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『新・古代学』古田武彦とともに 第2集 1996年 新泉社
特集1 和田家文書の検証 和田喜八郎の筆跡

和田家文書筆跡の研究

明治二年の「末吉筆跡」をめぐって

古田武彦

  一

 わたしの学問にとって重要な基礎領域の一、それは筆跡研究である。
 三十代のはじめ、親鸞研究に専心していたとき、この研究領域を避けては前進することが不可能であった。たとえば、親鸞の主著、教行信証の成立論に立ち向ったとき、その根本史料たる坂東本(東本願寺蔵)の解明が焦眉の急となった。それは唯一の自筆本である上、親鸞の各年代(五十代末〜八十代)の筆跡の「叢立」する草稿本であると共に、執拗なまで各年代筆跡の添削の跡を残す完稿本の性格を併せもっていた。その様相の筆跡解明なしに、論争上の問題解明は不可能となっていたからである。
 藤島達朗氏(当時大谷大学教授にして東本願寺側の責任者)のおかげを得て、終日この貴重本の研究調査(専門家の写真撮影及び顕微鏡写真撮影共伴)を行いえたこと、わたしの筆跡研究にとって忘れえぬ画期点となった。
 また西本願寺の重宝たる、歎異抄蓮如本(蓮如自筆本)の研究調査によって、当本をめぐる数々の疑問点を解明した上、当本中、同じき蓮如筆跡ながら、本文と末尾付載文書(流罪記録)と蓮如奥書の間に、深い断層(年齢上の筆跡落差)の存在することを確認できた。これ、その後の筆跡研究進展の基礎となったのである。宮崎圓遵氏(当時竜谷大学教授にして西本願寺側の責任者)のおかげであった。
 後者から生じた問題は、わたしをして蓮如の各年代別筆跡の収集と整理、そして年次別基準筆跡表の作製へと向わしめた。ために全国の寺院や個人の蓮如自筆文書所蔵者の間を歴訪することとなった。三十代の後半である。その結果、二十代より七十代に至る、各年次別筆跡表を完成できたのであった。
 今、研究史をふりかえれば、わたしはこの点、恵まれた時点に、恵まれた研究領域の中にいたと言いうるであろう。
 なぜなら、明治以降の近代親鸞研究が開始されようとしたとき、先ず「疑われた」のは、親鸞その人の「実在か否か」だったのである。表面の論文こそ無けれ、「親鸞、架空の人物説」が、明治の史学者の間に“隠された通説”となっていたのである。
 これを打破しようとした研究、それが辻善之助氏の労作『親鸞聖人筆跡之研究』(大正九年)であった。東西本願寺・高田専修寺等に蔵される「親鸞筆跡」とされた文書を渉猟し、それらが同一人の筆跡であることをしめし、その同一筆跡の所有者たる親鸞の「実在性」を立証しようとしたのである。ここに生じた問題の中には、現在も「有用」な意義をもつ筆跡研究上の問題点があるけれど、それは後述しよう。
 ともあれ、この辻研究を出発点として、大正・昭和(敗戦前と敗戦後に及ぶ)の親鸞研究において、筆跡研究は不可欠の基礎論点の一となった。さらに結城令聞氏の「信巻別撰論」が「教行信証成立論」に一大波紋を投ずるに至り、先の藤島達朗・宮崎圓遵氏や小川貫弌(いつ)・平松令三氏、さらに赤松俊秀・日野環・松野純孝氏等が「筆跡」をめぐって一大論争を展開していた。その論争の大海の只中を、探究の舟に棹さしはじめた幸せを、今痛感する。
 このような親鸞・蓮如筆跡研究の苦辛の日々に比べれば、今当面している「和田家文書の筆跡研究」は、わたしにとっては比較しえぬほど「研究史料に恵まれた領域」と言う他はない。
 なぜならこれらを、全国に渉猟の旅を重ねずとも、和田家より大量の史料群がわたしのもと(昭和薬科大学、文化史研究室)に次々と送られ、研究上の委託を受けていたからである。
 そこには、和田家文書の明治写本(明治を中心として、徳川末期から昭和十五年頃に至る筆写)の書写者たる、和田末吉及び長作(末吉の子。現、当主喜八郎氏の祖父)等の各年代別筆跡が豊富に内蔵されていた。
 従って「蓮如の年次別基準筆跡」のように、「末吉の年次別基準筆跡」の表示を行い、研究の基礎にすえること、そのこと自体きわめて容易であった。
 もちろん、現当主、喜八郎氏の筆跡は、和田家文書の送付等をめぐる交信の間にわたしのもとに累積されていた。その上、わたしの眼前で喜八郎氏が自署し、押印(栂印押捺)される機会にも、実務上、しばしば遭遇したから、わたしにとって氏の筆跡は、きわめて確実かつ周知のところであった。
 それゆえ、いわゆる「偽書」説の輩の流布する「和田家文書、喜八郎氏偽作説」のごときは、「平成に笑い事あり」と言う他なき、砂上の空想棲閣事にすぎなかったのである。
 それはともあれ、右の「末吉筆跡」の基礎的研究をすすめるうち、親鸞・蓮如筆跡の研究のさいには十分には注目しなかった、きわめて興味深い筆跡研究上の深化を経験することとなったのである。
 その上、ここから生れた学問的収穫は、「末吉の実在」や「和田家文書(明治写本)の真実性(リアリティ)」という問題にとどまらず、さらに重大な学問的収穫を得るに至った。先ずこれを報告したい。

