平成・翁聞取帖 『東日流外三郡誌』の事実を求めて(『新・古代学』第3集)へ


寛政宝剣額の論理 江戸時代の「藩」表記について(松田弘洲氏の偽作論に反論する)

古田史学会報 1995年 2月26日 No.5
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寛政宝剣額の論理

---宝剣額は山王日吉神社にあった---

京都市 古賀達也

 『東日流外三郡誌』真作性の一級史料といえる山王日吉神社の寛政宝剣額について、その「再発見」から宝剣裏側の銘文「寛政元」「鍛冶里原太助」など発見までのいきさ つは本会報で述べてきたが、偽作論者からの反論が『季刊邪馬台国』五五号(昨年十二 月発行)に掲載された。その主たる論拠は筆跡と赤外線写 真によるものであったが、この点に関しては既に古田武彦氏が「文化財の再利用」の可能性を示唆されており、偽作論者の所説にはその可能性の有無に論究したものもなければ、その可能性を否定したものもない。こうした問題は宝剣額全体の赤外線写 真やその他の科学的調査が必要であり、別の機会に論じることにしたい。本稿ではこれまでの聞き取り調査などの結果 から、寛政宝剣額和田喜八郎氏偽造説が論理的に成立困難であることを述べる。

 偽作論者は同宝剣額を昭和四十八年頃に和田喜八郎氏が偽造したものとするが、宝剣額が昭和初期から日吉神社拝殿にあったことを青山兼四郎氏が証言しておられるし、同神社宮司、松橋徳夫氏も宮司に就任した昭和二十四年六月に初めて見たことを証言されておられることから、同神社に古くから存在したことは疑いないと考えられる。私は昨年五月と八月の現地調査時に両氏に対して宝剣額が神社のどの位 置に架かっていたかを、個別に質問したところ、両氏とも拝殿内の正面に向かって左側に架かっていたことをはっきりと述べられた。こうした証言内容の一致から、私は両氏の御記憶と証言の信頼性は高いと判断したのである。更に本稿執筆のためこの一月に両氏へ電話で再度同じ質問を繰り返したが、いずれもまた同じ答(拝殿内の向かって左側)が返ってきたことを付け加えておく。 
 また、青山氏が松橋氏を紹介したかのように偽作論者は述べているが、そうではない。昨年五月、宝剣額を「再発見」した時点で私たちはその裏付けをとるために、日吉神社の宮司にお尋ねするのが最も確実と判断したのであり、問い合わせに対して七月に手紙で宝剣額が拝殿に架かっていたことを知らせていただいたものである(八月には直接お会いしてビデオ収録もさせていただいた。)。  
 偽作論者は青山氏に対しても論難を加え、「青山氏が、福士貞蔵氏や奥田順蔵氏と交流があったとは思えない(十川秀雄氏)」と、福士氏らと共に子供時分宝剣額を見たという青山氏の証言を否定しようとする。しかし、これも根拠の無い憶測に過ぎない。青山氏の話しでは、氏が通 っていた小学校の福士校長とは家族ぐるみの付き合いがあり、青山氏の御母堂が福士氏の子供に乳を与えたこともあるとのこと。また青山氏の祖母は同小学校の用務員を永年務めておられたという。こうした両家の親密な関係から、青山氏は福士氏の遺跡調査や発掘にしばしば同行された。そのため、山王日吉神社にも福士氏に伴って行き、その時に宝剣額を見られたのである。青山家と福士氏との関係は小学校の資料などを調べれば判明すると思われる(この件については青山氏により詳しく発表されるであろう。)。
 偽作論者(斎藤隆一氏)は青山氏と松橋宮司を「和田氏にとっては身内同然」としてその証言を否定するが、「身内同然」とはどういう意味か何の説明もなく、単なる中傷としか思えない。考えてもいただきたい。松橋氏が面 識も利害関係もないわたしたちに対して、なかったものをあったなどと「嘘」をつかなければならない理由は全くないのである。しかも、自らの証言のビデオ収録まで了承されたのである。偽作論者も松橋氏に直接お会いして話を聞けば、氏の実直にして誠実なお人柄を理解しうるであろう。       
 偽作論者によれば、宝剣額の写真を『市浦村史資料編東日流外三郡誌・中巻』に掲載することを主張されたのは、当時の編纂委員長であった山内英太郎氏(故人)であったという。その山内氏は日吉神社のある相内出身であり、同じく相内出身の佐藤慶治氏(故人)や、日吉神社宮司松橋氏も村史編纂委員として名を連ねておられ、地元の日吉神社に宝剣額があったことは、当然山内氏らはご存じであったと考えざるを得ない(三者のうち御存命の松橋氏は昭和二十四年宮司就任時からあったと証言されていることは既に述べた通 りである。)もし宝剣額が神社にあったものでなければ、山内氏が掲載を主張するはずはないのではあるまいか。なぜなら村史は広く村民の眼に触れることを前提としており、ありもしなかった宝剣額を「寛政元年八月、東日流外三郡誌筆起を祈願し、秋田孝季、和田長三郎が日吉神社に奉納したもの。」などと解説入りで掲載すれば、地元の人に嘘がばれること、自明だからだ。同時に、村史発刊時から昨今の偽作キャンペーンで問題になるまでは、村民から村や編纂委員に対して宝剣額は日吉神社になかったというクレームも出されていない。宝剣額が日吉神社になかったのなら、そうした地元出身編纂委員から、掲載時あるいは掲載後に疑義が出されてもよさそうなものだが、そうした事実もまたないようである。こうしたことを考えても、宝剣額は日吉神社に存在したと考えるのが論理的なのである。このように学問の本質にとって真に肝要なことは、大局的な論理性なのである。
 偽作論者の主張は、本物の寛政時代の宝剣額を和田喜八郎氏がどこからか持ち込んで来て一部書き換えて偽造した、というものであるようだが、このことも冷静に考えてみればかなり困難な推定である(斎藤隆一氏は宝剣額そのものも偽造と考えておられるようである。偽作論者内部でもまだ見解の一致を見ていないのであろう。)。秋田孝季らによる宝剣額奉納を記した『東日流外三郡誌』の内容にあわせるような、寛政期の額(しかも宝剣額)がそれほど簡単に都合よく入手できるものであろうか。明治以後の額ならばともかく、江戸寛政期の宝剣額など希少であり、もし他の神社などから持ち出したのであれば、当然その神社周辺の住民の間で紛失が話題にのぼるであろうが、そのような話しがあったことも聞かない。そもそも、他から盗んできたものであれば、それを全国的に評判になった上巻出版後に、しかも地元を中心に多くの読者の眼にさらされる村史中巻の巻頭グラビアに掲載するということなど、常識では考えられないのである。
 以上論じたように、偽作論者の主張する宝剣額和田喜八郎氏偽造説は多くの困難性をともなう。論理の導くところ、やはり宝剣額は松橋宮司や青山氏の証言通 り、古くから山王日吉神社にあったと見るべきなのである。 


