワカタケ 雄略)の第五字(最終字)「武」をとった。〈見林〉
これらについて、まずわたしの不審とするところを率直に記そう。
(一) 天皇名の第一字をとったり、第二音をとったり、第三字をとったり、第五字をとったり、全体としてあまりにも、統一もルールもない。
(二) 「字」そのものをとったり、「音」をとったり、この点にも一定するところがない。
(三) 右のように恣意的な手法を二種類も駆使してもなお足りず、「瑞→珍」「津→済」といった誤写説へと走っている。
このように乱暴な手法が許されるなら、「人偏」(にんべん)や「手偏」(てへん)といった“偏”さえ共通していれば、いくらでも原文を書き換えられることとなろう。安易きわまる「原文改定」である。人偏・手偏の青色文字は近似表示)
これでも、倭の五王名と天皇名とが“だいたい一致する”などといえるだろうか。『「邪馬台国」はなかった』で検証してきたように、『三国志』倭人伝の本文について、従来の学者は「邪馬壹国→邪馬臺国」「会稽東治→東冶」「景初二年→三年」といった「原文改定」を信じた。そして原文面に誤謬多しと称し、その上に立って「陸行一月」を「陸行一日」に、「南」を「東」に、といった風に、安易な「改定」を行なってきた。あの手口がここでも行なわれている。本質的には同じく、具体的にはさらに無遠慮に。
矛盾は、事件の事実関係にもあらわれる。倭王武の上表文の中に、つぎの一節がある。「臣が亡考済、・・・・方(まさ)に大挙せんと欲せしも、奄(とも)に父兄を喪い、垂成の功をして一簣(き)に獲ざらしむ。」。ここに用いられている「奄」の字は「奄、一に曰く、同なり」〈集韻〉、「四海を奄有す」〈書経、大禹謨〉、「奄、尽なり」〈蔡伝〉というように、「おなじ、ともに、ことごとく」の意味である。したがって、ここで「奄に父兄を喪う」といっているのは“武の父と兄が一緒に死んだ”といっているのである。
これに対し、「にわかに」の読み(岩波文庫本)は「奄、遽なり。陳潁*の間、奄と曰う」〈方言、二〉というように一地方の用法にすぎない。もっとも、ここを「にわかに」と読むとしても、やはり文勢上“父兄を急に、いっぺんに失った”という意味とならざるをえない。
その上、前後の情勢から見ると、大軍事行動に出る直前に「父兄」が死んだ、というのであるから、単なる平穏裡の病死などでなく、思わざる緒戦の敗北や海上の難破などで、一挙に不慮の死をとげた可能性が高い。そういう筆致である。
潁*は、水の代わりに火。
ところが、日本の天皇側の記録では、雄略の父たる允恭の項に全くそのような形跡はない。大挙遠征の話もなければ、雄略の兄(木梨軽皇子きなしのかるのみこや安康)と共に戦陣を前にして、不慮の死をむかえた形跡もない。今、「戦陣を前にして」というような説話的要素をかりに除外してみても、肝心の“父と兄が一挙に死んだ”というような形跡は、記紀ともに、全く存在しないのである。
この点、もしこの「父兄」を“「臣が亡考済」の父兄”の意味にとってみても、日本側の記録にあわないことに変りはない(この場合、「父」は仁徳、「兄」は履中・反正となる)。要するに、どのようにして見ても、日本側の記録に“だいたい一致する“などとは、到底いえないのである。
このように論じきった今、わたしは思い切って“禁断の地”を俯瞰してみようと思う。それは、仁徳・履中より雄略までの「説話」と『宋書』にあらわれた倭の五王の「史実」との比較だ、
津田史学からの批判以来、つぎのような見地がわが国の古代史学界に一般化している。それは“記紀の説話は編者の「造作」の上に成り立っている。だから、これを直ちに史実としてとりあつかうことはできない”と。すなわち、他に確実なささえ、つまり中国史書や金石史料の裏づけなしには、記紀の説話を「史実」としてあつかうことはできぬ、というのだ。
