古田武彦
一
人間には、予測できぬ運命が待っているものです。このような“レター”をあなたにしたためることになろうとは。今回の本を読み終えるまで、わたしにはまったく思いもよりませんでした。その本とは、
『十三の冥府』(内田康夫著、実業之日本社)
です。
この本の主題となっているテーマ、そのキー・ワードは
『都賀留三郡史(つがるさんぐんし)』(A)
ですね。あなたが『旅と歴史』のルポライターとして、今回編集長から依頼をうけたのが、この問題の真偽をめぐる調査でした。というより、このテーマの「偽」を探るのが、主たる関心だったようですね。この本の冒頭に、その経緯が書かれている通りです。
この書籍の題名をみれば、多くの人々にすぐ思い当たる書物があります。それは、
『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』(B)
です。
字面は多少ちがえてありますが、発音は大同小異。「外」の一字がないだけです。あなたがこれまであつかってこられたように、「犯人」が“変名”を企てるとき、何字か「実名」と似せてあるケース。失礼ながら、あれを思い浮べました。
もっとも、この書物が最初、市浦村史資料編として刊行された点、またこの書物に対する偽書説の本が、巻末の参考文献のみならず、本文中にもとりあげられている点からすれば、(A)が実は(B)のことであることは、明白です。
従ってこの(A)の「変名」は、その実体が(B)であることを“隠す”ためではなく、むしろ“隠さない”ためである、と言った方が正確なようです。
わたしは、自分の学間探究の道においてこの『東日流外三郡誌』(B)に出会い、そこに真剣な学問上の幾多の示唆をうけるに至りました。すなわち、浅見さんのうけられた「印象」とは逆です。
元来、わたしは浅見さんに対しては多くのファンの中の一ファンにすぎませんでした。それが今回、このような大それた“レター”をしたためるに至った原因、それはただこの一点にすぎません。 ーー浅見さんとわたしとの間の見解の「ラグ(ずれ)」を埋めるためです。
二
今回のあなたの「推理の道すじ」について、その問題点をまとめてみます。申し上げたい、肝心の本題に入る前に、しばらく御容赦ください。
当人である、あなたにとっては「釈迦に説法」のたぐい、退屈かもしれません。けれども、わたしがこの本をどのように理解したか、それを正確に知っていただくためには、やはりまず必要だと思われますから。
拝読したところ、今までの数多い「推理行」、(同じ著者による)その報告に比べて、今回はたいへんに“ちがって”いました。その異質さにわたしはまず驚かされたのです。
その第一は、中心人物の扱い方です。その名は湊博之。青森県黒石市の八荒神社の宮司とされています。
この「ところ」(地名は実在)と「神社名」と「宮司名」は架空のものです。この本の末尾に、
「この作品はフィクションであり、作中に登場する個人名、団体名などはすべて架空のものです」
と書かれてある通りです。これは「推理小説」として、常道であると申せましょう。今までの「浅見光彦シリーズ」と、一見同じです。
ですが、大きくちがう点があります。それは、この本では、「実在のモデル(人物)」が“特定”されていることです。
なぜかと言いますと、この「湊宮司」なる人物は、例の、
「都賀留三郡史」(A)
という「史書製作」の当人、すなわち、れっきとした「偽作者」として扱われています。
この点、そのモデルとしての『東日流外三郡誌』(B)の場合、やはりこの湊宮司に“当たる”人物がいます。
「和田喜八郎」
がその人です。(B)に関心のある人には、周知の名前です。実際に、この本に引用されている「偽作説」側の本には、彼の名前が「偽作者」として、くりかえし登場させられています。
ですから、多くの読者には、この中心人物としての湊宮司が、実は実在の「和田喜八郎氏」をモデルとして“作られ”ているという、その事情を疑う余地もなく察知できる。そういう“仕掛け”になっているのです。
このような、「推理小説内の中心人物」と、実在のモデルとが、いわば「直結」させられている。そういうケースを、あなたの登場する、多くの作品の中で今までみたことがありません。「浅見光彦シリーズ」の中で、初体験です。この点、おびただしい入会者が殺到しているという、「浅見光彦倶楽部」の方々にも、お聞きしてみたいものです。わたしの知り合いに、あなたの登場する「浅見光彦シリーズ」を、八○遍近く読んだ、と言われるRさんがいますが、この方の経験からも、「未曾有」の現象だそうです。それほど、今回の本は「異色」であり、その点、異彩を放っているのです。
その第二は、もっと重要です。それはこの「中心人物」の性格づけです。
この湊宮司は、文字通りの“色魔”として描かれています。彼の八荒神社のアラハバキ神への女信者に対して、いわば「女」とみれば魔手を伸ばし、あちこちで自分の子どもを作らせる。そういう男です。
その上、この本の中の「十三の冥府」つまり、一三人の殺人事件に対し、間接的にせよ、すべてかかわりを持つ。真の意味での“殺人鬼”です。そういうまったくの「悪党」として描かれています。
その湊宮司のモデルは、実在の人物である「和田喜八郎氏」です。それがいわば“不可避的に”察知できる形に、この本の全体が「構成」されているのです。これが、問題です。先にものべましたように、これまでの「浅見光彦シリーズ」において、このような“陰湿”ともいうべき手法を、わたしはかってみたことがありません。このシリーズの特徴として、もっていた「明るさ」と無類の「爽快さ」、それが多くの読者を引きつけてきたのではないでしょうか。少なくとも、わたしの目と心には、そうみえてきました。
そして一番肝心の点は、次の一点です。この湊宮司のモデルと“察知”させる形の実在の人物としての「和田喜八郎氏」。彼は決してそのような人物ではありませんでした。
もちろん、多くの“人間的な欠点”は、十二分にもっていた方ですが、それと同時に、当代に稀ともいうべき“人間としての長所”もまた、もった方でした。それは、「先祖の業績」に対する、真底からの愛情と敬意です。これあるが故に、わたしはこの「和田喜八郎氏」と深い「友情」と「知己の心」をもちつづけることができたのです。この点、後に精しくのべさせていただく通りです。
ともあれ、実在の「和田喜八郎氏」は決して「稀代の色魔」などではありませんでした。もちろん「一三人の殺人」に対し、直接にせよ、間接にせよ、かかわりをもつような「殺人鬼」などではまったくありません。これは学問研究の場において、また人間的交流の中において、わたしが人間として真面目に、心から証言できるところです。
ですからこそ、わたしは今回あえて、敬愛する浅見光彦さんへの、この“レター”の筆をとることとしたのです。それ以外に、何の他意もありません。いうなれば、この“レター”は、亡き「和田喜八郎氏」に対する、わたしの「鎮魂歌」とも、なっているのです。
三
ちょっと気取って、「閑話休題」とでも言いましょうか。わたしの「推理小説、体験」をお聞き下さい。
御多分にもれず、わたしがエドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』『盗まれた手紙』などの名品に接したのは、青年時代。敗戦から間(ま)のない頃でした。後年、わたしの古代史第三作『盗まれた神話』の書名は、このポーの作品から“盗ませ”ていただいたものです。なつかしい作品でした。
次いで、シャーロック・ホームズ。『緋色の研究」『シャーロック・ホームズの冒険』など、ドイルの作品を次々と読みふけりました。六〇篇を越える長、短篇が“尽きた”あと、がっかりしました。『シャーロック・ホームズの恋人』などという、(余人の)「追作」まで手を伸ばしたのです。
そしてわたしにとっての“極めつけ”は、ヴァン・ダイン。『ベンスン殺人事件』『僧正殺人事件』など、いわゆる「本格推理」の展開に堪能させてもらいました。そのあとの各推理作家のことは、その研究史ではないのですから、割愛させていただきます。いずれも、青春の読書体験の一コマにすぎませんから。
