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東北の真実ーー和田家文書概観(『新・古代学』第1集 特集1東日流外三郡誌の世界)


和田家文書との出会い(2) 『東日流外三郡誌』は偽書ではない
古田史学会報1995年 4月26日 No.6
--------《特別寄稿》--------

和田家文書との出会い(2)

青森県藤崎町 藤本光幸

 私と和田氏の出会いは昭和三十六年の事であると前回述べました。しかし、その後、幾度か和田氏と会って資料発見後の経過等を聞きましたが、この頃はまだ『東日流外三郡誌』の事は話してくれませんでした。
 開米氏の『金光上人』を出版する事になって、その原稿の中に天真名井(あまない)宮の事項が出て来ましたので、私の姓は藤本ですが、父(幸一)が天内(あまない)家から藤本家に養子に入って居る事、私が小学生の頃、天内家の祖父から先祖が宮様であった事、山伏屋敷と云われて山伏の出入りが常にあった事、屋敷の中に茶の木が栽培されてあった事など、私の先祖が天真名井宮である事を話しました所、和田氏から私に渡されたのが“天真名井家関係資料”でした。そこでその後、整理研究したのが“天真名井家文書”なのです。
 最初、私は“天真名井家文書”と『東日流外三郡誌』とは全く別々の資料と考えて居りましたので、北方新社刊の『東日流外三郡誌』にも明白に“外三郡誌”と表題のあるものに書かれてある資料のみを第四巻に掲載したものです。

 父方の実家に於ても、祖父が先祖は宮様であったという事しかわからず、どの様な宮様で、どの様な事績があったのか等は全く知られていないと云う有様です。わずかに数本の刀と大きな鈴が一箇遺されて居るだけでした。そこに“天真名井家文書”が出て来たのです。私も自分自身のルーツに関連のある資料の出現ですので、全く夢中になってその研究に取り掛かった次第です。
 調査研究してゆくと、資料に書かれてある事柄は、祖父の家屋敷の地形と全く合致するし、その他の事項でも調査事項と合致するものが多々ありますので、昭和三十六年から昭和三十八年にかけては“天真名井家文書”の整理研究に打ち込みました。
 そして、“天真名井家文書を整理しているうちに、それらと平行して飯積高楯城 藤原一族関連の資料が来る様になりました。後に判明した事ですが、文明十二年(一四八〇)に天真名井宮が北落、東日流に下幸して南朝系の忠臣藤原藤房公子孫の朝日左衛門尉の高楯城に御成幸した事は当然のことと考えられます。昭和三十七年頃には“天真名井家文書”と“高楯城文書”が大量に私の所へ持ち込まれました。

 昭和三十八年の事です。夏の一日、和田喜八郎氏と共に私達が水沢と呼んでいる古密教系の奥院と考えられる寺院跡に参詣しました。この時、初めて和田氏は私達に水沢の洞窟を発表し、入口を掘りました。その時、内部に貯えられた大量の水が奔流となって流れ出し、その流れの中に数枚の書紙が混入して居りました。それを丹念に拾い集めて自宅に持って帰り、一枚ずつガラス戸に貼って乾燥させ、読んで見ました所、全く驚嘆してしまいました。
 そこに出て来た書面の内容は阿弥陀経と安東氏関係の事項なのです。 
 私の出生地藤崎町は安東氏発祥の地であり、その本城のあった土地ですので、私が安東氏についての研究を始めたのは大学生の頃の昭和二十五年頃からの事ですが、その頃は津軽の歴史は津軽藩祖津軽為信にあると云う事で、青森県の歴史も縄文から戦国時代以降の近世史と云う様な状況で、古代中世の歴史は全く曖昧模糊たる有様でした。
 従って、中世史の覇者安東氏も全く歴史の表面に出て来ることは無く、その資料も乏しくしかも断片的であったが、さすが安東氏の居城地であったので私の町には大正四年(一九一五)十月発行の『藤崎城誌』藤井秀世著と云う本がありました。しかし、この書も藩政期以降の事はよくわかりますが、それ以前の事項になると断片的で辻褄の合わない点が多々見受けられます。そこに安東氏関連の文書が現れたのです。

 先に述べた天真名井宮にしろ藤原藤房にしろ、藤崎に本拠を置く安東一族を頼って都から落ち延びて来たものでした。安東一族自体、今までの正史に出て来る事なく青森県の歴史も南北朝から室町期にかけては暗黒の闇に包まれて居った頃ですから、維新の三房の一人とされる“藤原藤房”ですら後半生は不明とされて居ります。

