平成・翁聞取帖 『東日流外三郡誌』の事実を求めて(『新・古代学』第3集)へ
「宝剣額は日吉神社にあった」は下にあります
古田史学会報 五号 |
>発行 古田史学の会 代表 水野孝夫
「古田史学の会」代表水野孝夫
会報五号は一九九五年最初の号になります。一月十七日早朝の阪神大震災(兵庫県南部地震)にはたいへん驚かされました。被害を受けられた方々に対し、謹んでお見舞申し上げます。また一日も早く復旧されますように祈っております。
会としましては被害を受けられた地域の会員に対して、九五年度会費を免除する処置をとりたいと考えております。また、関西地区で三月に予定していた古田武彦氏講演会も延期することとしました(四月二十三日に開催予定です。会場などは未定。)。この間にも神戸の方を含めて入会申込は続いており、各地の研究会等の発展が続いておりますことを御報告いたします。
九四年初年度会費は二千円、九五年度会費から五千円(会誌代含む)との予定を発表しておりましたが、本会単独の会誌発行予定を変更し、「多元的古代」研究会など友好団体との共同事業として研究誌を発行することになりましたので、九五年度(4月~翌年3月)会費は三千円とさせて頂きます。この場合、雑誌価格は会費のうちに含まないものと致しますので、後日設置いたします本会書籍部か書店にてお求め下さい。この共同発行雑誌の編集も軌道に乗りはじめております。皆様のご研究の進展を期待しております。
古田武彦
山王日吉神社宮司 松橋徳夫氏の証言
市浦村にある山王日吉神社の宮司を四十六年の永きにわたり勤めておられる、松橋徳夫氏は寛政宝剣額が昭和二十四年宮司就任当初から同神社拝殿に架かっていたことを証言されている。編集部ではこの事実をすでに電話や手紙で確認していたが、昨年八月の現地調査時において、松橋宮司宅を訪れ更に詳しく聞き取り調査を行った。その際に、証言のビデオ収録を申し入れたところ、快く応じていただいた。本証言はそのビデオにもとづいて文章化したものである。松橋宮司の了承を得て、本会報に掲載した。松橋氏は記憶していることと、そうでないことを明確に区別して話しておられ、その慎重かつ実直な人柄をうかがいとっていただけるであろう。聞き手は古田武彦氏。(編集部)
(古田) お忙しいところ、どうもすみません。この宝剣額(宝剣額の写真を示しながら)は市浦の教育委員会にあったものでございますが、その前はいわゆる日枝神社にあったとお聞きしてておりますが、そうでございますか。
(松橋) はい、間違いございません。わたくしが昭和二十四年五月に宮司に就任いたしまして、ここのお神楽は毎年旧の六月の十六日でございまして、その場に参りました時に、昭和二十四年の年に初めてこの額を拝見したわけでございます。
二十四年でございますね。
そうでございます。剣が二本と、「奉納御神前日枝神社」というような字は見ておりますけれども、あとは何が書いてあるかよく気をつけなかったのではっきりしたことは判りません。
この特徴的な図柄でございますから、この二本の宝剣のついた額はあった、ということは間違いございませんですね。
はい。
それで、やはりこの宝剣の額のことについて、それまでの氏子さんや氏子総代さんともお話になったわけですね。
ええ。珍しい額だというので、その時は「ああ、これ古い額ですね」ということを申し上げまして、皆で見ておりました。しかし、下の文字とかは記憶しておりませんので。
「御神前」とか「日枝神社」とかいうのはあったわけでございますね。
そうでございます。
ここに「日枝神社」と書いてありますが、現在、現地で(神社を)拝見しますと「日吉神社」と字は書いてございますね。
そうでございます。
発音はやはり「ひえ」神社と。
そうでございます。東京に同じ日枝神社という神社がございますし、ここは俗に山王様と申し上げまして、昔は山王宮とも言われた神社でございます。いずれにしても「ひえ」神社、字は違っていても「ひえ」神社、「日」の下に「吉」書いても「枝」書いても「ひえ」神社ということでございます。
京都の比叡山の所にもございますものね。
はい、そうでございます。
そうしますと、念を押すようでございますけれど、氏子さんや氏子総代さんも含んで、そういう方々も永年この額には慣れ親しんできておられると。
ええ、当時の方はそういうことでございますね。