今書いていて気がついたのですが、わたしの古代史研究が、いずれも従来説の「矛盾」や古代遺跡の「疑問」を解く、その解決に挑戦する。そういう形をとっていることも、今述べた「推理物、読書経験」とかかわりがあるのかもしれません。おそらく、わたしの「探究へのあこがれ」が、一時期の「推理小説好き」の背景、もしくは源流となっていたことは、疑えないようです。
このようなわたしにとって、「推理小説、批評のルール」は、百も承知です。その小説の「真犯人」を明かしたり、「アリバイ」を暴露したりするのは、絶対禁物です。
先にあげた湊宮司も、当然いわゆる「真犯人」ではありません。確かに“黒幕的存在”ではあるものの、実際の「犯行」とは必ずしも関係はありません。
四
実は、この点にこそ、今回の本の“最高の目標”がある。わたしはこの本を読みかえすうち、その一点に気づいたのです。
それが当たっているか否か、浅見さんの御明察にまかせる他ありませんが、一読者の「一私見」として、御笑覧いただければ、幸いです。
それはこの本にとっての「真の主人公」、いわば本当の「犯人」は、別にいるのではないか、という疑問です。
それは、先に述べた湊宮司やまたここで触れていない「真犯人」とも、別の人物、そして日本中の誰もが“周知”の人物です。
その人の名は、例の麻原彰晃氏です。オウム真理教の教祖とされている人。現在収監され、裁判中の人物です。
このオウム真理教をめぐって、サリン事件をはじめ、弁護士一家殺人事件など、数々の「殺人」が行われたことが知られています。「殺人未遂」の事件も、少なくなかったようです。
しかも、この麻原彰晃氏はそれらの「殺人や殺人未遂事件」に対し、直接には「一指」も染めていないようです。ただ、「洗脳」され、「マインド・コントロール」された人々が直接の「犯行者」のようにみえています。
この著名の事件こそ、この本の全体にとって、真の「モデル」となっているのではないか。これがわたしの判断です。
いいかえれば、この本の作者(「浅見光彦シリーズ」の報告者)が、真に「義憤」を感じ、社会的に「告発」したい、と考えているのは、この「オウム真理教」であり、「麻原彰晃氏」ではないか。 ーーこれがわたしの到達した判断です。
けれども、このオウム真理教の事件は、現在もひきつづき、裁判で係争中です。麻原彰晃氏には、屈強の弁護団がつき、さまざまの法廷技術を駆使して、奮闘中。そのように新聞紙上にも伝えられています。
従ってこの本では、あえてこの「真の中心人物」の名を“直指”せず、代わって、いわばその「代理人」、もっとハッキリ言えば「代理の疑似モデル」として、あの「和田喜八郎氏モデル」を“代用”させたのではないか。これがわたしの最終判断です。
このように考え到ってみれば、その「疑似モデル」の役割を“振られ”た、「和田喜八郎氏」の場合、その実在の「所業」や実際の「行為」と比較して、喋(ちょう)々する必要はない。そういうことも、できましょう。おそらく、これが「正解」です。わたしの判断がもし正しければ、ですが。
けれども、問題はやはり“残され”ています。なぜなら、実在の「疑似モデル」とされた「和田喜八郎氏」の場合、当人はすでに亡くなられました。ご長男も、次いで亡くなられました。けれども、七人のお子さん方の中、六人は御健在。お孫さんは、もっと多いわけです。この人々は、今回のこの本によって、「無実の風評」に苦しまなければなりません。
この本の読者のすべてが、この本のもつ「三段の構造」という、その真相を察知するとすれば、一見問題はないように見えますが、そうはいきません。
なぜなら、今わたしの判断したような“この真相”は直ちには“見えない”ように工夫されています。だからこそ、先にあげたような、
「この作品はフィクションであり、〈下略〉」
といった、巻末の「付記」が必要とされたのです。
もしかりに、麻原彰晃氏の弁護団が、この本を“相手”にして「名誉毀損」で訴えようとしても、それは不可能です。そういう「三層の構造」になっているからです。まことに巧みな、“高級”な構造です。さすがに、数多くの「推理小説」をものしてこられた、ベテランならではの手法です。
けれども、このような“隠されたモデル”とは異なり、“隠されない疑似モデル”の「和田喜八郎氏」の場合、特にその遺族の場合は、まったく別です。この本の登場によって、(テレビなどで上映されれば、なおさらのこと)大いに傷つけられること、不可避です。
前にも申しましたようにわたしがこの“レター”をしたためよう、そのように決意したのは、まさにこの一点からなのです。
五
本番に入ります。
その第一幕は、当然『東日流外三郡誌』の信憑性です。わたしはハッキリと、
「『東日流外三郡誌』は偽作ではない」と考えています。
一瞬でも、
「偽作である」
と考えたことはありません。
もちろん、“一個の文献が偽作か否か”という問いは、いつでも決定的に重要です。この問題に対する、慎重な、そして徹底的な吟味、いわゆる「実証的な検証」なしに、文献の研究をすることなど、およそ無意味です。
その理由は、ことさら言うまでもありません。「偽作」を「真作」と思いこんで研究したとしても、そのすべては“壮大な愚行”に終わる他ないこと、自明です。
いくら一生懸命、やってみても、そのすべては「一生懸命、だまされている」ことになる他ありませんから。馬鹿馬鹿しいこと、この上はありまぜん。
この点、わたしは幸せでした。なぜなら、自分の最初の学問研究の対象、それは中世の宗教者、親鸞だったからです。一三世紀頃の人物です。
彼に関しては「架空の人物」説が、一時期の学界の内部では“決定的”とさえみられていました。明治期です。なぜなら、彼自身の書いたとされているものは、主著である『教行信証』その他、種々ありました。ありましたけれども、他の人々が彼のことを書いた文章がないのです。たとえば、愚管抄や明月記といった、同時代(鎌倉期)の貴族たちの日記類、また彼の師匠の法然や同僚の(浄土宗系の)人々の記録にも、彼の名「親鸞」という二字は一切現われていないのです。
「もし、彼が実在の人物だったとすれば、どこかに名前が出ているはず」
このような、ごく“常識的”かつ“健全な”判断から、「親鸞、架空の人物説」すなわち「実は、彼はいなかったのだ」という“学的判断”がかげで常にささやかれていたのです。
六
もう一つは、もっと“厄介な”問題です。
「親鸞という人物は、いた。しかし、彼は『無学文盲』の“くそ坊主”だった」
けれども、なぜか彼は「金」をもっていて、京都の“落ちぶれ貴族”のインテリに依頼して、自分の「著作物」の代作をさせた。つまり、ゴースト・ライターです。その本が、あの有名な著書、『教行信証』だ、というのです。
ですから、いってみれば、れいれいしく「親鸞」の名を六巻の各冒頭に冠した、このいわゆる「主著」は、その実“真っ赤な偽(にせ)もの”というわけです。
その上、当の「代作者」の実名まで“指摘”してみせたのです。しかも、その「代作説」ないし「偽作説」の論者は決して、“無責任な”(と言ったら、叱られますが)歴史小説のライターではありません。戦前の論争のハイライトとなった、あの「法隆寺再建論争」の立役者、それも並居る反対説(非、再建説)の有名学者達に対して“ひとり”立ち向かい、堂々勝利を収めた喜田貞吉その人、文部省の教科書審査官から転じて京都大学教授となった学者です。
わたしは研究者として、この人を尊敬していましたから、どうしても彼の「代作説」ないし「偽作説」に対して、正面から徹底的に再検討する。それが本格的な親鸞研究に入った三〇代前半の、わたしにとって一つの主目標となりました。
もちろん、わたしは親鷲その人を「尊敬」していましたけれど、それが“ひいきの引き倒し”になったのでは、ナンセンスです。もし、彼のあげた“実証的証拠”が正しければ、断固、左袒(さたん 賛成)する。その覚悟でした。親鸞聖人を「教祖」ないし「宗祖」とする本願寺系などの学者から、いかに“目をそむけ”られようと、それはやむをえないこと。すでにそう思いきめていました。
その研究経過は、ここでは書きません。『親鸞 ーー人と思想』(清水書院)に書きましたし、最近この本は、昨年完結した