(松田弘洲氏の偽作論に反論する)

江戸時代の「藩」表記について

『季刊邪馬台国』の詐欺的編集を批判する

京都市 古賀達也

 本会報創刊号にて、私は松田弘洲氏の偽作論(歴史読本別冊『古史古伝論争』所収、「『東日流外三郡誌』にはネタ本がある」。一九九三年十二月発行)などを批判した。中でも、松田弘洲氏が「江戸時代に津軽藩とか、三春藩などと称することはなかった。読者も手元の辞典を引いて、大名領をいつから“藩”と称したのか確認したらよろしい。」として、『東日流外三郡誌』に「藩」表記が見えることを偽書の根拠とされたことに対して、次の反証批判を行った。
 1. 吉田松陰書簡などに「藩」表記が見える。
 2. 秋田孝季と同時代の「藩」表記として『耳嚢』の例がある。
 3. 『角川日本史辞典』によっても、「藩」という呼称は江戸中期以後より成立し、公称としては明治政府により始まるとされている。
 4. 松田氏は「公称」として成立した明治期を、実際に使用され始めた時期と勘違いされている。
 5. よって、「藩」表記が見えることをもって、和田家文書偽作の根拠とはならない。

 このように述べたところ、『季刊邪馬台国』五十五号で松田弘洲氏より反論(「やはり『古田史学』は崩壊する」)がなされた。結論から言うならば、氏の反論は全く反論の体をなしていないのだが、同論文中に挿入されている「編集部註」に、偽作キャンペーンのためには手段を選ばぬ 同誌編集部の姿勢がよく現れているので、この点について読者に紹介し、批判することにする。

