『新・古代学』 第2集 へ
縄文の定説を覆す 三内丸山遺跡現地報告 蒲田武志(1994年12月3日)N0.4 PDF TAGEN)
寛政原本と古田史学 古田武彦(古田史学会報81号)
浅見光彦氏への“レター” 古田武彦 『新・古代学』第八集
『新・古代学』古田武彦とともに 第2集 1996年 新泉社
特集1 和田家文書の検証
古田武彦
一
ある人がわたしに忠告してくれた。
「和田家文書を、偽書だと言ってる連中がいるでしょう。あんな連中には、反論なんかしない方がいいですよ。」
「なぜですか。」
「だって、ものの分かる人たちは、もう、あれが偽書だなんて、誰も思ってやしませんよ。今まで、たとえば古田さんが『新古代学」の第一集に書かれたのを見れば、知れ切ったことです。それを、なお偽書だなどと言い立てるのは、別に底意があって、のことにきまっています。
それにいちいち反論していては、古田さんがむこうと、同じレベルになってしまいますよ。馬鹿々々しい、ですよ。」
もっともな、核心を突いた言葉だった。お気持が身に泌みた。
だが、わたしの気持を率直に言えば、半分は、全くその通り。半分は、否、だ。その理由をのべよう。
まず、「否」の方。先方が無理無体の言い放題なこと、これは言うまでもない。その証拠に、先の第一集で指摘された誤断、それも致命傷をなす誤断には、口をぬぐって「知らぬ顔の半兵衛」をきめこんでいる。たとえば、自分たちが前々から「疑いなき、和田喜八郎氏の筆跡」と称してきた基本筆跡、それが当人のものではなかった。これをわたしが指摘した。明確な証拠も出した(「これは己の字ではない」一六ぺージ)。
驚天動地、「偽作説は一挙に消滅」のはず。 ーーところが、そうはならない。またまた、しょうこりもなく、別の「偽証拠」「偽証人」をかつぎだす。
このやり方の中に、ハッキリと現われている。彼等は「真実か、否か」をつきとめようとする、真摯な探究者などとは、全く縁もゆかりもない。別の宇宙の輩だ。ただ「偽書さわぎで人目を引く」ことだけが関心の的であるかのようだ。
けれども、そうであればあるほど、彼等と全くちがった方法、「学問とは、かくあるべし」という、堂々たる態度で、論じ来たり、論じ去る。見る人は、必ず見る。知る人は、必ず知るであろう。幸いに、世には「扇動」と「中傷」の記事に“舌なめずり”する輩とは、別種の人間がいる。その人間の眼前に、堂々たる反論を提出する。決して無駄ではない。すなわち、その「反論」は、現在と未来の人間のために書かれる。卑劣な輩のためにではない。
次は、「その通り」の方。シュリーマンは、わたしの敬愛する先人だ。その生涯と業績は、いつもわたしの心の奥底をふるいたたせる。
彼には、いたましい「反応」が襲った。彼への賞讃の代りに、「詐欺師」「ぺてん師」「にせの骨董品を買いこみ、発掘品と称する大山師」こういった悪罵と中傷を投げつける人々が次々と現われたのである。あるいは、博物館長、あるいは、軍人。背後には、有名な学者たちがいた。今回も、同じだ。
シュリーマンはこれと闘った。自分の名誉と潔白と、そして自分の発掘した遺跡や遺物の真実性のために、晩年のエネルギーをそそぎつくしたのである。
それは当然の行為だった。だが、そのために、彼の時間とエネルギーがさかれ、それがなければ、彼の挑戦したであろう、また果したであろう、幾多の「発掘」は、未発に終った、という。あまりにも、いたましい。疑いなく、人類にとっての損失だ。
わたしなど、シュリーマンには及ぶべくもない一介の探究者にすぎないけれど、「いのち」の終りが近づいていること、彼と何の変りもない。否、わたしの現在の歳の一年前(六十八歳)に、彼はそのすばらしい生涯を終った。六十代の彼が、“馬鹿々々しい対応”に時間を奪われず、彼本来の仕事に没入できていたら、と思うのは、わたしだけではないであろう。
