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寛政原本と古田史学 古田武彦(古田史学会報81号)


古田武彦・古代史コレクション10

第八章 最上川と御神楽岳と鉄

ミネルヴァ書房

古田武彦

 迷い道の先に喜びあり

 米沢は、迷い道だった。行けば、行くほど、目標から遠ざかった。約束の時間はすでに過ぎ、運転する斎藤隆一さんに焦燥(しょうそう)の色が濃い。同乗の甲斐さんとわたしも、たびたび車から降りて、目的地の市教委の所在地を聞いた。そのたびに電話も入れた。
 朝、福島市内を出て、お昼近くに多賀城市へ到着し、午後迂回して米沢へ向かった。四時頃の約束だったのに、もう五時は過ぎた。
 探究の中でも、こんなことがある。いや、多い。これを調べれば、分かるはず。そう思って調べはじめたのに、なかなか分からない。調べれば調べるほど、ますます目標は遠ざかる。謎は深まる。
 これは、探究の醍醐味だ。このような迷いの闇の深いほど、そのときの喜びは深い。そのとき、とは、もちろん、謎の解けた瞬間だ。
 しんきくさい、平凡な調査、それがながびけば、ながびくほどよい。それは、輝く認識の朝に至るための、導きの、時の糸なのだから。
 もう暗闇となってきた、車の窓外の景色を眺めながら、そんな想念にひたっていると、斎藤さんが叫んだ。
「あ、ありました。あそこです」
(もと)中学校跡の裏側に、その建物はあった。社会教育課の学芸担当、ことに考古学関係の場合は、たくさんの出土物類を扱うので、立派な、近代的な市役所とは別に、こういった風な、“見ば”はよくないけれど、“空(あ)き”の多い場所を“あてがわれ”ているのが通例だ。とても、市役所の隣に、同じく堂々たる資料館、文化財研究所、とはいかぬ。それが、今の日本の文化水準である。だが、明日は、どうか。

 米沢市のスーパー・ロングハウス

 斎藤さんは、すでに一回、ここへ来ておられた。前調査に。わたしを案内するための、準備だった。有難いことである。
 いつも、斎藤さんには驚かされる。前に、福島へはじめて行ったとき、新幹線の福島駅でお迎えいただいてより、車は、西へ、あと北へと向かった。目指す、御神楽(みかぐら)岳とは、ずれてきたのでは、と思いながら、「このへんに、何か、古代の遺跡があるんですか」と、お聞きしても、「いや、まあ」という、あいまいな御返事。こちらも、ここへ来たら、土地を熟知された、ベテランの郷土史家にお任せする他ない、と腹をくくっていると、やがて市街地に入った。
 さらに、かなり進んだあと、四つ辻を過ぎて少し行くと、車がやっと止まった。
「ここは、何ですか」
と、怪訝(けげん)に思いながら降りると、
「古田さんが生れられたところですよ」
 斎藤さんが微笑しながら、答えられる。「ええっ」と思った。予定になかった。そんなはずではなかった。なかったはず。斎藤さんは、わたしを驚かそうと、伏せておかれたのだ。だから、さっきから、にやにやしながら、あいまいな返事だったわけだ。
「ここです」
と、斎藤さんが指さされたところには、
「斎藤医院」
という、お医者さんの看板があった。ここで、わたしが生れたのだ、という。わたしには、はじめてだった。いや、生後八ヶ月、ここを去って以来だから、正確には「二度目」というべきか。
 建物は、もちろん、建て変わっている。旧制喜多方中学の教師だった父と母が借りて住んでいた家。その跡地に、この医院が建っている。いや、正確には、この医院の一部の跡地であろう。
 わたしが、自分の父が喜多方中学の教師をしていた、と、前の仙台の講演(仙台、市民の古代研究会)のあとの新幹線、仙台と福島の間を御一緒したときだったか、うっかり話したのを、覚えておられたのだ。わたしは、そんなこと、忘れていたけれど。
 それからがすごい。喜多方中学に問い合わせ、当時の、わたしの父の住所を探し出された。大正末年の住所だ。それをもとに、市役所へ行かれた。そこで問い合わせた。するとまた、市役所の担当の方が、一所懸命「研究」して下さって、ついに、この医院の所番地を、探し当てて下さった、という。斎藤さんの熱意にほだされたのであろう。
「そのとき、書いてもらった地図がこれです」
 そこには、市街図の部分コピーに、ハッキリと矢印が記入されていた。わたしとしては、恐縮する他なかった。
 医院の横で、自動車の手入れをしておられる方があったので、御挨拶した。あまり、じろじろ眺めていて、何者か、と思われるといけない。そう思ったからだ。「来意」を告げると、
「ああ、そうですか。わたしの父も、喜多方中学の関係者でした」
と、言われる。数年前に亡くなられた、とか。御存命だったら、父(古田貞衛)のこと、御存知だったかもしれぬ。御本人が当医院の、現当主、斎藤淳さんだったのである。
 意外なことに、この方も、東北大学の出身、わたしと同年だった。つまり、敗戦前から直後にかけて、同じ仙台で学生生活をおくった同士。医学部と法文学部のちがいはあったけれど。奇遇を喜びつつ、お別れした。
 それほど、周到な、斎藤さんだったけれど、米沢は城下町。敵の襲来にそなえてであろう、道が入り組んでいて、“すなお”でない。その上、前調査の、福島からとでは、逆方向。迷路に陥ったわけだ。
 だが、市教委の方々は、辛抱強く、待っていて下さった。有難かった。その上、わたしたちが目指す「一ノ坂遺跡」に関する、さまざまの資料、スライドまで映(うつ)して、説明して下さった。至れり、尽くせりだった。
 それは、わたしたちの予想を、はるかに上まわっていた。けたはずれていた。新聞で、「従来のロングハウスを上まわる。最大のものが出土した。一の坂遺跡」とあったのを見て、訪れたのだけれど、今まで、東北各地で見出されていた、大型住居跡、つまり、いわゆる「ロングハウス」とは、類を異にしていた。
 先ず、スケール。縦四十三・五メートル、横四メートル、高さ五メートル。これが、一軒の「家」なのだ。しかも、その内蔵物がすごい。石器・土器等、約九十万点。やがて百万点に達するだろう、という。
 通例、ロングハウスと呼ばれているものは、そんなに内蔵物が“つまって”はいない。そんなに“つまって”いれば、その中に人間が住むには、狭くなってしまう。物がいっぱいで、空間の“狭い”現代日本人の住居、マンション暮しなど、その典型だ。それでも、百万点もの「物」があるわけではない。これは一体、どうしたことか。
 当然考えられるのは、「倉庫」だ。だが、そうでもない。人間の“住んだ”形跡もある上、それに関連した器物もある。東側に石器類、西側に土器類、食料といった“置き分け”もある。さらに、その中の石器は、“生産途中品”というより、光沢があって、“すでに使われた”形跡のものも多い、という。
 要するに、わたしたちの文明の尺度では、すんなりとは“割り切れ”ない、複合した、総合的な役割をもつ、一大家屋なのである。
「これは、スーパー・ロングハウスですね」
と、わたしが言うと、
「そうなりますねえ」
と、うなずいておられた。調査の実地に当ってこられた手塚孝さん(米沢市埋蔵文化財資料室主任)だった。

