『なかった ーー真実の歴史学』第6号 へ
『東日流[内・外]三郡誌 --ついに出現、幻の寛政原本!』古田武彦/武田侑子 編(株式会社オンブック)
寛政原本と古田史学(古田史学会報81号)
古田武彦
一
一個の古写本の出現が日本の歴史を一変させた。否、真実の歴史の本来の姿を回復させる、その端緒となったのである。それは東日流(内・外)三郡誌、寛政原本の出現だ。
当誌に対しては、久しく「偽書」の嫌疑が向けられてきた。ために、各国立大学、また私立大学の日本歴史学科においては、これを「研究史上の対象史料」から除外してきた。本来の「史料」として扱われずに来たのであった。
これは意味深い事象だ。含蓄深き、研究史上の事実だったのである。なぜなら、明治維新以降の、日本の「歴史学」とは、決して世界に対して“恥かしからぬ”、人間の歴史学ではなかった。普遍性をもつ、近代の歴史学とは“別種”の存在であったことをしめしているからである。
一言にしてこれを評すれば、「近畿天皇家、中心」の一元史観であった。明治維新以降の「新権力」たる天皇家を以て、「歴史全体の永遠の中心軸」であるかに“描出する”ための、国家の要具にすぎなかった。そのため「天皇家一元」のイデオロギーに“合致”しえぬ歴史像に立つ史料は、これを「史料」として認めずに、一切カットしてきたのである。
その”ほころび”が破れた。今回の一群の古写本の出現によって、それが見えはじめたのだ。これが今回の寛政原本出現の、基本の意義である。
二
二〇〇六年十一月十日(金曜日)、わたしは当本に接した。
「寛政五年七月、東日流外三郡誌二百十巻、飯積邑和田長三郎」(コロタイプ版、一〇九頁)
の一書である。表紙の左末端はほころび、文字が見えなかったが、年時から見れば、「吉次」とあったかもしれぬ。ともあれ、全体の古写本としての現況、その姿はまさに「近世文書」としての様態をしめしていた。三十代以来、親鸞や蓮如関係の中・近世文書の研究に各地を巡り抜いてきたわたしにとって、それは基本をなす判断だった(親鸞や蓮如自身は、中世頃に属するが、その再写・伝写文書は、近世のものが多い)。
その夜、当本を塾視し、重ねて精察した。その結果、これを以て、わたしの永年探し求めてきた「寛政原本」そのものとして認識するに至ったのであった。「寛政原本」とは、江戸時代の中期末頃、寛政・享和・文化・文政(一七八九〜一八二九)の四代にわたり、秋田孝季・和田長三郎・りく等の書写・執筆したところ、その近世写本群を指すべき、わたしの命名であった。
二
当本には、注目すべき特徴があった。
第一、表紙全体は同一筆であるが、二枚目以降は別筆である。
第二、二枚目以降の大部分は、何種類かの“書き馴れた”筆跡によって記されている。漢詩・漢文・和文をふくむ。いずれも、仏教上の資料に属する。
第三、最終個所のみ、右とは、著しく別様の執筆。筆跡も異なり、形状も一変している。稚拙であり、メモ書き風である。
第四、右も第二と同じく仏教上の詞文(自作の漢詩)であるが、第二とは全く別風である。
以上、いずれも通常の(大部分の)「東日流外三郡誌」(明治写本、印刷本 (1) )とは、別様であるけれど、わたしはすでに右と共通の形状をしめすものに何回かふれていたから、これを以て本質的な「異形」とは見なさなかった。
その実例をあげよう。
「東日流六郡誌大要第十一(八幡書店、一九九〇年刊)
江流問〔問カ〕十三湊記
波濤万里潮路続唐天竺之仏土諸行無事足生滅法生滅滅己寂滅為楽求道往生極楽念乃至十念本願為行願唯以念仏安心身天命入無我境地。是生之間不戒犯唯一向求念仏不転倒如是不動之信念。茲奥州十三湊為布数金光坊円証也。彼僧在京師鹿谷源空之門僧也。建保元年未東日流茲十三湊之宿龍興寺説念仏本願求道一切唯南無阿弥陀仏在称名乃至十念為住[往カ]生極楽於求道一切智覚不要、亦無智者不間[問カ]悪人不間[問カ]老若男女不間[問カ]為法門一切衆生開遺救済平等得本願也。依茲十三湊住民皆念仏本願帰依壇臨寺改宗為湊迎寺改也。