『古田武彦著作集 ーー親鸞・思想史研究編』(全三巻、明石書店)
の第一巻に収録されましたから、もし関心がおありでしたら、パラパラめくってみてください。
わたし自身の、初期の研究経験をくどくど書きましたこと、お許しください。要は、その文献が「偽作」か「真作」か、この検証なしに、文献研究をしたことなど、わたしには一回もありませんでした。それはわたしの研究にとって、常に「基本テーマ」となってきた。この一点を御理解いただきたかっただけなのです。古事記・日本書紀や風土記、さらに万葉集。また三国志などの中国の歴史書を研究対象としたさいも、この点、まったく変わるところがありませんでした。
そのようなわたしにとって、この目でじっくりと「見すえる」限り、今問題の『東日流外三郡誌』は、まったくの「シロ」なのです。決して「クロ」ではありません。この点、詳しく申し上げたいと思います。
七
その問題に入る前に、一つ申し上げたいことがあります。これは「苦言」ですから、少々“耳が痛い”のを我慢していただければ幸いです。
それは、この本の巻末の参考文献として、れっきとした「偽書説」の本は冒頭にあげられていますが、逆に、それと正面から対立する論証を展開した著作は、まったく「アウト」、かやの外におかれていることです。
本来、「推理小説」の巻末に「参考文献」を掲げることなど、“昔は”ありませんでしたよね。先ほどあげた、エドガー・アラン・ポーやコナン・ドイルやヴァン・ダインの作品など、いずれにもありませんでした。あれは、まさか「飜訳者」がカットしたわけではないでしょう。
もし、わたしたちが彼らの書斎をのぞくことができれば、その部屋の棚やその家の倉庫には、本当の「参考文献」があふれていたでしょう。おそらく現在でも、彼らの記念館には、その「原型」が保存されているかもしれません。
この点、近年の日本の推理小説にみられる「参考文献」の提示は、大変“良心的”な企てだと言ってもいい、と思います。(著作権法その他、法律上の問題も顧慮されているのかもしれません)
すなわち、「参考文献の提示」という姿勢の基本は「客観性」にある。わたしはそう思います。ちがいましょうか。そうだとすれば、今回の、この本のように「参考文献」と称して“一方の論証を強調した本”だけをあげ、その「反対論証」の本は載せない。 ーーこの手法は決して「客観性」をもっている、とは言えません。いちじるしい「主観性」が目立っているのです。たとえば、
特集1 東日流外三郡誌の世界
特集2 和田家文書「偽書説」の崩壊
(『新・古代学第1集」、新泉社)
特集 和田家文書の検証
(『同、第2集』)
特集 和田家文書をめぐる裁判経過
(『同、第3集』)
特別 寄稿『東日流外三郡誌』に関する一考察
(『同、第5集」)
『東日流外三郡誌』序論
(『同、第7集」)
他にも、わたしが昭和薬科大学を「定年退職」したときの記念録、「学問の未来 ーー歴史学と自然科学との間」(文化史研究室、一九九六年三月発行)にも、
「和田家文書 I〜IV」
「史料批判II」
において『東日流外三郡誌』の信憑性が論ぜられています。
和田喜八郎氏は(生前)、右のわたしの記念録全文と共に、『東日流外三郡誌』を論証した各論文を掲載した「古田史学会報」を収録した『日本のはじまり』(自費出版)を刊行されました。
さらに、わたしの古代史の最初の本『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社)の発刊三○周年記念の大会が朝日ホールで行われたさい、発行された記念誌、「東方の史料批判 ーー『正直な歴史』からの挑戦」(新・東方史学会)の中には、東京学芸大学教授の西村俊一さんの貴重な証言が掲載されています。
「和田さんが『もう裁判も終わったことだからこれをどこかに寄贈したい」と言われるわけです。どこか隠滅したりすることなんかがない、ちゃんとした図書館を探してくれというような話があったもんでね〈下略〉」(48ぺージ)
右の「これ」とは、もちろん『東日流外三郡誌』などの、和田家文書(の現存物、すべて)です。
西村さんは、エネルギッシュに各方面に当たられたのですが、結局「不成立」。その理由は、「受け皿」側の責任者が「偽作説」側の攻撃もしくは存在を恐れて、いずれも「OK」しなかったからです。
「偽作か否か、それは『寄贈』(もちろん無料)された実物を保存した上で、ゆっくり調べたらいいではないですか」という「正論」に対しても、(おそらく自己の「責任」を恐れて)“太っ腹”で受け入れる、ところがなかった。 ーーこれが真相です。
この西村さんの話に「疑問」を抱かれる方は、幸い、今御本人(西村さん)の御健在の間に、しっかり「確認」すれば、いいこと。好青年の浅見光彦さんが訪ねてゆかれたら、喜んで会ってくださると思います。気っぷのいい、佐賀出身の教育学者ですから。
わたしはすでに、この前、同じ経験(「受け皿」側の拒否)をしていましたから、右の西村さんのお話をまったく疑いませんでした。これが事実です。
これに対して「偽作説」の人々は、あたかも和田喜八郎さんが“自分の所有する史料(『東日流外三郡誌』)を”「隠匿」しているかのように「宣伝」しています。
そして「このように『隠匿』しているのは、『偽作』したからにちがいない」と、論をすすめているのです。
いつもは明敏な、浅見光彦さんも、今回はすっかり、この「偽妄の隠匿説」に“だまされて”しまった。わたしには、そのように見えていますが、もしちがっていれば、幸いです。
要は、このせっかく掲載した「参考文献」に、「偽作説」側のものも、「真作説」側のものも、“公平に”載せることが大切です。
確かに、若千の(真作説側かと見える)“歴史ストーリー物”が載せられてはいますが、これらは「学術的」はもちろん、「論証的」なものではありません。
せっかく、本文中にも、引用なさった「偽作説」の本の中に、和田喜八郎氏やわたしの名前がくりかえし出てくるわけですから、浅見さんがそれらを“御存知なかった”などとは、夢にも想像することができません。
もしかしたら、
「『参考文献』は、“参考した文献”を書くための欄だ。『真作説』の論証の本は、“参考しなかった”つまり“読まなかった”から、書かなかっただけ」
とでも言われるのでしょうか。その上、あるいは、
「あの、『参考文献』は、軽井沢の作家(内田康夫氏)のやったこと。わたし(浅見光彦)の責任ではありませんよ。いつも、あの人のやり口には、被害甚大。大迷惑しているんですから」
と言われるのかもしれませんね。
「作中人物」(浅見光彦)と「作家」(内田康夫氏)との“役割分担”は、いつもの手法ですよね。「浅見光彦シリーズ」のファンなら、舌なめずりして“喜ぶ”ところでしょう。
けれども、今回はちがいます。「架空のモデル」ならぬ、「実在のモデル」を、これほど印象深く、示唆しつづけながら、これをいつもの“役割分担”で“逃げる”としたら、やはりその手法はアン・フェアじゃないでしょうか。
これまでの「浅見光彦シリーズ」の魅力の一つ、それは浅見さんの“創見と独断”が光りつづけて「解決」をみる。その手法です。
警察をはじめ、世間一般が「W」を「クロ」つまり犯人とみている。それが通念。ところが、「W」の妹の来訪を受けた浅見さんは、まったく通説と真反対の「Wはシロ」の立場に立つ。その立場に立つと、今まで見えなかったものが見えてくる。すべてが新しい光の下に照らされ、やがて「解決」の大団円を迎える。まさに「光彦」という、名の通りですよね。
ところが今回は、まったく反対。現地(青森県)各新聞、「声」をそろえての「偽作説、キャンペーン」です。現地の図書館などが「受け皿」をしぶっていたのも、そのような「マスコミの大合唱」の前に“おびえて”いたのでしょう。
ところが、わが敬愛すべき浅見さんもまた、その「大合唱の一員」となり、
「津賀留三郡史(≒東日流外三郡誌)は、クロ」
説を「断言」し、軽井沢の作家も、同調する。そして「大団円」へ。これでは、「浅見光彦シリーズ、地に堕(お)ちたり」と歎く他はありません。
「いや、あれは、僕のせいじゃありません。すべては、軽井沢のセンセイの料簡(りょうけん)の為せるわざ」