たとえば、井上光貞はその著『日本国家の起源』において、つぎのようにのべている。「第一王の讃については問題が残るけれども、他の四王については、記紀の系図の部分、すなわち帝紀的部分と中国の記録がよくあうことがわかる。江戸時代以来、多くの学者は、この辺の記紀は信用できると考えて、倭王が誰であるかをきめてきたのだが、少し観点をかえて、この記紀の帝紀部分が信用できるかできないかわからないという立場にたつ時、それが外国の記録と奇しくも符合するということは、帝紀的部分もこの辺なら信用してもよいという証拠になるであろう」(傍点、井上。インタネット上は赤色表示)。
帝紀とは「帝王の日継」ともいわれ、一種の皇統譜だという(津田説)。この帝紀中、「允恭ーー雄略」の部分は中国史書(倭の五王)と「よくあう」から、信用できる、というのである。だから、「原則としていうと、倭五王に該当する五世紀の天皇たち以後、仁徳または履中以後は、天皇の名ばかりでなく、続柄も、皇后も、后妃も、皇子女も、代々正しく伝えられた所伝を記録したものとみてよいであろう」という結論に井上は達するのである。“倭の五王とよくあう”という基礎認定自体については、到底容認できない。それはすでにのべた。しかし、その点を別にしていえば、記紀の記述に対する「無批判の信頼」を絶ち、その上で他の確実な史料と適合するときだけ信用しよう、という、戦後史学の研究姿勢がよくあらわされている。さらに井上は「この辺(允恭ーー雄略の時代、古田注)の旧辞も史実を伝えているということではもちろんなく、これ以前の帝紀の信憑性とも何のかかわりもないことである」(傍点、井上)と特にことわっている。平ったくいえば“この辺の帝紀部分は中国史書とよくあうから信用できるが、この辺の旧辞(説話部分)はそうでないから、信用できるとはいえない”といっているのである。
今、わたしが問題にしようとしているのは、この旧辞部分と『宋書』の関係だ。津田の批判をうけた井上らの立場からいえば、「あわない」ことはなんら問題となりえない。本来帝紀部分と旧辞部分は別々の「淵源」あるいは「造作」に立つものだから、片方は信用でき、片方は信用できぬ ーーそれで一向さしつかえはない、ということとなろう。
このような「戦後史学の立場」を確認した上で、なおかつわたしは、記紀の説話(旧辞)と『宋書』倭国伝の内実とをまず比較してみねばならぬ。なぜなら、その比較結果が有意味であるか、無意味であるか ーーそれは、比較のあとで、きびしく検証すればいいことだから。
その検討に入ろう。つまり、『宋書』倭国伝にあらわれた、倭の五王をつつむ情勢と日本側の記紀にあらわれた「仁徳・履中〜雄略」説話の示す情景との比較である。
『宋書』の場合、中心史料は倭王武の上表文だ。これは先にのべたように著者沈約が三十八歳のときの事件だから、信憑性の高い同時代史料である。
これとくらべるために、最初にあつかう日本側文献は『古事記』だ。なぜなら、『日本書紀』中のこれらの天皇の巻々には、『百済記』『百済新撰』といった、百済系史料が数多く挿入されている。佳して補記されているだけではない。本文まで明らかにそれらの百済系史料に立って記されている。しかし、これら百済系史料は、明らかに『日本書紀』の編者の判断で、“それぞれの天皇の時期に当るだろう”として使用されたものだ。この点、はじめから日本側の伝承とされるものと史料性格がちがう。だから、その『日本書紀」編者の判断が正しいかどうかは、別に検証せねばならぬ。この点も、あとで詳しくのべよう。
今は、「日本側伝承」そのものを対象としたいのだ。そのためには、百済系史料をほとんど挿入していない『古事記』が適当だ。
