伊倉 2
天子宮は誰を祀るか
武雄市 古川清久
伊倉 VI
“古倉(古伊倉)”
伊倉VI“小天町の天子社の戦慄すべき起源”において、「小天の天子宮(天子神社)の祭神は少彦名(スクナヒコナ)神、命とされています。」としました。
天子宮由緒書
和銅六(七一三)年筑後・肥後に悪病が大流行し、おびたヾしい死者が出た。時の国司、道君首名は万策つき果て、ひひらきの木、椎の木を立て、少彦名命、大国主命の神篭(神の宿る木)として・・・
まず、天子社、天子宮を排除していると見られる宇佐天神領、伊倉別府の周辺にも、今なお、横田の天子大神宮(伊倉台地の東)、田端天子大神宮(伊倉台地の西)があります。これについて記録した資料があります。『伊倉町誌』(伊倉町制五十周年記念):伊倉町役場發行です。これを読むと謎の天子社の起源が多少とも見えてきます。
「道君首名は大彦命の後裔である阿部氏の支族である。代々越前加賀郷に住し大化改新後は同郡の郡司を勤められた皇別の家であった。ママ首君首名に至つては文勲赫々たるものがありましたので抜擢されると新羅大使となり歸朝後は筑後守兼(※兼の上に八)肥後守となった人である。・・・(中略)・・・
首名が九州に下向されたのは和銅六年(七一三年:古川注)で卒せられたのは養老二年四月二日で年五十六歳であられた。國司時代は僅かに六年であったが兩國にかけて治績の見るべきものが多かった。我が贄津は兩國の中間にあって交通の要所を占めてゐるから國司の往來も繁かつた。從つて其の治績も多い。小天の天子宮は首名が殖産(旧字の産)呪禁の神*として勸請(旧字の請)されたものであるが同地の柑橘も亦菓菜奨勵の遺績である。高瀬の保田木神*社*築地の田神*(二箇所)古伊倉川成牟田などの田神*等は皆首名を祀つたものであるが伊倉西北張の天子大神*宮も肥後國誌には其の縁(旧字の緑)起を傳へてゐないがアマツミコオホカミノミヤと讀んで少名彦命を祀つたものとすれば小天の天子宮と同じく首名の勸請(旧字の請)であらう。其他首名の治績は縣下各所に多い。從つて神*社*も亦各所にあり。旧藩時代まではこの此の神*をかついで田圃の間を廻り五穀成就を祈(示偏の祈)つたところもあつた。その時は庄屋獨禮の御供は申すまでもないが時には藩もあとよりお成なされたと云ふ記事も八代高橋家には残つてゐる。」
神*社*は、[示申][示土]、表示を改訂。[示申]は、JIS第3水準ユニコードFA19(示+申)、[示土]は、JIS第3水準ユニコードFA4C(示+土)
少彦名命は国譲りを強要された出雲系の先住王朝の神ですから、一部とは言えその痕跡が残り命脈を保っていることに驚きを禁じえません(征服した勢力がその祟りを怖れて祀っているのであればまた話が違いますが)。天子宮の起源を海神系の九州王朝に求めたいところでしたが、それ以前の出雲系の王権も見え隠れしていますので、今後とも伊倉からは目が離せません。
一方、伊倉台地の西に古伊倉(ふるくら)という神域があり、五所神社と呼ばれています。現在は北八幡宮裏側の辺鄙な場所となってはいますが、元々、本来の神域はこの一帯だったとも言われています。なぜか、地域の信仰も厚く祭礼の日には多くの氏子が集まると聞き及んでいます。
巨石というほどのものでもありませんが、船石があり、古墳かそれ以前の縄文的なイワクラ信仰のなごりを残しているようにも見えます。五神(底筒男命、安曇磯良、安部高麿、藤大臣、阿部助麿)が祀られています。前の二つは海神、住吉の神であり、藤大臣は(桜桃沈倫を討った武内宿禰か)久留米の高良大社あたりと関係がありそうです。従って半分は肥後本来の神ではなさそうなのです。
どうもここにはかつて滅び去った王朝の祭神が取り残されているような気がします。従って、一応は北八幡宮が古く南八幡宮が新興勢力という理解で良いように思います。
伊倉?でも書きましたが、大保(於保?)姓が多数あることから想像が掻き立てられますが、天族の領域なのか出雲系なのかまだ判断できずにいます。なお、菊池市の東、国道387号線の南北にも伊倉、篠倉、女鞍岳がありますが、今のところ背景調査ができていません。今後とも調査を続けます。
伊倉 VII
“大津町の天子宮”
伊倉の話の延長上に天子社、天子宮の話にかなり踏み入りましたが、熊本市の東、菊池郡大津町の森、吹田に天子宮があります。このことを取上げられたのは荒金卓也氏ですが、同氏が五年前に出された『九州古代王朝の謎』(海鳥社)にはこの天子宮についての詳細な調査と論証が書留られています。
氏は一九九五年当時、多元的古代研究会・九州の会の副代表幹事をされていました。一時、熱烈な古田武彦氏の信奉者であったのですが、現在は多少独自の展開を見せておられるようです。もちろん、愚かな畿内説論者とは全く異なる多元史観に立つ広義の古田学派とは言えると思います。最近まで、九州古代史の会の中心的論客でしたが、現在はこの会とも袂を分かっておられると聞き及んでいます。その他、九五年には『九州古代史の謎』も出されています。