寛文二年七月
念仏僧良達」
(二九〇頁)
「末法念仏独明抄
抑々安命運衆生皆乍之願望也。然命運之願望無常頼難安心立命。唯神仏念他無術。人生老易救済求道亦成難。依茲唯一向以念仏無上為救。唯南無阿弥陀仏称右念仏乃至十念以積念得住[往カ]生極楽末法念仏独抄也。阿弥陀仏如何神通力衆魔如何罪障以念仏本願消滅。乱住[往カ]生極楽引導果者也。称名念仏非智非自力以唯本願他力。為往生法也。念仏救二己念力也。
建保二年二月一日 沙門丹証」
(二九一頁)
また「陸奥話記」などの全文を「東日流外三郡誌」の一端として、青森県の石塔山神社で拝見したことがあった(和田喜八郎氏の生存中)。
現在の「和田家資料2」(北方新社刊)にも、「陸奥物語」の長文(漢文のまま)が「日之本探証」の一部として採録されている(二五七〜二六五)。それにつづく「通説陸奥之役解」(二六五〜二六七)のあとに、
「贈 若狭国小濱羽賀寺総檀那 安倍家季
所持 宗家 阿倍出雲
寛政六年八月十九日 秋田孝季 写書」(二六七)
とある。このような、当誌のもつ“多様”な形態を、かねて熟知していたから、今回の当本の、一種“別様”の形状に対しても、あえて本質的な「不審」を抱くことはなかったのである。
三
以上は、形式面だ。だが、その内容面においても、当本は瞠目すべき特質がある。それは「天台宗」との関係である。
当本の大部分(巻首と巻末の、各一枚を除く)は、一言すれば「天台、関連文書」である。
「天台北是五臺南」(一三七)
の一句があり、「北」の右横に「下」、「是」の右横に「上」と小字が記されている(一二二)。
この仏教資料が、中国の天台山に淵源したとされる「天台宗」関連の文書であることがしめされている。
「東日流外三郡誌4(八幡書店)
仏法と安東一族
安東氏の仏法崇拝は安倍頼良が建立せし天台宗浄法寺に創り、安倍康季が再興せし羽賀寺、十三左衙[衛カ]門秀栄が興せし山王十三宗寺、龍興寺、長谷寺、禅林寺、壇林寺、三井寺、安東貞季が興せし三世寺、大光寺、大光院、梵場寺など修験道、真言宗ら密教寺院多し。
更には渡島松前の阿件寺、飽田の蒼龍寺、[補カ]捕陀寺、更には糠部十王院、宇曽利の阿吽寺らは故土放棄の後に及びても建立せり。
かくも安東氏を帰依せしめたるは古くは役小角、慈覚坊、金光坊らの高僧に依れるものなり。
寛政五年 秋田孝季」
(四二〜四三頁)
右にしめされているように、安倍、安東氏が仏教に傾倒していたこと、なかんずく「天台宗」とのかかわりの深かったこと、確実である。
それゆえ、和田長三郎吉次が、この「天台宗、関連文書」に関心をもったこと、それは決して偶然ではない。
表紙の一枚と、それ以後の仏教資料とを以て「無関係」と見る人は、その人の視野がことの「表層」のみにとらわれ、当資料の内実に立ち入って考察することが乏しかったためではあるまいか。
四
この点、わたしにとっては、さらに「現地鑑」によって確かめられ、認識が深化されることとなった。
秋田県の秋田市の郊外に、補陀寺が現存する。当寺は、「東日流外三郡誌」に再三出現する。右の資料にも「捕(補カ)陀寺」として現われている。当寺を訪れ、左の点を知った。
(I) 現在は禅宗(曹洞宗)の一寺であるが、当寺興隆の祖として、安倍康(安)季の名が位牌に記され、絶えず、拝礼と供養が行われている(当時は天台宗)。
(II)当寺の門弟が当地周辺に分布され、各拠点をもち、いずれも「月泉」の文字が“ちりばめ”られている。
当本末尾の一葉の漢詩の第一句に、
「秋水玲瓏月下泉」(一六七)
(傍点古田、インターネット上は赤色表示)
の字句があるけれど、これは右の「月泉」であること、当寺の住職の御指摘を得た。
五
さらに、この詩句の標題には、
「日眞宥堂長老和尚遷化
酋茶 野語篤應(一六七)