問題点を箇条書きしよう。
(一) 中国への貢献と受号の記事
わたしの目を驚かせるのは、「仁徳〜雄略」の六代の間を通じて、日本の天皇側から中国の天子に対する貢献記事が全くないことである。いや、貢献どころか、およそ中国との関係を示す記事は、左の一例をのぞいて絶無なのである。
「又河瀬の舎人を定めたまひき。此の時呉人参渡り来つ。其の呉人を呉原に安置きたまひき。故、其地を号けて呉原と謂ふ」〈雄略記〉。これが六代を通じて、中国の国名のあらわれる唯一の記事だ。これはどうしたことだろう。『宋書』倭国伝にあらわれた頻繁な貢献とあまりにもちがいすぎるではないか。いわんや倭王武の上表文など片鱗も姿を見せない。だから、結局“何しろ、記紀の説話は信用できないのだから”という答えで切り抜けるほかない。
(二) 高句麗との戦いの記事
これもまた絶無である。
「此の時、新良しらぎの国王、御調みつぎ八十一艘を貢進たてまつりき。爾に御調の大使、名は金波鎮漢紀武と云ふ。此の人深く薬方を知れり。故、帝皇の御病を治め差いやしき」〈允恭記〉。これが六代を通じて朝鮮側国名のあらわれる唯一の例だ。そして何よりもこの六代は、対外的に平穏そのものだ。外国との戦火のにおいなど全くない。これと、高句麗に対する軍事的劣勢の中で悲痛な声を発している倭王武の面影とは、全く面目を異にしている。
“他ならぬ、高句麗に対する敗戦の不面目のために、これらの記事をすべて削ったのだろう”というような推測がある。
では、安康記の目弱王(まよわのおおきみ)の記事はどうしたことだろう。安康天皇は大日下王(おおくさかのおおきみ)の妻、長田大郎女(おさだのおおいらつめ)に「横恋慕」して、その夫大日下王を殺した。そして大郎女を奪って自分の后とした、ところが、自分の非行を知られ、大郎女の連れ子、七歳の目弱王のために寝首をかかれて復讐された、という話だ。
倭王興に当るとされるこの天皇の、このような死に方は「不面目」ではないのだろうか。この記事に相対させると、“朝貢は不面目だから削除したのだろう”という臆測は、にわかに色あせてくるのを覚える。“天皇個人の非行と国家の敗戦とはちがう”などといってみても、そんな“天皇個人の行為と国家の行為との峻別”といった見方は、あまりにも“当世風”なのではないだろうか。
結局ここでも“なにせ記紀の説話は・・・・”という「万能の史料不信論」にたち返り、それを盾とするしかない。
このような「六代の説話」の内容は、『日本書紀』の場合も、ほぼ同じだ(この点、後述)。ちがう所は、中国・朝鮮側史料から、いわば“はめこまれた”部分だ。
そこでこの“はめこまれた”部分は、果して“天皇家の物語をささえる”史料として正しいものだろうか。これら外国史料の史料性格を検討してみよう。
まず、中国史料が出現するのは神功紀である。
(1) 三十九年。是年(ことし)、太歳己未。魏志に云はく、明帝の景初の三年の六月、倭の女王、大夫難升米等を遣はして、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。太守登*夏、吏を遣はして将(ゐ)て送りて、京都に詣らしむ。
登*夏の登*は、登に阜偏。JIS第3水準ユニコード9127
(2) 四十年。魏志に云はく、正始の元年に、建忠校尉梯携等を遣はして、詔書印綬を奉りて、倭国に詣らしむ。
(3) 四十三年。魏志に云はく、正始の四年、倭王、復使大夫伊声者掖邪狗等八人を遣はして上献す。
(4) 六十六年。是年、晋の武帝の泰初の二年なり。晋の起居の注に云はく、武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、訳を重ねて貢献せしむといふ(六十六年項については、のちに史料批判を加える)。
