九州王朝の難波天王寺 古賀達也(会報98号)
前期難波宮の考古学(1)・(2)・(3) -- ここに九州王朝の副都ありき 古賀達也
伊倉1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14ーー天子宮は誰を祀るか
越智国にあった「紫宸殿」地名の考察 合田洋一(会報100号)
地名研究と古田史学
古賀達也
はじめに
佐賀県武雄市在住の本会会員、古川清久氏が中心となって立ち上げられた「久留米地名研究会」より講演依頼をいただいたこともあり、地名研究が歴史学にどのように寄与できるのか、古田史学の学問の方法により地名研究を行った場合、どのような展望が期待できるのかについて考察を深める機会を得た。本稿にその一端を披露し、読者諸賢のご教示とご批判を賜りたい。
史料事実と史料批判
歴史研究に於いて特に文字として残された史料事実の重みは絶大である。とりわけ、それが同時代史料であれば第一級史料の位置を占めることになる。こうしたことから、「史料事実から出発することが学問の方法の基本である」との論稿や発言が最近散見される。史料事実が重要であることは当然であるが、こうした主張は学問の方法として極めて不十分であり、場合によっては誤りでさえある。
例えば、『古事記』『日本書紀』は古代史書において他に類例のない第一級史料の双璧だが、そこに記されている史料事実が歴史事実かどうかは別であることは論をまたない。従って、それら史料事実から出発する前に、それら史料がどの程度信頼できるのか、どの部分が古代の真実を伝えているのか、どのような目的で編纂されたのか、その結果どのような史料性格を有しているのかを徹底的に検証する作業、すなわち史料批判を研究の第一歩としなければならないのである。
「史料事実からの出発」などと称して、自らのアイデアに都合の良い「史料事実」部分に依拠して論を組み立てるのは慎まなければならないのだが、こうした都合の良い部分のみを過大に評価し、それを「史料事実」と称し、関連諸学(考古学など)や安定した論証の上に成立している先行説との整合性を無視した論述が近年目立っているのは残念なことである。
そこにおいて必要な学問がフィロロギーである。史料編纂者の認識、編纂意図に迫って、史料性格を明確にする学問である。古田学派の研究者であれば、この点についてご理解いただけるものと思う。『古事記』『日本書紀』に記された「史料事実」に基づくだけであれば、九州王朝説は生まれなかったであろうし、逆に『古事記』『日本書紀』は全く信頼できないとするのならば、古田武彦氏の『盗まれた神話』は生まれなかったであろう。いずれも古田武彦氏による徹底した記紀の史料批判(フィロロギー)の末に生まれ出た学説であり著書なのであるから。
地名の史料批判
文字史料と同様に地名も「史料」であり、学問研究の対象とする以上、その史料批判は不可欠である。特に歴史研究の史料として使用する場合は、その地名の命名時期の特定が必要となる。古代史研究の史料とするのであれば、その地名が古代にまで溯ることの証明が必要である。あるいは、古代の真実の影響を受けて命名された地名であることの証明が必要である。ほとんどの場合、その証明方法として同じく古代にまで溯る文献(例えば和名抄など)に記録されているか否かが一つの判断基準とされることが一般的である。しかし、文献に残された地名は実際に存在した地名の一部でしか有り得ず、記録に無いことをもって、その時代に存在しなかったという根拠にはならない。「不存在」の証明は地名に限らず、一般的に困難であるからだ。
このように、命名時期一つをとっても地名の史料批判は大変難しく、歴史研究に利用できる幸運なケースは稀であると考えたほうがよい。
例えばわたし自身の経験したことであるが、関西例会で触れたテーマに「こが」地名がある。福岡県出身のわたしの名前や福岡県・佐賀県の地名表記は「古賀」が一般的だが、熊本県特に菊池地方の地名は「古閑」表記が圧倒的に多い。有名な女子プロゴルファーの古閑美保さんは熊本県出身のようであることから、恐らくは当地では人名も「古賀」よりも「古閑」が多いのではないだろうか。
このように地名の「こが」表記が地域的に差があることから、もしこれら「古賀」「古閑」地名の成立が万葉仮名成立時期まで溯るのであれば、万葉仮名は九州王朝内でも地域別に多元的に成立した証拠になるというアイデアがひらめいたのである。しかしながら、これら現存「古賀」「古閑」地名表記成立が古代まで溯るという論証が困難だったため、このアイデアは仮説にまで発展することなく、アイデアのままペンディングとしたのである。どんなに魅力的なアイデアでも、論証ができなければ仮説として発表することはためらわれるのである。学問には慎重さが必要とされるからだ。
地名成立の年代測定
このように、地名を歴史研究に利用する際に必要な成立年代確定の難しさがハードルとして存在するのだが、以前、古田武彦氏との会話の中で、次のような地名成立の年代測定方法の可能性を教えていただいたことがある。
わが国は異民族(異言語)による侵略・征服が少なかったこともあり、縄文時代の言葉や地名が現在まで残存している可能性があるというもので、その探索方法として縄文海進を利用する方法を古田氏はわたしに述べられたのである。具体的には、縄文海進時の海岸線に相当する等高線を日本地図で結び、その付近に海岸に関わる共通地名をピックアップするという方法である。例えば「○○浦」「○○崎」という共通地名(この場合、漢字表記の一致ではなく、読みの一致が重要)が多数存在した場合、それは縄文海進の時代に成立した地名であり、とりもなおさずその地名は縄文語に由来することとなり、縄文語復原の可能性の高い方法として論理的に有効なのである。
この方法を古田氏から御教示していただき、国土地理院の地図まで準備したものの、残念ながら手つかずで未調査のままである。どなたか挑戦していただければ幸いである。
九州王朝の地名研究
古田史学・多元史観にとっては、地名研究は未開の分野であり、新たな展望が期待される。とりわけ、九州の地名研究は九州王朝史の復原にとって有益な研究対象である。従来の大和朝廷一元史観を前提とした地名研究では到底望み得ない研究成果が、九州王朝説に立ったとき展望できるからだ。
たとえば、太宰府都府楼跡に現存する字地名「紫宸殿」「大裏(内裏)」などの政治的地名はその好例である。あるいは、熊本地方を中心に濃密に分布する「天子」地名と「天子宮」などもそうである。古川清久氏の精力的なフィールドワークにより、その分布状況の全貌が明らかになりつつあるが(古川清久「伊倉」、『古田史学会報』に掲載中)、これなどもその分布域から見て、九州王朝説によらなければ理解困難であろう。これら「天子宮」成立時期の検証が進めば、その史料(地名)性格が一層明確となり、九州王朝の実態解明に役立つものと期待される。
九州以外にも、今井久氏が「発見」された、愛媛県西条市の字地名「紫宸殿」は注目される(今井久「越智国に紫宸殿が存在した」、『古田史学会報』98号)。合田洋一氏によりこの「紫宸殿」地名成立時期の考察が進められているが、(本号掲載編集部注)もし九州王朝の紫宸殿であることが論証できれば、太宰府の紫宸殿と前期難波宮の「紫門」(孝徳紀)とを結ぶ瀬戸内海海上交通の中継地点でもある越智国の政治的位置付けが可能となりそうである。
このように、九州王朝説に立ったとき、地名研究は多元的な広がりを持ち、歴史研究の有力な一分野となりうるのである。九州の地に発足した久留米地名研究会・太宰府地名研究会の活躍が期待される。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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