そうおっしゃるのなら、OK。
「新編、十三の明府」
の登場をお待ちしましょう。「浅見光彦シリーズ」中の最高傑作の出現に期待いたします。
八
以上でこの”レター“は終わってもいいのですが、それではやはり「画竜点晴」を欠くようです。
この問題について、もう一歩進んで書かせていただくこととします。
その一つは、「事実確認」主義の問題です。
この「真偽論争」にたずさわるさい、一番大切なこと、それはもちろん「事実の確認」です。
たとえば、この本の本文中にもあげられ、巻末の参考文献の筆頭にあげられている本(『日本史が危ない!」全貌社)の中で、ある論者は次の点を問題にしています。
すなわち、この『東日流外三郡誌』の“出現”に関する有名な事件があり、和田喜八郎氏は何回も、これにつき“書いて”います。
それは、ある日のこと、喜八郎氏の家(青森県五所川原市)の天井裏から、大きな(文書などを入れた)箱が落ちてきた、というのです。その箱を、開いてみると、そこから出てきたのが、今問題の『東日流外三郡誌』などの、いわゆる和田家文書だったというのです。この「落下事件」の“時期”について、和田氏は“まちまちに”書いている、とその論者は指摘するのです。(六九ぺージ)
(1) 「昭和二二年八月ころ」(『東日流外六郡誌絵巻 全』津軽書房)
(2) 「昭和二三年」(衣川村・衣川村教育委員会・編集『安倍氏シンポジウム・衣川と安倍氏の歴史を考える研究集会』)
(3) 「昭和三二年の春」(『市浦村史資料編上巻・東日流外三郡誌』)
このような“バラツキ”からみても、この「落下事件」の存在自体、疑わしい、と論ずるのです。貴重な指摘です。
しかしながら、なおよく“考えて”みれば、変です。なぜなら、もし和田喜八郎氏が当文書(和田家文書)の「偽作者」であったとした場合、このような「文書出現」の重要事件について、その時々によって「ああ書いたり」「こう書いたり」するものでしょうか。
必ず、「一定の年時」を設定して、いつ書いても、狂いなく「そう」書く。これが当然。いわば「偽作者の基本ルール」ではないでしょうか。もし「これが“偽作”であることに気づいてほしい」つまり、他(ひと)に知らせるのが目的なら、いざ知らず。そんなことはありえませんよね。
真相は、簡単です、「誤植」です、、自分の文章を「本」などの“印刷”にしたことのある人なら、誰でも経験します。「二校」「三校」と校正を重ねていても、いざ実際にその本ができてみると、パラパラめくるうちに、すぐ「気がつく」のです。「誤植」個所に。わたし自身、そのような「誤植」の生んだ「珍談」「奇談」をまとめて“書きつけ”てみたいもの、とさえ思っています。
わたしの古代史研究の出発点となった「邪馬壹国」問題(通説のような「邪馬臺国」の誤記とする立場を批判)も、同じです。
このわたしの立論に対し、「版本に“誤記”が付き物であることを知らないのか」などと、お叱りをうけましたが、逆です。この「誤記・誤植」問題に悩まされつづけていたからこそ、「このケースも、その一つ」と、安易に処理して、果たしていいのか。 ーーこれがわたしの基本疑問だったのです。
今の問題に帰りましょう。
わたしも、当然この「落下問題」には強く関心をもちました。それで何回も、喜八郎氏に確認を求めました。右の (1) が正しいのです。
「昭和二二年」
です。他の二つ( (2) と(3) )は、「誤記、ないし誤植」なのです。
先述のように、どのように“信用ある”(しっかりした校正者のいる)本の場合でも、「誤植」問題は“つきまとい”ます。『校正おそるべし』(有紀書房)の名著が、朝日新聞社歴年のベテラン校正者(加藤康司氏)、そのプロ中のプロによって書かれている通りです。
その上、和田喜八郎氏の場合、もう一つの問題があります。それは、彼が相当の“書きしぶり派”であることです。つまり、「書く」ということは、決して彼にとって“得意業(わざ)”ではないのです。
この点、農村における、一般の人々。農民やリンゴ園従事者などにとって、決して不思議ではありません。鍬やスコップなどを“ふるう”こととは異なり、「筆を採るのは、苦手」そういう人はむしろ“多数派”。一般的なのではないでしょうか。
無論、一般の農業関係者の中では、彼はまだ“筆のたつ”部類かも、しれません。しかし、都会の会社員生活で生涯を過してきた人々の多くと比べれば、彼ははるかに“書くのが、億劫な”タイプの人間なのです。
従って、何か、その「必要」があるとき、手頃な人が「眼前」に、あるいは「周辺」にいる場合、ためらわず、「あんた。“おれの分”を書いといてくれよ。な、頼む」と依頼するのです。これも、農村では“よくある”タイプなのではないでしょうか。
会社の「上司」などが、外部に発表すべき「自分の文章」を、下僚に“書か”せる。これも、よくある例だと思いますが、その場合には、部下が書いてきた「自分の文章」を、厳しく点検する。これが通例のケースではないでしょうか。
しかし、和田氏の場合はちがいます。全部“まかせる”のです。できあがるまで「風馬牛」、知らぬ存ぜぬ、です。
よく言えば、「太っ腹」、悪く言えば、否、率直に言えば“杜撰(ずさん)”なのです。
ですから、右にあげられた例をみると、わたしなどは、ニヤリとして、
「あっ、和田さん、やったな」
と思うのです。もちろん「いい」こととは、まったく思いませんが、これは彼の「習癖」なのです。(もちろん、わたし自身の場合、一生懸命点検しても、なお「誤記」や「誤植」の跡を断たないこと、先述の通りですから、“大きな”ことは言えません。ただ性格上、和田さんほどには「太っ腹」にはなれないだけです)
なお、「誤解」されないために、明記しておきますが、わたし自身は和田さんから「代作」を頼まれたことはありません。まったく、ありません。
五所川原と東京(当時)という、はなれたところにいたこと、わたしが(和田氏にとっては“敬す”べき)「大学教授」であったことなどが理由でしょうか。何にせよ、そのような依頼は一切ありませんでした。
ただ彼から、
「ああ、あの『おれの文章』は、おれが書いたんじゃねえ。誰々さんに書いてもらったものだよ」
と、“無造作な”言葉を、何回も耳にしていた。それだけのことです。
九
先に述べた親鸞の場合も、「架空の人物」視されたのは、彼の主著『教行信証』の中に、“致命的な矛盾”がある。喜田貞吉の「目」には、そう見えていたからです。
(A)「末法計算」
「我が元仁元年(一二二四)甲申に至るまで二千百八十一歳也」 ーー親驚五二歳(化身士巻、本)
(B)「承元の弾圧」
「(号土御門院)今上諱為仁聖暦承元丁卯歳(一二〇七)」 ーー親鸞三五歳(化身士巻、本。 ーー後序)
一方で“五二歳”頃を執筆時点とみられる文章を書きながら、他方で“三五歳”頃の、何代も前の土御門天皇を「今上」と書く。これはまったくの矛盾と彼は考えたのです。「今上」とは通例“現在の天皇”のことですから。
「こんな、めちゃめちゃなことは、本人ではありえない。必ず、本人ならぬ“代作者”の仕業」
“辛辣(しんらつ)な”批評眼をもつ喜田貞吉は、このように判断したのです。そこから“自動的”に、
「親鸞その人は、無学文盲の男だったにちがいない」
そう考えるに至ったのです。たとえ他(ひと)に頼んだにせよ、できあがったものを“検討”さえしなかったのですから。確かに、一応“無理のない”判断ともみえましょう。
しかしながら、この問題は“決着”がつきました。
右の(B)の方は、親鸞の三〇代後半、越後(新潟県)に流罪中の親鸞が書いた“当時の文章”だったのです。それを、そのまま“後年”(五〇歳代)の親鸞が、主著の末尾(跋文。「後序」と呼ばれる)に「転載」していたのです。「今上」とは、その当時(三〇歳代後半)の土御門天皇を指して用いられていた。そういうわけです。 判ってみれば、何でもないこと、めでたく親鸞に“着せられ”た「無罪」が晴らされたわけです。この点、なおくわしくお知りになりたければ、わたしの著作集(第二巻)をご覧ください。
けれども、このような“鋭い”喜田貞吉の「問いかけ」によって、『教行信証』のもつ“立体的な構造”が明らかにされたのです。敬愛する喜田貞吉さんに対して、わたしはあらためて感謝しなければなりません。