 その様な天真名井宮、藤原藤房一族の関連文書が出現したのに、肝心要の安東一族の文書がなかったのです。そこに安東一族関連文書が出て来たのです。
 早速、私は天真名井宮、藤原一族、安東一族の関係をそれまでに調査研究し、知っている限りを和田氏に説明しました。和田氏がその後、私の所へ持参してくる様になったのが『東日流外三郡誌』でした。
 先に発刊された北方新社版『東日流外三郡誌』補巻の“天真名井家文書について”の文で「原資料の保持者和田喜八郎氏と私の出会いは今から二十三年前の昭和三十八年の事でした。」と述べましたが、和田氏本人との出会いは昭和三十六年の事ですが、『東日流外三郡誌』との出会いが昭和三十八年の事であり、昭和二十五年頃から安東氏の研究を始めていた当時の私にとっては『東日流外三郡誌』即和田喜八郎氏であり、それ程に『東日流外三郡誌』との出会いは衝撃的な事であった訳です。

 和田氏は金光上人関係資料が出てから、当初は天真名井家文書、高楯城文書(藤原一族関連文書)を主力にして持って来て居ったのですが、その後は『東日流外三郡誌』を主として資料を持参する様になり、私も『東日流外三郡誌』、天真名井家文書、高楯城文書を互いの関連もある事であり、並行して整理研究調査を進めました。
 所が、それらの文書の研究調査を進めるに従って、驚くべき事に私の町藤崎、和田氏の五所川原市飯詰、十三市浦村、西海岸一帯(深浦町)から津軽地方は云うに及ばず、青森県全域、秋田地方、岩手地方、更には北海道南函館地方から松前、上ノ国、江差にかけて地形、地名、神社、仏閣、伝承等々、書かれてある事項と一致する事が多々出て来ました。これ等の事を和田氏が全て偽作したとて出来得るものではありません。

 真実の歴史は実証の学問とも云われます。これらの現実をして“和田家文書”を偽書だとする事が出来るでしょうか。(つづく)


『東日流外三郡誌』は偽書ではない

青 森 県 古 代 ・ 中 世 史 の 真 実 を 解 く 鍵

青森県中里町 青 山 兼 四 郎

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 『東日流外三郡誌』真作を裏づける寛政奉納額が昭和初期から山王日枝神社拝殿に架かっていたことを証言された青山兼四郎氏に対して、偽作論者たちは『季刊邪馬台国』などで氏の証言を否定しようと、様々な虚偽情報や中傷を繰り返している。例えば、「青山氏が、福士貞蔵氏や奥田順蔵氏と交流があったとは思えない」「日吉神社は、青山氏の子供時代の遊び場だったとは考えられない」「青山氏は、和田喜八郎氏と仲がよく、性格も似ている」「青山氏も市浦村史編纂委員で、よく和田氏を車に乗せていた」「『東日流外三郡誌』のコピーを横流しした」「和田氏や藤本氏と歴史の本を出版すると言っていた」などである。こうしたことが学問的な論証とは無縁の心理操作であり、しかも憶測や虚偽情報に基づいている点に、偽作論者の方法論がよく現れていよう。本人への確認もなく一方的に中傷された青山氏に貴重な証言と中傷記事への反論を寄稿していただいた。(編集部)
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 『東日流外三郡誌』は偽書であるから、寛政奉納額はスキャンダルだとして偽作物だと論争を繰返している。『東日流外三郡誌』は滅ぼされた者の記録であり、敗者のかくされたふるさとの歴史の真実や古い時代より現在なお続いている津軽民謡や引きつがれている習慣などについて、なぜという疑問などにそのよりどころ、原点をさぐるものである。