それゆえ、「同じレベル」の反論に、貴重な時間を費やすなかれ、という御忠告は「まことに然り」一点の疑いもない。そもそも、わたし自身にとって、「反論」など、言うなれば“おこがましい”ことだ。なぜなら、わたし自身、彪大な和田家文書、過去帳などの和田家基礎資料、秋田孝季の自筆文書(書物の書写本)等々にとりくんできた結果、「偽書」の「偽」の字も、全く念頭に浮かばぬ。これが正直な気持だ。
だから、今なお「偽書説」などにかじりついている輩に対しては「可哀そうだ」という気持があふれてくる。とめようもない。
だから、そんな「反論レベル」ではなく、わたしの目途するところは、別だ。全く別の世界だ。それは何か。
「この貴重な文書群のしめす内実について、一刻も早く、わたしのいのちのある間に、世の人々に告げたい。」
この一心だ。以下、その一端として、しるさせていただく。
二
第一は「粛慎」起源伝承である。
和田家文書の中枢をなす雄篇、それは「東日流外つがる そと三郡誌」と呼ばれている。その中では、わが国における、人間の起源は「粛慎にあり」とされている。
A「抑々(そもそも)、東日流国の開闢(かいびゃく)は今をして実に遠く、西海、北海は陸にて続く大広莫(漠ヵ)たる陸地にて、支那、韓国に到れる間、皆陸なり。亦、渡嶋への北海も陸にて続きたり。(中略)東日流にては阿蘇辺一族が開闢以来の住民にして、その暮(くらし)は狩と漁のみにて生々し、住む処定まらず、樹下や岩穴にかりねせり。」
(元禄十年、書写秋田頼季。「東日流開闢」原漢文、荒磯神社由書。八幡書店本、1の一四五)
B「神なるは天地水にして、山を父とし、海を母とせる崇拝をなせるは阿蘇辺族なり。抑々、未だ人の住まざる東日流の地に人蹟の初祖とて住むる民なり。先なる上つ代のことにて、日本史書は一行にも阿蘇辺族に筆すること見当らず、東日流に遺りき、点と線に刻めし語板に伝はりきを以てこの一巻に解くものなり。(中略)これなる半獣なるくらし十万年に忍び、世に寒冷永ける期に至り、(下略)」
(文政五年一月、秋田孝季記。「阿蘇辺族伝話」奥州日高見国東日流江流澗郡語邑、帯川の作太郎が所持語板印による)
C「東日流超古代の民族に阿曽辺族と曰ふあり。是の一族の祖を粛慎族とも曰ふなり。」
(元禄十年八月、藤井伊予「阿曽辺族之変」八幡書店本、1の一五二)
わが国の最古の住民を「アソベ(阿蘇辺・阿曽部等)族」とすることは、当文献にくりかえし出てくるところ。その「アソベ族」は、粛慎の一派である、という(モンゴロイド族とするものもある)。
この「粛慎」は、中国の古典に出現する著名の名(民族名、もしくは文明圏名)だ。
(1),成王既に東夷を伐ち、粛慎来賀す。(尚書、序)
(2),粛慎、燕毫、吾が北土なり。〔注〕粛慎は北夷。玄蒐の北、三千余里に在り。(春秋左氏伝、昭九)
(3),是(ここ)に於て粛慎氏、[木苦]矢を貢す。(国語、魯語下)
(4),粛慎の国、白民の北に在り。(山海経、海外西経)
(5),粛慎は、今の邑*婁(ゆうろう)なり。(漢書、東夷伝)
[木苦]は、木編に苦。
邑*婁(ゆうろう)の邑*は、手偏に邑。JIS第三水準ユニコード6339
右で明らかなように、少なくとも春秋戦国時代、沿海州近辺に拡がっていた大部族、もしくは巨大文明圏の名であった。
「今の松花江・鳥蘇里江(ウスリー)・黒竜江の流域」(諸橋大漢和辞典)
と言う通りだ。中国の吉林省・黒竜江省からロシアの沿海州にまたがる巨大領域に“住地”もしくは“遊牧”していた一大文明圏の人々であった。
この地の部族こそ、日本列島の先住民と“一体”である。もしくは、後者は前者(粛慎)の一派である。 ーーこれが和田家文書の歴史観、その淵源である。
この史観は、是か、非か。