(傍点古田、インターネット上は赤色表示)
とあるが、この「宥」字は、同じ秋田市内の名社、古四王(こしおう)神社(秋田市寺内児桜八)の宮司代々に用いられた文字であるという(亀井宥三氏)。
この神社も、当地の「伝統」を受け、
天台宗→真言宗→禅宗(曹洞宗)
といった系列下にあったとされる(明治以前の神仏習合時代)。
すなわち、この「天台、関連文書」は、秋田孝季の(津軽の五所河原〈飯積〉に来る前の)拠点として、
「秋田土崎之住人、安東孝季」(二二五)
という、その秋田近傍における“採取”である、という可能性がきわめて高いのである。(2)
四
秋田孝季や和田長三郎吉次たちが求めたのは、天台宗の「教義」ではなかった。中国の、天台宗の本場、天台山の位置する浙江省、その地理と風土と民俗伝統の姿だった。それが、
「高天原寧波」
の地である。今回藤沢徹氏の「発見」された、貴重な資料を左にあげよう。
「天皇記に曰く一行に記述ありきは、高天原とは雲を抜ける大高峯の神山を国土とし、神なるは日輪を崇し、日蝕、月蝕既覚の民族にして、大麻を衣とし、薬とせし民にして、南藩諸島に住分せし民族なり。
高砂族と曰ふも、元来住みにける故地は寧波と曰ふ支那仙霞嶺麓、銭塘河水戸沖杭州湾舟山諸島なる住民たりと曰ふ。
筑紫の日向に猿田王一族と併せて勢をなして全土を掌握せし手段は、日輪を彼の国とし、その国なる高天原寧波より仙霞の霊木を以て造りし舟にて、筑紫高千穂山に降臨せし天孫なりと、自称しける。即ち、日輪の神なる子孫たりと。
智覚を以て謀れるは、日蝕、月蝕の暦を覚る故に地民をその智覚を以て惑しぬ。例へば天岩戸の神話の如し。当時とては、耶靡堆に既王国ありて、天孫日向王佐怒と称し、耶靡堆王阿毎氏を東征に起ぬと曰ふは、支那古伝の神話に等しかるべしと、天皇記は曰ふなり。(下略)」(『和田家資料1」二二四)(傍点古田、インターネット上は赤色表示)
右では、「高砂族」の来歴として、
(A) 高天原寧波(中国の杭州湾近辺)
(B) 筑紫高千穂山(福岡県)
の二個所が叙述されている。この「高天原」は、東日流外三郡誌の中の「両祖」たる、安日彦・長髄彦の属した領域とされている(後述)。その一端の「高砂族」は、現在は“台湾在住”の部族として知られているが、その淵源は杭州湾近辺、すなわち浙江省一帯にあり、とされているのである。そこに記せられた地名、
仙霞嶺ーー 浙江省江山県の南。古、泉山ともいう。「江山顕界之極南者、仙霞嶺と曰う。」(名勝誌)
銭塘河ーー 浙江の下流、杭縣城の南に在る部分をいふ。(讀史方輿紀要、浙江、杭州府、仁和県)
舟山諸島ーー 杭州湾中の舟山島附近に羅列した島嶼をいふ。北は大敢*山に起り、南は六横山に至るまで、凡そ二百四十餘島あり、舟山島が最大である。その八島十二[奧/山]は江蘇省崇明縣に属し、余は浙江省、定海・鎮海・奉化等の県に属している(舟山羣島)諸橋、大漢和辞典。
敢*は表示不可。図参照。攵の代わりに戈。エは、口と一。JIS第3水準ユニコード6222
[奧/山] は、奧の下に山。JIS第4水準ユニコード5DB4
要するに、杭州湾周辺の浙江省近傍の地に「高天原」あり、としている。「天孫日向ひなた王、佐怒さぬ」の「祖」は、この地に発している、というのである。
福岡県の「筑紫高千穂山」はこの地の東に当っている。
五
一方、「天台山」は浙江省中の名山として著名である。
天台 ーー (山名)浙江省天台県。括蒼・雁蕩・四明・金華の諸山に接す。漢の劉晨・阮肇が、此の山に薬を採り、二女子に遇って留ること半年、帰って見ると已に十世を経てゐたといふ。(「太平廣記」「讀史方輿紀要、浙江、台州府」)
陳西省・四川省にも、同名の山がある。(諸橋、大漢和辞典)
以上によってみれば、和田長三郎吉次(及び、和田孝季等)が、この「天台山」に関心をもった「理由」が判明しよう。浙江省の方の「天台山」は、問題の高砂族の居住領域近傍に位置していたのである。
