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「寛政原本」の出現について 古田武彦

「これは己の字でない」ーー砂上の和田家文書「偽作説」『新・古代学』第一集) へ
和田家文書「偽作」説に対する徹底的批判 古田武彦
貴方は何処へ行くのか ーー桐原氏へ 古田武彦


特集1 究極の史料批判

名代みょうだい

孝季と崇道天皇

古田武彦

     一

 わたしはその一瞬を信じた。和田家文書の、文書としての信憑性である。「東日流外三郡誌」などの書名をもつ、彪大な史料群の問題だ。
 ときは、昭和六〇年代初頭。はじめてその所有者、和田喜八郎氏に会ったときだった。そのとき、すでにこの文書に対する「信」「疑」双方の論者が激しく相対立していることは知っていた。しかし、わたしには当文書に関して何の確実な知識もなかった。特に、その史料の基本をなす文書性格に対しては、一切「未知」だったのである。
 すでに公刊されていた、市浦村版の「東日流外三郡誌(上・中・下)」等、若干の知識は、もっていた。喜八郎氏に御紹介いただいた藤本光幸氏からも御教示はえていたが、なお疑いは晴れなかった。ある点では、さらに深くなっていたのである。それを問うた。
 「秋田孝季と義理の弟の孝季とは、同じ名前のようですが、なぜですか。」
 孝季は長崎でロシア語の通訳をしていた父の子として生れたという。父は若くして没し、未亡人となった母親(紀のりカ)は郷里の秋田(秋田県)に帰り、のち三春(福島県)の藩主、秋田千季(ゆきすえ 倩季よしすえの改名)がその令室を失ったあと、“後添え”として再嫁した。その後、この母親が生んだ子供がある。その子供もまた「孝季のりすえ」であり、やがて三春藩主となった。(1) この点をわたしは「疑問」として、喜八郎氏に問うたのであった。

     二

 「わからん。」
 喜八郎氏は、直ちにそう言い切った。「読み」はともあれ、少なくとも「字面」が兄弟同じ、というのは異様だ。通例、ありうることではない。その問題だ。
 だが、この点、喜八郎氏も「同じ思い」のようだった。久しく疑問としてきたけれど、解決できない。そういった口吻だった。わたしとほぼ同年齢だが、頑固そうな口振りだ。
 だが、わたしは信じた。
 「この人は、この和田家文書を“作った”人ではない。」
と。もし「偽作者」がこの当人なら、何とか“弁明の辞”が用意されているだろう。こんなに「当惑した」口振りで“反応”するはずはない。そう思ったのである。
 第一、「偽作者」が、こんな“変な”系図関係を「独創」するはずがないではないか。だが、その「事実」に対して、所有者御本人が「困惑」しているのだ。
 直接、当人に言い、当人に聞く。この一事の重要性をしめす、わたしにとって、そういう「事件」の一つだったのである。

     三

 わたしは考えた。この「矛盾」の真相は何か、と。思考は、次のように進んだ。
 第一、この「矛盾」を一番よく知っていた人、それは父親の千季だったであろう、と。
 第二、では、彼は何を“たくらんだ”のか。 ーー「名代みょうだい」だ。
 口で「発音」すれば別人だが、書面に書けば、「同一人」に見える。そういう“仕掛け”である。
 第三、母親が連れ子として、孝季(もとは、橘家。橘次郎孝季)を“連れ”て嫁ぎ、その利発さを千季は愛した、という。その孝季を、「異父同腹」の弟の「名代」としたかったのではないか。
 第四、弟の「孝季」の文書及び系図は、現在も残されている(「秋田家文書」東北大学附属図書館蔵、「御系図下書」等。請求番号73・2・3前後。後日調査)。
 第五、兄の孝季は「東日流外三郡誌」執筆のため、(その以前から)諸国を頻繁に旅行し、諸社・諸寺などに史料を求めて歴訪している。そのためには「関所」を越える「手形」が必要だ。だが、その「手形」に文字の字面に「秋田孝季」とあれば、三春藩の藩主の子(やがて藩主)として「通用」しうるのである。 ーー 文字通りの「名代」だ。
 これが「二人の孝季」命名の“秘密”ではないか。そう考えたのである。