わたしは、論議の余地なく「是」と考える。そうとしか考えられないのである。なぜか。
言うまでもない。日本列島が本来「島」ではなく、大陸の一部であったこと、それを疑いうる人はいない。とすれば、右の道理は必至だ。なぜなら、日本列島が大陸と一部はつながっていたという時期から、この「列島(のちの姿)地帯」に人間が住んでいたこと、それは今や自明である。なぜなら、一昨年「発見」された東北地方の「上高森遺跡」など、六十万年以上をさかのぼる「年代」が測定されている。この時点において、明らかに日本列島は大陸と地(もしくは氷)つづきだったのだから、
「日本列島民」と「沿海州民」
とを“分離”して考えることは不可能なのである。
たとえそれを「粛慎」の名で呼ぼうと、他の名(モンゴロイド等)で呼ぼうと、右の事実に変りはない。
わたしたちが、中国の古典によって「認識している名」で呼んでみれば、すなわち「粛慎」の二字となろう。
「わたしたち、日本列島人の祖先(の一方)は、粛慎の一派である。」(他方は海洋民)
この自明のテーマは、わたしたちの日本史の教科書にはなかった。古事記・日本書紀・風土記など、近畿天皇家系の古典によっていたから、「粛慎」の「粛」の字もなかった。この自明の重大テーマを、根源のテーマを、ポロリと欠落していたのである。あたかも、あのコロンブスの卵のたとえのように。
しかし、和田家文書は記していた。「東日流外三郡誌」は、その正しい歴史観に根ざしていた。それをくりかえし強調していた。それが「アソベ族」の存在だ。
この一事のしめす道理を明白に見つめることのできる人には、「和田家文書、偽書説」など、机上の妄想、笑うべき妄誕にすぎぬ。
逆に、和田家文書は、わが国の歴史を正当に、理性的に語ろうとするとき、決して逸しえぬ、無二の宝典なのである。
三
第二は「六本柱」高殿伝承の叙述である。
すでに、第一集でのべたように、三内丸山遺跡において出土した、二十メートルを越える(六本柱の)巨大木造建造物、それは和田家文書の中に記述されていた。「雲を抜ける如き石神殿を造りき(「し」か)あり。」(「東日流外三郡誌」)「阿曽辺族」に次ぐ「第二の先住(渡来)民たる「津保化族」が「山内(=三内」)」の地等に建立したところ、とされていたのであった(「北斗抄」)。
このことだけでも、驚異だった。ところがさらに、具体的な叙述に出会ったのである。「此の神像たるは柱六本の三階高楼を築き、地階に水神、二階に地神、三階に天神を祀りて祭事せり」
(「神像之事」丑寅日本國史繪巻、六之巻。句読点は古田。以下同じ)
この項は、次の一文をもってはじまる。
「イオマンテに奉斎せる神像とは石神なり」
第一集で「石神殿」を“石神の殿”と解したのは、正しかったようである。その「石神」とは何か。つづいて言う。
「宇宙より落下さるママ流星石をイシカ神、山に木の石となるゝをホノリ神、海や川に魚貝の石となれるをガコ神とせるは古来よりの神像たり」
隕(いん)石・木石・化石の類が「石神」として祀られていた、というのである。古代信仰の姿として、何の疑うべきところもない。
さらに、当文書には、当の石神殿の「画」(次頁)が描かれている。
当文書の筆跡は、和田長作。末吉の息子、喜八郎氏の祖父に当る。(筆跡については、別論文参照)
長作は、昭和十五年頃没したから、当文書(「丑寅日本國史繪巻」)の書写時点は、当然ながら、それ以前だ。
だから、一昨年(平成六年)三内丸山遺跡から「六本柱の高層建造物跡」の出土するより、はるかに早く、この文書(明治写本。明治・大正・昭和にわたる。末吉と長作による)は実在していたのである。
もちろん、将来「寛政原本」が世に公開されるときは、孝季・りく・吉次等の筆跡や画によって、この「六本柱の石神殿」について書画されている姿を、人々は見るであろう。