  二

 和田家文書の明治写本の「書写年時」を検するに、意外にも江戸末期(安政〜慶応の間)の書写によるもの、必ずしも稀ではない。その最末は昭和十五年頃に至る。この時点は、長作の没年に当る。
 その書写筆跡は、ほとんど末吉・長作の両人に限られている。
 末吉は大正八年の没とされるから、この時点以降のものは、当然長作の筆跡に属する。では、「大正八年以前」のものは、末吉筆跡か。 ーー否。
 「和田末吉」という署名をふくめて、長作筆跡になるもの、決して少なしとしないのである。
 その上、「本文は長作筆跡、末尾の署名のみ末吉筆跡」というものも、稀ではない。
 このような現象は、なぜ生ずるか。思うに、長作が父の末吉に対して「家庭内、秘書」というべき立場にあったからであろう。
 両者の筆跡は、明瞭に異なっている。概して言えば、末吉は拙劣、長作は巧練の筆者である。それ故、両者の判別は、一般的には比較的、容易であると言えよう。
 そのため、長作は父のかたわらに侍して、その「代書役」に徹していたようである。従って「本文」は長作が書き、末尾の署名のみ末吉本人が行う、というケースが生じるのである。
 また「本文と署名(末吉)」をふくめ、百パーセント長作筆跡、というケースも決して少なくはない、むしろいわゆる「明治写本の中の常態の一つ」とさえ言いうるのである。
 従って当本中、末尾に「某年某月某日、和田末吉」とあるからといって、決して「末吉筆跡」とは断ぜられない。「長作筆跡」の可能性も大いにありうるのである。
 それどころか、精査すれば、同一本(たとえば「北鑑」)の中の、A部分は末吉筆跡、次行からのB部分については長作筆跡、その後また、C部分では末吉筆跡にもどる。こういった事態も、十分に検出しうるであろう。
 一見、“とんでもない”史料状況に見えるかもしれないけれど、家庭内の実際状況に立ってみれば、全く不思議ではない。たとえば、末吉が書写の途次、用務で外出し、その間、長作が書き継ぐ、といったケースだ。
 これに対し、末吉没後、状況は一変する。
「昭和壬申年了
      和田末吉
       代筆長作
     (北斗抄廿七記了巻)  」

 右のように、長作は「代筆」者として、自分の「名」をあらわにしているのである。
 先の“代筆のことわりなし、の代筆”が、むしろ「黒子」としての長作の“つつしみ”であったことが知られよう。明治人の節度、と言うべきではあるまいか(長作は明治七年の生れ)。
 ともあれ、わたしの知る限り、全和田家文書中、「喜八郎氏の筆跡」によるものは皆無である。この点、明言する。