「つもり」で逃げる松田弘洲氏
 江戸期に「藩」表記は成立していたとする私の批判に対して、松田弘洲氏は次のように言われる。
「私は『公称としての藩』を問題にしたつもりです」
ようするに、江戸期の私的な「藩」表記ではなく、明治より始まった「公称としての藩」の方を問題にした「つもり」と言われているのだ。しかし、私が批判した歴史読本の松田論文には「公称として」などとはどこにも書かれていない。見苦しい言い訳である。
 しかし、これでは「言い訳」にもなっていない。何故なら、「公称としての藩は明治から」という論法では、『東日流外三郡誌』偽書説の根拠には全くならないからだ。すなわち、『東日流外三郡誌』が江戸幕府の公文書ならともかく、津軽の民間で成立した同書に対しては、「公称、私称を問わず江戸期に藩表記はなかった」としなければ偽作の根拠とはならないのである。現に当初松田弘洲氏はそのように理解(誤解)したからこそ、『東日流外三郡誌』に現れる「藩」を偽作の根拠としたのではなかったのか。このように、松田弘洲氏の弁明は論理にさえなっていない。

「藩」表記は江戸中期から        
 さらに松田氏は吉田松陰書簡の「藩」に対して、「維新回転」の松陰思想の時代(幕末)なら私的な「藩」表記はありうるともされている。ようするに、『東日流外三郡誌』成立時期の寛政年間(1789~1800)では「藩」表記はありえないと言いたいのであろうが、私は最初の論文で「いくらでも『藩』表記は見られる」と述べたはずだ。いくらでも見られる江戸期「藩」表記の他の例を紹介しよう。 
1. 「藩邸」(新井白石『折たく柴の記』正徳六年<1716>頃成立、自筆原本伝存)
2. 「賢藩(加賀の前田家:古賀註)」「加藩(加賀藩:古賀註)」(新井白石書簡、『白石全集』による) 
3. 「藩邸」「我藩」「藩士」「藩医」(杉田 玄白『蘭東事始』文化十二年<1815>成立、文政頃の写 本伝存)
 まだまだいくらでもあるが、これで十分であろう。やはり「藩」表記は幕末からではなく、江戸中期からであり、それもかなり一般 化していたようである。よって、松田弘洲氏が「『藩』という表記は江戸時代に用語として熟していなかった」とされるのは、はっきり言って氏の勉強不足である。

 『耳嚢』十巻本は存在する
 秋田孝季と同時代の「藩」表記例として根岸鎮衛(1737~1815)著の『耳嚢』八~十巻に見える「藩」を紹介したが、松田弘洲氏は同書は十巻一揃いの伝本は存在せず、六巻と八~十巻は明治期刊本が底本である、したがって活字化された明治時代の人の手によって「藩」表記が入ったのではないかとされ、「その点、よくお調べ下さい」と反論された。   
 氏に言われるまでもなく、江戸期の表記例として紹介する以上、その史料が江戸期写本に基づいていることは当然調べていた。ところが氏が参考にされた東洋文庫本『耳嚢』(平凡社、一九七二年発行)編注者鈴木棠三氏の解題は、現時点では反論の根拠として適切でないことを松田弘洲氏はご存じなかったようだ。
 私が紹介するに当たって依拠した『耳嚢』は、現在知られている諸本中唯一の十巻完備本であるカリフォルニア大学バークレー校所蔵本(旧三井文庫)を底本として刊行された岩波文庫本(一九九一年発行)である。同書解題(長谷川強氏)ではバークレー校本が善本であることを記している。また、書写時期は天保頃から幕末にかけてであり、江戸期「藩」表記の例とすること全く問題ない写本なのである。ここでもまた、氏の勉強不足が露呈したようである。