『外三郡誌』は東北の歴史
 私たちは青森県史の研究や、津軽の古代、中世史を再検討をし、歴史の真実について、やがては科学的に結びつく日本の史実の解明が必要なのではないか。特に安東・安倍氏のことについて日本史はどれだけ語っているのか。『季刊邪馬台国』五十五号は、いま衝撃の新展開だとのことで大変な真贋論争のため莫大な論説を述べている。かつては十三湊は日本海舞台の海洋貿易港であり、三津七湊の一つに数えられて、中国・印度・ジャバ・スマトラなどと交易をしていたことなど、舞台はかなり広く、日本海時代を築いていた。それが今日までの歴史のなかでどれだけ取上げているのか。東北・北海道は日本の国土の五三%もあるのに史実は僅かに前九年・後三年の戦役より記載になって居ない。私たちが今日まで学んだ歴史は関西・四国・九州だけの、全体の四七%のみで、それ以外は殆んど知ることはできなかった。特に国の肇りは神代だと知らされたが世界のどこにそんな時代があったのか。
 信ずるものは古事記・日本書紀のみであり、勝者の歴史はすべて関東以北・東北・北海道はエゾ・アイヌの記事だけで、いまだに日本歴史は変っていない。これを二十一世紀につなぐのは地方の郷土史家より以外の人たちであろうか。『東日流外三郡誌』は想像も出来なかった程の膨大な資料なので、これを解明することは極めて困難であり、取りあえず資料を生のまま提供するので、真贋を区別することは読者自身のものである。しかし『東日流外三郡誌(市浦村史版)』で、数千年の永い時代の中で祖先はどのようにして生きてきたか、そのすばらしい足跡と現在に残された業蹟は今日混乱せる日本史の中で本当にあるべき姿について、その示唆することが極めて多いので、よく取捨選択の上、読みとって戴きたいと各編纂委員の言葉は語っている。これがどうして偽書と呼ばれるのか。その考え方によって、再び東北の得難い貴重な史料が、遥か彼方に消滅しようとしていることには納得し難い。
 東北・北海道、特に津軽の史実について詳しく知るためにはやはり、九三年十月二十七日付で発表された北日本・中世都市と安東氏についての歴史フォーラムが青森市で開かれた記事を通読されたい。十三湖のほとりで福島城及び山王日吉神社・十三湊遺跡発掘調査の終結をまとめた国立歴史民俗博物館と市浦村と題し、遺跡にさぐる北日本は辺境じゃなかったと、早稲田大学教授菊地徹夫先生・神奈川短大教授網野善彦先生は日本列島の歴史の見直しが必要だと語っている。更に十三湊や山王坊と安藤氏に深いかかわりをもつ上ノ国勝山館から中国製の青白磁や宋銭が莫大に出土していたが、これは何を物語るのかのテーマで論説をしている。十一・十二世紀に入ると、北九州・瀬戸内海より航海をつづけて淀川に入り、宇治川を経て琵琶湖を通り抜け日本海に至る列島を横切る大動脈を経由し、舞鶴・敦賀・小浜港よりの若狭湾を望む比叡山・延暦寺に結びつく日枝・日吉神社や山王という地名に深くかかわりがあるものと推察している。

福士貞蔵先生との関係
 つぎに故福士貞蔵校長先生について申し述べる。先生は大正九年四月より昭和四年八月まで今泉小学校々長として務めた人である。その業務の余暇をみて常に山野にでかけて土器や地域の城跡を研究されていた。また内潟村長四期十六年の経歴のある奥田順蔵氏も今泉に住居を有していたので、常に往来を重ねていた。山王坊と福島城についてその知識を広めていたので、近隣の相内・十三の方々と志を共にして十三史談会を結成して現地踏査を繰り返しながら地域の考古学に特段の検討を重ねていたことは幼い頃よりよく知っていた。
 その頃、校長先生の長女に当たる人が武田小学校の先生をしていたが、母乳が不足で今泉小学校の用務員をしている祖母の長女である私の母の乳をたよりに、母は預かることを約して校長住宅にて朝・夕に乳をお孫さんに與えるため通い、遂に日課となり、私の家で育てることとなったのである。
 福士先生も余暇をみて奥田先生と共に、或は別々に山王坊へよく行き、付近の縄文時代からの石器・土器類を集めていた。このようなことで、福島城や山王坊へは天気の良い日には数え切れないほど往来しているのである。それを全く(私と福士氏・奥田氏とは)交流があったとは思えないと偽作論者は言っているが、昭和初期の頃であり、今では関係者でなければわからないことである。