山形県 「一ノ坂遺跡大型住居跡 遺構写真 真実の東北王朝 古田武彦

 「最上川ストーン」文明

 今、「高さ五メートル」と書いたけれど、何で分かるか。縦四十三・五メートルの間に、左右とも、四十五本の柱穴があいている。斜角は、七十度。その、両側の斜角で計算すると、高さが約五メートルになるという。
 しかも、その時期は、縄文前期。前期の巨大構築物なのだ。とても、「竪穴住居」といったイメージでは律し切れない。内容も、ふさわしべない。古代文明の一大拠点であったこと、疑いがない。
 しかも、問題のキーポイントは、「時期」だ。「縄文前期」を過ぎると、キッパリと、この巨大構築物は、「放棄」されてしまう。
「ここは、『前期』だけの展示場ですよ」
とでも、言いたげに、全く顧(かえり)みられた形跡がなくなるのだ。
「では、『中期』以降は、この地帯には、人はいなくなったのですか」
 わたしが問うと、稲垣さんが、こともなげに答えられた。
「いや、移っています」
 ここ、同じ最上川の上流は、時代によってしばしば、流れが移動した。今、それを辿ると、「前期」「中期」「後期」「晩期」、また、その途中からと、しばしば、水流のルートが移動しているのだ。一つの図に描くと、扇状に分岐している(最上川流域遺跡分布図、一八〜九ぺージ参照、インタネット上では別表示。)。そのたびに、新たな水流のそばに、新たな「巨大構築物」が作られている。そういうことだった。
 そしてそのさい、かつての「巨大構築物」は、内容物ともども、惜しげもなく「放棄」されているのである。これは、なぜか。
 稲垣さんの見解をお聞きすると、
「さあ、鮭を食べて生活していたようですから、鮭の捕れる川のそばに移ったのではないでしょうか」
 そういうお話だった。なるほど、と思いながら、暗闇の中を、くりかえし感謝の言葉をのべつつ、辞去した。
 だが、福島への帰り途、わたしは、気付いた。
「最上川だ」
と。この米沢盆地から、有名な、最上川は西流し、日本海へとそそいでいる。この「水のルート」が、この地帯で生産された石器の搬出路だったのではないか。
 使われた石は、米沢盆地の西側。日本海寄りの地帯に豊富に存在する、頁岩(けつがん)である。もっとも、分類上は、同じ頁岩でも、渓谷ごとに、色合いや堅さやつやがちがい、稲垣さんたちは、製品の石器を見ただけで、「ああ、これは、あそこの地帯のものだな」と、お分かりになる、という。さすが、プロである。
 この石器造りに適した石材をもつ、米沢盆地の西側山地が、一大宝庫となった。ここで、この石材を使って、石器が製造された。その作られた石器は、芭蕉が、
  五月雨(さみだれ)を集めて早し最上川
 と詠んだ、川の激流を下って運ばれ、日本海に出、そこからさらに、南北等へと運搬されていったのではないか、すなわち、ここは、あの黒曜石の隠岐島(出雲)、腰岳(肥前)、姫島(豊後)、和田峠(信州)、十勝(北海道)、それにサヌカイトの讃岐(香川県)と同じく、石器時代の一大中心、恵みの宝庫となっていたのではあるまいか。
 わたし自身、あの芭蕉の『奥の細道』でしか、印象の残っていなかった最上川、それが実は古代における一大文明中心だったとは、夢にも知らなかった。無知だった。無知のまま、何かに引かれてやってきた。一片の新聞記事に導かれて。
 しかし、天は、わたしに対し、新たな古代東北文明の扉を開く、一つのカギを与えるべく、迷い道を経て、ここに導いてくれたのかもしれなかった。わたしは、芭蕉の夢想だにしなかった、最上川の「在りし日」にふれることとなったようである。ここもまた、古代東北の、輝ける文明の「夢のあと」だったのだ。
 わたしたちが、ここを辞去して、建物から数メートル遠ざかったとき、奥から走って出てきた人があった。稲垣さんだった。
「これ、これをどうぞ」
 差し出されたのは、今まで説明していただいていた、米沢盆地西側の頁岩、ズッシリと重い石を手にかかえて飛んで出てこられたのである。御好意が身に染みた。
「最上川ストーン」
 これが、わたしの「命名」だ。古代最上川ストーン文明の探究、それは、今後の一つの課題となるであろう。関東の関山式・二ツ木式の土器の影響が当地の土器にも現われている上、信州の和田峠の黒曜石も、出土している、という。
 最上川の道は、関東へも、信州へも、通じていた。もちろん、東北地方の各地や北海道へも通じていたであろう。もしかしたら、芭蕉以上の吟遊詩人が、それらの各地を徘徊(はいかい)していたのかもしれぬ。あの縄文という、不可思議な、未知あふれる時代に。
 今は、ひたすら、福島へと向かう、長い夜道の、車の中で、わたしはそのような想念にふけりつづけていたのであった。

