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二〇一一年度 久留米大学公開講座 九州王朝新発見の現在 古田武彦氏講演要約 文責=大下隆司(会報105号)
忘れられた真実
一〇〇号記念に寄せて
古田武彦
一
「古田史学会報」一〇〇号記念にさいし、心からお祝いの言葉をささげよう。
しかしそのために「美辞」「賞言」をのべず、代ってわたしの最近の発見と新論証を記させていただくこととする。
それこそ真に、この会報の読者に“報いる”所以(ゆえん)と信じるからである。
二
真実は明確なほど、忘れ去られている。万人の眼前に輝く「真実の歴史」こそ、人々の認識の外におかれている。
最近、それを痛感することが多い。今回はその一例として福沢諭吉の『学問のすゝめ』冒頭の、著名の一句の源由(“いわれ”)を論じよう。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」。
明治五年二月刊行の本書が世に出てより、何回となく、識者によって「解説」せられてきた。
それによれば、右の一句の源由は、外国にあり、となし、フランスの人権宣言、アメリカの独立宣言等が、その「引用母胎」とされてきたのである。これが通説だった。
「定説」とさえ思われてきた。 しかし、わたしはこれに反対した。
『東日流外三郡誌』や『東日流六郡誌』のなかにおびただしく、右と同類の思想が出現している。 それも「質」も「量」も、右の一句以上にゆたかに存在するのだ。
「もとより、天は人をして上下に造りしなく、光明は無辺に平等なれば、いかでやおのれのみ、以って満足に当らんや(中略)よって、わが一族の血には、人の上に人を造らず、人の下に人を造ることなかりき」(『総輯 東日流六郡誌 全』一五四ページ)
「吾等が奥州にては古来より一族の血脈に於て、人の上に人を造らず、亦人の下に人を造るなし」(『東日流外三郡誌』五巻、六八二~八三ページ)。
右はそれぞれ『日之本将軍安倍安国状』(秋田孝季書)及び「秋田水月抄」(秋田孝季)からの掲載であった。他にも二十四個所にわたる「同類の思想」が出現している。
その史料事実を、わたしは(藤田友治氏と共に)これを示した。(『真実の東北王朝』、駸々堂、一九九〇/六月刊)。
しかしいわゆる「通説」側に立つ論者はこれを“うけ入れず”に今日に至っていた。 周知の通りだ。
三
一個のリトマス試験紙がある。それは「被差別部落」という一語である。この一語を前にして、右の著名の一句を検してみよう。
第一命題〓右の一句の指さすところ、それは「被差別部落に対する、完全否定」ともいうべき、鮮烈な言葉であること疑いがない。なぜなら、その「差別」を容認したままで、右の一句をのべたとすれば、全く無意味だ。概念の「もてあそび」にすぎないからである。
第二命題〓日本列島には、二つの領域がある。 「A領域」は「被差別部落」の存在しない地帯である。東北地方(の大部分)及び沖縄地方がこれに相当している。
「B領域」は右以外の、ほぼすべての地帯である。関東、信州、関西(近畿)、九州等がこれに属する。
右の著名の一句は、果して「A領域」を母胎として生み出されたか、それとも「B領域」を母胎として生み出されたか。この問題だ。当然「A領域」以外には、ありえない。
四
もちろん、「これは外国の思想からの“翻案”である」という立場から見れば、一見「日本列島における、母胎」とは無関係である、と称する論者もあろう。しかし「さに非ず」だ。なぜなら外国、特にヨーロッパやアメリカに「天は・・・・云々」の表現はありえない。当然、福沢諭吉が自己の意思、自己の思想を以て見事に「書き直した」あるいは「書き変えた」
そのように解する他はないからである。
では、諭吉の属した地帯、それは右の二つのうち、いずれか。