わたしはすでに見た。右にのべられている石神たる「隕いん石」や「化石」が、和田喜八郎氏のもとに蔵されているのを見たのである。喜八郎氏は、ただ「これは隕石だ。」「これは化石だ。」として、わたしにしめしたのみであったけれど、それらこそ実は、往古の「神像」の姿だったのである。
(「木石」に当るものについては、昨年八月、札幌の古田史学の会の講演のあと、現地の平島剛さん(北大助教授)からいただいた。札幌の川床にあったもの、という)
思うに、これは不思議ではない。
なぜなら、あの「男性のシンボル」や「女性のシンボル」が旧石器・縄文にさかのぼる信仰であることを疑う人はいない。ところが、現在も、東北の農村では、田んぼのそばにこれらを祀り、季節による祭事を絶やしていないからである。
同様に縄文時代に淵源する「六本柱の石神殿」やそこに祭られた「神像」たる、隕石・木石・化石の類が近年まで“祭られ”つづけていたとしても、何の不思議もないのである。
(和田喜八郎氏の石塔山の祭祀場は、天正から江戸初期の頃、津軽藩側の手によって爆破された、と伝えられる)
ともあれ、わたしは次の一点を明示したい。
「三内丸山に文献の後づけあり。」
と。古事記・日本書紀だけを「古代文献」と妄信する人々のみが、この事実を正視しようとしないのである。
やがて、世界の心ある人々がこの和田家文書のもつ、無二の史料価値に心を開きはじめることであろう。
四
第三は「日蓮赦免」文書である。
日蓮(一二六九〜一三四二)が竜ノ口(鎌倉市)で斬首の刑に遭うべきところ、不思議の急転あり、佐渡流罪へと一変したこと、周知の史実である。
この事件は「竜ノ口の法難」として、奇跡譚の随一として、流布されていることもまた、知られたところであろう。
ところが、和田家文書中には、全く別の視点からの叙述をもつ文書が収蔵されている。貴重な史料であるから、その全文を左に収録する。
「貞應元年二月十六日安房の國東條卿に漁家貫名左衛門重忠父とし、母は清原氏女子名を鈴蟲を父母として生るは善日麿にて、十二歳にして薬王丸と改む。
此の年清澄山に登りて道善に従ひ、十六歳に至る間、諸學を學得師事さる。求道を志して十八歳にして薙髪し、僧名を蓮長と曰ふも、後日に日蓮と改む。
仁治三年無量義経を閲して釋迦出世の本懐にその真理を師道善に質問せるも名答是れなく、遂にして修學を立志し、鎌倉に出で、更に比叡山に入峰して三井寺・京師・大和・高野山各々に諸宗の教義を修め、再度比叡山に帰山し、遂に法華経に最勝無上の真理相應して自得せり。
建長五年正月に帰郷し、親を訪れ、法華経の理りを説きぬ。
此の年の四月二十八日清澄山に登り、かつては父に知らされき(「し」か)丑寅の[魚毛]ケ崎に日本國最朝(ママ)の夜明ありと聞く位(抹消痕あり)方に向ひて南無妙法蓮華経とて十編を題目す。
それより地頭東條景信に逐はれ、鎌倉に庵居し、日夜法華経を誦し、辻に説法して巡り、文應元年立正安國論を北條時頼に請上して忿怒を招き、伊治(「豆」か)伊東に流罪されしも、同三年赦され、鎌倉に歸りて諸宗の否を罵りて土牢に幽せられ、文永八年龍口にて斬首の刑に蒙らんとせるも、陸奥の安東船なる龍飛十郎兼季の船出に不吉とて願ひあり、斬首を免じ佐渡に配流さる。
同十一年赦されて留守居布教僧日朗に迎へられて鎌倉に帰り倶に尋て甲州身延山を法場と開山し、之に庵居し、法華経奥義に専ら述作に専念す。
弘安五年十月信徒なる池上宗仲に迎へられ、武蔵池上邸に至り、同年同月十三日に寂す。
時に御壽六十一歳にして丑寅に向へて(ママ)南無妙法蓮華経と七度び稱題目し、諸弟子に弘めよ吾が宗を、とて遺言せりと曰ふ。
彼の遺せし論書あり。撰時鈔・開日鈔・観心本尊鈔・守護國家論・(ママ)立正安國家論・立正安國論・教機時國鈔他、三百九十餘書也。
日蓮が丑寅に拝すは、昼は日輪、夜は北極星を常拝すと曰ふ。」