 土器を御神体とする風習

 自分の生地でありながら、久しく訪れたことのなかった福島県。そこへ足を運ぶもとになったきっかけ、それは御神楽(みかぐら)岳(標高一三八六メートル)の存在だった。(インターネット上では、別表示)
 先にふれた、仙台での講演会の帰途、仙台駅から福島駅までの、わずか二十分あまり、その間に、斎藤さんが質問された。
「福島県と新潟県との境に、御神楽岳という山があります。『御神楽』と書いて、『みかぐら』、と読むんです。
 その山の上に神社があるんですが、そこの御神体は昔、『土器』だった、という伝承があります。
 今は、鏡が御神体だそうですが。
 この間、郷土史に関心のある人たちの会があったとき、このことが話題に出ました。ところが、おおかたの意見では、鏡が御神体ならいいけど、土器が御神体というのは、おかしい、という結論のようでした。どうでしょうか」
 この質問に、わたしは答えた。
「土器が御神体。それは十分にありうる、と思いますよ。だって、鏡は普通金属器でしょう。銅ですよね。つまり、弥生以降です。では、弥生前、つまり縄文時代には、『御神体』というものはなかったか。そんなはずはありません。
 その証拠は、石棒と石皿。男性と女性の生殖器の形をしたものですね。あれは、縄文から、さらに旧石器にさかのぼるものですが、現在でも、御神体として祭られています。田んぼのそばの社に祭られているようです。岩手県の高橋昭治さんが、何回も頼んでことわられ、その根気よさに、とうとうお百姓さんの方が根負けし、『代り』のものを作ってきたらあげる、という話となり、そっくりさんを作って奉納し、本物の方をいただいてきた、というのを見せてもらいました。執念ですね。つまり、旧石器以来の御神体が二十世紀の現在まで、つづいているんですよ。
 とすれば、その『途中』に当る、縄文に、『御神体』のなかったはずはない、と思います。
 そこで、鏡などという金属器は、弥生時代の花形です。文明のシンボルですよね。では、縄文時代は何か。当然、土器が文明のシンボル、最先端の、時代の花形なのです。とすれば、その土器が御神体になって、当然。わたしは、そう思いますよ。『土器なんて』というのは、現代人の思いこみにすぎないんではないでしょうか。
 その上、『みかぐら』という言葉も、暗示的ですね。『くら』は、祭りの場を意味する言葉です」

 ここで、わたしは、先ほど(第七章参照)のべた「くら」についての例をあげた。「からすんまくら」や「くらがい」などだ。言葉をついだ。
「ですから、『みかぐら』は、『みか』を祭りの場で祭った。そういう意味ですね。『みか』とは、“神を祭るための、酒や水を入れるかめ”のこと。例み、わたしが卑弥呼(ひみか)に当る、とした『甕依(みかより)姫』の『みか』ですよね」
「ええ」
 斎藤さんは、わたしの「甕依姫」論は、先刻御存知だった(『古代は輝いていた』第一巻)。
「ですから、その『みか』を祭った。というのは、筋が通っていますよね。でも、これは、今お聞きして、すぐ、わたしなりに考えてみただけです。やはり、現地で、その山へ行って見ませんと、分かりませんけどね」
「わかりました。じゃあ、一回、お登りになりませんか」
 斎藤さんは、微笑しながら言われた。あるいは、わたしの答えを予期しておられたのかもしれない。
「そうですね。是非、登ってみたいですねえ」
 わたしも、「くら」にとり憑(つ)かれていたから、心が動いた。いや、はずみはじめたのである。

御神楽岳は縄文以来の祭祀の山

 登った。やはり、来てよかった。麓からかなり、歩かされたけれど、その甲斐はあった。今度は、雨でもなく、晴れて暑すぎもせず、ちょうど、山登りにふさわしい天気だった。今度、といったのは、実は「二度目」だったからだ。昨年(昭和六十三年)も来た。同じく、七月のはじめだった。例の、喜多方の生地へ、いきなり御対面のときだった。そのあと、この御神楽岳の麓の旅館に泊まったのだけれど、夜中から沛然(はいぜん)たる豪雨、とても、山登りどころではなかった。
 ふたたび志したのが、今回。メンバーはかなり変わった。いや、増えた。東京から、高田かつ子さん、横山妙子さん、柳川美紀子さんといった、女性のメンバーも加わった。いずれも、「市民の古代」のメンバー。肝煎りは、もちろん、斎藤さん、田中信彦さん、佐々木広堂さんたち、地元の方々である。
 収穫は、山頂近くであった。御神楽岳が二つあったのである。頂上近くで、峰が分岐して、こちらは、本名(ほんな)御神楽岳(標高一三一五メートル)と書いてある。本名は、当地の字名(あざな)だ。「御神楽岳が二つ」 ーーこれは何か。本来の御神楽岳が、兄弟、あるいは姉妹二峰に分かれていた。つまり、“二上山”だった。いわゆる、男女の山、陰陽信仰の形をとった山だったことをしめす。日本列島各地に残る、旧石器・縄文以来の信仰形態だ。やはり、この山は、伝統古き信仰の山だったのである。
 この点を、さらに実証したものは、山項から向こう、新潟県側に少し降りたところ、そこにあった縄文の祭祀遺跡である。凹地になって沼沢になったところ、その周辺に、縄文土器が出土した旨、表示されていた。新潟県、つまり「越の国」側から、登ってきた人が、ここで“山を祭った”、その痕跡なのであった。“御神楽岳は、縄文以来の祭祀の山であった”。 ーーわたしが、新幹線の中で「想定」した仮説、それは不当ではなかったのである。