    四

 それが今回、実証された。
「付属第六百七十三巻、寛政二年五月集稿、陸州於名取、東日流内三郡誌、秋田孝季、和田長三郎吉次」(コピー版)(コロタイプ、第三資料、一八五〜二〇六頁)
 この史料は、秋田孝季と和田長三郎吉次が、鴫原(しぎはら)家の当主たち(鴫原佐渡守忠治等)と交流した書簡集である。この点、いわゆる「東日流(外・内)三郡誌」の“元資料集”とも言うべき、貴重な資料群だ。
 その中に、次の一節をわたしは見出した。
  「奥州亘理郡島□(不明)田ヨリ三春藩士ノ謀ニテ寛政五年十月六日飛脚鴫原竹義ナル口傳書ノ書状ニ記述セル文ニ記ス弟孝季ニ禮スルナリ
    寛政五年十一月二日
              秋田孝季 謹写」

 この文書の先頭は、
  「鴫原家之安倍一族歴(暦か)
       記           」
と題されている。
 この「記」に対して付したのが、右の孝季による「追って書き」だ。その要旨は次のようである。
 (一) 奥州亘理郡の島田(?)から、寛政五年十月六日、飛脚が来た。
 (二) これは三春藩士の謀によるものである。
 (三) その内容は、鴫原竹義の口伝書の書状に記述した文章の中に記されたものである。
 (四) これは(鴫原家側が)わたしの弟の孝季に対する礼(礼儀)として行われたものである。
 右の「記」に当る「口伝書」は仮名書きの八行文だ。
 「フルキ日ニヤマタイノクニ(後略)」
ではじまる一文である。その内容も興味深いものであるけれど、今の問題は、次の一点だ。
 (1) 今回、鴫原家側がわたしたちに対して丁重な応答の姿勢をとってくれたのは、三春藩士の謀(はかりごと)によるものだった。
 (2) そのため、彼等はわたしの弟の孝季に対して「礼」を尽くし、今回の応答となったものである、と。
 右は、しめしている。
 第一に、「三春藩の謀」と言っているけれど、その“実体”が藩主(秋田千季)の指示によるものであること、当然である。
 第二、しかも、今回の直接の依頼者が「弟の孝季」の名前であったため、鴫原家側は過分な(丁重な)応答をしてくれたのであることを、当人(兄の孝季)がここに「追記」したのである。
 この一文によって、年来の「予想」の正しかったことが、はからずも“裏付け”されたのだった。わたしが「天にのぼる思い」を味わったこと、御推察いただけるであろう。
 当時はこの文書は「コピー版」(藤本光幸氏所蔵)だったが、はからずも一昨年(二〇〇七年)、直接原本の所有者に会い、撮影させていただくことができた(菊池栄吾「鴫原一族の跡を歩く」『なかった』第五号、参照)。望外の収穫となった。(DVD参照)
 この「名代」問題の解決もまた、当和田家文書(「東日流(内・外)三郡誌」)の信憑性を“裏付ける”べき重要な発見となったのである。

    四

 以上は、近世における「名代」問題だ。だが、それと同じく、奇しくも古代史上の「名代」問題に直面することとなった。これについて簡明にのべよう、
 本号(「金石文の九州王朝」)に詳述したテーマについて、まずその要点をまとめてみよう。
 (一)「飛鳥浄御原大宮」は、従来の理解のように「天武天皇」ではなかった。九州の小都市の「飛ぶ鳥の“アスカ”」を中心とした「崇道天皇」である(小野毛人の銘文)。
 (二)場所は「上座郡・下座郡」を歌った柿本人麿の作歌でしめされている(万葉集一六七)。
 (三)時期は七世紀後半(那須国造碑。永昌元年〈六八九〉)。
 (四)「崇道天皇の製造」とされる「正倉院」が福岡県の太刀洗町(小郡市の隣)に出土した。
 以上の到着点から、新たな視点へ向おう。
 (五)周知のように、桓武天皇の弟(同父同母)の早良親王は、延暦十九年(八〇〇)「崇道天皇」と追号された、そして平安京(京都)近傍の地に葬られた(崇道神社、上御霊神社、藤森神社等)。
 (六)右の「二人の崇道天皇」の相関関係は何か。これが新たな「?」である。