昭和四十年代の終りの頃か五十年代の初めに教育委員会に移ったということのようで。
そうでこざいますね。私もはっきり記憶はございませんが、昭和五十年頃ではないかと記憶しております。
それまでは氏子さんたちもよく慣れ親しんでおられたということでございますね。
そうです。
実は今泉の青山さん(青山兼四郎氏)という方から、子供時分から、昭和の初めから(日吉神社拝殿で)これをよく見ておったとお聞きしておりますが、そういうことでございましょうね。それからもう一つお聞きしておきたいのですが、先ほど、文字が「奉納御神前」とか「日枝神社」というのははっきり憶えていると、他ははっきり憶えていなかったと仰ったんですが、しかし、ここ(額面
の「秋田孝季」「東日流外三郡誌」などの部分)にこういうふうに文字があったこと自身はよく憶えておられるのですね。
ええ、それは書いてあったことはよく憶えております。その時分まだ興味はなかったものですので、はっきりしたことは憶えておりません。ただ文字が書いてあったことは記憶しております。
こういう感じの字面というか、姿をしておったわけですね。
はい
貴重な御証言、どうもありがとうございました。
※()内は編集部による注。
◎日 時 平成6年8月4日 午後4時~5時
◎場 所 市浦村 洗磯崎神社 松橋家
◎聞き手 古田武彦
◎ビデオ撮影 古賀達也
◎立会人 上城 誠
◎文 責 編集部
札幌市 和田高明
奈良時代中期(七五一年)、大和朝廷における初の漢詩集「懐風藻」が編まれた。文学的評価はさして高いものではないが、わが国に残る漢詩集の嚆矢としての意義は大きいものがある。度重なる遣唐使による文化摂取により、インテリ層の漢字修得度も高まり、九世紀初頭に至って、その漢文学の華を咲かせることになる。「凌雲集」(八一四年)、「文華秀麗集」(八一八年)、「経国集」(八二七年)といった勅撰漢詩集がそれである。
その一方で、漢字を駆使することの困難さから「かな文字」が発明され、僧侶・女性から始まり、やがては男性も使用するものとなっていくのであるが、ここでは、平安時代には、漢字・かな併用が行われるようになった事実をおさえるに留める。
日本書紀が完成したのが七二〇年、堂々たる漢文であるん、当時はまだ、特定の超エリート層にしか漢文は使いこなせなかったものと思われる。日本書紀の直前に成立した古事記の方は、とても漢文とは言えないことからも、それが窺えるのである。八世紀から九世紀にかけて識字率は大いに高まったであろうが、前述の如く「かな文字」の発明を見るからである。
また、翻って考えるならば、日本書紀の完成から一世紀足らずの間に、更に「懐風藻」からわずか六十年の後には、貴族男子に関する限り、漢文を相当使えるようになったということもできるのである。
さて、ここで疑問が発生した。
倭の五王の一人として知られる武王が宋に上表文を奉ったのが五世紀後半(四七八年)であるから、日本書紀に先立つこと二四〇年余である。卑弥呼・壱與の時代、魏・晋への朝貢は通
訳を介していたということが知られている。(晋の起居注、泰初二年の頃)国書は漢文で書かれていたであろうが、使者に立つ程の者でも、当時の中国語を使いこなすまでには至っていなかったようである。しかし国書のこと、そして頻繁なる両国の往来を考えると、また魏志倭人伝の書き振りから見ても、小数ではあっても中国語を解する者がいたことは間違いない。それにしても使者は使えなかったのである。
ところが、壱與の時代から二世紀の後には武王が堂々たる漢文で上表文を奉り、順帝を感激させ、更に全文「宋書」に掲載されるまでになっている。武王自身が書いていないにしても、それを書き上げるだけの高級官僚が存在したことの証左である。
壱與から武王までの間に漢文の習熟度は大きく高まった。日本書紀の完成から凌雲集が出されるまでの一世紀の間には、漢文は貴族階級全般
への広がりを見せた。そうすると、武王から日本書紀までの二百四十年の間、日本人は一体何をしていたのであろうか。この間、漢字と漢文は超エリート層のみの知識、文化として、全く普及しなかったのであろうか。いや、遣唐使の小野妹子(遣唐か遣隋かという論議はここでは措くとして)は、通
事鞍作福利を伴っているのであるから、言語理解の流れからすると、かえって後退しているのである。これでは、エリート層のたしなみですらなかったことになる。これは摩訶不思議なことである。