 古代人は山をどう見たか

 この登山で、日本の古典の著名な一節に対し、解明の光を手にすることとなった。今まですでに再々出てきた「天孫降臨」の一節である。
「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)に天降りき」
 この「クシフルタケ」は、高祖(たかす)連峰の中の山であった。しかし、第一峰ではない。第一峰は、もちろん、高祖山それ自身だ。「日向(ひなた)山」も、別にある。手塚家文書の、黒田長政書状に、「ひなたやま」と、ある通りだ。おそらく「日向峠」のあるあたりであろう。
 では、なぜ、ニニギたちは、第一峰たる高祖の山に「降り」なかったのであろうか。従来の、本居宣長等の力説したように、「天上から」すなわち、“ヘブン”ないし、“スカイ”からの「降下」なら、第一峰に降りず、第二峰以下に降りた、というのでは、何となく、“恰好がつかない”ではないか。
 では、何か。その謎が解けた。もちろん、ニニギたちは、地上の人間だ。壱岐・対馬あたりの、対馬海流圏の海人族。海からの侵入者だった。
 では、彼等は、なぜ、第一峰を“占拠”しなかったか。
 たとえば、現代人。「ヒマラヤに登った」といえば、その最高峰登項を意味する。第二峰や、頂上近くの凹地までしか到達していないで、「ヒマラヤ登項」と称すれば、まちがいなく「詐欺師」あつかいをうけよう。当然のことだ。
 しかし、これは、現代人の感覚だ。もっとハッキリいえば、“山への畏敬”を忘れた、後代クリスチャン、つまり近代ヨーロッパ人の感覚だ。「登山」とは、「山を征服する」ことなのである。
 しかし、古代人はちがった。「山」は、すなわち“神”であった。尊むべき「神の座」、さらには、“神”そのものであった。あの「乗鞍山」が“祝(の)り倉”であるように、それは古代人の、山に対する根本姿勢だった。
 とすれば、現代人風に「山項を極める」「最高峰を、己が足もとに踏みつける」行為は、冒涜だった。神への畏れを知らぬ行為だった。だから、この御神楽岳では、二つの山頂から、やや下ったところ、そこに人間の「祭りの場」をもうけたのである。
 「クシフル」も、同じだ。ニニギたちは、“神聖なる山項”すなわち、高祖山そのものを避けた。そして、そのわきの第二地点、クシフルに、自分たちの拠点をもうけたのであった。
 なぜか。もちろん、当地、筑紫の原地民の「神聖なる山」への信仰を侵して、彼等の反撥をうけることを避けた。 ーーそれもあろう。しかし、それより何より、彼等自身、侵入者たるニニギたち自身が“神聖なる最高峰”に対する崇敬という伝統と時代の常識を、十分にわきまえた古代人だったからではあるまいか。

 最高峰を禁忌したニニギの軍団

 この点、博多で「市民の古代、九州支部」を創設された、灰塚さん、鬼塚さんから、興味深い新説を聞いた。それは、こうだ。
“ニニギたちの軍団は、先ず、今山を襲撃したのではないか”
 このアイデアだ。金属器の時代に入る以前、この今山の石材が使われて「石斧」が製作された。「今山の石斧」として、有名である。その分布図は、あの腰岳の黒曜石の分布図とも、ほぼ一致し、さらにのちの金属器(銅矛・銅戈・銅剣等)の分布図とも、相重なっている。
 つまり、「金属器」をもった侵入者がこの筑前領域に侵入したとき、先ず、従来の武器たる石斧製造工場を“襲撃”し、“征圧”しようとしたのではないか。 ーーこれが「鬼塚・灰塚説」の着眼点である。
 この今山に、ほど遠からぬところ、そこに「ニギノ浜」がある。海岸線だ。これと「ニニギ」の名称と、関係があるか、どうか。
 また、この近くに、「天降神社」がある。「天降」は「アマオリ」と読む。今は、高祖山連峰のすそ近くに寄って移転したが、その前は、もっと今山に近いところにあった。
 この浜も、神社も、御両人に御案内いただいた。やはり、土地鑑には、めっぽう強い御両人だけに、その着眼は鋭く、現地に密着している。
 そこで、わたしは思う。ニニギたちは、この今山周辺を征圧したのち、高祖山連峰に登った。山上は、下を攻撃するに易く、下から攻撃されにくいからである。敵(原住民。安日彦と長髄彦たち)は、もはや「今山」を利用できない。上(連峰)から看視されているからだ。当然、現地(今山)にも、侵略軍が駐屯していたであろう。
 そのさい、ニニギだけは「神聖なる、高祖山の最高峰」を、主軍の駐屯地とせず、第二峰以下の「クシフルタケ」を根拠地とした。そういうことだ、そこは、今は、「キツネやイノシシの、よく出てくるところ」だ。かつて、ニニギたち侵略者は、「キツネ」のごとく、「イノシシ」のごとく出没し、板付(いたつけ)の縄文〜弥生前期の水田の人民や菜畑の縄文水田の人民の後継者たちを悩ましつづけ、ついに征圧するに至ったのであった。
 以上の実状況を、真実(リアル)に“キャッチ”できたのは、今回の御神楽岳登山の、思いがけない、貴重な副産物であった。
 やはり、歴史学は、足で学はなねばならぬ。 ーー秋田孝季の、この“教え”は、あやまりなかったようである。

縄文のキーワードとしての「みか」

 御神楽岳余話。土地の説話に、”御神楽岳の頂上から、「おかぐら」が聞えてくることがある。だから、「みかぐら山」という”というのがある、という。これは、「御神楽」という字面からの“連想”にもとづいて、新しく発生した説話であろう。第二次説話である。わたしには、そう思われる。
 次は、「甕(みか)」。これを固有名詞にもった神社や神名は、意外に多い。
 大甕(おおみか)神社。茨城県日立市内、常磐線に大甕駅があり、この駅の近くにこの神社がある。「甕の原」という地名もあるようである。
 飛鳥三日依姫(みかよりひめ)。奈良県の飛鳥坐(あすかにます)神社の、本来の祭神である。この「三日」は、すなわち「甕」であろう。神社の域内に、多くの陰陽神のシンボル物が“鎮座”している。参詣者が「奉納」したものであろう。この大和の地の、「神武侵入」以前の「信仰」をしめすものであろう。
 有名な、猿石の類にも、同じく、男女の陰部が刻入されている。同じき「陰陽信仰」の存在が、旧石器・縄文以来、この地に綿々と伝統してきていたことをしめすものではあるまいか。
 これらに比すれば、弥生時代後半期の「神武侵入」は、ずっと新しい時代に生じた「新現象」だったのであった。
 さらに、意外なのは、建御雷命(たけみかづちのみこと)だ。「国ゆずり説話」で活躍する神である。天照大神の使者として、出雲へ行き、大国主命・事代主と交渉し、さらに信州の諏訪湖畔で、建御名方(たけみなかた)命と和睦交渉を行った、という。活躍いちじるしい神だ。だから、この「御雷」という字面はふさわしいように思われやすい。わたしも、そう思ってきた。
 ところが、よく考えてみると、これは
「建ミカヅチノ命」
だ。「建」は「建部(たけるべ)」、すなわち軍事集団の長をしめす冠辞だ。次の「ミカ」は、今問題の「甕」。「ツチ」は「足ナヅチ」「手ナヅチ」などで有名な「ツチ」。“津を司る神、及至長官”といった意味の接尾辞ではあるまいか。
 つまり、この固有名詞の背後には、
 甕津(ミカヅ)
 という地名が背景となっており、その「甕」は、縄文以来、尊重されてきた“神に捧げる酒や水を入れるかめ”なのではないだろうか。その「甕津」なる軍事集団の長、それを名乗った弥生人、それがこの建御雷命だったのではあるまいか。
 これら、いずれも、“弥生の花は、縄文の土の上に生れた” ーーこの道理をしめしているもののようである。