この四項については、つぎの二つの問題がある。
(A) 魏志より引用した三項は卑弥呼についての記事だ。これに対し、最後の「晋の起居注」より引用した項は、壹与に関する記事だ(この点、のちに詳しく論ずる)。しかるに、いずれも「倭の女王」「倭王」とだけ記して実名を出さぬ。つまり、あたかも同一人物のように見せかけている形なのである。
(B) しかも、これらは神功紀中の引文だ。だから当然、ここにあげられた「倭の女王」や「倭王」は、“神功皇后その人であるように見える形”で掲載されている(この四項は後人の書き加えでなく、『日本書紀』の編者の手によるものである。これについては、のちに詳しく論ずる)。
右の(A)が『日本書紀』編者の故意によるものか、それとも単なる思いちがいか、きめることはむつかしい。編者の手元にあった中国史料の全体がどんなものだったかは不明だ。その上、第四項の「倭の女王」が壹与であった、という認定に編者が達していたかどうか。わたしたちには知ることができないからである。
右の(B)について。ただ編者は、(1)〜(3)項について、それが「卑弥呼についての記事」であること、は知っていたはずだ。それは『三国志』に明記されているのだから。しかるに、ここには一切「卑弥呼」という実名を出していない。もし、卑弥呼という実名を出せば、神功皇后にはそのような和名がない。だから、名の上から、この二人が同一人物か否か、それがまず問題とならざるをえない。あたかも倭の五王の場合のように。しかし、編者は一切「卑弥呼」の実名を避け、“文面上”は、問題を回避した。そこには、率直にいって、無邪気さでなく、技巧が見られる。そこで編者は、「神功皇后は卑弥呼に非ず」と知っていて、故意にそれを隠蔽したのか。それとも、「神功皇后はすなわち卑弥呼だ」と本当に信じて、このような記述をしたのか、という問題が生れる(この点、関和彦「書紀編者の歴史観の一断面 ーー神功紀分注魏志の検討を通して」は、故意隠蔽説を主張している)。
しかし、今のわたしの問題は、別の点だ。故意にせよ、過失にせよ、編者が「神功皇后=卑弥呼」という等式に立って、神功紀の構成をした、その事実は明らかだ。いな、神功紀だけではない。『日本書紀』全体の紀年が、神功紀を卑弥呼と同時代においたことによって、大きく歪んできたことは、明治以来の学者が説く通りだ(那珂通世なかみちよ「上世紀年考」等)。
たしかに編者はまちがっていた。なぜなら、『「邪馬台国」はなかった』で論証したように、卑弥呼は博多湾岸の邪馬壹国の女王だったからである。だから、編者の「外国史書導入の目」は、大きく狂っていたこととなる。第一に、紀年において。第二に、人物の異同について。ともに重大なあやまりをおかしていたのである。
このような『日本書紀』編者の、外国史料に対するあやまった処理法から見ると、同じ神功紀以後各巻にわたって引用された百済系史料についても、問題だ。それが果して各時代の天皇たちに相当するか否か、わたしたちはこれを容易に信用することができないのである。もし、論者が“『三国志』や「晋の起居きこ注」の場合はまちがっていた”、しかし、“百済系三史料は別だ”と主張しようとするならば、“百済系史料の場合に限って、天皇家に対するものとして信用できる”という新しい命題を、必要にして十分に論証し直さねばならない。
その際、肝要な問題がある。それは『百済記』や『百済新撰』『百済本記』といった百済系文献それ自体の史料的信憑性をいくら立証しても、だめだ、今の問題の核心になりえない、という一点である。その理由は、中国史料の例で明らかだ。『三国志』や「晋の起居注」自身の史料的信憑性は疑う余地がない。しかしそれは、決してそこに記された「倭王」や「倭の女王」がすなわち神功皇后である、という証明となりはしない。逆に、両者がそれぞれ異なった王朝に属する王者であったことをわたしはすでに知っているのである。
