長屋王のタタリ
奈良市 水野孝夫
「古田史学会報」は、一九九四年六月三〇日の創刊号から、ここに一〇〇号を迎えるわけです。いろいろのことがありました。会報創刊号~十六号の合本が東日流中山史跡保存会(和田喜八郎氏)によって作られています。木村賢司氏は十二号ごとにまとめた合本を作成されています(実費で頒布可能)。インターネットでは最近三年分を除き内容を順次公開しています。
わたしは「禅譲・放伐シンポジウム」で、「日本国は九州王朝(倭国)の横すべり」説をやりましたが、それは天皇家にとって最高の神社である皇大神宮(伊勢神宮)が八代海近辺から三重県へ東遷しているから、王朝も東遷した、というものです。そんなことで伊勢神宮を追跡していて謎があったので、ここに投稿します。
伊勢神宮には内宮と外宮があり、外宮の豊受大御神は御食饌津神、つまりお食事係の神様とされ、内宮のご神饌も外宮で調理される。伊勢神宮関係の文献、太神宮神道或問(出口延佳・著)より引用。
「むかし聖武天皇の御宇までは、内宮の御饌をも、外宮にて調備して、内宮へ持はこびしに、神亀六年(巳己)正月十日、両宮の参道間の山の浦田坂の迫道(セマリミチ)に死人有て骨肉分散しけるを、のがれさくべき道なき故に、御饌を持ながら其の道を通りて供進せるに、同年二月十三日天皇俄に御悩ありて、御薬きこしめすの間、卜食(ウラナハ)しめ給ふに、神祇官陰陽寮勘申しけるは、巽方(タツミノカタ)太神死穢不浄の咎によって祟給ふなりと申し上げければ、宣旨を国司に下して捜(サガシ)糺さるるの処に、浦田坂の死人の事申し上げけるの間、三月十三日、勅使を遣して、件の不浄の由を謝遣せられ、其の時の神役人は大祓に科せて見任を解し、新たに外宮に御饌殿を建て、内外両太神の朝の御饌夕の御饌を、外宮にて毎日調備して備進し、其より内宮へ御饌持はこぶ事は停止有けり。(引用終)」
この事件は精粗はちがうが、複数の神宮関係文献にある。
わたしは、おかしいなと思った。
伊勢の神様は、神域が人間の死による穢れで汚されることを極端にお嫌いである。
これは古来有名なこととされる。しかし正月十日に御神饌が汚れたことのタタリが二月十三日になって現れたという。時間が経過しすぎている。また御神饌は正月十日以後も、毎日お供えされていたはずである。で、続日本紀を調べた。
神亀六年はその八月に改元されて天平元年になる。続日本紀ではその年の正月の記事から天平元年と記されるが、その二月の記事では、辛未(十日)に長屋王の謀反が発覚して逮捕、翌壬申(十一日)に尋問が行われ、その翌日・癸酉(十二日)「王を自尽させる」。丙子(十五日)には詔勅で、国司に対して「同類たちの企みを防げ」と命令されるが、その原文には日付干支ではなく、「二月十二日」付でと発令日が記されている。二月十三日に天皇ご病気などは続日本紀には記事はない。
この天皇へのタタリは長屋王の死によるものではないか?わたしにはそうとしか思えない。ところが、そんな説を見ない(あったらご教示ください)。
怨霊史観とも言うべき説の方もある。たとえば井沢元彦『逆説の日本史』「2古代怨霊編」「第四章平城京と奈良の大仏編」は
「非藤原の皇族には絶対に皇位を渡すまいとした藤原氏は、・・光明子を皇后にすることを考えた・・当然、長屋王はこれに反対・・長屋王に、謀叛という無実の罪を着せて、自殺させたというのが「長屋王の変」の顛末である。その犯人は、当時政権を牛耳っていた光明子の兄弟「藤原四兄弟」・・ではその「藤原四兄弟」はどうなったか?・・天平四年から疫病が大流行・・そし
て「わずか四ヶ月間に」藤原四兄弟は天然痘にかかって次々に死んだ・・当時の人々は何と思ったか。答えはもう明らかだろう。長屋王の怨霊のタタリである。(引用終)」。
わたしは有力説と思う。しかし井沢氏も、この伊勢神宮の話には触れられていない。
天平十年、九州で藤原広嗣の乱がおこると聖武天皇は都を脱出される。わたしの住居に近い霊山寺発行の『まんが霊山寺』では、天皇は「都はあぶない、伊勢にまいろう」。皇后は「戦勝を伊勢神宮にお祈りいたしましょう」と発言されたことに描かれている。天皇は鈴鹿峠のむこう、関宿(現・亀山市)までは行かれる。そこから勅使派遣はされるが、天皇ご自身は関宿に留まったまま。神宮への親拝はない。[続日本紀天平十年:十一月甲申朔。到伊賀郡安保頓宮宿。大雨。途泥人馬疲煩。乙酉。到伊勢國壹志郡河口頓宮。謂之關宮也。丙戌。遣少納言從五位下大井王。并中臣忌部等。奉幣帛於大神宮。車駕停御關宮十箇日]。以後、明治天皇まで、天皇ご自身の伊勢神宮参拝はない。伊勢神宮は「私幣禁止」。皇后・皇太子といえども幣帛を捧げることはできない。一般むけの賽銭箱はない。天皇御一人のための神宮だのにご親拝はない。以上は有名な謎。
長屋王死刑は伊勢の神様がお許しにならなかったことが、謎を解く鍵ではなかろうか。ならば、長屋王(木簡では長屋親王とか長屋皇宮がある)は、九州王朝を継ぐべき方だったと思えるのである。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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