 鉄をめぐる古代東北の謎

宮城県 武井(ぶい)地区 砂鉄 真実の東北王朝 古田武彦

 古代東北への入口、福島県がわたしを引きつけたのは、御神楽岳だけではなかった。逆に、東の太平洋岸から出土した「未知の世界」がわたしを強い磁力でさそったのである。
 それは、相馬郡新地町(しんちまち)から原町(はらのまち)に至る、広大な古代製鉄造跡だ。時代は、七世紀後半から八〜十世紀に至る。奈良・平安時代をふくむ。
 その間には、多賀城碑の建築や修造期(八世紀)があり、近畿天皇家と東北古代王朝、安倍氏との死闘が演ぜられていたのは、平安時代だ。その多賀城の北方、釜石地帯には、今も有名な製鉄工場が存在する。
“鉄をめくる古代東北” ーーこれは、この地帯の文明の変遷を語るさい、逸することのできぬテーマだ。
 わたしはかつて、論じたことがある。四〜六世紀、朝鮮半島における、「倭国軍と高句麗軍の激突」、その理由、真の背景は「アイアン・ロード(鉄の道)」の確保にあったのではないか、と。『三国志』の魏志韓伝に、有名な記事がある。
「国に鉄を出す。韓・穢*・倭、皆従ひて之を取る。諸市買、皆鉄を用う。中国に銭を用うる如し。又以て二郡に供給す」

穢*は、三水編に歳。第4水準ユニコード6FCA

 問題は、末尾の「又以て二郡に供給す」の一文だ。従来、見のがされやすかった。平凡なこのフレーズ、ここに、その後の歴史展開の真相が隠されていたのであった。
 三一六年、中国の西晋王朝は崩壊した。北方から、新興匈奴が南下し、洛陽を、咸安(西安)を、陥落させたのである。北朝、前趙の建設だ。やがて前燕や北魏へとつづいた。
 これに対し、西晋の王族は、建唐(南京)で東晋を建国した。宋・斉・梁・陳とつづく南朝である。
 この南・北朝対立の中で生じた「歴史の空白」があった。それは、朝鮮半島の楽浪郡・帯方郡の当面した運命である。大義名分上は、西晋の後継王朝たる東晋に属しながら、本国との間には「海の断絶」がある。ここに生じた“政治的・軍事的空白”それが激動の原因となった。
 その空白を埋めようとして、南下したのが高句麗、北上したのが倭国だ。しかも、高句麗は、北朝系の、新しき大義名分論を背景にしていた。“楽浪・帯方は、新しき支配のもと(北朝・高句麗)に入るべきだ”と。
 これに対して、倭国。有名な、倭王武の上表文に代表されるように、「南朝系の、古き大義名分論」の実行者たることを志したのである。
 以上の状勢は、すでに書いた(『古代は輝いていた』第二巻)。問題は、その実質だ。高句麗と倭国は、「二郡」(楽浪郡と帯方郡)の支配を求めて争った。それは、大義名分の問題だ。けれども、その実質として、重要な一要素、それは、「鉄の支配」にあったのではないか。 ーーこれが、わたしの視点であった。魏志韓伝に「国に鉄を出だす」と書かれた、その鉄を、誰が支配するか。この問題である
(「アイアン・ロート(鉄の道)韓王と好太王の軌跡」、昭和薬科大学紀要第二十号、『よみがえる卑弥呼』駿々堂刊所収、参考『古代の霧の中から』第1章 古代出雲の再発見 1神話と鉄)。