    五

 わたしの理解は次のようだ。
 (七)平城京(奈良市)の「正倉院」が建造され、東大寺の大仏が「開眼」された頃(天平勝宝八年〈七五六〉)、桓武天皇(七三七〜八〇六)は二十歳前後だった。当然、「正倉院」の“前身”である、九州の(太刀洗町の)「旧、正倉院」のことは、熟知していたことであろう。
 「二つの正倉院」は、全く同一の規模をもっているから、平城京の「正倉院」の建造のあと、当地(太刀洗町)に作られた、などということは想定できない。当然、逆のケース、すなわち「(古)九州の正倉院、(新)平城京の正倉院」の関係である。その「九州の正倉院」は「崇道天皇の建造」として所伝されていたのである(「正倉」は、全国各地に存在した)。
 (八)したがって桓武天皇が弟の早良親王(七五〇〜七八五)に対して「崇道天皇」という追号を“贈った”のは、「創号」ではない、「再号」だった。あえて「九州王朝の、亡びた王者の名」を「再生」させたのである。
 (九)世上、早良親王の“非業の死”をあわれみ、その「たたり」や「怨霊」を恐れたもの、とされているけれど、考えてみれば、そのような親王は、彼一人ではない。聖徳太子の息子をはじめ、歴史上、その類の皇子、親王は“あふれている”と言っていい。では彼等すべてに「〜天皇」の追号が“贈られ”ているか。 ーー否だ。
 やはり、桓武天皇の真意は、「九州王朝の王者」の名を“とむらう”ことにあった。そのために、不幸な死をとげた弟の「名」として、あえて「同名」を贈り、“弟をまつる”ことにかこつけて「九州の王者の名」をまつろうとした。 ーー「名代」だ。
 以上がわたしの理解である。この立場に立つと、わたしが『古代史の十字路 ーー万葉批判』(東洋書林、二〇〇一年)でのべたような、「紀貫之の古今集は、九州王朝のもとの歌を『詠み人知らず』として掲載している。」というテーマも、改めて“生きかえって”くるのだ。紀貫之は平安時代前期の人、すなわち桓武天皇の時代と相接していたからである。
 以上が、「古代史における名代論」だ。

    六

 最後に、再び秋田孝季の「名称」問題にかえろう。その「問い」は次のようだ。
 「秋田孝季」という“自署名”は、ありうるか。」
 あまりにも“初歩的な”疑問と見えよう。しかし、書誌学上の専門家にとっては、看過できぬ基本問題なのである。その問題を列記しよう。
 (その一)徳川家康について、その「自署名」は「藤原家康」が初期に少数あり、そのあとはすべて「源家康」であることが知られている(渡辺世祐「徳川氏の姓氏に就いて」『史学雑誌』三〇篇一一号、一九一九年)。
 すなわち、彼の自署名では「徳川家康」という「表記」は存在しないのである。
 (その二)右の立場からすれば、「孝季」本人が「秋田孝季」という「自署名」をすることは、ありえないのではないか。 ーーこの疑問である。
 では、右の疑問によって、和田家文書、ことに今回の「寛政原本」の実際を検しよう。
 (その三)今回のコロタイプ本に拠ってみれば、次のような「自署名」が見られる。
 (1) 秋田土崎之住人安東孝季(寛政五年七月十八日(二二五頁)
 (2) 飽田孝季(寛政五年十月四日)(二二九頁)
 すなわち、「秋田孝季」の「秋田」は「秋田家の」という「姓」ではなく、「秋田の地の、在住の」という「在地」表記だったのである。(2)の「飽田」という字面も、当地の地名として用いられていたこと、著名である。これも、その一証であろう。
 (その四)この点、右の渡辺命題に相当すべきは、弟の孝季(のりすえ)の方である。彼は格別、秋田(秋田県)に居住した、という話はない。したがって彼の場合なら、「秋田孝季という自署名はありえない」という命題が成立するのではあるまいか。わたしは彼(弟)について、そのような「自署名」を見たことはない。
 したがって渡辺氏の検証された「徳川家康」問題を以て、この「秋田孝季」問題を“律しよう”とするならば、それは史料批判上、厳正なる「比定」ではないこととなろう。