(「北鑑」第四十六巻、廿二)
[魚毛](とど)は、魚偏に毛。JIS第三水準ユニコード9B79
この第四十六巻の末尾には、「四十三」として、「北鑑第四十六巻を了筆す」にはじまる、和田末吉の「自文」があり、最後に、
「大正丁己
六年八月二日
飯積 派立の住
和 田 長 三郎
末 吉 」
の署名がある。
これは、末吉最晩年であるから、筆跡は息子の長作(秘書役)による代筆のようであるが、裏表紙の左下に、
「和田末吉(押印)」
とあり、これは末吉自身の筆跡のようである。
さて、右の日蓮関係文書中に含まれた「赦免」に関する一節は、注目すべき文書性格をもつ。なぜなら、通例流布されているところとは、全く異った情報を含んでいるからである。
これによれば、「赦免」に関する、直接の動機として、安東船の責任者たる竜飛十郎兼季の願い状の存在をあげている。その理由は「船出に不吉」ということであった、というのである。
この情報は、周知の奇跡譚とは、一見矛盾しているかに見えるけれども、さらに深く見つめれば、必ずしも「矛盾」ではないのかもしれぬ。
今、わたしの見るところを個条書きしてみよう。
第一、鎌倉幕府自身の中にも、表面の強硬決定(斬首の刑)にもかかわらず、「“僧侶を斬る”という所業を非とする」批判の声は、少なくなかったであろう。
第二、ことに、当人(日蓮)自身の、堂々とした、恐れぬ言動を、直接見、聞きした人々には、今回の決定(斬首の刑)を「非」とする声が多かった、と見られる。
第三、おそらく、この安東船のリーダーたる竜飛十郎兼季も、その一人だったのではあるまいか。
第四、そこで「船出に不吉」という、当時の「常識にそうた」理由にもとづく願い状を幕府に提出した。
第五、幕府の内部の「批判派」は、これを奇貨(さいわい)として、「赦免」への方向転換の“動機”とした。 ーー以上。
すなわち、このような「方向転換」をもたらした、その真の理由は、日蓮自身の決然たる自己主張、真理と信ずるものの前に死を恐れぬ勇気、それ以外の何物でもない。わたしにはそう思われる。
そして人々は、そのような「人間の姿」に感動し、「赦免」へと動く人々が、幕府の内外に生じたのである。このような「人間の姿」以上の奇跡は、この世にない。わたしはそう信ずる。
一般に流布された「奇跡譚」は、そのような「人間の感動」の信仰的表現なのではあるまいか。
「安東船の竜飛十郎兼季」とは、
(1).安東(安倍・安藤・秋田と改姓)家の一族であろう。
(2).「竜飛」は竜飛岬の地名から採った「自称」であろう。
この人物やこの事件に関しては、今後の精細・周到な研究が期待されるけれども、その出発点として、右は貴重な文書であるから、ここに掲載した。
五
第四は「中国伝来」の宇宙論及び進化論である。
和田家文書中の
「丑寅日本國史繪巻」は、
「文盲の多き丑寅の衆に説くは繪を以て説くこそ能く相渡るものと心得たり」(十四之巻、記)
という立場から作製された「画」と「文」の編成であるが、その中に「中国文」がそのままの形(読み下し、なし)で掲載されている個所がある。その主旨は、
「その史證を世界に求め、太古の人祖はもとより、更にさかのぼりては宇宙の創大地の肇因、水より生れたる萬有の理りより、人の世に至る歴史の實相を明らむるを要として丑寅民の世に在る歴史を證せんとす。
以て私考不加の念に老婆心乍(なが)ら茲(ここ)に誓仕(つかまつ)り置くものなり
寛政六年 八月
秋 田 孝 季」
というにあった。
これに対し、末吉の「注」がある。
「原書蟲に食害さるに依りて保修仕りたるあり。茲に申添ふ 末吉 」
の一文である。その直後、次の「中国文」が書写されている。
「 宇宙誕生之事
去今阿僧祗之暗黒世無時無物質無限界起一点光熱依其因爆烈焼大暗黒遺微塵依其塵集縮阿僧祗敷宇宙星誕生是宇宙誕生日也」