  三

 わたしは「末吉・長作筆跡」の研究をすすめる中で、「秘書筆跡の研究」が筆跡学の中に欠落もしくは軽視されてきていたことに気づいた。
 たとえば、戦国武将の何某の筆跡、といった場合、それが当人自身の筆跡か、それとも秘書役の筆跡か、何によって「判定」しうるのであろうか。
 この場合、Aという部将の署名がすべて同一筆跡であったとしても、その部将に秘書役がいて、いずれの場合も、彼が「代筆」したとしたら、後代の研究者がその「代筆署名」をもって「当人の自筆」と錯覚させられる、という事態は、原理上避けがたいのではあるまいか。
 当の秘書役自身の「真筆」が、別にあやまりなき自筆として残されている、というケースは稀有であろうから、今問題の部将の署名が、本当に本人のものかどうか、一般には判別しがたいのである。
 各地の博物館に残されている、名ある部将の流麗な「自署名」を見つつ、わたしにはこの疑問が消しがたくなったのである。
 このような場合、当人(名ある部将)が未だ「秘書役」などかかえるような身分ではなかった時代、その当時の「本当の自筆」が、後年の「秘書役による流麗な署名」を“当人の基準筆跡”とする立場からの「判定」をうけ、逆に“真っ赤な偽筆”ときめつけられる可能性はないか。むしろわたしには、それが一般的にありうるケースのように見えてきたのである。
 戦国の武将など、功成り、名をとげてこそ「著名人物」だ。それ以前は、野卑で男の精気のみ発散していた人物であったとしても、何の不思議もない。“書道を習ってから、旗上げする”必要など、どこにもないのであるから。
 このような視点から見ると、真の部将の真筆が“野にうずもれ”て、偽筆あつかいをうけている。その可能性は十分にあるように思われる。
 もちろんこれは、戦国武将の事例には限らない。
 筆跡学全体の問題であろう。この点、和田家文書、明治写本の筆跡研究は、貴重な間題提起を、わたしたちに与えることとなった。

  四

 和田家文書中の「日本北鑑、全」一冊の末尾に、次の署名がある。
「大正六年霜月、和田家四十六代、八十八歳翁、士族和田長三郎末吉」

 ここで「士族」とあるのは、和田義盛の子孫であることを誇る、その自負の表現であろう。必ずしも、津軽藩が和田家を「士族」として遇していた、という意味ではない。
 それはさておき、右の文書から末吉の生年を知りうる。
 大正六年(一九一七) ーー 八十八歳
 天保元年(一八三〇) ーー   一歳
 明治元年(一八六八) ーー 三十九歳

 末吉の生れた「天保元年」は、秋田孝季の最晩年だったようである。
「     孝季入滅之事
 天保二年十二月三日、長時咳(せき)に苦しみ丑の刻に逝けり。遺言ありて石塔山に埋む。仏事法要一切辭し、戒名亦辭したり唯荒覇吐(あらはばき)神の唱題耳(みみ)にて葬むれり。
             天保三年二月七日
              長三郎 吉次  」

 右の文書は長作筆跡である。これによれば、吉次とりく(孝季の妹。吉次の後妻か)との間に生れた第一子、権七の子(第二十四子)、末吉を、孝季と吉次は「見た」こととなろう。ことに、吉次の場合、最後の「孫」であった。
 これらの詳細は、「秋田孝季伝」「和田長三郎吉次伝」「和田りく伝」及び「和田長三郎末吉伝」の研究にまたねばならないけれど、今の問題に必要なのは、明治維新のさい、宋浩が三十九歳という、男盛りの時期にあった、という一点だ。(1)
 この点からすれば、先にのべたように「安政〜慶応」(一八五四〜一八六八)の間、すなわち、二十代から三十代にかけて、その書写文書が和田家文書中に含有されているのも、何等不思議はない。
 けれども、「書写年代」が最初に集中的に出現するのは、明治二年(己巳、一八六九)である。
 これは、はじめ、薩長を中心とした反幕府運動に共鳴した末吉たちが、やがて明治政府の樹立と共に、その「官権主義」に失望してゆく。これこそ「和田末吉伝」の最初のハイライトであるが、今はおこう(「天内(あまない)親王」問題と関係する)。
 ともあれ、新政府に対して「冷めた目」をもつに至った末吉は、果然「和田家文書の再写」にエネルギーを傾注しはじめる。来たるべき「未来のある日」に夢を托そうとしたのだ。
 それが「明治二年、己巳」という年の、末吉にとって、もった意義。記念の年だったのである。
 その「明治二年、己巳」の書写文書の中に「荒神谷」をめぐる一文がふくまれている。
「      荒覇吐神一統史
 出雲神社に祀らる玄武の神、亀甲とイヒカの神は荒覇吐国主三神にして古来より祀らるも、世襲に於て川神とて遺りぬ。出雲荒神谷神社は大物主の神を祀りし処なるも、廃社となりにしは開化天皇の代なり。討物を神に献じるを禁ぜしより無用と相成りぬ。
 倭領に荒覇吐神にて一統されしは少かに三十年なりと曰ふ。神器ことごとく土中に埋め、神をも改めたる多し。孝元天皇をして荒覇吐神布せしにも、開化天皇をして是を改めきは、奥州に大根子王を建宮せるに依れるものなりと曰ふ。開化天皇鉄の武具を好みて神器とし、銅なる神器を土に埋めたり。神をば天地八百万神として荒覇吐神を廃したりと曰ふ。
      寛永二十年八月二日
                大 邑 土 佐 守」