当の天台宗自体には、「北から南へ」の変遷があったことが知られている。
天台宗ーー 中国の佛教十三宗の一派。北齊の慧文禅師が龍樹の中論の旨を悟って、南嶽の慧思に傳へ、再び智者大師に伝へて大いに顕はれた。大師が浙江省の天台山にゐたから天台宗といふ。(諸橋、大漢和辞典)
右の詩句中、「天台山」と「五臺」(山西省五臺県の東北)との関係をのべている点から見れば、本来この「天台山」は「陜西省麟遊県」ないし「四川省羅江県の南」もしくは「四川省廣三県」の方の「天台山」であった可能性もあるけれど、最澄の伝えた日本の天台宗は、
「天平勝宝年間、唐僧鑑真がこれを伝へ、後、僧最澄が入唐し、天台山の智者大師から伝へ、帰朝の後、叡山で弘めた宗門、法華経を所伝とす。」(諸橋、大漢和辞典)
とされているから、その所伝は、
「浙江省の天台山から」
と考えて、大過ないのではあるまいか。
右を要するに、孝季・吉次等の「関心」は、“仏教の教義”そのものではなく、安日彦・長髄彦の「遠祖」の地としての「浙江省近傍の地帯」への探究そのものに焦点があったのだ。
すなわち、この「天台、関連資料」は、孝季・吉次等の「遠祖探究」のための磁石、その行く手を指していたものだったのである。これを、
「東日流(内・外)三郡誌とは、無関係」
と見なした見地が、「皮相の見解」にすぎなかった事実が判明した。
六
「では、孝季・吉次等が遠祖の所在地として関心をもったところ、その指針は果して正しかったのか。」
史実そのものについての「真・否」のテーマである。その回答は、意外にも「イエス」だった。少なくとも決して「否(ノウ)」ではなかったのである。
先ず、先掲の文(「荒吐神要源抄」)の直前の文章をしめそう。
「今より二千五百年前に、支那玄武方よりう稲作渡来して、東日流及筑紫にその実耕を相果したりきも、筑紫にては南藩民航着し、筑紫を掌握せり。」(二二三)
この一文の所叙を要約しよう。
第一、当文面の末尾には、
「天正五年九月一日 行丘邑高陣場住
北畠顕光」
と記されている。右の「今」は天正五年(一五七七)であるから、「二千五百年前」とは、BC九二三年という時期を指すこととなろう。この時期に、北方(玄武)から稲作が日本列島へ渡来した、というのである。
第二、その渡来は青森県(東日流)と福岡県(筑紫)の二領域に対してであった。
第三、筑紫へは「南藩」の民が舟で来着し、この地帯を支配するに至った。
以上の記述は、現代の私たちにとって、あまりにも正確な史実に属する。
(その一)かつては考古学界によって「縄文水田」(福岡県板付遺跡等)は、BC三五〇年頃とされていたけれども、近年自然科学上の放射能測定(C14)によって、その年代測定が再査され、BC八○○年から一〇〇〇年前後へと“さかのぼる”ことが報告された。
本書『和田家資料1』の刊行された一九九二年八月には、未だ右のテーマは、“一般化”ないし“通念化”されてはいなかった(周知のように、春成秀爾・今村峯雄編『弥生時代の実年代 −−炭素C14年代をめぐって』学生社、二〇〇四年、である)。
(その二)いわゆる「縄文水田」あるいは「弥生初期水田」が板付遺跡等(菜畑・曲田)に見出されたあと、青森県の垂柳・田舎館遺跡に発見された。当時、考古学者たちは、「筑紫〜津軽」間の、山陰・北陸の各地域にも、同類の「縄文水田」の類の出現を“予想”したけれども、結局、それは報告されていない。
(その三)稲作の渡来に関しては、二説が対立している。一方の考古学者は、稲作関連の器物(石庖丁等)によって北方(ピョンヤン・ソウル方面)から北部九州(筑紫等)への「伝播」を唱えた。他方、人類学者は、稲そのものの“種別”から、江南からの「渡来」を主張したのである。
これに対し、右の文面では、先ず北方からの「伝播」を説き、次いで「南藩」からの渡来に及ぶ。その「南藩」とは、先述のように杭州湾等の「浙江省一帯」の民を指していたのである。