このあと、宇宙爆裂の図が描かれている。
さらに「月輪」と「地球」の姿が描かれたあと、次の一文がある。
「星々之誕生時何火球也日輪久遠燃光熱經刻冷却月輪地球未地表中火泥也」
このあと、生物の「進化」が叙述されている。
「 大海之誕生
凡大海之創地界創造時塊石地火泥溶湯気相成地球圓週大気昇雲地表冷却降雨留底處其大水稱海小水稱湖流水稱江也小流稱川此水中生命菌宇宙光熱土水之精質相化成茲生命誕生為因水中成長分岐大海誕生倶向進化即是萬有生命之始祖也
菌復細殖其菌自種萬物生命進化適生為自類對生主因為自化成長也(中略)
自生命誕生人祖世自萬物進化生命誕生(中略)
依其化生命菌誕生成長茲人類先進化萬有在先端生死以輪廻世々子孫新生不絶代々遺歴史至現
寛政四年 二月六日
明 人 楊 契 仁 」
第一集中の上城誠氏の論文(「進化論をめくってー西欧科学史と和田家文書〈上〉)にのべられているように、「紋吾呂夷土史談」のもと、「宇宙起源論」と「進化論」らしきものが叙述され、その末尾に、
「寛政五年八月十七日 秋田孝季
史談者 李慶民
和田長三郎
長崎出島にて記す。 」
という署名が記されていた。
この点から、「進化論的思想」の伝来は、「紅毛人→秋田孝季等」という伝来(寛政十四年頃)以前に、
「紅毛人→中国人→秋田孝季等」
という形の伝来の方が「先行」していたのではないか、という疑いをもつに至っていた。
ところが今回、果して右のような、中国人、楊契仁による文書を秋田孝季が書写し、当巻(「丑寅日本國史繪巻」)に収録しているのを発見するに至ったのである。
わたしの所見を個条書きしてみよう。
(一)江戸時代、日本は「鎖国」政策をとり、長崎の出島を唯一の“出入口”としていたが、同時期の中国(清朝)は、開放政策のもとにあり、「西洋思想→中国」という流入ルートは、滔々たるものであった。
(二)日本は、西洋諸国に対しては「キリシタン」問題等から警戒を強くし、オランダ一国に“流入口”をしぼっていたが、中国人に対しては、一貫して「交流」をつづけていた。
(三)右の結果、西洋思想の日本への流入は、「西洋→中国→日本」というコースの存在していたことに留意せねばならない。
(四)「進化」の語は、日本語である以前に「中国語」として中国人によって翻訳された可能性がある。なぜなら「進」も「化」も、中国思想・中国哲学、さらには仏教思想(「化」)に永い歴史的淵源をもつ「術語」だからである。(この点、上城氏が発展史を追跡中)
(五)またエラズマス・ダーウィンが「ゾーノミア」を公刊したのは、寛政十年(一七九八)であるけれど、彼はそれ以前に科学者協会等で科学思想の啓蒙活動に人生の中心の時期をついやしている。従って十八世紀の九十年代初頭における、「西洋(英国)→中国→日本」という伝播は、十分可能である。
(六)以上の大局的な状勢論に立ってみると、「寛政四年(一七九二)」の時点において、中国人たる楊契仁が、明らかにエラズマス・ダーウィンの進化論の特徴をしめす、
1),水中の菌からの生命の誕生
2),「適生」(適者生存)の概念
がふくまれている文章を記述し、孝季がこれを書写していること、その研究史上の意義は絶大である。
(七)なお「明人」の表記は一見不可解に見えよう。なぜなら、
明朝ーー 一三六八〜一六六二
(太祖〜永明王)
清朝ーー 一六一六〜一九一一
(太祖〜宣統帝)
というように、「寛政四年(一七九二)」は清朝の高宗の乾隆五十七年に当っている。
従ってこの時点では「明人」ではなく、「清人」であるはずだからである。
しかしながら、この一点こそ、むしろ逆に、この文書の真実性(リアリティ)をしめすものである。なぜなら、秋田孝季は他の文面でも、「明朝」を正統の大義名分の王朝と見なし、満州族(清朝)を「簒奪者」「反逆者」と見なす立場に立っていたことが知られるからである。