この点、今回、和田喜八郎氏の「落下問題」に関する矛盾、その“ばらつき”に着目し、『東日流外三郡誌』への“疑難”を展開された、この論者に対しても、わたしは同じく感謝しなければなりません。
「校正おそるべし」
の金言を再確認させると共に、“安易に、他を疑う”ことの「こわさ」を、実例に拠ってしめしてくださったからです。ありがたいと思います。
一〇
さらに興味深いのは、「天井、不存在」問題です。
例の「落下事件」の場合、「文書の入った箱」が“天井”を破って落ちてきた、といわれているのですが、そんな「天井」など、もともとなかった。「偽作説」の論者は、そう主張しているのです。その「主張」を裏づけるため、この家(和田喜八郎さんの住居)を若い頃(戦前)に建てた、という大工さんから、
「そんな天井はなかった」
旨の「念書」をとり、それを掲載しているのです。まことに“念の入った”「反証」といえましょう。
「そこまでやったのなら、もうまちがいないだろう」
もしかしたら、浅見さんも、そう思いこまれたのかもしれませんね。一般の読者に、そういう人も多いでしょう。
けれども、「実際」は、まるきりちがいます。
わたしがすでに、先述の「新・古代学第一集」中の「特集1東日流外三郡誌の世界」(「累代の真実」p.56)でのべましたように、「昭和七(一九三二)年」には、まだこれら「和田家文書」(東日流外三郡誌)は「天井」に蔵されてはいません。
「以後は以て是を保存せるに難なれば蟲喰を防がむ為と世襲に障りを避けて天井に蔵し置き後世に障りなき世至りては世に出だし(「す」か)べし〈下略〉
昭和壬申(七)年七月十日
和 田 長 作 」
和田家の系図は次のようです。
末吉 ーー 長作 ーー 元市 ーー 喜八郎
従って、ここで長作が、
「天井に蔵し置き・・・世に出だしべし」と“命令”もしくは“要請”しているのは、子ども(次代)の「元市」に対して、なのです。
それまでは「洞窟内の一部」か、それとも「土蔵」などに蔵されていたようです。従って、
(上限) ーー 昭和七年
(下限) ーー 昭和二二年
の“一五年間”の中で、問題の「文書などを入れた箱」は“つるされた”のです。“つるした”のは、喜八郎氏の父、元市さんでしょう。
大正六年生れの大工さん(O氏)は、若い頃「和田元市」を発注者として和田家の「古い家を取り壊し」「新築した」という(p.38)のです。
わたしが喜八郎氏から聞いたところでも、彼が一〇歳前後、まだ「文書」などには何の関心もない頃だった、とのこと。ほぼ、O氏の話と“対応”しています。
そこで考えられるのは、次の状況です。
(一)「文書などを入れた箱」を“つるし”て、その「下」に“天井”をとりつけたのは、「元市氏」である。(生前の長作の「命」に従った)
(二)現在の“天井”は(もしO氏の記憶が正しければ)「建て増し」部分となりましょう。(一番高いところの「屋根裏」とは、別)
(三)「昭和一〇年代」前後は、「満洲事変」「日支事変」など、いわゆる日中戦争の時期に当たっています。従って「O氏」も「元市氏」もふくめ、“人間移動・移転”の烈しかった時期(いわゆる「非常時」)に当たっていることとなりましょう。
(四)また、思想的に「反天皇の文献」と目されやすかった和田家文書(東日流外三郡誌など)の性格上、その「隠匿」は、必須だったのではありますまいか。
わたしは、当住宅に、喜八郎氏の健在時、何回もおとずれました。そして問題の「落下場所」を、その部屋の中で、「天井」を指さしながら、たずねました。
「ここだ。家族がこの下にいたら、えらいことだったよ」
その喜八郎氏の言葉を、家族の方々(母堂など)も、聞いておられました。(第一回)第二回目は、喜八郎氏だけのとき、「再確認」しました。同じ答えでした。(なお、喜八郎氏の没後、長男孝さんの導きによって、天井裏を十分調査させてもらいました。建築関係の専門家と共に)
一一
例の『日本史が危ない!」の中に、「親戚関係者」や「長作とともに炭焼きを生業としていた人たち」の話として、
「末吉は文盲であり、長作は字を書けなかった」
といった類の「話」がのせられているのです。(p.89)
これがほんとうだったら、「和田末吉」や「和田長作」の書き写した、厖大な「明治(大正・昭和)写本」の存在は、すべて「架空」にして「虚妄」となってしまいます。すなわち、喜八郎氏あたりに「偽作責任」を押しつける他ないわけです。
けれども、今まで数多くの和田家文書に接してきたわたしには、“とんでもない”こと。まったくの“ぬれぎぬ”と言う他はありません。
たとえば、明治時代の教科書に、真面目な、子どもらしい字で、「和田長作」の署名のあるものを、いくつも見てきました。(カラーコピーや)写真にも撮りました。
その教科書は、東京の専門の教科書センターに持ってゆき、“本物”であることを確認しました。「同類」の収蔵物も見ました。もちろん、貴重なものです。
その上、青年時代に、岩手県の実業学校の講習に出ていたさいの、ノートもありました。青年らしく、ビッチリと書かれた、律儀な、授業記録でした。そのときの「講師」の名前も、書かれています。 ーー金輪際(こんりんざい)、「偽作あつかい」などは無理なものです。
では、なぜ、「文盲説」が出たのか。実は、その“確かな根拠”があるのです。なぜなら、彼らが「文盲」だ、という記録があるのです。
「われは文盲なれば、云々」
の文言です。なぜか。
実は、これと同じ文言は、『東日流外三郡誌』の著作者(正確には「編者」)とされる、秋田孝季の文章の中にも、あります。
「それがしは文盲なれば、云々」
とあるのです。
お判りでしょう。この「文盲」は、現在の用法とはちがうのです。「文字が読めない」「目に一丁字がない」との意味ではありません。そうなら、もし、その通りなら、右のように、「自分で書く」こと自身、ナンセンスではありませんか。とうていありえないことです。
つまり、この「文盲」とは、実は“謙遜の言葉”なのです。「わたしは、無教養な者ですから」という、“礼儀の表現”です。奥ゆかしい、謙遜の言なのです。
わたしたち日本人は、相手にプレゼントするとき、
「つまらないものですが」
と言いますね。これを聞いて、「この人は、つまらない物を、わざわざ持ってきたのか。失敬な」と、怒る。そういったたぐいの話です、これは。
右の「話」は、近所の人や親類の人々が、
「この和田家文書を見た」
ことをしめしています。そしてこの「文盲」の一語を、“現代風に”誤解したのです。それが「風評化」したのでしょう。いささか何とも、面白すぎる話ではありませんか。
同じ言葉でも、「昔」と「今」では、使い方がちがう、その証拠。 ーー案外“こわい”話かも、しれませんね。
この興味深いテーマにふれていただいた「偽作説」の論者に感謝いたします。もちろん、皮肉などではありません。ありがとう。
未刊の「北斗抄」や「北鑑」の類が公刊されれば、この種の“貴重な文例”がやがて人々の手元にとどくことでしょう。一日も早い、公刊の日を祈ります。(藤本光幸さんが準備中と聞いています)
一二
「事実確認」主義の立場から、どうしてもふれなければならない問題があります。
それは「和田喜八郎氏の筆跡」問題です。
わたしが彼の筆跡と理解しているものと、「偽作説」の論者が「彼の筆跡」だと言っているものと、まったく“別”なのです。基本のデータが“ちがっている”のです。
どんなに精密なコンピューターでも、「入力」された基本データが、「A」と「B」、まったくちがっていれば、そのあとの関連情報に対する“判断”は、当然、
「正確に、ちがってくる」
こと、それは当然です。いかなる専門家でも、これを疑う人はありますまい。 ーーそれが、今この「偽作」問題をめぐる実情です。この「事実確認」を抜きにしては、あらゆる「論議」も、すべての「論争」も無意味です。
この点、実は、率直に言って、わたしと「偽作説」の論者との間には、「認識」上、いわば“雲泥の差”があるのです。これは決して「自慢」や「思い上がり」ではありません。当たり前のことです。
