伊倉4
天子宮は誰を祀るか
武雄市 古川清久
伊倉 十六
“鹿児島県志布志市の安楽、野井倉地名について”
伊倉III“安楽寺領の天子社の排他性”において、西田論文から安楽寺(神仏混交以降の太宰府天満宮の別称)領荘園に天子宮の集積が認められる事を書きましたが、安楽という地名が鹿児島県にあります。一つは霧島の南麓、横川ICから二〇キロ余の天降川沿いにある安楽温泉(旧牧園町)です。気になるのは隣接して和気神社があることですが、和気清麻呂が宇佐八幡宮とただならぬ関係にあることから、太宰府天満宮を宇佐八幡宮が監視しているように見えてしかたがありません。もっとも、彼も大隈に配流されているのですが。
いま一つは志布志市の安楽です。もちろん志布志市は平成の大合併によるものですが、旧志布志町の中心街の西の海岸部から山手に掛けて安楽温泉を始めとして安楽という領域が広がっています。ここで気になるのは、旧志布志町に隣接する旧有明町の野井倉という地名です。当然ながら伊倉が天子宮、天子社に関係があると思われるだけに、旧有明町の有明、野井倉という地名が肥後から持ち込まれた地名ではないかと考えるのです。
伊倉 十七
“鹿児島県内之浦町の天子地名について”
鹿児島県の内之浦といえば種子島と並ぶロケット発射基地のあるところとして有名な町ですが、この地にも天子地名と考えられるものがあります。
まず、内之浦にも、景行天皇が周防から豊前、豊後、日向を経てこの地に至り高屋の宮に入ったとする伝承があります。景行天皇伝承については古田武彦氏による論証がありますので省略しますが(『失われた九州王朝』『盗まれた神話』を参照のこと)、景行一行は海から内之浦南方の川原瀬に上陸し、その場所が今でも御着が瀬と呼ばれているというのです。また、北方(きたかた)の高屋(たかや)神社の東に天子山があり(同社の直ぐ傍の小丘なのですが)、そこに高屋宮があり、一泊した場所が小田という集落だったというのです。
話としてはたったこれだけですが、これをこれまで取上げてきた天子地名であるかどうかということについては今後の問題とします。
ただ、この天子山という地名が残る内之浦には、高屋、小田という地名があるだけに、やはり有明海沿岸に残る天子宮と関係があるのではないかと思ってしまいます。なぜならば、現在、石上神社(奈良県)に収められている七支刀(百済の太子貴須が倭王旨に贈ったナナサヤノタチ)を持った神体が祭られているのが、福岡県瀬高町の太神長嶋の高屋の宮であり、現在、佐賀県江北町の天子宮が在る場所が小田であり、磐井の乱で有名な八女の岩戸山古墳のある福岡県八女市の八女インターの南三キロにも小田(旧瀬高町)という地名があるからです。
また、私は有明海という呼称は明治も末期からの比較的新しい地名と考えていますが(別稿“「有明海」はなかった”を参照されたし)、江戸期にも有明潟という名称は存在している事から、この志布志、内之浦の沖に広がる有明湾も有明海ではなく有明潟、有明沖と呼ばれた海、つまり現在の有明海となんらかの関係があるのではないかと考えています。
当然の事ながら、今後の作業としては地元の伝承の収集、現地踏査、古文書の調査などが必要になります。ただ、実質的には大阪よりも遠い内之浦の調査は大変です。事実、私自身も十五年ほど前にサーフのキス釣りに一度訪れただけであり、時間、費用はもとより多大な労力を要します。鹿児島在住の会員でもおられてご協力が頂ければと思うこの頃です。
伊倉 十八
“宝満山の天子社は見つからなかった”
太宰府市の宝満山の中腹に竈(かまど)神社があります。縁結びの神社としても、また、近年その麓に九州国立博物館が造られたことからも参詣する人が増えているようです。この神社の付近に天子社があるという登山愛好家の書き込みがネット上に拾えますので、何のあてもなく現地を踏みました。祭神は、玉依姫、応神天皇、神功皇后とされ、その末社は筑前、筑後にとどまらず、かなり広範な分布を見せています。
我々、九州王朝説を確信するものにとって、この領域はまさしく王都の後背地ともいうべきところです。何かあるのではないかと胸が高ぶったのですが、神官に聴こうが掃除係りのご老人に聴こうが何の手がかりも得られません。ネット上の話ではそれほど離れた場所といった表現でもないようですが、地元の郷土史家や登山グループなどに知己でも得なければおいそれとは分からないということだけははっきりしました。
もっとも、歴史を捏造し尽くし、いわば偽書でしかない「記」「紀」を仕立て上げたような連中が、この九州王朝の懐深い場所にその痕跡を残しておくなどありえないのであって、むしろ、無い方がよほど真実に近いのかも知れません。
ただ、竈神社から一キロ余奥に入った御笠(「・・・御笠の山に出でし月かも」を体現する集落があるのです)に近い北谷地区にある門神社(宝満神社)にこそ何かあるのではとさらに足を延ばしたのですが、単に散策したにとどまりました。ともあれ、この神社は手入れが非常に行き届き、住民の信仰の深さに古代を垣間見た思いがしました。
この宝満山の西の中腹には、宰府、太宰府、内山(竈神社がある)、御笠(当然にも御笠という集落はこの中にあります)、北谷(門神社がある)といった大字もあり、かつて、天子も散策したのではと思うものです。