この点、楊契仁自身が「明朝からの亡命者」の系流などであった場合、孝季以上に、みずから「明人」であることを主張したであろうからである。
ともあれ、もし「明治以後の偽作者」がいたとした場合、これほど明白な「反年代的表記」を撰ぶこと、かえってあり難いのではあるまいか。将来の「進化論伝播研究史」の重要な参考資料として、紹介させていただいた。
六
右と同じ「丑寅日本國史繪巻」の「六之巻」に、当巻の画の「師」とした画家たちに関する、興味深い記載がある。
「本巻は繪師北齋氏の漫畫を歴史の時代に併せてその教師を仰ぎ様々の考察図の應用とせり」
「繪巻に用ひしは次の如くなり
一、北斉(齋と斉の混用。、以下同じ)画譜
二、豊國年然策(三文字不明)
三、北雲漫画
四、北溪漫画
五、光*琳漫画
六、古帖集
七、英勇画譜
八、鶯村画譜
九、金氏画譜
十、萬富麁画
十一、文鳳麁画
十二、諸國神社繪馬
右を要にして本巻他画載す。依て各画師に心からなる御禮を申置き永代の實とせん
寛政七年 二月一日
東日流 飯積邑
派立之住人
和 田 壱 岐」
光*[玉光]は、玉偏に光。JIS第三水準ユニコード73D6
このあと、第一〜十画が掲載されたあと、
「以下北斉師原画木版」
と書かれた紙片が貼布されたあと、「北斎漫画六編」の木版画が延々と連結されている(これは、末吉の手によるものか)。
その末尾に、次の一文が付せられている。
「 記
右漫画は丑寅日本繪画集に用ひられし原画なり繪師葛飾北斉にして御赦蒙りぬ
寛政三年 六月七日
秋 田 孝 季」
右の「北斉にして」の表記は、一見不可解だ。だが、実はそうではない。
「齋」とは、
「へや」かってのま。燕居の室。
「勉強するところ」学舎。書斎。
(諸橋、大漢和辞典)
右の「燕居」とは「間暇無事で休息する時」を言う。
「北齋」とは、彼が自家の北隅に作った勉強部屋、画作のための部屋の称だ。その「部屋の名称」を“自称”としていたのである。
その「画作の部屋」を孝季は訪問した。江戸の浅草の地である(他に、浅草で北斎の画を手に入れた旨の記事がある)。そして北斎自身に、彼の「漫画(デッサン)」をモデルとして、東日流の歴史を画にする、その赦しを求め、了承をえた、と言っているのである(若干の“志”を持参したことであろう)。
当時(寛政時代)は、浮世絵類の「盗用」の流行した時代であったこと、浮世絵研究史上に周知のところ、その中で、この孝季の行動は廉潔の至り、と感嘆するほかはない。
わたしはかつて(昭和三十年代初頭)親驚研究に入った頃、「親驚」と「善信(房)」と両名が同時期に用いられていることに不審をもち、宮崎圓遵氏(当時竜谷大学教授)にこれを問うたところ、善信は「房号(部屋の名)」であることを教えられた。
爾来、四十年。この北斎もまた「斎名(部屋の名)」であったことを知ったのである。「北斎にして御赦蒙りぬ」の表記に苦渋したのは、わたしの勉学不充分の証左、反省する他はない。
この文面のしめすところ、それは一に、孝季の用語使用と語法の的確さ、二に、彼の人格の高潔さである。
世の「偽作」説の輩は慙死(ざんし 恥じて死ぬほどのはずかしさ)すべきではあるまいか。
累代の真実ーー和田家文書研究の本領 古田武彦『新・古代学』第一集
『真実の東北王朝』(駿々堂 古田武彦)へ
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寛政原本と古田史学 古田武彦(古田史学会報81号)
浅見光彦氏への“レター” 古田武彦 『新・古代学』第八集
『東日流外三郡誌』序論 日本を愛する者に 古田武彦 『新・古代学』第七集
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