 松田弘洲氏は『東日流外三郡誌』を読んだか
 『季刊邪馬台国』での松田弘洲氏の肩書は「『東日流外三郡誌』真相究明委員会会長」とある。大いに真相を究明していただきたいものだが、どうやら氏はその『東日流外三郡誌』さえもまともには読んでおられない節がうかがえる。というのも、私が『天草軍記』末尾の「津軽藩布令覚書」に「寛永十五年」の年代が記されているとしたことに対して、書かれてもいない年代を古賀が捏造したと論難されたのだが、松田弘洲氏は古田氏の著書(真実の東北王朝)に掲載された同布令の写真しか見ておられず、同布令覚書の全文が掲載されている『東日流六郡誌大要』(八幡書店)を読んでおられないようである。『真実の東北王朝』掲載の写真は同覚書の後半部分であり、前半部分には「寛永十五年」の年次が記されているのである。氏は批判の対象とした当該文書の活字本さえ読まず、その史料性格・史料状況を誤断されたまま「批判」を試みられ たのである。これでは結論を間違うのも当然である。
 また、松田氏は次のようにも述べる。「活字になった『東日流外三郡誌』のどこにも、虫食いのために欠字となった部分は見当たらないのだ(これからは、虫食いのために欠字となった外三郡誌というものが発行されるかもしれないが)。」(歴史読本「古史古伝論争」所収前掲論文)         
 この氏の主張は全くの虚偽情報である。既に発行された市浦村史版・北方新社版・八幡書店版すべてに、虫食いや破損などによる欠字が見られる。たとえば一番巻数が少ない市浦村史版にも次のページに欠字が存在する(欠字の理由は「虫食い」と明記したものもあれば、その他様々である)。       
(上巻)三四・三五・九〇・一五二・二六二・二六三
(中巻)八三・二一三・二三五・二五六・二八一・三八二・四七一・五五七・六二三・六二六・六三五・六四〇・六四九             
(下巻)一二四・一七五・二七六・二七八・二九六・三〇九・三二一・三三三・三九九・四一五・四一六・四一八・四二四・四二七・四三一・四三六 
 
  このように、随所に欠字が存在し、松田弘洲氏が『東日流外三郡誌』を読んでいればこれら全てを見落とすことは、まず考えられない。したがって、次のように断定せざるを得ない。松田弘洲氏は『東日流外三郡誌』をまともに読んでおられない、と。最近の偽作論者の諸論を読んでいて思うのだが、彼らは『東日流外三郡誌』をまともに読んでいないから、簡単に偽作論を唱えられるのではないか。和田家文書の刊本だけでもきちんと読めば、質、量 ともに和田喜八郎氏が偽作できるようなものでないこと、明白であるからだ。松田弘洲氏も「『東日流外三郡誌』真相究明委員会会長」を名乗る前に、まず『東日流外三郡誌』をきちんとお読みになることをお勧めしたい。

 [編集部注]の「犯罪的」手口
 さてここまでは本稿の導入部分であり、いよいよ本題に入ろう。『季刊邪馬台国』編集部は松田弘洲論文が反論の体をなしていないことに、実は気付いていたのだ。従って、松田弘洲氏を援護するため、論文途中に「編集部註」なるものを入れている。次の通 りだ。

[編集部註]
 吉川弘文館刊の『国史大辞典十一』の「はん 藩」の項に、つぎのような文章がある。「江戸幕府が『藩』の公称を採用したことは一度もなく、旗本領を『知行所』というのに対して、一万石以上の大名の所領は『領分』と公称されていた。それに対して、徳川将軍家の大政奉還に伴う王政復古後、維新政府が明治元年(一八六八)閏四月、旧幕府領を府・県と改め、元将軍家を含む旧大名の領分を藩として、その居城所在地名を冠して呼んだとき、行政区画としての『藩』が生まれた。」(傍点編集部。つまり、公称としての「藩」は、天子が諸国に封じて自己を補翼せしめた諸侯を指す。)
「明治維新以後、幕末の勤王事蹟や旧制度の記述、その後の地方自治制度の展開に伴い『藩』の呼称が普及し、通 例、規模の大小に応じて国・郡・城下町などの地名を冠して用いられる。」               
 平凡社刊の『世界大百科事典二十五』の「はん 藩」の項は、つぎのような文がある。
 
「もとより幕府がそう(藩と)公称したのではない。藩が日本で一定の行政区域の表現とされたのは、明治維新当時だけである。」 
 ところが、「和田喜八郎文書」では、江戸幕府の役人である「代官 青沼源三郎」が、「享保二年(一七一七)」に書いたとされる「公文書」的なものに、「藩許是無く」とでてきたりするのである。(『東日流外三郡誌3』八幡書店刊、一八六ページ)      
 ※()内は『季刊邪馬台国』編集部による註。<古賀> 