ともあれ、竈神社付近の天子社(天子宮、天子神社・・・)について情報をお持ちの方は、当方までご一報下さい。今回は、呼びかけのためのリポートとしておきます。
最近は神社の社殿や鳥居ばかり掲載する、「神奈備」(神奈備にようこそ)「玄松子」(玄松子の記憶)といった神様関係サイトになり始めたようにも思えます。ただ、「天子宮」は当方の専売特許であって、天子のお札でも出したいところですね。
伊倉 十九
“鹿児島県大崎町の天子地名と二つの古墳”
鹿児島県の志布志湾の西岸に大崎町があります。この中心地である大崎町役場の北側には飯隅古墳群があり、南側には横瀬古墳があります。どうも海に向かう砂地の小丘に多くの古墳があるようなのですが、この古墳群の中に天子丘と呼ばれる一角があるようなのです。
事実、天子ケ丘前方後円墳、天子ノ前地下式土擴と呼ばれるものがあります。地下式土擴とは隼人の墳墓の墓制のようですが、穴掘り考古学については門外漢ですので、ここでは、天子丘、もしくは天子と呼ばれる一角があることを確認するだけにとどめます。いずれ、現地踏査の上で再度報告したいと考えています。志布志湾一帯は西都原古墳群を筆頭とする宮崎県南部と並び機内式高塚古墳の集中するところですが、大和王権による占領、支配の拠点となった場所である事が想像されます。
ただ、中村明蔵氏の『隼人の古代史』を読むと、『延喜式』の時代(一〇世紀)においても、薩摩半島、大隈半島の一帯には伝馬制、古代官道が及んでいないことが伺え、なお、熊襲の勢力が色濃く残っていたのではないかと思われるのです。このことから、この地の天子地名や天子神社の存在は、九州王朝最末期の抵抗派の終焉の地を意味しているのではないかとも思えるのですが、無論、思考の冒険であることは言うまでもありません。
「駅家をつなぐ官道は、隣接する各国の国府の間を最短行程で結ぶので、直線的で幅員も一〇メートル前後の例が、最近になって各所で検出されているが、大隈・薩摩両国では確実視される官道はいまだ見つかっていない。」『隼人の古代史』中村明蔵(平凡社新書)
伊倉 二十
“熊本県葦北郡田浦町の天子宮”
有明海沿岸が熊本県の北半とすると、宇土半島を境にした不知火海沿岸が熊本県の南半にあたります。そして、そのまた南半分である球磨川以南の八代から水俣の間に位置する葦北郡には北から田浦町、芦北町、津奈木町が並んでいます。
さて、既に八代の天子宮(少彦命神社)、津奈木町平国の天子宮、芦北町湯浦の天子宮について書いていますが、今回も新たな天子宮の話になります。当然ながら、“田浦町に天子宮がないはずがない”と思い探し廻っていましたが、国道から外れた旧薩摩街道沿いの一角に建て直されたものか真新しい天子神社を発見しました。場所は田浦町小田浦(コダノウラ、コタノウラ)の宮浦区と呼ばれるところです。
田浦に限らず不知火海一帯がそうなのですが、この海は夏になると風がとれます。少なくはなったものの、アコウなどの海岸性樹木が生茂る静かな入江に鏡のような明るい海面が広がり、うっとりするような風景が広がります。この天子宮もそうした入江に宮浦川が注ぐかつての波打ち際にあったのです。
まず、この田浦は御立岬という景行伝説の半島(熊襲征伐のおりこの岬に立った・・・)の内側に広がる入江であり、また、湾の南岸には武内宿禰が祭られる女島神社まであります。さらに、万葉集にはこの田浦を舞台とし長田王のものとされる歌があります。野坂の浦からこれまた景行伝説の残る八代の水島に船出する歌ですが、これについては二説あり、隣町の芦北町の計石港が野坂ノ浦とするものもあります。
この計石港の沖には海底から良質の温泉が涌き出ていますが、今でも入ることができます。ということで、野坂の浦には、田浦町田浦説と芦北町野坂ノ浦説がある訳です。私にはこの二つの浦の間にある海浦(うみのうら)も含めて、九州王朝成立期には艦隊規模の軍船が船出したと思いたいのですが、ただの欲張りでしかないかも知れません。
246 葦北乃 野坂乃浦従 船出為而 水島尓将去 浪立莫勤
あしきたの のさかのうらゆ ふなでして みづしまにゆかむ なみたつなゆめ
葦北の野坂の浦から船出して水島に向かおう。波よ立たないでくれ。
さて、この天子宮の祭神は少彦名命ではなく景行天皇とされています。これをもって全く別物だと考える事は十分に許されることですが、祭神とはその時々の政変などによって追祀され、挿げ替えられたりするものです。現在では天子宮という名前だけが言い伝えられていると考える方が、より歴史を正しく描いていると思うものです。
厚かましい話ではありますが、もしも、この仮説を許して頂ければ、実に千五百年余の悠久の時の流れを越えて、天子(少なくとも天子という名称)を祀る民が生き続けてきたことになるのです。
今は、八代、田浦(宮浦)、芦北(湯浦)、津奈木(平国)と天子宮(この四社は天子社、天子神社ではなく天子宮と呼ばれているのです)という呼称が揃っているだけに、小さな、しかし、深い感動を感じてしまいます。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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