以上、いずれにおいても、各条ともに、現今の学問上の認識と一致していること、驚く他はない。
七
中国の史書を見よう。漢書である。
一に、燕地。「楽浪海中に倭人有り。分れて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う。」とあるのは、著名だ。
二に、越地。「会稽海外に東[魚是]人有り。分れて二十余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う。」とある。右と一連の記事だ。
この「東[魚是]人」問題については、(古田関係の会誌で)諸説があり、わたし自身かつては「(近畿の)銅鐸圏を指す」と考えたこともあったが、後に訂正し、「燕地」ではなく、「越地」の対岸としての九州南部を指す、と見なしている。
従ってこのルートは、「江南と九州との間」の交流をしめすものだ。
「〜と云う。」の表現は、これが「漢代」の、交流”ではなく、「漢以前(夏・殷・周以来)からの交流伝承」であったことをしめしている。
八
さらに三国志の魏志倭人伝を見よう。そこには著名な左の一文がある。
「その道里を計るに、当に会稽の東治(とうち)の東にあるべし。」
後漢書倭伝はこれを“引用”するさい、
「会稽の東冶(とうや)」
と“改定”したけれども、これは「誤断」であった。もし「東冶(地名)なら、当地(会稽郡南半部)はすでに「建安部」と“改郡”されたあとだったから、「建安の東冶」とすべきところである。この点、わたしの『「邪馬台国」はなかった」(昭和四十六年)において詳論したところであるが、今も不用意に「東冶とうや」を“正当”として処理する論者(岩波文庫等)が少なくない。
すなわち、右の陳寿の一文は、
「倭人の国が“会稽山を中心とする”江南の東治(東方への統治領域)に属している。」
という、政治的、文化的内容を含む、否、それを「主」とした表現なのであった。
わたしが『「邪馬台国」はなかった』を書いたとき、その一句の中の「道里」の一語に焦点をおき、「魏晋朝の短里」(一里=約七五メートル)の概念によって「適正」であること、その一点を力説した。
わたしの事実認識そのものは正しかった。だが、当の史家、陳寿の筆は、当然ながら、「地理的視点」にとどまらず、政治・経済・文化をふくむ「歴史的視点」をこそ重要視していたのであった。
自家の属する「魏・晋朝」すなわち、黄河流域の洛陽中心からの「視点」だけではなく、すでに「尭・舜・禹」の「禹の時代」、すなわち夏王朝初頭以前にまでさかのぼる、
「江南と倭地との間の交流」
が存在していたこと、その史実を「直指」していた一文だったのであった。
九
これを「日本列島側の視点」から見てみよう。
かつては、日本列島の縄文時代について、「東高西低」の評が与えられていた。東日本には縄文遺跡が多く、西日本には少ない、との意である。
それが一変した。南九州から、縄文早期の一大縄文遺跡の輩出が次々と報告されたからである。鹿児島県の上野原遺跡、同県西岸部の遺跡等、東日本の縄文遺跡が“点状分布”であったのに対し、ここでは“面状分布”だった。いわば「都市型」ともいうべき質量の繁栄をしめしていたのである。
この形状に変化を生じたのは、(修正値)七三〇年前(旧、六六〇年前)だった。鹿児島県南方海上の硫黄島の一大爆発である。鹿児島県の大部分(川内地方近辺を除く)は全滅し、熊本県・宮崎県・大分県、そして瀬戸内海領域は「半死半生」状態となり、一部は西側の黒潮ルートによって脱出した(南米エクアドルヘ「伝播」)。
その中で“灰”は落下したけれど、人命には及ばぬ地帯、それが福岡県・長崎県・島根県だった。その「筑紫・出雲」が、後発の「記紀神話」の主舞台となったのであった。