 引用が長くなったが、ようするに『国史大辞典』にも『世界大百科事典』にも、公称としての「藩」は明治からとされているので、江戸時代には普及していなかったかのごとく印象付けようとしているのだ。また、後半の「江戸幕府の役人」とか「公文書的なもの」とかは、その根拠が不明であり、明治大正期まで再写が繰り返された同文書の史料性格からしても、偽作と断定できるようなものではない。

 問題なのは、編集部註に引用された二つの辞典の文章の前半部分が意図的にカットされていることだ。まず、『国史大辞典』の方は、直前に次の文章がある。

「はん 藩 近世大名領の総称、または明治新政府成立当初の地方行政区画の一つ。「藩」という漢字はもと「まがき」(栗の丸太の柵)、「さかい」、「まもり」を意味し、転じて中国周代の封建制度で、天子が諸国に封じて自己を補翼せしめた諸侯を指して藩輔・藩屏・藩翰・藩鎮などと称した。その先例により、江戸時代、江戸幕府に服属していた大名を「諸侯」、その領地もしくは支配組織を「藩」といい、幕府と大名の支配の仕組を「封建」と呼ぶならわしが、儒者の間から起った。新井白石が『藩翰譜』を編み、その編纂の次第や「藩邸」での出来事を『折たく柴の記』に記し、太宰春台が『経済録』で「封建の制」を説いたのは著名な例である。「親藩」「当藩」「藩士」「藩制」などの熟語や「水藩」「紀藩」「備藩」「長藩」などの固有名詞も普及していたが、」

 このあとに「編集部註」の引用部分が続くのである。すなわち、「藩」の呼称が熟語・固有名詞ともに普及していたと明記されている前半部分を、きれいにカットしているのである。しかも、「~していたが、~」という前半を受けて後半につながる一連の文の途中でカットするという、かなり悪質な手口だ(同誌「責任編集者」の専門分野は犯罪心理学と聞いているが、こうした手口がその学問の「悪用」でなければ幸いである)。

 このカットされた前半部分こそ、私が繰り返し論じてきた内容であり、松田弘洲氏への反論の根拠となる事実が記された文章なのである。したがって、『季刊邪馬台国』編集部はこの前半部分が松田弘洲論文にとって致命傷となることを知悉していたからこそ、読者の眼に触れないように詐欺的に「部分引用」したのである。  

 ことは『世界大百科事典』でも同様だ。カットされたその前半部分には次のように記されている。 

 「はん 藩 江戸時代、幕府権力の保障のもとに1万石以上の領地を与えられた大名とその家中および領分を総称して藩という。藩とはもと<まがき><まもり>の意味で、中国周代の封建制度において、中央朝廷の藩屏(はんぺい)としての諸侯を藩王・藩鎮などと呼んだのを知った漢学者が、それを日本の場合にあてはめて、大名を諸侯、その支配組織を藩といったのが一般化したらしいが、(以下、引用部分に続く)」

 ここでも「藩」呼称が一般化したらしいと明記されている。そしてその部分はやはりカットされ、しかも、文脈の途中でカットするという手口もまた『国史大辞典』の時と同様だ。一般 の読者で『国史大辞典』や『世界大百科事典』を持っている人は少ないであろうし、わざわざ図書館で調べる人もほとんどおられまい。それを見越した上で『季刊邪馬台国』編集部はこうした詐欺的な部分引用を行い、松田弘洲論文をもっともらしく印象付けようとしたのである。偽作キャンペーンのためには手段を選ばぬ 同編集部の姿勢が「編集部註」に現れたものと言えよう。
 こうした「犯罪的」な手口と比較すれば、松田弘洲氏の不勉強による誤論誤断など、まだかわいいものである。今や、『季刊邪馬台国』に掲載される偽作論は、はじめから、「眉につばつけて」読んだほうがよい段階に達している。偽作論者に良心があり、学問的に偽作論を主張したいのであれば、こうした「犯罪的」編集の雑誌に加担されることは、思い直されるのが賢明であろう。


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