このような用心に立ちながら、百済系三史料そのものの史料性格をしらべてみよう。
『日本書紀』の中の韓国の公州の、百済系史料の信憑性を立証する貴重な発見が一九七一年七月、(百済の都、熊津)で行なわれた。百済武寧王陵の発掘である。特に重大な発見は、武寧王と王妃の石製墓誌の出現だった。
今、王碑の全文をかかげる。「寧東大将軍百済斯 麻王年六十二歳癸 卯年五月丙戌朔七 日壬辰崩到乙巳年八月 癸酉朔十二日甲申安暦* 登冠大墓立志如左」。『日本書紀』中の武寧王記事は左の通りである。
(1) 是の歳、百済の末多王、無道にして百姓に暴虐す。国人、共に除(す)てて嶋王を立つ。是を武寧王とす。〈武烈紀四年、壬午 ーー 五〇二〉
(2) 『百済新撰』に云はく、末多王、無道にして、百姓に暴虐す。国人、共に除(す)つ。武寧王立つ。諱(いみな)を斯麻(しま)王といふ。〈武烈紀四年、壬午 ーー 五〇二、分注〉
(3) 夏五月に、百済の王武寧薨(う)せぬ。〈継体紀十七年、癸卯 ーー 五二三〉
(『日本書紀』は各天皇紀の元年に干支を記してある。それによって各年の干支が判明する。また、(1)(2)は『日本書紀』本文であるが、それぞれ『百済新撰』『百済本記』にもとづいた記事である)。
右の(3)の示す武寧王の没年は、第一史料である王碑と完全に一致している。また(1)(2)に武寧王の名が「嶋王」「斯麻王」と記されている。これも王碑と一致する。ことに(2)の『百済新撰』の直接引用とは、「斯麻王」という表記漢字まで完全に一致している(この点、朝鮮の史書『三国史記』〔第四章に詳しくのべる〕では、「斯摩王」となっており、武寧王碑という第一史料の示すところと異なっている)。しかも、この名称は「斯麻=島」という“日本風の名前”である。この名は(2)につづく、つぎのような説話と関連している。「是れ[王昆]支こんき王子の子なり。則ち末多王が異母兄なり。[王昆]支、倭に向ふ。時に、筑紫の嶋に至りて、斯麻王を生む。嶋より還し送りて、京に至らずして嶋に産(う)まる。故(かれ)因りて名づく。今、各羅(かから)の海中に主嶋有り。王の産れし嶋なり。故、百済人、号(なづ)けて主嶋とすといふ」〈武烈紀四年、分注〉。このように、一見いかにも物語風の興味に立ってつづられたかに見える説話。それが王碑中に刻まれた「斯麻王」の一句によって、にわかに生き生きとした史実性の血がかよいはじめる。
[王昆]支こんきの[王昆]は、王編に昆。JIS第3水準ユニコード7428
それだけではない。この王碑は左のような「梁書」の記事とも相応する。「(梁の武帝、普通二年 ーー 五二一)其の年、高祖詔して曰く『都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王に行せしむ。余隆、藩を守り、海外遠く貢職を脩おさむ。廼すなわち誠款かん到る。朕、嘉よみする有り。宜しく旧章に率したがい、茲この栄命を授く。使持節都督百済諸軍事、寧東大将軍、百済王たる可し』〈梁書五十四、諸夷、百済国〉。この記事につづいて、普通五年(五二四)武寧王(余隆)の死による、子の明の即位と授号のことがのべられているから、武寧王が「寧東大将軍」として死んだことは明らかである。この称号が右の石碑の最初に明記されている。
このように第一史料、武寧王碑は、一に『日本書紀』内百済系史料と、二に『梁書』の正確さを同時に証明した。と共に、この時の百済が中国南朝の天子の直属下にあったこと、倭との間においても数奇な関係をもっていたこと、それをこの簡潔な石の文字が豊かに立証したのである。