もちろん「B領域」である。出身地の大分県、基礎教養のつちかわれた大阪府(適塾)及び、当「執筆時点」における関東(東京)いずれも「B領域」に他ならない。
五
最近、好著に会った。『江戸の非人』『江戸の部落』の二著だ。いずれも本田豊氏の著述である。三一書房から一九九二年七月、及び一九九四年七月の刊行だ。
たとえば「表1、一九三五年調査(中央融和事業協会)」では、東京市、北多摩郡、南多摩郡、西多摩郡の計二十地区にわたり一三七八の「部落名」が統計されている。一九三五年とは昭和十年だが、もって明治五年(一八六八)、福沢諭吉が『学問のすゝめ』を執筆したときの「東京の被差別部落状況」も(他の各統計票と共に)十二分に察することができるのではあるまいか。
六
もちろん、立論することができよう。「諭吉を取り巻く環境が、たとえ『被差別部落』に取り巻かれていたとしても、抜群のインテリとしての諭吉の『個性』が右の著名の一句を“可能”にしたのではないか」と。もっともな立言だ。
では諭吉本人の語るところを見よう。最初の「初編」につづく「二編」の「人は同等なること」の一段だ。
「初編の首(はじめ)は人は皆同じ位にて生まれながら上下の別なく自由自在云々(うんぬん)とあり。(中略)」
「故に今、人と人との釣合を問えばこれを同等と云わざるを得ず。但しその同等とは有様の等しきを言うに非ず。権理通義の等しきを言うなり(中略)」
故に云(いわ)く、人民もし暴政を避けんと欲せば、速やかに学問に志し、自ら才徳を高くして政府と相対し同位同等の地位に登らざるべからず。これ即ち余輩の勧むる趣意なり」(明治六年十一月出版)
右に「初編の首」と言っているのは、明らかに「天は人の上に 云々」の冒頭の一句を指し、それを承けた一文だ。
だが、これは「人と人との釣合」の話であり、「有様の等しき」ということではない、
と注釈する。
その結果、右の「解決策」として、「学問」をすすめるのだと帰結した。
では、その「学問」によって「被差別部落」の存在でその中に生れ、そして死んでゆく人々の苦しみや生きざま、生涯、当面せざるをえぬ“歎き”が果して解消するものだろうか。・・・「否(ノウ)」だ。 諭吉の理解するところは「被差別部落の完全否定」や「それへの挑戦」などではない。 もっと“表層のテーマ”しか、目指されてはいないのである。根本の問題の「次元」がちがっているのだ。
七
もし同じ「次元」だったとしたら『学問のすゝめ』の全篇に、冒頭の一句と彼を取り巻く現実の差別社会との間の「激突の火花」が各所に見られたはずだ。しかし、わたしはそれを見たことがない。
「天」の用語を『学問のすゝめ』の全体や福沢諭吉全集の全巻、諭吉自身の文章、(彼の名を“借りた”という)門弟たちの文章もふくめ、逐一検討してみたいと思う。(1) それが真実をめざすための「学問」だ。わたしにとっての学問なのである。
八
『東日流[内・外]三郡誌』の寛政原本が出現し、いわゆる「偽書説」は“過去の存在”となった。研究史上すでにその「生命」は終ったのである。
その上最近の吉原賢二氏の論文が“裏付け”しておられるように、この和田家文書(「日之本文書」、久慈力氏の称)を「偽作」呼ばわりすることは全く不可能となった。(2) かっての「高句麗好太王碑の参謀本部(酒匂中尉)改削説」が現地(集安)の現碑調査によって終結した後も「公的」には「余命」をたもっていた。その時期(十数年間)と同一の研究史上の位置をすごしている。それが「和田家文書偽作説」の現在の(消滅すべき)「運命」なのである。
とすれば、今回とりあげた『学問のすゝめ』の冒頭の一句も、本来の「源由」の立脚地から率直に再検討さるべきだ。これが本稿が「改めて」とりあげたテーマ、その真の趣意である。
九