以上のような、縄文世界の実態から見れば、中国大陸の「呉・越側の人々」がこの先進文明世界に「無関心」であり、「無認識」であったことなど、万に一つもありえなかったのである。
十
一定の海流(P)を活動領域とする海上民にとって、彼等の使用言語(T)は、その海流の両岸に分布する。 ーーこれは自明の道理だ。
すなわち、たとえば南九州の言語(α)は対岸の中国側(呉越地方)にも、分布していたはずである。近代の国家による「区分け」の成立する以前においては、それが当然だ。
この見地からすれば、さらに次の二点が推定できよう。第一、南九州を「いぬひと」(神聖なる太陽の神殿のある戸口)と呼ぶのは、中国(呉越地方)側からの視点に立つ“呼び名”である可能性が高い(「い」は“神の作り賜うた”の意の接頭語。「ぬ」は“野”。「ひ」は“太陽”。「と」は“戸口”。「言素論」『多元』参照)。
第二、朝鮮海峡をはさむ両岸(韓国側と九州側)に同一地名(可也〈かや〉、新羅〈しらき〉等)が多いのも、同じ現象である。
第三、会稽山近辺(呉越)にある、有名な「河母渡かもと」遺跡の場合も、日本語地名である可能性が高い(「か」は“神聖な水”。「も」は“藻(集合した住居)”、「と」は“神聖な戸口”。「鴨川」などと共通)。
以上、いずれも現代の「イデオロギー」の類とは関係がない。
十一
同じく、ここ数年、おびただしい進展を見た「南米のエクアドルにおける日本語地名」問題も、他軌に出づるものではない。
従来の「日本の言語学」が等閑に付してきたところ、今なお日本の言語学者は、このテーマを「無視」しつづけようとしているが、結局空しい。なぜなら、日本列島人(太平洋岸)と南米原地民(インディオ、エクアドル、ペルー、チリ等)との間に、ウイルスや遺伝子の一致が次々と確認された現在、「言語」のみ、その痕跡を全くとどめぬ、としたら、その方が奇異、不可思議だ。原住民の現地名に、「日本語の痕跡」が存在したとしても、何等の不思議もないのである。
日本列島をはさみつつ、流入し、流出する「黒潮海流」が文明に与えた、偉大なる「人間の痕跡」なのであった。
十二
以上のように考察してくれば、この中国の江南地方に「日本語地名」が存在したとしても、何等の不思議はない。
「河母渡遺跡」に再三訪れたさい、わたしたちは「かぼと」と発音したけれど、現地側の人(通訳)は「かもと」に近い発音であった。何回も、それを確認した。「母」の字は、北方音(いわゆる「漢音」)では「ボ」であるが、南方音(いわゆる「呉音」)では「モ」であるから、現地の発音はおそらく“正確”であろう。
「かも」は「鴨」。「か」は“神聖な水”をしめす。「も」は“むらがった集落”(「もひとり神事」問題から、「も」が縄文語であったことが確認された。「言素論」参照)。
「と」は、もちろん“神殿の戸口”である。河母渡遺跡では、豊富な水脈が存在し、壮大な文明の遺跡と見られたのである。彼等の毎朝眺めていた太陽は、東シナ海の彼方、南九州の地から登ってきていたこと、およそ疑いがない。
十三
最後に「高天原」問題にふれておきたい。
先述の「丑寅日本史総解」中に、
「高天原寧波」(二二四)
の一句があった。この「高天原」に関し、敗戦前の教科書には、文字通りheavenないしskyに存在する「天上世界」と見なし、天上よりこの地上(日本列島)へと、天照大神の孫、ニニギノミコトが「降臨」した“てい”の挿図が載せられていた。笑止千万だ。敗戦後、いち早く、占領軍の命によって墨で消し去られたという。
このように、右のテーマは「戦時中の、国家公定の愚挙」として“忘れ去られ”たけれども、そのため「肝心の用語」そのものもまた、精密に吟味されることなく、忘れ去られたのだ。 ーー「高天の原」の語義、いかん。この用語理解の問題である。
本居宣長が『古事記伝」で行った「超、理性主義」的曲解が、そのまま“生きつづけ”て、今なお現在に至っているのではあるまいか。