百済系史料は、『三国志』や晋の起居注と同じく、その史料的信憑性の高いことが明らかとなった。ところで、最初に『百済記』が引かれているのは、やはり「神功紀」だ。さきの『三国志』(三十九年、四十年・四十三年の三項)と晋の起居注(六十六年)の中間に挿入されている。
ついで『百済新撰』(雄略紀五年)には「大倭」の話が出ている。
『百済記』に、職麻那那加比跪と云へるは、蓋し是か。〈神功紀、四十七年〉
『百済新撰』に云はく、辛丑年に、蓋歯かふろ王、弟昆支君を遣はして、大倭に向ひ、天王に侍す。以て兄王の好を脩をさむるなり。〈雄略紀五年〉
右の『百済新撰』に「大倭」といわれているこの用語自体は、書紀引用の『百済新撰』の史料的信憑性から見ると、これを勝手に疑うことはできぬ。しかし、このことから、この「大倭」が神功皇后伝承をもつ天皇家それ自身に当る、と直ちに断定できるだろうか。できはしない。なぜなら、第一に、先の中国史料に見たように、外国史料自身の信憑性と、そこに示された「倭」の王朝(倭王や倭の女王)が天皇家の王朝に果して当るか、という問題とは峻別しなければならないこと。第二に、『三国志』魏志倭人伝中の「使大倭、之を監す」について、(『「邪馬台国」はなかった』第六章二の中の「使大倭とはなにか?」)で分析したように、三世紀卑弥呼の王朝はすでに「大倭」をもってみずから称していた。また五世紀の前半の范曄もまた「其の大倭王、邪馬臺国に居す」と『後漢書』に記し、その上で卑弥呼について記述していること。この二点が注意せらるべきだからである。
こうしてみると、六世紀はじめごろ成立したと見られる『百済新撰』に「大倭」とあるとき、中国史書における、右の二つの「大倭」の使用法の上に立ち、それをうけて用いた、と見るのが自然だ。なぜなら、この『百済新撰』の著者は当然史書の手本として、中国の『三国志』『後漢書』を見、それにそってみずからの国の史書を書いた、と考えるほかないからである。
この点、従来の論者は七、八世紀の天皇期(『「邪馬台国」はなかった』第五章二「天皇紀文献の批判」参照)内の大倭についての用例を思考の基礎におき、百済系史料中の「大倭」の用語を疑った。
甲申、大倭国をして二槻ナミツキ離宮を繕治せしむ。〈続日本紀、大宝二年三月〉
大倭の国造、大倭の忌寸五百足には、施*十疋、綿一百屯、布二十端。〈続日本紀、養老七年十月〉
施*は、方偏の代わりに糸偏。JIS第3水準ユニコード7D41
しかし、五〜六世紀に生きた『百済記』や『百済新撰』の著者にとって、右のような後代の天皇家の史書は関知するところではない。彼等の素養を左右しえた文献は、それらではなく、ほかならぬ中国の『三国志』『後漢書』等であったこと、 ーーそれは火を見るよりも明らかな事実である(神功紀六十二年の項に、通常の本では、『百済記』の所引中「大倭」の句がある。「加羅の国王の妹、既殿至けでんち、大倭に向きて啓まうして云はく、・・・」。しかし、この部分は北野本では本文に属しているから、今は例にあげなかった。けれども、この本文も、『百済記』にもとづいている、と考えられるから、右の『百済新撰』の「大倭」の場合と同様に考えることができる)。
(注)『百済本記』と『百済本紀』
『日本書紀』中に引用されたものは『百済本記』、『三国史記』(後出)では『百済本紀』、両者は別の書である。
このことは次ぺージの表によっても証明される。
神功 三十九年己未(二三九) ○卑弥呼朝貢(三国志)
神功 四十年庚申(二四〇) ○卑弥呼朝貢(三国志)
神功 四十三年癸亥(二四三) ○卑弥呼朝貢(三国志)