最後に、先にあげた本田豊氏の『江戸の部落』から次の表を引用させていただいて、本稿を終えよう。
表2 江戸の非人小屋一覧
町名 | 設置年月 | 支配頭 |
三田 4 丁目 | 元文2(1737)年11月頃 | 品川籐左衛門 |
芝 二葉町 | 享保7(1722)年 | 品川籐左衛門 |
浜松町4丁目 | 享保13(1728)年以前 | 品川籐左衛門 |
本芝1 丁目 | ||
本芝2 丁目 | ||
浅草 山川町 | 延宝5(1677)年7月24日 | |
関口 台 町 | 車善七 | |
深川 奥川町 | 深川非人頭孫太郎 | |
深川 築出所町 | ||
深川 黒江町 | 元禄11(1698)年 | |
深川 一色町 | 元禄14(1701)年6月中 | 非人頭善三郎 |
深川 一色町 | 元禄14(1701)年 | 非人頭善三郎 |
深川 一色町 | 元禄14(1701)年 | 非人頭善三郎 |
深川 伊沢町 | 非人頭善三郎 | |
深川 坂本町代地 | 元禄11(1698)年 | 非人頭善三郎 |
深川 堀川町 | 非人頭善三郎 | |
深川 材木町 | 非人頭善三郎 | |
深川 大和町 | 享保年中(1716~35)年 | 品川籐左衛門 |
深川 六人屋敷 | 非人頭善三郎 | |
深川 東平野町 | 非人頭善三郎 | |
深川 山本町 |
文化6(1809)年 | 非人頭善三郎 |
深川 西永町 | 享保11(1726)年 | 非人頭善三郎 |
深川 吉永町 | 元禄3(1690)年 | 非人頭善三郎 |
本所 弁天門町 | 文政7(1824)年 | |
本所 相生町4丁目 | 貞享7(1684~87)年以前 |
本田豊『江戸の部落』P229より模写。
なおP228には、東京市内各区のスラムの表1(明治24)がある。
十
「古田史学」とは、もとよりわたし自身の命名ではないけれど、一つは「人間の論理」(道理)を根本におくこと、一つはその立場から、すべての用例(文献、考古学的出土物、その他)をひとつひとつ逐一再検証する労を惜しまないこと、この二点につきよう。毀誉褒貶(きよほうへん)は学問にとって「浮雲(ふうん)のごとし」だ。関与するところではないのである。
このような立場に立つ限り、課題は“山”のように生れ、存在し、やがて消え、また生れ、尽きる日はないのである。
「古田史学」の会報に後来の俊秀の相集う朝夕を信じたい。もって一〇〇号記念の言葉に代えさせていただくこととした。諸賢の御声援に深く感謝する。
(1)平山洋、『福沢諭吉』、ミネルヴァ書房、二〇〇八
(2)『東日流外三郡誌』の科学史的記述について、「古田史学会報」九七号
『東日流外三郡誌』について、Tokyo古田会News No.132
いずれも吉原賢二氏(東北大学名誉教授)による。
*久慈力氏(048-872-0056)は「新たな『日之本文書』の発見」等各篇を刊行中。和田家文書の全面紹介につとめておられる。
<補>
最近の研究(公刊)状況を略記する。
「古代史コレクション」(ミネルヴァ書房)を逐次刊行中である。『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』『邪馬壹国の論理』(以上既刊)『ここに古代王朝ありき』(九月初頭刊行予定)『倭人伝を徹底して読む』(今秋予定)。各巻とも新しい論証を「日本の生きた歴史」として長文増補。(中・高校生向きの文章)
「701人麻呂の歌に隠された九州王朝」(DVD、全五巻、古田監修、アンジュ・ド・ボーテ・ホールディングス03-3463-5554<FAX>)
なお『日本評伝選』・「俾弥呼」(ミネルヴゥ書房)を執筆中。(発刊)
二〇一〇年八月二十八日、稿了
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