なぜなら、わたしの場合、和田喜八郎氏とくりかえし「文通」をしてきたからです。「文通」という言葉は、必ずしも適切ではありません。彼は、わたしの研究室(当時の昭和薬科大学)へ、何回も、いや何十回と言いたいほど(おそらく二〜三〇回前後か)、和田家文書や関連書類などを送ってきました。本当に「いや」というほど、の回数と「量」でした。せまい研究室が、段々一層“せまく”なりました。
もちろん、自宅への手紙・葉書(年賀状等の“あいさつ”状)もありました。
先にものべましたように、“書きしぶり”の喜八郎さんですから、いわゆる「手紙の文面」はなく、いきなり“実物”(和田家文書や関連資料)が入れてあるのが通例なのですが、それでも、当然ながら「宛書」や「送元」は書かれています。そこに「喜八郎氏の自筆」があるわけです。
これは、今となれば「貴重な、筆跡資料」ですが、それがわたしには“恵まれて”いるのです。
この点、「偽作説」の論者には、そのような「喜八郎氏との豊かな交流」を“持ち合わせ”の方は、おられないようです。当然ですが。すなわち「基本をなす、確実な資料」の“お持ち合わせ”がないわけです。
実は、この点で、注目すべき「重要事実」があります。それは、喜八郎氏にとっての“貴重な代筆者”たる、娘さん(章子さん)の存在です。
今述べた“喜八郎氏からの”宅配便や郵便類の宛書や送元の「筆跡」は、必ずしも「喜八郎氏の自筆」ではありません。むしろ、「章子さんの筆跡」のことの方が“多かった”くらいです。
その事情は、明白です。“書きしぶり”の喜八郎氏は、そのような“仕事”を、“娘で(自分より)書き上手”の章子(ふみこ)さんに“まかせた”のです。これは、喜八郎さんならずとも、各家庭で、“ありうる”状況ではないでしょうか。
この間(かん)の事情に関する「注意」が、残念ながら「偽書説」の論者には“欠けて”おられたようです。
(一)喜八郎氏の出された年賀状(五所川原近辺の方あて、か)にある、「自署名」を“喜八郎氏の自筆”視して使用されているのです。年賀状の「宛名」や「自署名」を、文字通りの「自筆」で書く人も、当然あります。「宛名」は他筆、「自署名」のみ自筆、という人もありましょう。
けれども、「宛名」も、いわゆる「自署名」も、「代筆者」(秘書など)の筆跡、というケースも、あるのです。喜八郎氏は、(しばしば)この“やり方”でした。
もちろん、この件についても、「いや、こうあるべきだ」との各議論はありましょう。それはそれとして正しい、と思います。しかし、今必要なのは「あるべき」ことの議論ではなく、「ある」こと、すなわち事実の認識です。
この立場からみれば、「偽作説」論者のとった「基準筆跡の選択法」は、やはりまちがっていた、と言わざるをえません。
(二)さらに、重要な「基本筆跡のとりちがえ」が不幸なことに、生じています。
それは「水沢コピー」の問題です。岩手県の水沢市公民館で、喜八郎氏は「講演」しました。平成四(一九九二)年のことです。その講演の資料として、「四百字づめ原稿用紙」で一二九枚が、“あらかじめ”公民館側に渡してあったのです。このとき、喜八郎氏はわたしに、
「おれは、講演など、苦手だ。時間がすぎてうまく話せねえ。先に、書いて送ってやったよ」
と、いささか“自慢そうに”(電話で)話していたのを覚えています。まことに“ゆきとどいた”処置と、感心しました。
この善意が“裏目に”出たのです。公民館側(市の関係者)が、喜八郎氏にことわりなくこの「原稿のコピー」をとり、「偽作論者側」に渡したのです。「平成四年二月一日(まえがき)」「平成四年二月四日(末尾)」という「年月日」が明記されてあり、「一二九枚」もの多量ですから、「偽作説」の論者はこれを、疑わず、
「自筆原稿のコピー」
とみなし、これを「基準筆跡」としたのです。その講演の題目は次のようです。
「知られざる聖域 ーー日本国は丑寅に誕生した」(『日本が危ない!』p.41)
すでにお判りでしょう。この「一二九枚」は、決してあの“書きしぶり”の喜八郎氏の「自筆」などではありません。可憐な代筆者「章子さんの筆跡」です。
先にものべましたように、わたしのもとには、幾多の「喜八郎氏の筆跡」と共に「章子さんの筆跡」があります。ですからその“判定”は、容易です。
その上、わたしは「だめ押し」を行いました。喜八郎氏が東京へ来たとき、彼の宿所をおとずれ、わたしの持参した、喜八郎氏からの宅配便、郵便などの「自署名」について、「これは、おれ」「これは、章子」と、“仕分け”してもらいました。
(『新・古代学第二集」、p.106 、写真)
その上、「偽作説」論者にとって、きわめて不幸な「資料状況」がありました。それは、従来「章子さんの書写による、和田家文書」が、かなりの量、外部に“出まわって”いたことです。たとえば、
「『東日流外三郡誌』について」
という原稿用紙(四百字づめ原稿、七枚)も、その一つのようです。「昭和六〇年(一九八五年)、二月一日」の日付けをもち、「和田喜八郎」の署名をもつ、という。それが「自筆原稿そのもの」と称されています。これは「山上笙介氏」からの提供だとされています。山上氏は『東日流六郡誌絵巻 全』の編集者です。
喜八郎氏によれば、
「おれは、先祖の書いた和田家文書を、他(ひと)にやりっぱなしになんか、しねえ」
とのこと、もっとも、です、まだ「偽作説」の“さかり”になる以前から、秘書役の章子さんに“書写させ”て、他に渡す、という「方式」をとっていたようです。そのさい、章子さんは、御自分の「日常の筆跡」とは別に、「和田家文書(東日流外三郡誌など)を模範(モデル)にした筆跡」を“習って”おられた方です。
その旨の「念書」も、章子さんから、いただきました。
以上の問題は、決して「偽作説」や「真作説」といった、「説」の問題などではありません。「誰々の筆跡」という「事実確認」の、単純な問題です。
関係者(わたしなど)の生きている時に、早くこのような「重要問題」を提起してくださった、「偽作説」の論者に対し、今は、心から感謝したいと思っています。
一三
筆跡の「真偽」など、浅見光彦さんには、あまり“興味深い”問題ではないかもしれませんね。一般の読者も、そうです。「そんなのは、どうも」と“逃げ腰”になるのが、通例。一〇中八、九の人々が、そうではないでしょうか。
そこで「一転」します。「金(きん)」の問題に移ります。
「金やダイヤモンドの装飾なんて男の自分には、どうも」
頭をかきながら、そうおっしゃるかもしれません。いや、装飾などの「金」ではなく、正真正銘の「金」。その「金さがし」の話なのです。
「それは、もっと苦手だよ」
浅見さんは、きっと、そうおっしゃることでしょう。財宝目当ての「金さがし」など、“欲の皮のつっぱった連中”のやること。自分には“敬遠の一手”だ。そうおっしゃるにちがいありません。その点、わたしと同じです。
実は、これはそんな“油ぎった”“欲まみれ”の話ではありません。逆に、きわめて“さわやかな”話なのです。少し、お聞きください。
先にあげた「北斗抄」や「北鑑」その他の和田家文書中には、多くの書簡類が収蔵され、それらによって『東日流外三郡誌』の成立に至る、経緯(いきさつ)を知ることができます。その要点を箇条書きしてみましょう。
第一、秋田孝季(たかすえ)の来歴。
彼は長崎で生まれました。父は「通辞」の職、ロシヤ語の通訳だったようです。けれども、早く病没し、母は彼を連れて郷里(秋田)に帰ったのです。
その後、三春藩の藩主、秋田千季(倩(よし)季)の“後添え”となり、そのさい(あるいはそのあと)“連れ子”の孝季を同道したようです。義父(藩主)は、学問好きで利発だった孝季を可愛がったのでしょう。
以上の点につき、わたしは「孝季の母は、最初“妾”として入り、のちに“後添え”となった」か、と考えていますが、真相はもちろん、不明です。
第二、藩の「借財返済」問題。
三春藩は、幕府からの「借金」の返済に悩まされていました。そのため、藩主はひそかに“信頼する”孝季を呼び、一個の地図を渡しました。秋田氏の先祖の地、津軽(青森県)の中に“埋蔵”された「金」のありかをしめす地図です。