 「鉄の王国」に侵入した近畿天皇家

 これと同じ視野を、日本列島の東、この東北地方に転じてみよう。そこには、豊富な、金や鉄を内蔵する地帯があった。
  すめろきの御代栄えむとあづまなる、みちのくやまに金(かね)の花咲く
   (『万葉集』巻十八。四〇九七)
 右は、「陸奥国より金を出せる詔書を賀する歌一首。短歌を并(あわ)す」と題する長歌に付された反歌(三首)の一つ。有名な歌である。その末尾に、
「天平感宝元年五月十二日、越中国守の館に於て、大伴宿祢家持、之を作る」
とあるものだ。
 長歌の中に、
「東国(あずまのくに)のみちのくの小田在るに金有りと……」
(「小田在山尓」を、通例「小田なる山に」と訓(よ)んでいるけれど、原文に則し、「ニの重用」の形で訓読した)
とある、「小田」について、岩波の『日本古典文学大系』の注で、 「延喜式神名帳に、小田郡黄金山神社がある。宮城県遠田郡涌谷町字黄金迫の地(小牛田の東方)」
とある。
 また、この反歌や長歌の題詞にある「金」について、これを「くがね」と訓み、「黄金」のこと、と見なすのが通例である。事実、長歌の本文中に、
 「久我祢可毛(くがねかも)
とあるから、この訓みも、十分可能性はあろう。ただ、同じ本文中に、右に挙げた「小田」の項の末尾に、
 「有等(かねありと)」
とあるから、こちらは「かね」と訓む方がよい。そういう見地もなり立つであろう。
 そこで、この「金」は「黄金」ではなく、「鉄」のことではないか、という問題も生ずる。
 今は、この訓読問題に深入りはすまい(この長歌には、「大皇」「大君」「大王」をめぐる、興味深い訓読問題がある)。しかし、今の問題は、次のようだ。
 たとえ通説のように、この歌が「鉄」を訓まず、「黄金」のみを訓んだ歌だった、としても、それはあくまで“歌の上”のことにすぎぬ。この「東国の、みちのくの、小田」の山地帯やその周辺が、「黄金」のみ産出し、「鉄」は産出しない、などということはありえない。これは、わたしたちには「常識」だ。なぜなら、現在も、この地点は、巨視的に見て、広大な産鉄地域の一端に属しているからである。
 ところで、『日本書紀』の「大化改新」の詔勅群中で、「東国」は特異な性格をもつ。近畿天皇家は、七世紀から八・九・十世紀の間、ひたすらこの「東国」をめざした。「みちのく」をめざした。そこには、鉄があった。そして黄金があった。それは果して“偶然”だったか。
 つまり、はじめは、やみくもに「東」へ「東北」へとめざした。ただ、“空間征服”の征服願望に駆られて。ところが、たまたまそこに「鉄」があった。「黄金」があった。歴史は、そのような形で経緯(けいい)したのであろうか。 ーー否。
 わたしは思う。それは、「認識」が先ず存在したのだ、と。そこが「鉄の王国」であったことを知っていた。だから、近畿天皇家はここ「東国」をめざしたのだ、「みちのく」をめざしたのだ、と。これが、わたしの「仮説」である。
 旧石器や縄文という時代は、「黒曜石」や「サヌカイト」や「最上川ストーン」といった、「良質の石」を中心に、推移した。それが時代を突き動かす、根源のエネルギーだった。少なくとも、重要な、その一つをなしていたことは疑えない。
 それと同じだ。弥生以降の金属器の時代、はじめは「銅」が、やがては「鉄」が(日本では、ほとんど同時期に出発した)時代を突き動かす、根源動力となった。だから、先にのべたように、四〜六世紀における「高句麗と倭国の激突」、あの高句麗好太王碑にくりかえし描かれた、歴史の一齣(ひとこま)が、「アイアン・ロードの仮説」によって、生き生きと解明されうるのだ。
 同じく、「東国アイアン・ロードの仮説」によって、近畿天皇家の「東国」への侵入行為の動機、その秘密が明らかになるのではあるまいか。
『日本書紀』や『続日本紀』に“みちあふれ”た、「蝦夷反乱」や「蝦夷帰服」の記事、それらは、その実、近畿天皇家の「侵略」行為の“逆証言”なのである。天皇家が“東方の鉄と金の宝庫”をめざして「侵略」の野望に燃え、それを達成した史実の、“輝ける記録”なのだ。それが、いわゆる「正史」の果すべき役割なのである。
 このような「正史」のもたらす“教養”によって、八世紀以降の「日本国民の歴史意識」は形成された。「御用歴史家」と「御用歴史知識」だ。この点、実は、源氏や徳川氏といった武家政権も、例外ではなかった。彼等は、近畿天皇家から“いただい”た、
「征夷大将軍」
の称号を、“有難がった”からである。この「夷」とは、いわゆる「蝦夷」のことだ。東北の古代王朝と古代王国を指した“誇りある旧称”だったのである。
 いわんや、明治以降、維新政府は右の「御用歴史知識」の普及をこととした。これが「天皇家一元史観」である。各学者も、この史観を基本として、今日に至っている。それは、明治以降の「近代日本の統一」のために“必要”だったのであろう。「藩閥政治の克服」にも“必要”だったのであろう。「敗戦後の日本の安定」にも、あるいは“必要”だったのかもしれぬ。それらを否定する必要はない。
 だが、いかんせん、歴史の真実には背いていた。歴史の真実に背くものは、いかにいっときの権力や権威が“流布”につとめてみても、いつか、その真実がみずからを語りはじめるときが到来するのである。 ーー今が、そのときだ。

 新地町武井地区にて

宮城県新地町武井地区の製鉄遺跡(新地町教育委員会提供) 真実の東北王朝 古田武彦

 わたしは、新地町(しんちまち)の武井地区に立った。すでに整地されて、その跡形はない。教育委員会で、詳細に発掘当時の実情をお聞きし、資料をいただいた。
 最初に、“笑い話”があった。
「このブイ地区には、ですね。竪型(たてがた)炉が最初にありました。これは、七世紀後半です。そしてブイ地区には・・・」
 さかんに、「ブイ地区」と発音される。今いただいた現場の地図を、チラチラとのぞいてみるのだが、「A地区」「B地区」はあっても、「V地区」は見当らないのである。
「ああ、そのブイ地区というのは、この地図のどのあたりでしょうか」
 たまりかねてお聞きした。すると、
「あっ、そう、そう。武井(たけい)と書いて、『ぶい』と読むんですよ」
「ええっ、これが『ぶい』ですか。なるほど」
 事態は判明した。わたしは現地に来るまで、これを「たけい地区」と思いこんできたのだった。今でも、そう“読んで”いる製鉄研究者も、あるいは、いるかもしれぬ。これだから、現地に来なければならない。現地を、足で踏まなければ、駄目なのだ。
 もっとも、この「武井(ぶい)」という地名について、「古い史料には見当りませんよ」といわれるむきも、現地近くの研究者にあったけれど、やはり、この地名は「古い」のではないだろうか。なぜなら、
 「あれが安達太良山
  あの光るのが阿武隈川」
と、高村光太郎が智恵子と共に歌った、あの有名な詩にも現われる「阿武隈川」も、(巨視的に見て)この近くだ。「隈」は、例の「クマ」。九州の福岡県・佐賀県・熊本県などにも数多く分布する言葉だが、これは「神」を意味する。「神代」は“クマシロ”なのである。高良大社の「高良記」にも、「神」は“クマ”と読め、とある。熊襲の「クマ」も、この「神」であろう。
 さて、語幹は「阿武(あぶ)」。そばの山「阿多多羅山」にもある「阿」は接頭語。一番の語幹は「武(ぶ)」だ。この「阿武」と「安倍(あべ 阿部)」も、同類の言語表現であろう。現地語だ。
 このように見てくると、「武井(ぶい)」と「阿武(あぶ)」も、同類語であることが判明しよう。やはり、現地語なのである。
 この、わたしの「誤読経験」は、貴重だった。なぜなら、この新地町武井の製鉄遺構を、果して新聞の報じたように、はじめから「大和朝廷の製鉄遺跡」と解していいか、一点の疑問を投げかけるものだからだ。
 やがて、八世紀前葉から、「竪型炉」が消え失(う)せ、「横型炉」にとって代られる。それが九〜十世紀につづくのだ。この方は、明らかに、近畿天皇家側の製鉄遺跡だ。しかも、これが三〜四世紀間、奈良時代から、平安時代につづいていること、それはすなわち、この期間、東北地方北部に、近畿天皇家に対立する「東北王朝」の実在したこと、その「物による逆証言」だったのである。それが実在しなければ、この地に、これほどの一大製鉄基地の永続は、それこそ“必要”がなかったであろう。
 その上、興味深いことは、この福島県の太平洋岸の製鉄地帯が、本書のはじめにのべた多賀城碑に、「蝦夷国界」とされているところ、すなわち“宮城県と福島県との間”に接する形で、その南側(福島県側)に設定されていることだ。
 もちろん、宮城県内にも、同類の製鉄遺構は存在するようだけれど、にもかかわらず、この「蝦夷国界」の外側(福島県側)に、この巨大製鉄基地の設定された意義、それを「軽視」すべきではないであろう。
 わたしは、武井地区から、海岸に出た。太平洋から、黒潮の余波が、間断(かんだん)なく、黒砂を運んでくる。砂鉄だ。一見しても、黒い砂粒が、海岸線に累積しているのが分かるくらいである。同行の斎藤さんと甲斐さんは、しきりにその黒砂を拾い集めておられた。わたしも拾った。あとで、甲斐さんが、磁石で“集めた”鉄粒を下さったが、見るからに「鉄」であった。広い太平洋の中に、これを“産み出す”源泉が存在するのであろう。いまだ、人類にとって、ほとんど手つかずのままにある、海底の宝庫だ。
 だが、この宝庫のために、西方の権力は、この土地への「侵略」に憑(つ)かれたその「犯意」を隠すため、当地の人々を「蝦夷」と呼び、「反乱」と称して、「正否」を逆転させた。その後、現今までいかほど、この東北の麗わしき土地の、すぐれた人々に対して、軽蔑の言葉が累積されたことか。わたしたちは、その迷妄(めいもう)から、目覚めねばならぬであろう。
 この武井地区での海岸には、見事なかれいがとれる、という。江戸時代、伊達の殿様が、江戸へ行って、これを自慢にした、という。海の幸の国である。あの津軽の地も、海の幸にめぐまれた、美しく輝く国だ。大地だ。いたずらに、西の人々、江戸や京の人々は、これを「暗い」イメージにとじこめようとしてきたけれど。