中傷記事の証拠を示せ
 また相内財産区の依頼で測量・分割・登記事務の嘱託などを私が受けたのは昭和二十八年秋頃からであり、委員長以下の十名のことについては、既に四十数年前にもなっていることであり、当時でさえ五十才乃至六十余才の年齢であり、現在生きていることはない。
 相内の日吉神社が遊び場だったということは、先に云った通り福士先生・奥田順蔵氏について行った子供の頃である。また、青山と和田喜八郎氏は仲がよく性格も似ているなどは相手の人の見方の問題である。神社の周辺の土地測量については嘱託登記の委任を受けているからで、日吉神社での委員と一緒の昼食などは数回に及び、ここで休んでいた。当時私は和田さんと面識はあったが、財産区の業務遂行のため同乗したことは全くない。
 更には車力村史についても、コピーを横流ししたために辞めさせられたとかいうが、私はコピーを横流した事実などは全くない。これらのことを一切伏せているとは、全く心外であり、根も葉もないことを言っているにすぎないのではないか。誰がどんなことを云っているのか知らないが、架空の話をデッチ上げて批判するとは全く驚いている。また、和田氏と一緒に『東日流外三郡誌』を使ってその重要性を説いて廻ったとは心にもないことであり、取り消し願いたい。こんなデッチ上げが国民大衆をまどわしていることで、歴史の真実がいよいよわからなくなるのである。
 市浦村史資料編が出る以前に私と和田・藤本の三人で歴史の本を出版するなどの話についても全く事実無根のことであり、その証拠を示して貰いたい。また今泉から日吉神社まで約十キロの道のりに地下道が通じているとのことについても、『東日流外三郡誌』にも資料編にも全く無いことであり、これ等の誤解はどこから出たのかについて詳しく説明されたく申し添える。こんな馬鹿らしいことに反論なども致したくもないが、この際ハッキリしておく必要があろうと思う。

山王坊の歴史と伝承
 私は明治以前には山王日吉神社はなかったという説については多くの疑問を持つ。菅江真澄の「外浜奇勝」の中にある記述について山王坊跡があったと云いながらこれを否定している。津軽三千坊の伝えは平安期からであり、弘智法印の相内の里や十三往来記や福島城を中心とした新城記物語の説明の内容についても詳しく存在するものを、全く解らなかったとする説明では聊か軽率のそしりをまぬがれないだろう。明治時代に書かれた「旧社尊之儀ニ付願」も理由にはならない。
 三千坊とは大鰐を中心とする阿闍羅千坊、七和地区を中心とする高野千坊、十三湊を中心とする山王千坊のことである。いづれも修験者の修行の跡が残されているが、津軽においては相当古い存在であり、今まで私たちがもっていた常識が逆転する極めて活気に満ちた裏日本の重要な遺産であり、これらを現在に生かす方法はないかをさぐっている。
 『東日流外三郡誌』の記録と村落に伝えられていることを『津軽一統史』と比較することによって、安東・安倍一族の没落してより百五十三年にわたり、南部一族によって東日流平定され、全く治政が変わったことは誰も認める処である。そして敗戦となり多くの戦死者を出して唐皮城に退き、やがて渡島桧山城に逃亡したことにより山王坊は全滅し、建物は一戸だに残らなかったという。その後、村人によって僅かに仏像などが相内中央の蓮華庵に保存されている。戦火により山王坊は七日七夜も燃えつづけたという語りがつたえられている。
 このような事情もあって、地元ですらこれにふれる場合は打ち首となるとのことで、旅の者として菅江真澄の遊覧記にその詳しい記録がないのは当然であろう。また明治に入って当時の有志が県庁に陳情してやっと許可を得ているというのが日吉神社の始まりであるとは考えられない。東日流十三湊が地震により壊滅的な打撃を受けて消滅したが、山王坊は後世の人の復興ということが深く伝わっているからこそ陳情し、昔日の日本海舞台を再度築きたいとの一念からである。今も市浦村は、四浦である青森・十三湊・深浦・鯵ケ沢の四つの港が昔日の如く隆盛されるよう願っての村名であることは何を物語るであろうか。日本海側に多い日枝・日吉神社の地名とそれに深くかかわりがある山王坊もその流れの中にこそ存在すると考えることができる。
 このような北辺の安東・安倍の歴史の流れの中で育った人でなければ、真の問題解決にはならないのではないか。俄に考古学だ、地方史だと研究すると云っても、地域の人の動き、過去の歴史の流れと風俗・民俗の中で生きてきた者でなければ真相を把握することはむずかしいことであろう。
(つづく)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一・二集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mail sinkodai@furutasigaku.jp

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