浅見さんはすでに御存知と思いますが、三春藩主の秋田氏の先祖は津軽の安倍氏です。あの安倍貞任(さだとう)、宗任(むねとう)の安倍氏です。八幡太郎義家に敗れ、貞任は斬られ、宗任は大島(福岡県)へ“島流し”にされました。その貞任の遺子、高星丸が家臣に連れられて津軽へ逃れ、家を再興して安藤(また、安東)を名乗った、というのです。
その後、南部氏(岩手県)が津軽全域を支配するに至り、安藤氏は秋田に逃れ、秋田氏を名乗ります。これがのちの三春藩(福島県)の藩主、秋田氏の来歴です。
このような“ゆかり”の地、津軽に埋蔵してきた財宝、「金」のありかをしめした地図だったわけです。
藩主の依頼をうけ、津軽の地に入った孝季は、土地の庄屋の息子、和田吉次の助けをうけ、この埋蔵金を発見します。そうしてそれを藩主に渡しました。その結果、三春藩は無事「借金」を幕府に返済しましたが、なお「余分」を生じたのです。藩主はその「余分」を再び孝季に渡し、津軽時代にさかのぼる「藩史」の再建を依頼します。三春藩の書庫が焼け、史料を消失していたからです。
以上が、『東日流外三郡誌』の成立を語るところ、その誕生の経緯です。
第三、以上の経緯は、現在未公刊の和田家文書、北斗抄や北鑑などの中に各人の書簡や孝季の報告などの形で収録されています。このような、貴重な文書を“見ない”まま、「偽作か否か」を論じている人々は、まことに不幸な「史料状況」の中にあるわけです。(くりかえしますが、藤本光幸さんは、その「公刊」のための準備を、早晩終えられる見込みのようです。 ーー 二〇〇四年現在)
その中には、注目すべきことですが、いまだ「未発掘」かと思える埋蔵金に関する書簡や地図もふくまれています。たとえば、吉次が孝季の命により、地図に従ってその所在(埋蔵金の存在)を確認し、それを“もとの姿に(発見されにくい形に)”もどしておいた旨の報告書簡も、ふくまれています。
この「埋蔵金」問題は、土地の人に(青森県西部地方)の関心を“ひそかに”ひきつけつづけていたようです。当然のことでしょう。
その“証拠”に、最初に公刊された『東日流外三郡誌』として知られる「市浦村史資料編」版では、この「埋蔵金」関連かとみられる個所は「脱字」扱いにされているようです。
この点、すぐれた研究者として次々各方面に研究業績をしめしておられる古賀達也さん(京都市)が、すでに早く気づき、これを論文化して発表したい、とのこと。その御意向を知り、その時点では、わたしはあえて「反対」しました。
なぜなら、その当時、いわゆる「偽作説」が世間で話題を奪っていた最中でしたから、その上にこの「埋蔵金」問題が話題となれば、一段と“論点”が混迷し、当事者(和田喜八郎氏も存命中)も“迷惑”するのではないか、と心配したのです。それで、もう少し「発表時期をのばす」ことを提案しました。古賀さんも、賛成してくださったのです。
しかし、もう、時期は変わりました。喜八郎さんに次ぎ、長男の孝さんも亡くなられました。一般の書籍や文庫本、雑誌などでも、「すでに『東日流外三郡誌』の偽書であることは確定した」かに(虚報を)叙述するものも、次々と現われています。その意味では「偽作論争」のさかりの時期は“過ぎた”ようです。
その上、何よりも、この「埋蔵金」問題が、『東日流外三郡誌』の真相を探る上で、不可欠のテーマであること、今まで述べたことでお判りの通りです。
ですから、古賀さんも近く、その所論を発表されることと思います。
まして『東日流外三郡誌』の場合以上に、現在未刊の和田家文書、「北斗抄」や「北鑑」などには、その件の直接資料(書簡・地図など)がふくまれています。これらはやはり、日本国民、否、世界の探究心ある人々の「共有財産」となるべきこと、今は火を見るより明らかです。
一般の読者がこの本の「刊行」を支持し、日本の書肆が勇気をもってこれに踏み切れば、それは直ちに実現します。藤本光幸さんが畢生の努力と準備をすでに傾けておられるのですから。
これが、浅見さんに申し上げたかった「金さがし」の一幕なのです。
一四
華やかな「金さがし」のあと、“地味な”学問上のテーマに移ります。
かって和田喜八郎さんから、次のような言葉を聞いたことがあります。
「おれのとこの和田家文書が攻撃されるのは、九州王朝のせいだぞ」
やや揶揄(やゆ)口調ながら、必ずしも「悪意」はない、そういった感じです。
二〜三回、この“せりふ”を聞いたことがありますが、いつもわたしは“黙って”答えませんでした。
“当たってはいない。しかし、まるで当たらぬではない、うがった見方”
そう思っていたからです。事実、和田家文書攻撃に全力集中、といった人たちの中には、この和田家文書問題に“移る”前に、わたしの九州王朝説と(しばしば反対側として)“かかわり”をもっていた。そういう人も、少なくないからです。
今回、「偽書説」の本、『日本史が危ない!』の末尾に、
「無文銀銭==九州王朝通貨説は、無文銀銭がいかなる物かを知らず、また自分で調べようとしない者にしか通用しない学説以前の思いつきだった」(p.372 )
の一文をみて、「あっ、やっぱり」と思いました。和田さんがみていたら、
「ほれみろ、やっぱり」
と言ってくるかな、などと思って“楽しく”なったのです。
ことの次第は、次のようです。
日本の通貨史は、謎に満ちています。その要点の二、三をあげますと、
(一)有名な「和同開珎」は、中国(唐)の銅貨の“模倣”とみられているが、唐では「開元通宝」であり、「珎」ではない。
(二)中国では(隋以前)、「宝」は「三宝」(仏法僧)の意(貴字)とされ、貨幣には使われなかった。
(三)唐朝の第一代の天子、高祖は「反仏教政策」をとり、あえてこのタブーを犯した。“国家の貨幣、天子の発行物”こそが「宝」の字にふさわしい、という立場の表示であった。
(四)これに対し、倭国側は、従来の(中国の伝統 ーー仏教尊重ーー の)立場を支持し、「宝」字を用いず、「弥」(=珍)を使った。いわば「反唐(あるいは「非唐」)の立場」である。
(五)貨幣研究界周知のように、「和同開弥」には“古和同”と“新和同”の二種類が存在するが、その二大別の「由来」がまったく不明である。
(六)奈良県の西大寺出土の巨大銀銭として「賈行銀銭片」が存在するが、古事記、日本書紀、続日本紀とも、その肝心の銀銭制定の記事が存在しない。
(七)通例「無文銀銭」と呼ばれている、滋賀県近江神宮出土の一六個を、わたしは手にとり、至近の距離で、(現物を)長時間にわたり、熟視させていただいたが、そこには本来「文字らしきもの」が刻印されていて、“あとで”それが「削平」されていた状況が認められた。
以上の各状況からみても、日本の貨幣史は「近畿天皇家一元主義」の立場だけからは、“解明し切れぬ”幾多の困難点をもっています。従って「近畿天皇家以前の王朝」すなわち九州王朝の「視点」を導入しつつ、今後大切に検証すべきもの。これが私の立場です。他の九州王朝説に立つ方々(たとえば日本銀行出身の浅野雄二さん)も、同様の立場に立っておられます。
この「偽作説」の論者は、いわゆる「無文銀銭」の出土が、近畿(滋賀・大阪・奈良)に“片寄って”いる、あるいは“集中して”いることを根拠にしています。たいへん正しい視点です。
近畿天皇家が、九州王朝の「分王朝」として、“貨幣鋳造”を行なっていたこと、先の「富本銭」の出土(奈良)からみても、疑えないからです。
けれども、その一方で、山口県山口市に一大鋳銭場(鋳銭司小学校そば)の存在していること、さらに有名な福岡県の福岡市(現在)の「周船寺(しゅせんじ)」が、実はその前「鋳銭司(しゅせんじ)」であったらしいこと、この地名の意味するところも、文字通り“意味深長”です。
要は、あせらず、気長に、「事実を確認」していこうではありませんか。
その上、この「偽作説」論者のように、「分布状況」を重視すること、それはたいへん大切です。
たとえば、「神籠石(こうごいし)」の存在。この巨大山城遺跡は、明らかに“太宰府と筑後川流域”を取り巻いています。決して「大和」を取り巻いていないこと、疑いようもありません(地図、前出)。
この「分布状況」一つみても、「近畿天皇家一元主義」の史観では、日本史は解けない。 ーーこれは明白です。