    七

 右で一応、問題は決着したのであるけれど、なお若干の「余論」にふれておこう。
 (その五)わたしは自己の史料批判を「親鸞史料」からはじめた。彼は日野家の出身とされるが、もちろん「日野親鸞」等の「自署名」はない。教団外の「自署名」としては「僧綽空」(二尊院文書、連署)のみが知られている。「日野」に“代え”て、「僧」を用い、「名」は「自作」の「綽空」を用いている(「綽空」の名は、「善信」に次ぐ「自作」の自称であり“法然の”了承をえたとされている。 ーー教行信証等)。
 (その六)承元の弾圧によって流罪となったとき、「藤井善信よしざね」という流人名を賜うたこと、「流罪記録」(歎異抄)等に記せられている。この当時の公文書が残っていれば、この「藤井」という姓が用いられていたはずであるが、残されていない。
 (その七)流罪後、彼は「藤井」に“変え”て「禿」の一字を「姓」としたという(流罪記録)。しかし、「禿善信」という「自署名」も、残されてはいない。
 (その八)流罪中、彼は「愚禿親鸞」という「自署名」を自作し、流罪放免後も、この自称を常としていたこと、著名である(「愚禿善信」も使用)。
 「朝廷は“自由”に流罪とし、“勝手”に『俗名』を与え、やがて“自在”に放免したが、わたし自身が純粋なる「非僧非俗」を貫く。」
という、彼の思想性の上に立つ、「自署名」であったこと、今は誰一人とて疑う人はいないであろう。
 けれども、明治以来の学界の空気を「支配」していた「親鸞、架空の人物説」の拠点は、
 「日野家の系流や公卿たちの日記類に『親鸞』の表記一切なし。」
という書誌学上の「常識論」だったのではあるまいか。その「常識論」自体が、荒唐無稽だったわけではないけれど、「時代」の代表的なケースからの「視野」に立ち、その“演繹に立つテーマ”からの判断という手法の「危うさ」を語る、これは研究史上の貴重な経験だったと言えよう。
 「秋田孝季、自署名論」も、その軽易の愚を再びしてはならない。以上だ。

    八

 軽易だったのは「自署名」論にはとどまらない。その「最さい」たるものは、「東日流(内・外)三郡誌」に対する「偽作説」であろう。すでに「寛政原本」の出現した現在の段階においては、もはや一片の「夢物語」という他はない。けれども、そのため、かえって「偽作説」を掲げて「起死回生」の愚挙に奔っている、一部の人々がいる。その人々は「古田が津軽外三郡誌の偽作を、他者(桐原某氏)に金を渡して依頼した。」と称する「偽証文」をくりかえし、掲示しているのである。
 もちろん、そのような事実は一切存在しない。当然のことだ。今回の「寛政原本」を見て、これが「現代の偽作者の作品」であるなどとは、良識ある人は誰一人信じないであろう。
 もちろん、わたしとしては「裁判」に訴えることはできる。名誉のためには、必然だとも言えよう。しかし、偽作者の「真の目的」は、こちら(古田)の「時間」、研究のための労力を“奪う”ことにありと見なし、本来の目標に全力を傾注する。その道を選んだのである。その成果が本号だ。わたしの選択は正しかった。その点、今回の「寛政原本」の出現は、「望外の」というより、「天与の」発見だった。運命の女神に深く、ふかく感謝する他はない。
 すでに桐原某氏は、第三者の立合いのもと、わたし(古田)に全く「非」のないことを明確に証言してくださった。長時間にわたる、貴重な証言はすべてテープにとって保存されている。やがて「公開」されよう。
 かつてフランスのドレフュス事件でゾラたちも巻き込まれて多大の犠牲者を生じたが、一片の「偽文書」判明によって一巻の幕を閉じた。日本は今、その「劇」を百年おくれて継承したのである。(2)
           二〇〇九年一月二六日記了


(1)秋田孝季の「私儀之秘事書遷」等参照(『東日流外三郡誌』補巻、北方新社、一〇四〜一〇五頁。竹出侑子さんの御教示による)。
(2)『季刊邪馬台国』(梓書院刊)五一号、五五号等、各号参照。また中村彰彦「邪馬台国論争を考える」(『オール読物』二〇〇九年一月号)参照。


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