砂鉄を産出する相馬の黒潮(新地町埓浜付近にて) 真実の東北王朝 古田武彦

 

 東北王朝に製鉄はあったか

 わたしは、米沢の「最上川ストーン文明」に行く前、多賀城市に行った。そこにも、「竪型炉」の跡形が見つかった、と聞いたからである。その名は「柏木(かしわぎ)遺跡」。市の東部、住宅建設のために整地された、大代(おおしろ)地区の丘陵南斜面、柏木神社の裏地にあった。ちなみに、西方の多賀城跡とは約四キロしかはなれていない。

宮城県 柏木遺跡 柏木神社近くの丘陵斜面から竪型炉跡が発見された 真実の東北王朝 古田武彦

 市教委の文化財関係の方にお聞きすると、ここは「八世紀初期」だ、という。多賀城創建と同時期だというのである(この前、新地町の教育委員会でお聞きしたときは、ここも同時期〈七世紀後半〉と見られていたようであった)。
 その設定目的としては、「多賀城創建時に必要な、釘などを作ったのではないか」とのことであった。不思議なことに、この遺跡は、八世紀初期(神亀元=七二四年の頃)のみで、そのあと、跡絶えてしまう、というのである。では、あの多賀城碑建立期の、天平宝字六年(七六二)、つまり「修造」のためには、「釘」は必要ではなかったのであろうか。 ーー不審だ。
 もちろん、いろいろな解釈は、可能であろう。けれども、その「可能性」の中に、
「古代東北王朝側の製鉄」
という問題を入れて、考えてみることもまた、必要なのではないだろうか。
 もちろん、「製鉄のすべては、大和朝廷から」 ーーそういう帰結になってもよい。良いも、悪いもない。事実は、事実なのだから。だが、研究の「出発点」に、その命題をおく。これでは、慎重ではない。客観的でもない。学問的とさえ、いいえないのではあるまいか。
「そこに、竪型炉はあった。しかし、それが何者の建造か、まだ分からない

 そういい切る、寛度。それが必要なのではあるまいか。それが学問の精神だ。
 たとえ、「多賀城創建時」と同時だとしても、“創建のための製鉄”か、“敵(東北古代王朝側)”が、ここに製鉄炉を作りつつあったから、ここを制圧し、多賀城を築くに至った、その動機となった製鉄地か。その判別は容易ではあるまい。
 もし、「この製鉄炉は、大和朝廷が多賀城創建にともなって、『設営させたもうた』とした方が、文化庁の指定をえやすい」といった“思惑”が先行するとしたら、不幸なことだ。
 “大和朝廷の設定”であってもよし、“大和朝廷の設定”であってもよし、いずれにせよ、古代東北の歴史の真相を明らかにする上で、重要。これがクールな立場なのではあるまいか。もし、文化庁が、そのいずれかで「指定態度」を変えるとしたら、明治維新以降の「思考わく」に従った、イテオロギー査定。 ーー公正な、国民の目から見れば、そのように判定されざるをえないのではなかろうか。
 そのような「行政」の問題は、さておこう。わたしの“得手”とするところではないのであるから。
 今、注目すべきテーマ、それは、次の点だ。
「古代東北王朝の製鉄は、あったか否か」
 これだ。結果は、未来に待つところ。しかし、ハッキリと「未来の課題」としておきたい。今年(平成元年)九月末、福島県でたたら研究会の全国大会が開かれた。広島大学を中心とした、わが国唯一の製鉄関係の学界だ。これに出席して、うるところ、多大であった。東京の「古田武彦と古代史を研究する会」(事務局、朝日トラベル)の会長、山本真之助さんは、早くからの会員である。
 懇談会の挨拶(各人、一言)の中で、わたしが、五世紀以降の近畿の古墳出土の大量鉄について、これをもって、
「大和朝廷の朝鮮出兵」
の証拠とする、考古学界・古代史学界の「通説」は、不当ではないか、とのべた。半島内で高句麗と激戦し、しかも劣勢に向かいつつある「倭国」側が、“最適の武器資材”である鉄材を、大量に「死蔵」するとは、考えられないからである。それゆえ、これは、「朝鮮出兵」の証拠ではなく、「朝鮮不出兵」の証拠ではないか。 ーーその旨をのべたのである。
 ところが、これに対して、広島大学で、たたら研究会の世話役をしておられる河瀬正利さんから、「異議がある」旨、のべられた。会が終って、お聞きすると、「今、忙しいから、明日」とのこと。
 翌日、原町の製鉄遺構跡を見学しながら、河瀬さんに聞いた。ところが、意外だった。わたしの「予想」と逆だった。
「わたしたち、たたら研究会を永年やってきた書記局の者としては、あの大量の鉄[金延](てってい)を、朝鮮出兵して、獲得して帰ってきたもの、とは考えていません」と。
 逆だった。わたしは、「通説」側に立った「異議あり」かと思ったら、に非ず。それを「通説」と見ることに対する「異議」だったのである。
 古代史学界や一般の考古学界で、「自明」のように語られている、また、書かれている「大量の鉄[金延](てってい)出土」と「朝鮮出兵」を結びつけた見解が、実は、わが国唯一の製鉄関係学界たる、たたら研究会の代表者たち(書記局の方々)の「承認」すらうけていない見解であったこと、この事実の「発見」に、わたしは、眼前の古代製鉄遺跡の前で、ぼう然とならざるをえなかったのである。わが国の「学界」は、一体どうなっているのか、と。

