2010年10月8日

古田史学会報

100号

1,忘れられた真実
一〇〇号記念に寄せて
 古田武彦

2,禅譲・放伐
論争シンポジウム

3,地名研究
 と古田史学
 古賀達也

4,古代の大動脈・
太宰府道を歩く
 岩永芳明

5,「禅譲・放伐」論考
 正木裕

6,長屋王のタタリ
 水野孝夫

7,越智国にあった
「紫宸殿」地名の考察
 合田洋一

8,漢音と呉音
 内倉武久

9,新羅本紀
「阿麻來服」と
倭天皇天智帝
 西井健一郎

 

 

 

 

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「漢代の音韻」と「日本漢音」-- 内倉武久氏の「漢音と呉音」に誤謬と誤断 古賀達也(会報101号) へ

魏志倭人伝の読みに関する 「古賀反論」について(会報103号) 内倉武久

再び内倉氏の誤論誤断を質す -- 中国古代音韻の理解について 古賀達也
(会報104号 これで一応完)


漢音と呉音

富田林市 内倉武久

 魏志倭人伝は当時の中国の北方言語(ここでは仮に漢音と表記)に従って読み、発音しなければならない。倭人伝に記録された国名や卑弥呼を始めとする名前や官職も然りである。このことをあいまいにし、南方の一言語である「呉音」で解読し追究しようとしてもそれは無駄な作業になってしまう。そればかりか、事実とはまったく違った結論に結びつく。
 このことを主張し発表したところ、何人かの研究者らから反発をうけた。その中でこれは放って置けないと感じたことがある。それは日本の中国語研究者らが「定説」として扱っている「呉音の定義」である。
 彼らによると呉音とは「四世紀以降の中国南朝で使われた言葉である」という。とんでもない「定説」である。
    *  *  *
 そもそも中国南朝というのは、三一七年の東晋に始まって宋、斉、梁、最後の陳(~五八九年)までの約二七〇年間を指す。この間南朝の首都は現在の南京に置かれた。南京は長江の南に位置し、紀元前の、あるいは三世紀の「呉国」の領域に近い。だから南方の方言が使われていただろう、という理解だ。
 しかし、ちょっと考えればこの「理解」は明らかにおかしい。まず、東晋は魏を引き継いだ(西)晋が北方民族の南進、政治腐敗、天災などが原因で北方民族に追われ、大挙南方に逃れて政権を維持した国である。中国の言語研究者・陳寅恪は「南朝における士人の共通語は、恐らく洛陽のそれと大差ないものであったろう」と言っている(藤堂明保「中国語学論集・呉音と漢音」)。当然だ。
 南方の言語と北方の言語では、日本のいわゆる共通語と鹿児島弁、東北弁ほどの差がある。お互いほとんど通じない。東北弁や北方弁を使っていた人々にいきなり鹿児島弁や南方弁を使いなさい、と言ってもそれは一〇〇%無理な話である。引き続き南方を支配しようとしたら、権威を誇示して政権の優位性を保つことも必要である。へりくだって南方の言語を使い出したら、権威も何も吹き飛び早々につぶされてしまうだろう。ことさら「権威と正当性」を大切にする中国ではなおさらのことである。公用語は漢、魏以来伝統の漢音が使われていたことは想像にかたくない。
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 しかし、南朝の役人たちが長い間には地域の共通語である「呉音」の影響を強く受けたことも事実であろう。藤堂は唐の李?の言葉を引いて「呉民の言葉はマヒ症にかかってまともに口が開かぬような調子で、物言うたびに奇妙な音が出る」と述べる(藤堂 同)。このことをとらえて藤堂始め日本の一部の研究者は「呉音とは南朝で使っていた言語である」と拡大解釈をしている。北方政権である唐人が「呉民の言葉は田舎っぺえの呉音だ」と揶揄しただけなのに、南方系の音韻書である「切韻」を持ち出し、「呉の民」を「南朝」と言い換えているのだ。
 中国で「呉音」というのはもちろん、長江の南、蘇州、上海、杭州など呉越の国人が使っていた言葉を指す。知識人であろうとなかろうとだれでも体感し、知っている周知の事実である。筆者も何回も中国を訪れて体感してきた。中国の研究者が日本の「定説」を聞いたら「この人たち、何にもわかってないんじゃないか」と首をかしげることだろう。
 先年、中国人研究者ら数人に「現在、どの辺までが呉音地域ですか」と聞いたところ「蘇州の北、常州が北限だ。南京は長江の南側にあるが呉音地域ではない」と口をそろえて答えていた。南朝が都を置いていた南京では呉音まじりではあろうが、伝統的に北方言語・漢音を使っていたことがわかる。
 魏志を著述した陳寿(二三三~二九七)は魏・西晋王朝の人だから南朝でどんな言葉を使っていようと関係ない。だが、どうしても魏志倭人伝を呉音で読まなければ自らの立論に都合が悪い人はなんとかその根拠を求めたいと「呉音イコール南朝使用言語」を持ち出す。「南朝で呉音を使っていたんだから、西晋でも使っていたんだろう」という逆説の論理だろう。実際の中国の実情を知らない、あるいは無視している。もちろん論拠にならない。魏志を読み解くのに一番よい音韻辞典は、南方なまりの音韻辞典「切韻」や十一世紀の「集韻」でなく、漢末成立の「説文解字」であることは言うまでもない。
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 藤堂らの論文を読むとなぜ日本列島では漢字の読みで呉音が基層をなしているのか、という問題にほとんど答えを出していない。南朝と交流があったからだろう、などと苦しい言い訳を繰り返している。何十年に一度と言う使節団が南朝に行ったからとか、倭政権は南朝と交流があった百済などと関係が深かったからと言って、それが列島の漢字の読みの幅広い基層になったなどと考えるほうがおかしい。
 そうではなく、魏志を除く中国の史書に繰り返し「太伯の子孫」などと語られているように、江蘇省以南の呉音地域とその周辺から風と潮流に乗って多数の人たちが新天地を求めてやってきたことがその原因と思われる。その人たちが列島で大きな勢力を築いたから、呉音の使用が普通になったと考えれば理解しやすい。
 それにしても、中国語に関してあれほど造詣の深い藤堂までがなぜ「呉音イコール南朝」説を強調するのだろうか。列島の古代史は欺瞞に包まれている。藤堂らが真実の古代史の隠蔽を図っている学界の大勢に擦り寄り、奇妙な「定説」を提唱したのでなければ幸いだ。
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 結論的にいえば、漢音で倭は「ゐ、い」、奴も呉音のナでなく「ど」としか読めない漢字である。「倭奴国」は「いど国」すなわち「伊都国」であり、日本最大の前漢鏡出土地域である福岡県前原市一帯とぴったり一致する。金印ももちろん「伊都(委奴)国の天子」がもらったものである。
 倭を「わ」と読むのは八世紀、列島の支配権を奪った大和政権が自らをそう呼んでいたからであろう。中国の漢音地帯で倭を「ワ」と読む読み方が登場するのは、大和(だいわ)政権の使節団が唐を訪れ、自らの主張である一元史観を強引に認めさせようとした後一〇三九年成立の「集韻」からである。
「大和」は本来「ダイワ」であって、決して「やまと」とは読めない漢字である。読まされているのである。「ヤマト」は本来二つの「奴(ど)の国」すなわち「戸(門)の国」、すなわち「ヤマ国への入り口の国」、邪馬壹国とそれを引き継いだ九州政権を指す言葉であったろう。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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