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古田史学会報1995年 2月26日 No.5
《特別寄稿》
和田家文書との出会い(1)
青森県藤崎町 藤本光幸
和田家文書偽作論者が愛用する、匿名による虚偽情報が横行しているが、昭和三十八年から和田家文書の研究調査を始められた藤本光幸氏に、前号に引き続いて和田家文書との出会いと経緯を書いていただいた。氏の貴重な証言を連載する。(編集部)
私の家の宗旨は浄土宗であり、菩提寺は藤崎町攝取院です。
昭和三十六年の秋、八戸市十王院高橋松海師が火傷をされ、藤崎町福井医院で入院治療をして居りましたが、丁度病院の隣りが攝取院であった関係上、宗祖法然上人の御忌の日の御説教で、金光上人が「奥州皆浄土化」を御遺言に、宗祖の教えを如何に東北の地に布教されたかを説かれました。
その後の親和会で、僻地津軽地方に於ける金光上人の念仏弘通のための御苦心を伝える古文書が、飯詰大泉寺の開米智鎧師のもとに保存されてある事に話が及び、それによって攝取院成田教淳師、佐藤末太郎氏、加福喜一氏、私藤本光幸が大泉寺を訪れ、和田喜八郎氏が発掘された古文書の数々、ガンダーラ佛の様な釈迦苦行像、アトラス神像、護摩器等を拝観すると共に、この日初めて大泉寺に於て和田喜八郎氏に出合ったものでした。
その時の和田氏の話によると、和田氏が昭和二十四年に梵珠山系魔神山麓、糠塚沢付近で炭焼釜を造築中、偶然にも洞窟を発見。その中を探索した所、種々の仏像、仏具、護摩器等を見つけ、それらの中に太い竹筒を細い糸で幾重にも巻き、漆で塗りかためた経筒があり、この中から多数の修験宗の資料と共に金光上人に関する資料も発見されたものだと、されて居ります。
その後、開米氏と共に和田家提供の新資料を整理研究された淨円寺佐藤堅瑞師が、昭和三十五年一月に、殉教の聖者『金光上人の研究』として発表されました。
金光上人はそれまで青森県に於ては、師法然上人の直弟子で、東北地方に浄土宗を布教に来られたが、建保五年三月二十五日浪岡の地で入寂された事、弘前市西光寺現存の阿弥陀如来像を蓬田村の阿弥陀川から拾い上げられたという事柄ぐらいしか知られて居らなかったのです。従って、和田家提供の新資料によって、これまで世に明らかにされなかった金光上人の御業績が、初めて世間に発表され脚光をあびる事となったのです。
私の菩提寺攝取院にしても、開山が金光上人に依るものだとは知られて居りましたが、肝心の金光上人の事蹟が全くわからなかったのです。
開米師は和田氏からの新資料の提供に力を得て、爾来十有余年ひたすらに金光上人の研究に没頭。老齢にもかかわらず昭和三十八年三月二十五日に至って、漸々首尾一貫した金光上人の伝記及びその宗義を完成、脱稿されました。その後、和田喜八郎氏は、新資料の中から攝取院関係の一書を持参し攝取院に寄進されて、開米師の労作出版に対する応援方を攝取院檀信徒に懇請しました。
これを聞いて攝取院責任役員藤本幸一(私の父)は一日、飯詰大泉寺に開米師を尋ね、開米師の生涯かけた研究をこのまま埋もれさすにしのびないとし、さらに金光上人にゆかりの深い寺々の人達で金光上人の御遺徳を世に発表出来る事、また昭和四十一年の金光上人七百五十年大遠忌を迎えるにあたって、開米師の『金光上人』を記念出版出来るのも、何かしら前世からの因縁に依るものであろうと、出版資金の提供を申し出たのです。
これによって金光上人讃仰会が結成され、『金光上人』の表題で出版する事が決定されました。この様な経過の後に昭和三十九年九月二十五日、出版発行されたのが『金光上人』であります。
以上述べました様に、私と和田喜八郎氏との最初の出会いは昭和三十六年の事であります。しかし、この頃はまだ『東日流外三郡誌』の存在を知りませんでした。
更に、和田喜八郎氏の名誉のために一言申し上げますが、昭和三十六年から昭和三十九年の出版までの間に、和田氏は金光上人讃仰会からは新資料寄進の功によって表彰状は授与されて居りますが、金銭的報酬は一銭も受け取って居りません。
『季刊邪馬台国』では、この『金光上人』の出版で和田氏は大なる報酬を受け、それ以来、偽作の創作を始めたと主張して居りますが、全く真実に反しております。
むしろ、この頃和田氏は一番経済的に苦しんでいた頃で、東京へ出稼ぎに出かけて居り、『金光上人』が出版された昭和三十九年には東京に在住して居り、在住先に出版された『金光上人』を私が送本した事を良くおぼえて居ります。
ところで、昭和三十六年以前の事についてですが、この時点の事については『古田史学会報三号』に於て古賀達也氏が“福士貞蔵氏の「証言」”の中で、次の様に述べて居ります。
「・・・ちなみに『飯詰村史』は昭和二六年の発行であるが、編集は昭和二四年に完了していることが編者による「自序」や「編輯を終へて」に記された日付から判明する。このように、和田家文書は戦後間もない昭和二三年頃には福士氏により書写
され、紹介されているのである。・・・」と。
これらの時点の事を証明する事実が他にもあります。それは弘前市の長勝寺三門が昭和十一年九月十八日に戦前の国宝指定を受けて居ったのですが、戦後、昭和二十五年五月三十日文化財保護法二一四号の施行によって、文化財として再指定をしてもらうために申請したところ、黒枝技官が調査のために来弘し、昭和二十五年八月二十九日に国重要文化財として再指定されたものであります(現弘前博物館宮川慎一郎係長の言)。
この時、黒枝技官の来弘を聞いて『飯詰村史』編輯に協力していた和田氏は、当時の飯詰村長中谷氏及び中谷助役、開米智鎧師共々、宿泊先である弘前市石場旅館に黒枝技官を訪ねて、発掘物の鑑定を依頼していると云う事実があり、この事は昭和二十六年以前に和田氏が『飯詰村史』編輯に積極的に協力している事を如実に物語っているのではないでしょうか。
(続く)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集~第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一・二集が適当です。
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