今は“長広舌”を避け、言素論の立場から、ストレートにこれを解明してみよう。
「たか」の「た」は“太郎”の「太」。“大いなる”の意の形容詞だ。「か」は、くりかえし出てきたように“神聖な水”。「河」の「か」である。
「あま」は”あま族”すなわち海洋民族の名である。隠岐島(島根県)に「海士あま町」があり、九州南方には「あまみ大島」がある。その「あま」だ。
「原」は「はら」ではなく、「ばる」だ。九州では“集落”の意で多用されている。地名の基本用語の一つである。
すなわち「高天原」とは、
“神聖な水の豊富な、海士あま族の拠点(集落)”の意だ。
言いかえれば、海洋を舞台とした海士族は、“豊富な水に恵まれた集落”を拠点として活躍した。当然のことだ。彼等にとって、もっとも常識的な、きわめて平易な生活上の要語だったのである。
そのような「視点」をもたなかった本居宣長はこれを、神聖なる、超常識の用語として曲解した。敗戦後、「宣長讃美」で終始した小林秀雄等の「追讃美」ないし「再讃美」に災いされて、人々はながらく歴史の真相に迫ることを怠ってきたのではあるまいか。
十四
このように解してくれば、先述の、一見不可解に見えた「高天原寧波」の一句は、何の不思議にも値しない。中国海(東シナ海)の東岸部たる、壱岐・対馬や九州各地と同じく、西岸部の呉・越地方にもまた、当然海洋民族たる海士族にとっての各「高天原」は存在した。寧波もまた、その一つにすぎない。
たとえば、河母渡遺跡、この水量豊富な地帯が、海士族にとって「高天原」でなかったはずはない。
また、杭州湾に近い会稽山、現地を訪ねた人には周知のように、低い丘陵部にあり、背景をなす高山地帯からの“そそがれた水”は豊富であり、周辺の諸族の長の「集会の場」としては好適の地である。ここもまた「高天原」として“絶好の地”と言う他はないのである。「高」という“漢字”は「当て字」であり、この「漢字面から、先ずイメージした」ところに、宣長等の「躓きの石」があったのであるから。
陳寿が、この地を以てはるか東方への「東治とうちの原点」にえらんだのもまた、無視しがたい好視点であろう。
さらに、その背後をなす、浙江省の天台山、この地もまた、おそらく「高天原の一」としての性格を失ってはいないのではあるまいか。残念ながら、わたしはまだこの山に歩を印したことがないけれども、孝季や吉次がこの「山地」に目をつけたのも、必ずしも失当と断ずることはできない。
「高天原寧波」
この一語が、杭州湾の一角、寧波の地に近い、海洋民にとって安らいうる拠点集落、それを指していたことが知られよう。
十五
以上によって、わたしたちは知ることができる。
最初に認識せられた「寛政原本」たる、
「寛政五年七月、東日流外三郡誌一百十巻
飯積邑 和田長三郎」
の一巻が、長三郎の目指した、悠遠なる「史的探究」にとって、屈指の一篇であったことを。
これを以て、本来の「東日流外三郡誌」に“かかわり”なしと称し、その近世文書としての意義を“疑った”論者の認識が、畢竟「一片の浅慮」にすぎなかったこと、その事実が闇夜の炬火よりも、今は明らかになってきたのである。
わたしたちが正しき「寛政原本」に遭遇した事実、この真実を疑うことは誰人にも許されない。そういう研究史上の恵まれた位置にわたしたちはようやく今、到達し、その曉光を浴びたのである。
(1)市浦村版、北方新社版、八幡書店版、等。
(2)秋田県内の宗派重層と変遷の状況については、中央図書館で御教示いただいた。
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『東日流[内・外]三郡誌 --ついに出現、幻の寛政原本!』古田武彦/武田侑子編(株式会社オンブック)
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