鉄[金延](てってい)の[金延](てい)は、金偏に延。JIS第三水準、ユニコード92CB

 筑紫から津軽へと伝わった製鉄技術

 前日の大会発表の中でも、興味深いものが多かった。たとえば、福島市の振興公社の鈴木功さんの発表の中に、五世紀後半の鍛冶遺構である永作(えいさく)遺跡(郡山市)が表示されていた。
 これは、素材を他からもちこんで、行われたものであろう、とのことであった(これと同類のものは、宮城県にも存在するようである)。
 また、岩手県立博物館関係の研究者(佐々木稔氏〈コロイドリサーチ株式会社〉・赤沼英男氏)からは、もっぱら自然科学的検査によって、東北地方北部の出土鉄器が意外に“古い時代”の数値をしめすことが報告された。ただ、考古学的所見との“かみあわせ”は、今後の問題であろう。
「大和朝廷以外の製鉄など、論ずるに足らず」、そのように信ずる人々にとって、いささか”こわい”史料がある。

     邪馬壱国卑弥呼女王
 北筑紫なる邪馬壱国の女王卑弥呼、日高見国久流澗(くるま 来朝なり)の高倉に使を遣し、鉄の造法を伝へけるなり。よつて、古来もちゐ来りし銅の器物、すべて地中に埋めたる多く、倭の十二山に捧げたるもありしといふ。もとよりこの十二山、近畿諸国にわたりて在し、その末社にも多く納めたりと、語部に伝へらるるなり。
 卑弥呼とは、熊襲族にて、わだつみの神、大嶽神とて、天地陰陽神二柱を祀るといふなり。女王にはべる女従三千人、高殿を護る馬兵つねに一万といひ、倭朝および出雲朝、これをいたく怖れたりと伝はる。
 邪馬壱国にては、鉄のタタラ製法さかんにて、わが宇曽利タタラも、これに習ふとなり。また、日高見国の金銀銅鉄の砿山、みな、邪馬壱人の授伝なりといふ。
 右は、寛永十五年(十六三四)三月に記せし羽州高清水の住人物部総宮大夫が説なり。
 寛政十年三月秋田孝季
(山上笙介編『総輯東日流六郡誌全』、津軽書房刊、一三七ぺージ)

 わたしにとっても、この史料は“驚異”だった。それは、
 「北筑紫なる邪馬壱国の女王卑弥呼」
の一節だ。わたしが『「邪馬台国」はなかった』で、苦心惨憺(さんたん)、展開したテーマが、わずか、この一行に、否、半行の句に“描き尽くされ”ているではないか。慄然(りつぜん)とせざるをえなかった。これを、わたしが“見出した”のは、今年(平成元年)の十二月上句だった。
 それはさておき、ここで語られているところ、それは「筑紫 ーー 津軽」という、製鉄のノウハウの移転の話なのである。それが、三世紀だ、というのだ。
 わたしには、河瀬正利さんの言葉がよみがえった。
「まだ、証拠はありませんが、すでに三世紀、わが国にも製鉄が行われていたのではないか、と思っています」
「個人的見解」と、ことわっての言葉だった。わたしも、同感だった。それは、あの『三国志』魏志韓伝の言葉を、まともに読む限り、そう考えざるをえない。この
「之を取る」
を、“買って帰る”の意に解したものがあったけれど(たとえば、窪田蔵郎『改訂鉄の考占学』雄山閣考古学選書、六一ぺージ)、そのあやまりであること、すでに早く、わたしは論証した。
(『ここに古代王朝ありき』朝日新聞社、昭和五十四年刊)
 そのさい、ただ「採って帰った」だけでは、しょうがない。やはり、当方に「製鉄技術」と「製鉄炉」がなければ、右の文面は、空文なのである。
 とすれは、すでに「筑紫津軽」という、“水田製作のノウハウ”の移転が実証された今、果して“製鉄のノウハウ”は移転されずにすんだか。前者は、前二〜一世紀頃、後者(卑弥呼)は、後三世紀のことだ。
 あの有珠湾の、海の王者が沖縄南海のゴホウラ貝の貝飾りをもって葬られたのは、四世紀頃のこと。長崎県佐世保市の宮の本遺跡出土のものと、ソックリさんだった。
 また、縄文後期、対馬の峰町の佐賀遺跡からは、北海道・津軽海峡圏・岩手県北部を「南限」とする棲息地域のサルアハビ貝・ユキノカサ貝の貝飾りが出土した。同じ領域特有のモリも出土した。明らかに、両領域の交流は、縄文時代から存在したのであった。
 このように考えてくると、右の『東日流六郡誌』の記載を、「嘲笑」しようとした人も、その頬が“こわばる”のではあるまいか。「嘲笑」し、「無視」し、「軽視」するのは、たやすい。けれどもそれは、知恵ある人のふるまいではない。逆に「己(おの)が」無智と傲慢(ごうまん)と権威主義の証拠。 ーーこの一事を、歴史の女神は次々としめしつづけてきたのではなかろうか。本書がしめさんとしたところも、ただその一事にすぎなかったのである。


『東日流外三郡誌』序論 日本を愛する者に 古田武彦 『新・古代学』第七集

死せる和田喜八郎氏 生ける古田武彦らを走らす へ

寛政原本と古田史学 古田武彦(古田史学会報81号)

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