 このあと、「廃神器図」と題し、「神把鐘」(“後期銅鐸”)「牟」(“矛”)「皮斬」(“手刀”)「腰剣」(“銅剣”)の四図が付されている(“ ”内は古田)。これは土佐守の「見解」であろう。
 この記事はすでに『東日流六郡誌大要」(八幡書店本、四〇八〜四一〇ぺージ)にあったが、この本の出版は「一九九〇年(平成二年)一月」だった。これに対し、荒神谷における三五八本の銅剣(古田の考えでは“出雲矛”)・十六本の銅矛(筑紫矛)・六個の銅鐸(“前期銅鐸”)の出土は「一九八四年(昭和五十九年)」だ。
 すなわち、本の方が発掘の“六年あと”だったのである。
 ために、「荒神谷の発掘を知った上での、偽作」そういう疑いがもたれたのであった。
 しかし、当「八幡書店本」の依拠文書(コピー)を検すると、これは、
「東日流六郡誌大要」第二十六巻
に属し、全文「同一筆跡」であり、その末尾に
「以上何れも漢書なり
    己巳年
     末吉再書 」

とあり、まさに「末吉筆跡」そのものをしめしていたのである。「長作筆跡」ではなく、もちろん「喜八郎氏の筆跡」とは全く異質の筆跡である。
 「己巳年」とは、もとより「明治二年」のことだ(コピーの傍記 ーー八幡書店側ーー では「己二年」と誤読している)。

 なお、右の文面のしめすところ(文意)につき、わたしの理解のポイントを個条書きしてみよう。
 (1).出雲において、最初行われていた「荒覇吐神の信仰」が、ある一点を境に「天地八百万神の信仰」へと一大転換を強いられることとなった(あるいは、いわゆる「国ゆずり」の時点か ーー古田)。
 (2).荒神谷には「大物主の神=大国主命」を祀る神社があったが、これも廃社とされ、そこにあった「神器」は土中に埋められてしまった。
 (3).それが公然と地上で尊崇されていたのは、孝元天皇(皇暦四四七〜五〇三、西暦、前二一四〜前一五八)の頃であり、廃棄されて土中に埋められたのは、開化天皇(皇暦五〇三〜五六三、西暦、前一五八〜前九八)の頃のことであった。

 以上が骨子だ。
 皇暦は、現在では“なじみ”がないけれど、神社・仏閣の由来(明治前のもの)は、ほとんどこの「紀年」で書かれている。これを「西暦」に直してみる(「六六〇」を引く)と、いずれも“史実らしき”相貌をもつものが少なくないのである(たとえば、稲の渡来が、甲斐の国で、弥生期になっているなど)。
 ここでも、「国ゆずり」らしき事件が「前二世紀後半」とされ、大国主命の時代が「前二世紀前半」とされている点、一種の真実性(リァリティ)を感じさせるものがある。少なくとも、荒唐無稽とは言えないのである(たとえば、これが「五千年前」「一万年前」などとあれば、問題にならぬであろう)。
 わたしが「国ゆずり」をもって、古代史上の重要な史実、その画期線と見なすこと、『盗まれた神話』(現在、朝日文庫、増補版)以来の主張点である。
 ともあれ、キイ・ポイントは次の二点だ。
 第一、当文書が筆跡研究上、「末吉の明治二年筆跡」に属することが確認されたのであるから、当然「偽作」論など、成立の余地はない。
 第二、しかも、当記事が単なる「浮伝・浮説」の類でなかったことは、今回(一九八四年)の荒神谷の発掘によって証明された。
 第三、「荒神谷」に関する記載は、古事記・日本書紀・風土記等に皆無である。和田家文書のもつ、「無二の貴重性」が知られよう。
 第四、「国ゆずり」の「時点」及び「信仰上の一大転換」についての、当文書の情報は、きわめて貴重であり、注目すべきだ
(これを、当筆者 ーー大邑土佐守ーー は、天皇家中心の「皇国史観」の観点から“叙述”している)。
 第五、秋田孝季は、「東日流中心史観」の持主であるから、自己の史観とは別個に、眼前の史料を、そのまま「書写」したことが知られる(このような書写態度の必要性を、孝季と吉次は、くりかえし強調している)。
 当文書は、無二の「真作証明」の文書となったのである。