神籠石は、六〜七世紀の築造と言われてきましたが、放射性炭素年代(14C )や年輪年代測定のしめすところでは、従来の「考古学編年」を、少なくとも「一〇〇年前後」さかのぼる可能性が高いですから、これは将来「五〜七世紀の成立」となってゆくことでしょう。そう、「倭の五王の時代」です。
今は教科書にも必ず出ている「倭王の讃・珍・済・興・武」が、どこの王者か、「大和」か、それとも「九州」か。これと深くかかわってきます。七世紀前半の「日出ずる処の天子」は、もちろん。
あっ、歴史の話に深入りしてしまいそうですね。今は、浅見光彦さんのシリーズの一つ、
「神籠石、殺人事件」
の出現に期待したいと思います。絶好の舞台となりますよ。
一五
最後に、申し上げたいことがあります。それは「止罵(しば)主義」の提唱です。
パソコンなら、司馬遼太郎さんの「司馬」となりそうですが、ちがいます。「ののしりをとどめる」の「止罵」です。
「偽作説」の本をみると、全篇“ののしり”に充ち満ちています。
「真作説の奴(やつ)らは、何たるまぬけ」
そういう声が“つぶて、あられ”のように、飛び交(か)っています。それらを読んでゆくうちに、
「これだけ、やっつけてあるのだから、一つや二つは、本当だろう」
と“思わせる”ように、仕組まれています。明敏な浅見さんもまた、そのような“思いこみ”の中にまきこまれたのでなければ、幸いです。
ですが、わたしは「逆だ」と思っています。真実を求める。自分に「本当だ」とうなづけるものだけ、うなづく。わたしには、それしか“とりえ”はありませんが、その立場からは、「他(ひと)をののしる」ことなど、一切無用です。まったく、関係のないことです。
これに反し、自分に対して本当の自信をもっていない人間、そういう人間にとっては、いやが応でも「他をののしりたく」なるようです。それなしには、やってゆけない。あまりにも、自分が不安なのです。
しかし、大切なのは、やはり事実です。真実のありようを確認すること、それだけです。
もし、他がわたしを「ののしる」ならば、わたしは逆にその中から一片の真実でもみつけたい。それがわたしの本音です。
先にのべた「分布状況」の問題も、その一つでしょう。
中国の「南朝(宋・斉・梁・陳)」に貨幣のあったこと、自明ですが、では、その南朝貨幣は、南朝の首都だった南京から、果たして大量に発見されているか、否か。この問題です。
天子の宮殿に関しては、南京には何一つ残されていません。はるか後代の明朝やその直前あたりの時期が「上限」のようです。侵入してきた北朝(隋、唐軍)によって“破壊”され、“根絶”され尽くしたのです。
白村江の戦のあと、勝利者(唐の軍隊)は、くりかえし「筑紫」へ来ています。福岡県です。九年内に六回も、来ています。しかし、「大和」へは来ていません。「大和は遠いから、やめとけ」と、サボったのでしょうか。
まさか。彼らが来たのは、戦敗国の「本拠地」の宮殿や軍事施設を“根絶”するためだったはずです。決して呑気な観光旅行などではありません。
それなのに、なぜ、毎回「大和」へは来ず、「筑紫」どまりなのか。
あっ、また「歴史探究の山道」へと入りかけたようですね。今は、ひきかえしましょう。
お互いがお互いを尊重しつつ、楽しく「真偽論争」なども行なう。そのような、一歩進んだ日本にしてみたい。そう思いませんか、浅見さん。
いつまでも若い、浅見光彦さんの未来に深く期待しつつ、この楽しい“レター”の筆をおかせていただくことといたします。
ーー追伸ーー
すでに書き終えた”レター”ですが、もし浅見さんが“誤解”されるといけませんので、一つだけ、つけ加えさせていただきます。それは『東日流外三郡誌』に描かれた“歴史像”の問題です。
この本の多くを占めるのは、「文書の写し」(甲)です。秋田孝季や和田吉次、りくたちが、神社や仏閣などに蔵されていた文書を“写し採った”もの、それがこの本の主要部分を占めています。
けれどもその反面、孝季や吉次たち自身が執筆した、自分の文章(乙)もあります。特に、これを「歴史」とみなしての“ストーリー”が少なくありません。
たとえば、
(1)大和(奈良県)は、安日彦(あびひこ)・長髄彦がこの地方を支配していた。
(2)南九州方面にいた神武天皇が大和へと侵入し、彼らを打ち破った。
(3)彼らは大和の地を逃れ、津軽(青森県)へと亡命した。
右のような「ストーリー」が、孝季や吉次たちによって、くりかえし書かれています。彼らの“思い描いた”歴史像です。
けれども、わたしはこのような歴史像に対しては、明確に「N0!」という立場をとっています。「小説」なら、いざ知らず、歴史としては、まったく「×」です。
なぜなら、本来の“伝承の文面”は、
「筑紫(ちくし)の日向(ひなた)の賊」(安日彦長髄彦大釈願文)
とあったのです。「筑紫」は福岡県。「日向」は「ひゅうが」ではなく、「ひなた」。福岡市の西隅、室見川の上流です。そこに侵入してきた「賊」とは、「ニニギノミコト」です。古事記や日本書紀で「天孫降臨」という美名で“伝え”られている事件(これは歴史上の事件です)。記・紀はこれを「侵入した側」の大義名分に立っています。ですから自分たちの侵略を、「天孫降臨」と称しました。その実態は「海人(あま)族、海上船団の筑紫への侵入」です。
これに反し、『東日流外三郡誌』の方は、筑紫の「侵略された側の目」に立ち、彼ら(天照大神の孫、ニニギノミコト)に対して、これをハッキリと「賊」と呼んでいるのです。
けれども、残念なことに、秋田孝季や和田吉次は、国文学上は、本居宣長の『古事記伝』流の“教養”に立っていました(和田家には、江戸期版本の幾多の、宣長の書籍が残されています)。
そのため、右の一句を、
「筑紫(=全九州)の日向(ひゅうが 宮崎県)の賊」
と“読み取り”、この「賊」を(宣長に従って「南九州の日向」にいたと考えた)神武天皇にあてたのです。
しかし一方のニニギノミコトの方は、「弥生中期初頭」、他方の神武天皇の方は「弥生中期末」の事件ですから、両者の間には、少なくとも「二〇〇年」以上の「時間のズレ」があるのです(この年代の件は、別述しています)。
さらに、記・紀には兄の「安日彦」の名は絶無です。
要は、この『東日流外三郡誌』を「偽書に非ず」とすることと、その内容自体に対する、厳密な「史料批判」の実行とは、まったく天と地、“別の問題”なのです。この二つを“ゴチャマゼ”にすると、全体の姿に対する理解が狂ってきます。混迷の霧の中に真相が隠れてしまうのです。
また改めて、ゆっくりと、浅見さんとお話するチャンスをと願っています。いつの日か。
お身体、お大切に、そして願わくは、よきフィアンセを!お待ちしています。
ーー 二〇〇四、七月十一日 ーー
《参考文献》
松田弘洲『東日流外三郡誌の謎』一九八七、あすなろ舎
松田弘洲『津軽中世史の謎』一九八八、あすなろ舎
設楽順『東日流誌・裁判』一九九〇、あすなろ舎
松田弘洲『古田史学の大崩壊』一九九一、あすなろ舎
安本美典『虚妄の東北王朝』一九九四、毎日新聞社
千坂げんぼう編『だまされるな東北人』一九九八、本の森
安本美典・原田実・原正寿『日本史が危ない!』一九九九、全貌社
安本美典『東日流外三郡誌「偽書」の証明』廣済堂出版
原田実『幻想の荒覇吐秘史』一九九九、批評社
三上強二監、原田実編『津軽発「東日流外三郡誌」騒動』二〇〇〇、批評社
藤原明『日本の偽書』二〇〇四、文藝春秋
千歳竜彦「日本書紀研究、第二十四冊」二〇〇二、収録、塙書房
千歳竜彦「古代日本海文化、第40号」一九九五、収録、古代日本海文化研究会
中村彰彦「歴史諸君!80」二〇〇二・五月、収録、文藝春秋
佐治芳彦『謎の東日流外三郡誌』一九八○、徳間書店
和田喜八郎『知られざる東日流日下王国』一九八七、東日流中山古代中世遺跡振興会
『歴史Eye ーー「超古代史『東日流外三郡誌』の真相ーー」』一九九四、一月、日本文芸社
古田武彦『真実の東北王朝』一九九〇、騒々堂
なお『新・古代学』(第一〜七集)は、本文に引用したので省略する。そこには左のような「必見史料」を幾多収載している。
「和田家文書筆跡の研究 ーー付、和田末吉基準筆跡(他筆若干)」(『新・古代学第二集』)
「和田家文書をめぐる裁判経過」(『新・古代学第三集』)
「これは己の字ではない」 砂上の和田家文書「偽作」説 『新・古代学』第一集