神功 四十七年丁卯(三六七) ○(百済記)
神功 六十二年壬午(三八二) ○(百済記)
神功 六十六年丙戌(三六六) ○壹与朝貢(晋の起居注)
応神 八年丁酉(三九七) ○(百済記)
応神 二十五年甲寅(四一四) ○(百済記)
雄略 二年戊戌(四五八) ○(『百済新撰』)
雄略 五年辛丑(四六一) ○(『百済新撰』)
雄略 二十年丙辰(四七六) ○(百済記)
武烈 四年壬午(五〇二) ○武寧王立(『百済新撰』)
継体 三年己丑(五〇九) ○(『百済本記』)
継体 七年癸巳(五一三) ○(『百済本記』)
継体 九年乙未(五一五) ○(『百済本記』)
継体 十七年癸卯(五二三) ○武寧王死(本文 『百済本記』)
継体 二十五年辛亥(五三一) ○(『百済本記』)
ーー西暦では順序が前後している(欽明紀十三項の百済本記引用がこのあとにつづく)
まず、『百済新撰』と『百済本記』との関係を見よう。
第一に、『新撰』の最終記事(五〇二)と『本記』の最初記事(五〇九)との間、七年しか間がない(その七年間内にも、本文として武烈紀・継体紀とも、百済記事をふくんでいる。これらも、右百済系二書に依拠したものと見られる)。
第二に、武寧王記事が両書にまたがっている。すなわち、即位の記事が『新撰』にあり、死亡の記事が、本文としてであるが、継体紀の『百済本記』引用年代中に現れている。この点から見れば、『新撰』のいう「倭国」と『本記』のいう「倭国」とは同一王朝の連続と見るほかない。
つぎに『百済記』と『百済新撰』について。
『百済記』の最末記事(四七六)と『新撰』の最初記事(四五八)が交錯している。これは『新撰』と『本記』の関係と同じである。またその間に本文としての百済記事(新羅・高麗記事をふくむ)をふくむことも、『新撰』 ーー 『本記』の場合と同じだ。
こうしてみると、『百済記』のさす「倭」と『百済新撰』のさす「倭」は同一王朝だ、ということになる。
最後は、中国史料(『三国志』と「晋の起居注」)と『百済記』の関係だ。
第一に、中国系史料の最末記事(二六六)と『百済記』の最初記事(三六七)とは、先の表に示されたように、交錯させられている。わたしたちは、当然、ここに年代上の錯乱があることを知っている(先の表の西暦参照)。しかし、この『日本書紀』の引用文自体は、この順序におかれている以上、『日本書紀』の編者の目には、この『百済記』は中国系史料と同じ「倭国」の継承としての描写と見える形をとっていた、と見なすほかないのである(この両者のつながりは、次章において、さらに実証されることとなろう)。
以上のような「年代の交錯」によって、わたしは知る。『日本書紀』中に引用された五個の外国史料の示す王朝が、いずれも「倭国」をうけつぐ“連続した王朝”であることを。
記紀の二倍年暦にばいねんれき/二倍年暦はどこで終る?/なぜ中国風の王名か/一字名をみずから名のった/中国風名称への転化/和風と中国風との間/壹与いちよの鎖/匈奴の単干ぜんう名/倭わ(ゐ)と壹いちの文字/邪馬壹国の名はいつ成立?/壹与朝貢の時期/陳寿執筆時の倭王は女王か男王か
七支刀銘文解読の歩み/献上か下賜か/王と侯王/倭王旨しとは?/流伝るでんの道/横刀と大鏡/いつ石上いそのかみ神宮に入ったのか?
海北の国/分国論と倭の五王/人名比定の軌跡/『宋書』倭国伝の解読/毛人もうじんと衆夷しゅうい/畿きを遐はるかにす/秦韓しんかんと慕韓ぼかん
『失われた九州王朝』(目次)へ
九州王朝の築後遷宮 ーー玉垂命と九州王朝の都(新・古代学第4集) 古賀達也
IV倭の五王の史料批判 『よみがえる九州王朝 』(角川選書)へ
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