  五

 同じ「明治二年」の年時をもつ、さらに興味深い文書がある。
「     祖訓大要  壱儀
 北斗流鬼国・久利流・千島・日高大州より、東日流日高見国を以て日本中央となせるは荒覇吐国にして、日輪の下古代より歴史栄ある日下王国たり。(中略)
 荒覇吐の一族は累代にして非理法権天を覚り、常にして平等一光の天日に崇め、人をして吾が一族の生々に人の上に人を造らず、亦人の下に人を造るべからずと曰ふ祖訓を護こそよけれ。(下略)」

 右の一文の末尾は左のようである。
 「右は安倍国東の遺訓なり。
 原漢文なるを釈す。
  寛政五年六月吉日
          秋田次郎孝季
 注而
右渡島阿吽寺蔵書写也。
           末吉再書」
(『東日流六郡誌大要』八幡書店本、七一〇〜七一二ぺージ)

 ところが、その書写原本(コピー)〔=明治写本〕によってみると、末尾は
 「         明治己巳年末吉再書」
となっている。例の「明治二年書写本」の形なのである。
 一方、末吉は次のようにのべている。
「吾レ学志ナル福沢氏ノ請願ニ耳(のみ)荒覇吐神大要ヲ告ゲケレバ、彼ガ世ニ著シタル一行ニ引用アリ。『学問の進メ』ニ題セル筆ニ『天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ、人ノ下ニ人ヲ造ラズ』ト吾等一族ノ祖訓を記タル者也。」
(中山秘問帳、和田長三郎末吉。明治二十年三月四日)
 「荒覇吐神大要」の題名は別にある(『東日流六郡志大要』八幡書店本、四四七ぺージ)けれども、ここはその名を「總名」のごとく用いたものであろう。
 要は、右にあげた「祖訓大要」こそ、末吉が「福沢に見せた」という、当の文書であると思われる。「吾等一族ノ祖訓を記タル者」という表現とピッタリ一致する上、
「・・・と曰ふ祖訓」
という表記法も、福沢諭吉の『学問のすゝめ』冒頭の
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」
の末尾とほぼ共通しているからである
(他の和田家文書中の同類表現中には「といふ」という語尾をともなっていない。『真実の東北王朝』二四二〜二四六ぺージ参照)。
 また「天は・・・」というストレートな主格は、「日之本将軍安倍安国状」(寛政五年八月、秋田孝季書)に出現している
(『総輯、東日流六郡誌、全』一五四ぺージ)。
 さて、右の「祖訓大要」の書写年次が
「明治己巳年(=二年)」
である点に注目しよう。
 『学問のすゝめ』初篇の末尾の「端書(はしがき)」には、
「明治四年未(ひつじ)十二月」
とあり、当書は「明治五年二月」に出版された。

 和田家文書→学問のすゝめ
という、源流と伝播の関係、その「矢印」の方向は疑いえないように見えるのである。

  六

 けれどもここに、一個の筆跡上の問題点がある。
 当文書「祖訓大要」の筆跡、また末尾の「末吉署名」の筆跡」、この両者は同一筆跡のようであるけれど、「末吉筆跡」ではない。
 この筆跡を、和田喜八郎氏に見せたところ、一言で「あゝ、これは孫じいさんだよ。」と言われた。「孫じいさん」とは、長作のことである
(一九九六年〈平成八年〉三月一日、東京都文京区民センター「続共同研究会〔和田家文書研究〕最終回」会場にて)。
 確かに、和田家文書(明治写本)の全体が、ほとんど「末吉に非ずんば、長作」の筆跡なのであるから、その点から見ると、右のような喜八郎氏の判断は首肯できる。
 しかしながら、なお熟視すると、この筆跡は、
「長作に似て、長作より美しい」
観の筆跡である。あるいは、当人(長作)が威儀を正して浄書したもの、とも見なしうるであろう。
 ところが、この「祖訓大要」の表題の直下に、他で見馴れぬ文字が記されている。
 「壱儀」
の二字である。不明の二字だ。
思うに、この「儀」は近世文書慣用の接尾辞ではあるまいか。