壱 與 ー 武 王 ー 小野妹子 ー 日本書紀 ー 凌雲集
(二一二年間) (一四一年間) (一〇一年間) (九四年間)
と、大まかなチェックポイントにおいて、前二者後の三者においては順当な進歩、普及が見られるにもかかわらず、武王の時代と日本書紀成立時の間には全くその気配が見られずかえって妹子の時点では後退しているというのは、文化の発展過程として余りにも不自然である。同一文化の連続性の中ではとうてい理解し難いことであるが、ここに「倭国から日本国」、「九州王朝から大和朝廷」という文化の断絶、王朝交替説を持ち出すならば、前述の矛盾は一挙に解決することになる。
九州王朝の陰に隠れていた大和政権が、白村江の戦いの後、九州を併合し、そこで初めて唐文化と直接的な交渉を持つようになったと考えるならば、武王から日本書紀に至る謎も氷解するのである。
文学的見地からしても、九州王朝の存在は否定できないという結論に至った。
[編集部]本稿は「古田史学の会・北海道ニュース」1号より転載したものです。
◇◇ 連 載 小 説 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
--古田武彦著『古代は輝いていた』より--
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深津栄美
<前回までのあらすじ>
隠岐の島の海人(あま)族の首長、八束(やつか)には一人息子の淡島がいた。淡島は父とは対称的に華奢な性格のため、八束は後継として物足りなさを感じていた。そんな時、若い妻、那美が男の子を生んだ。那美は石見の比婆大神に仕える巫子だった。八束の妻の中では最も若く健康であった。部下達の中でも、那美の子供を後継にと願うものも少なくなかった。生まれた子は昼彦と名付けられた。お祝いの宴が始まったが、もう一人の妻みづほの心中は穏やかではなかった。
◇ ◇
「これで八束殿も安泰じゃの。」
一人が鬚(ひげ)をしごくと、
「何の。もうお一方。和子か姫がおらねば十全ではないわ。」
二人目がしかつめらしく酒を飲む。
「おぬし、欲が深過ぎるぞ。」
三人目が、おどけて相手を小突いた。
「いや、強羅(ごうら)の言い分は尤もじゃ。皆も知っての通り、淡島はひ弱な質、昼彦も無事、生(あ)れ出てくれたが、先の事は判らぬ
。」
八束の言葉に、
「では、又、どなたか娶られるお積もりで?」
「お盛んな事よの。」
「我らも見習わねばな。」
野卑な笑い声が起こる。
みづほは面を背けた。この宴は万事、不愉快だ。八束の麻服の胸に臙脂(えんじ)、緑、褐色……と透明な光を連ねている勾玉 の中、藍が欠けているのは、護符として昼彦に与えたからだ。あれは八束が父から授かった由緒深い品なのに、石見の女の生んだ子に与えてしまうとは…… それ程、那美が愛しいのか? 若くて無邪気なだけが取柄なのに……巫女としての能力は、自分の方が勝っている。潮の流れや風向き、天候の変化、言い当てたのは皆、自分ではないか。護符についても自分に一言云ってくれれば、いつでも御神体の一かけらを差し出したのに…… もしや石女(うまずめ)と、八束までが自分を蔑み出しているのでは……!?。
暗く燃えるみづほの目を、その時、淡島が掠めた。宴席に水をさすまいと額を抑え、壁に身を支(か)て、遠のいて行く。
「若君、悪酔いでもされましたか?」
みづほは急いで後を追った。
淡島は、みづほの亡き女主人の忘れ形見だった。淡島の母は珠洲岬一帯に根を張る沢目族の首長(かしら)の娘で、隠岐の島から交易の為、大谷内河口を遡って来た八束と結ばれ、淡島を設けたのである。海人族の起居する隠岐の島と、沢目族傘下の珠洲岬は、まだ金属のなかった当時、強力な武器の役割を果
たしていた黒耀石の名産地で、これでこしらえた弓や鏃(やじり)、漁撈用具を求めて各地から人々が集まり、文明圏を築いていたのだ。中心となる宮居は黒耀石で造られ、鄙びた祠にも同じ材料で刻んだ神像や、切り出されたままの石塊が御神体として祭られ、畏敬されていた。
みづほは幼い時から巫子として沢目族の社に仕え、その本拠地白山神社の秘伝をも学んでいた。白山は奥まった内陸に聳え、黒耀石はその名に適しくないというので、近くの川から採れる翡翠(ひすい)に女神像が彫られていた。山々の冷気と清流に洗われ、磨き抜かれ、神というより乙女と表現した方が似つかわしい可憐な像を仰ぐ度、みづほは不思議な感動に慄(おのの)いたものだ。沢目族の首長の娘が塑像に生き写