「人を示す体言に添えて、主題であることを示す」「私儀」「その方儀」(広辞苑)
とあるように。
 すなわち、この「壱」は人名であり、この文面の「筆者」(女性)の名なのではあるまいか。
「この一文は、いち(壱)が書かせていただきました」
の意だ。だとすれば、この流麗な筆跡の持主の名がしめされていることとなろう。
 しかも、父の末吉よりは、はるかに習熟した筆跡をもつ息子の長作の筆跡と類似している点からすれば、あるいはその「習字の師匠」であった人かもしれぬ。
 しかし、その人の存在も確かめえぬ今、いたずらに「推測」することはつつしみたい。その可能性を提示し、解決を将来に待つ。これが筆跡研究にたずさわる者の、守るべき学問的節度というべきだからである。
 ここで、学問的筆跡研究の基本問題について一言させていただきたい。近世「箱書き」師が横行した。農村の旧家などに蔵されている書画の鑑定を行い、「これは秀吉の筆」とか「これは親鸞の真筆」といった「保証の文言」を、当の書画の箱裏などに書きつけたところから、これを「箱書き」と称したのである。わたしも、親鸞の筆跡研究の途次、しばしばこの類の文書に遭遇したけれども、もちろん全く“信用の限り”ではなかった。要は、所蔵者から「謝礼」を得て「極書(きわめがき)」を記するのであるから、当然のことだ。
 だが、それ以上に重要なことがある。それは、筆跡というものは、
「黙って見れば、ピタリと当たる」
そういうものではない。比較すべき対照史料に恵まれ、同時期、同人物、同材料の資料と綿密に比較した上で、なおかつ
「判る場合は、判る。判らない場合は、判らない」
 これが筆跡判断の根本なのである。もっと言えば、「判りません」と言うことを恐れぬ者、それこそ真の筆跡研究者、学問的研究者なのである。
 この点、「否定的見解」をしめす者についても、同じだ。「箱書き」師の場合、職業上、肯定的判断を示しやすいのに対し、その“近代的継承者”たる、現代の文書研究者の場合、「大学教授」その他の「定職」をもっている(あるいは、もっていた)者が多いから、逆に「これは、〜ではない。」という否定的判断をしめすことによって、「自家の権威」をしめす。そういう傾きが少なくないのである。
 現われる「現象」は逆でも、その本質において、近世の「箱書き」師と変るところはないのである。
 わたしにとって、親鸞や蓮如の筆跡研究とは、そのような、

「黙って坐れば、ピタリと当たる」

ていの、いわゆる「専門家」や「鑑定家」の眼識との、正面からの闘いであった。それが、近代の学問的筆跡学の基本ルールであるから。

 今回も、和田家文書の全体に「直接」せずして、あれやこれやの「御託宣」を記している文書研究者の出現を見て、
「○○氏よ、お前もか」

の嘆きを深うしないわけにはゆかない。なぜなら彼等は、「少しでも、多くの和田家文書にふれる」「写真化して、慎重に比較研究する」「文書の所蔵者たる和田喜八郎氏に確認を求める」「本人(喜八郎氏)の筆跡を、本人に確認する」「先行研究者(古田など)に対して謙虚に問う」こういった、筆跡研究上不可欠の基礎作業を一切行わず、一方の「偽書」説の輩の提示に從って、

「黙って坐れば、ピタリと当たる」

式の判断を下している。一大誤断におちいっているのも、自業自得だ。将来の筆跡研究上、貴重な、しかしあまりにも哀れな、教訓を残しているのである。
 先にあげた、末吉の「中山秘問帳」の冒頭で、彼は「学志」という言葉を用いている。はじめ、意味不明だった。最近(本年三月)判明した。「同志」の類語、「学び合う同志」の意だ。明治初頭の香りただよう「造語」もしくは「用語」だ。
 悪意で人脳を狂わせた輩や彼等に利用されるままの現代「箱書き」師とは、キッパリと手を切り、和田家文書のしめす「無二の宝典」の真価を学ぼうとする者、それは今後絶えることはない。日を追ってますます増えることを信ずる。(2)
 その「学志」のために、この一文を草したのである。