しだった事も、よく覚えている。身分も容姿も性格も、彼女はみづほ初め珠洲の少女達の憧れの的だった。しかし、彼女は淡島が七つの時、病死してしまった。そこでみづほが乳人(めのと)役を買って出て、後継に適しくと今日まで淡島を懸命に育てて来たのだ。加えて、乳母となってから、みづほは八束とも他人ではなくなっていた。自分は巫子として荒行を積んだ為、骨肉を分けた子を生む事は出来ないかもしれない。それなら、淡島を我が子と考えよう。沢目の姫君の事を思えば、淡島は実の子供以上の存在だ。
ところが、八束は石見の女に現を抜かし、その腹に生まれた子に藍玉を与えてしまった。父祖伝来の玉 を授けたのは、昼彦を後継にする意味が篭っている。では、淡島はどうなるのか? 沢目の姫の身代りを勤めた自分は? 八束と契った時にも、大切な女主人の夫を寝取った、とあんなに心苦しかったのに…
「若君……!」
みづほは後ろから淡島の肩にすがり、泣き出した。
(続く)
◇ ◇
[後記]
引き続き、「太陽神流刑」の第三回目をお送り致します。この話自体は多分、次回で終了すると思いますが、更に八束達の子孫となるスサノオやアマテルらの出雲王朝の話につながって行く予定です。「彩
神(カリスマ)」には特定の主人公はなく、一応『記・紀』に従って話が進んで行くにつれ、中心となる人物も刻々変わって参りますので。敢えて主人公といえば、キザったらしい表現になってしまいますが、プルーストの作品同様「時の流れ」という事になるでしょうか……? これからもよろしくお願い致します。(深津)
奈良市 水野孝夫
井波律子著『三国志演義』・岩波新書(一九九四年初版)を読みました。井波氏は筑摩書房版の正史『三国志』の訳者のひとりであり、今回は『三国志演義』をテーマにされたようです。
そのなかに「(裴松之は正史『三国志』に注釈を施した)裴松之が収集した関連資料は膨大な量にのぼり、注釈に用いた書物は合計二百十部におよぶ。付言すれば、陳寿の本文が二十万字前後であるのに対し、裴松之の注は3倍近い五十四万字前後もあり、いかにその注釈作業が徹底したものであったかを物語っている」とあります。
さすが専門家!と言いたいが・・・ところが、ところが・・・・高島俊男著『三国志人物縦横談』・大修館書店(一九九四年初版)によると・・井波氏の引かれた文字数統計は、中国の学者によるものであって、高島氏も長い間騙されていたが、ごく最近、中国で2人の研究が発表された結果
、「本文の字数の方が多く、注釈の文字数の方が少ない」のだそうです。
そこで再確認をやってみました。テキストは中華書局一九五九版「三国志」です。この本では本文と注釈は原則として別列になっています。1ページは本文のみなら十五列、注釈のみなら十七列あり(例外的に十八列のページあり)、本文は最大三十五字/列、注釈は四十四字/列です。もちろん一字/列の列もあります。(空白を除く)全一四三五ページを本文と注釈に分け、その列数を数えました。
その結論
本文 注釈
魏書 六八八三 五九六三
蜀書 一九八八 一一四七
呉書 三五二〇 一八七一
計 一二三九一 八九八七
でした。
次に1列の平均字数ですが、本文は二十九字、注釈は三十六字と推定しました。これは毎ページの最終列を四五〇列実際に数えて、累積字数/累積列数のグラフを描き、ほぼ一定値に近ずくことを確認しました。従って本文 約三十六万字、注釈 約三十二万字となり、本文の方が多い。高島氏の著書に引かれている、中国で呉金華と王廷洽という2名の学者が数えたという文字数結果
は次のとおりとなっている。(四捨五入あり)
本文 注釈
魏書 二〇・七万 二一・五万
蜀書 五・七万 四・二万
呉書 一〇・三万 六・五万
計 三六・八万 三二・二万
高島氏は「まただまされているんじゃあるまいな・・・?」と書かれているが間違いはないようだ。
名古屋市 林俊彦
会報4号で、私は「一たす大は天と読め!」と提案した。すなわち通説では「一支国の誤り」とされている倭人の国名「一大国」は「天国」、「一大率」は「天率」と解せよと主張した。そこから倭人伝の読解に新たな視野が開けるのである。例えば「天=海=あま」だから「対海国」は天国に向き合う島と理解できる。さらに壱岐、対馬二島間のそれほど広くもない対馬海峡を「名づけて瀚海という」などと誇張した表現も初めて違和感なく受け取れる。九州北部海域に、天国は実在したのだ。
思えば魏の使節一行は、朝鮮半島を離れ邪馬壱国へ向かう途中、天照大御神の活躍をはじめとする高天原の諸神話を、倭人からウンザリするほど聞かされたはずである。北部九州に上陸すれば、「天率」の郊迎も受けたのではないか。すると「鬼道」に事えたという卑弥呼は、中国の道教の道師や、朝鮮のダーマンや、南方のシャーマンのイメージではなく、意外と今日の神社神道の神主に近い風貌だったかも知れない。
前回、私は大きなミスをした。天国=壱岐の勢力の孤立に関連して、壱岐だけが「三千許家」と「戸」制度を導入していないと書いた。明らかな誤りで、不弥国も「千余家」と「戸」以外の表記がされている。
この件につき、かつて古田先生は「よみがえる卑弥呼」第十篇で言及された。陳寿の三国志では「戸、家、落」が、弁別して使用されている。「戸」は「魏戸」に対してのみ用いられている。「落」は塞外の烏丸や鮮卑等に限って用いられている。「家」はこれら以外について用いられている、より一般的な用法のようである。要するに「戸=家」とは単純に換算できない、といった主旨であった。そして壱岐、不弥国はいずれも、海に臨む港津の地でありそれぞれ少なからぬ外国人(楽浪人や帯方人、また韓人など)の居住があったのではあるまいか、と思われる、とされた (ただし「一試案」として)。
陳寿は倭人伝において「戸数、道里を得て略載」することに力点をおいた。二国は確かに異なった「戸制度」、つまり他の倭人国とは違った政治制度を堅持していたことが想像される。しかし「多数の外国人の居留」が理由とは考えられない。不弥国は邪馬壱国へ「行程0里」、いわば最後の首都防衛拠点である。壱岐は朝鮮侵攻作戦で欠かせぬ中継基地である。当時の軍事情勢からいって、仮に「外国人」が存在しても、別個の戸制度=政治体制など許されるはずもなかろう。
また天孫降臨が史実ならば、不弥国(博多湾岸)はニニギノミコトの有力な上陸地点候補であり、壱岐(高天原)はその出発地点である。二国は安易に「外国人」に居留を許すはずのない「聖域」、また「保守派の牙城」だったのではあるまいか。少なくとも壱岐、不弥国の二国は、公然と魏の戸制度を拒否していたことになる。
ここで伊都国の「千余戸あり」にも注目されたい。「魏略」に「戸万余」とあることから陳寿不信の一因にもなっているが、「魏の戸制度に入ったのが千余戸」という視点で再検討してほしい。伊都国は「一大率(天率)」の常駐する地である。
倭人伝に「父母兄弟、臥息処を異にす」「その会同・座起には、父子男女別なし」「大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦」とある。倭人の社会構成は時の中国とかなり違っていた模様である。容易に外国製の戸制度になじむものではなかっただろう。本格的な戸籍制度の整備には、農業を背景とした土地の所有制度や、男優先の一夫一婦制、小家族単位の生活の普及が必要と思われる。
朝鮮南部、九州北部に展開した海洋民の倭人たちは実は深刻な内部対立を抱えたまま魏晋との接触強化をはかったと考えられる。その結果壱岐をはじめとする、漢字導入に積極的な先進性と天神思想に固執する保守性をあわせ持ち、伝統的な海洋生活を重んじる「アマ」勢力はやがて没落し、かわって九州在地の「ヤマ」勢力が権力を掌握して行ったと見たい。海幸彦山幸彦説話もこうした権力交代を説明するために脚色されたのではないかと、私は資料集めを始めている。
現在でも一部漁村などで「若者宿」とか古い淵源を持った制度が残されている。戸制度をきっかけとして、古代の社会生活の態様を解明していくことは、九州王朝説の補強にもつながる。さらに追及を続けたい。魏志倭人伝は奥の深い史書であるとつくづく思う。
東北の真実 和田家文書概観(『新・古代学』第1集)へ
東日流外三郡誌とは 和田家文書研究序説(『新・古代学』第1集)へ
「和田家文献は断固として護る」 (『新・古代学』第1集)へ
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