〈注〉
 (1)末吉の年齢について、「戸籍上の誤差」が存在する。この点、明治維新当時の新戸籍成立上の問題点として、きわめて興味深い解決をえたのであるが、別に詳論する。

 (2)第一集(二〇ぺージ上段)にものべたが、「偽書」論の側の「筆跡鑑定」が、いかにして誤まり、一種の「泥沼の渦」の中に入っていったか、筆跡研究史上、まさに好個の「悪例」である。紙数の関係上、別に詳論したい。

付 和田末吉規準筆跡

(1) 天保元年       一八三〇  和田権七
(2) 弘化乙巳(二)年   一八四五  和田長三郎(未明)
(3) 元治元年       一八六四  和田長三郎(未明)
(4) 慶応乙丑元年     一八六五  和田長三郎(未明)
(5) 明治二年       一八六九  和田長三郎(末吉以下同)
(6) 明治己巳(二)年   一八六九  和田長三郎

(7) 明治己巳(二)年   一八六九  末吉蔵(長作再写か)
(8) 明治二年       一八六九  和田長三郎(末吉以下同)
(9) (明治乙巳〈二〉年) 一八六九  (11)につづく
(10)(明治乙巳〈二〉年) 一八六九  (11)につづく
(11)己巳(明治二)年   一八六九  末吉再書
(12)明治己巳(二)年   一八六九  和田長三郎

(13)明治年己巳(二)   一八六九  和田長三郎(末吉以下同)
(14)明治庚午三年     一八七〇  和田長三郎
(15)明治五年       一八七二  和田長三郎
(16)明治八年       一八七二  和田長三郎末吉
(17)明治十五       一八八二  和田長三郎末吉
      《両名同筆か》       子息長作拝
(18)明治十五年      一八八二  和田末吉
  《両名同筆か、非末吉筆》     和田長作

(19)明治十五年      一八八二  和田末吉
(20)明治二十年      一八八七  和田末吉
(21)明治廿一年      一八八八  和田長作
(22)明治甲辰(三七)   一九〇四  和田長三郎末吉
(23)明治四十年      一九〇七  和田末吉
(24)大正元年       一九一二  和田末吉

(25)昭和壬申(七)年   一九三二  和田長作
(26)昭和壬申(七)年   一九三二  和田末吉
    《(25)につづく》       代筆長作
(27)  (裏表紙に類出)       和田末吉
                   (長作)
(28)安永乙末(四)年   一七七五  秋田孝季
(29)伊達鏡実録巻之五         秋田孝季
(30)伊達鏡実録巻之五         秋田孝季

(31)〈護国女太平記〉         孝季記
(32)〈久米寺より拝領〉        和田長三郎(吉次か)
(33)天明元年       一七八一  和田家蔵壱岐
(34)(昭和)廿年     一九四五  和田喜八郎
 (和田喜八郎の筆跡)
(35)〈自己確認署名〉   古田あて  和田喜八郎
 (和田喜八郎の筆跡)
(36)〈自己確認署名〉   古田あて  和田喜八郎
 (和田喜八郎の筆跡)
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決定的一級史料の出現 「寛政奉納額」の「発見」によって東日流外三郡誌「偽書説」は消滅した(古田史学会報 一号)

和田家文書をめぐって 「和田喜八郎氏偽作」説の問題点(古田史学会報 一号)

和田家文書は真作である ーー「偽作」論者への史料批判ーー(古田史学会報 三号)

和田家絵画の史料批判「八十八景」の異同をめぐって,「筆跡鑑定」の史料批判<序説>反倫理を問う 古田武彦(古田史学会報十四号)


『真実の東北王朝』(駿々堂 古田武彦)へ

『東日流外三郡誌』序論 日本を愛する者に 古田武彦 『新・古代学』第七集

浅見光彦氏への“レター” 古田武彦 『新・古代学』第八集

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付 和田末吉基準筆跡〔他筆若干〕(1)〜(36) へ

寛政原本と古田史学 古田武彦(古田史学会報81号)

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