詳しくは『九州古代王朝の謎』を読まれるとして、氏が光を当てられた天子宮を紹介しましょう。
天子宮(吹田神宮) 熊本県菊池郡大津町吹田 祭神景行天皇、八坂入姫尊
天子宮(森村神宮) 熊本県菊池郡大津町森二二三 祭神景行天皇、八坂入姫尊
天子神社 玉名市八嘉田崎一〇七 祭神不詳
天子神社 球磨郡上村上五五九 祭神不詳
天子神社 球磨郡免田町久鹿八三八 祭神景行天皇
高橋東神社(通称天子神社) 熊本市上高橋町二二四 祭神道君首名命
少名彦命神社(天子) 八代市福正元町十一の一六 祭神少名彦命
『熊本県神社誌』(上米良利春編著、青潮社、一九八一年による)
天子が一体何者であるかは、私も考えていたテーマですが、荒金氏の考えはどうなのでしょうか、それも書かれています。『九州古代王朝の謎』を引用するとしても、部分的引用では誤解を生じる恐れがありますので、詳細は同書を読まれるとして、ここでは誰が祭られているかという結論だけを書いておきます。
イ妥*国王、阿毎、字は多利思北孤、号して阿輩鷄*彌その人です。
鷄*は、「鳥」のかわりに「隹」。JIS第三水準、ユニコード96DE
つまり、一般的には多利思北孤は推古天皇とか聖徳太子などとされていますが、「日出ずる処の天子」でつとに有名な、『隋書』に言う、イ妥国王とは倭国王であり、天子宮、天子神社(天子社)とは、一時期肥後に倭国の王都(もしくは王宮)を持った天子を祀ったものであり、その痕跡とされているのです。
さて、同書において“解説に代えて”を書かれた石井忠氏は、
この天子宮については、考古学の森浩一氏が『語っておきたい古代史』(新潮社)のなかで、肥後・免田地域の重要性を述べ、「九州にいくつかある天子神社は、江戸時代にだれを祀っていると言い伝えを持っていたのか、そういう情報が一つの手がかりとなって地域の文化解明する糸口になるかも知れない」と書いている。
と、されています。この森浩一教授の指摘を待つまでもなく、『隋書』に阿蘇山が登場する以上、肥後でも、とりわけ阿蘇山の麓である大津周辺の天子宮の存在は非常に重要なものに思えるのです。
さて、伊倉?“小天町の天子社の戦慄すべき起源”において、“鹿児島県の日置市の吹上町永吉にも天子神社があります。“と、しました。ここまで見てくると、天子社、天子宮は大津や玉名といった肥後を中心に、肥前(佐賀県の西部)、薩摩と相当に広い分布域を示しています。言うまでもなくその中心はやはり肥後のようです。私には中国大陸に登場した強国、隋からの脅威に備えて、九州王朝は懐の深い肥後に一時期拠点(大本営)を移した可能性があるのではないかとの思考の冒険に踏み込んでしまいます。
伊倉 VIII
“球磨地方の天子地名”
伊倉VII “大津町の天子宮”でとりあげた『九州古代王朝の謎』(海鳥社)において、著者の荒金卓也氏は球磨地方の天子地名についてもふれておられます。
「熊本県北部(大津町など)だけでなくて南部の球磨地方にも天子宮が複数祀られています。さらに驚いたことに、球磨地域には、お宮だけでなく地名に「天子」の名がついている所もたくさんあるのです。」『九州古代王朝の謎』(海鳥社)
以下、荒金氏は一九八七年発刊の『球磨村史』を探られています。
「天子の地名の場所として、『上村史』には次の二三ケ所があげられています。(略)そして、景行天皇との結びつきには初めから疑問をもって来た者の一人であった圭室諦成先生は、『天子の神というのは本来やはり雷神だったのではあるまいか・・・・・・』と述べておられます。」(『球磨村史』上)
ちなみに中略部分の「二三ケ所」の天子の地名の分布とは、つぎのとおりです。
上村 榎田の八十別府と中別府。塚脇。麓。石坂。
錦町 一武の寺村。西村の京カ峰。木上の平良。平川にニカ所
人吉市 大村の芦原。中原の中神と原田。
山江村 山田の合戦峯。万江の城内。
相良村 柳瀬の三石。
深田村 草津山。
免田町 久鹿。
多良木町 黒肥地の大久保・熊山。多良木の牛島。
湯前町 東方。
岡原村 天子水流。
この数はただごとではありませんね。新旧の球磨郡中が天子だらけといっても過言ではないでしょう。まさしくここは「天子」のですよね。」
実際、高密度の分布ですが、私の印象としては、球磨川などの川そばの要地、湧水地などに集中しているように思います。
荒金氏も現地の伝承といったものを探られていますが、残念ながらさほどの収穫はなかったようです。著書では免田町久鹿の天子神社を取上げられています。私も郷土史家であり地名研究者でもある上村重次による『字図でみる球磨の地名』で上記の地名を調べましたが、免田町の久鹿はクシカと読むこと、偶然ですが、久鹿に隣接して荒金という字がある程度で、これまた大した発見はありませんでした。
ここでは、人吉盆地の球磨川流域に天子地名が存在するということ、肥後を中心に、肥前(佐賀県の西部)、薩摩(肥前については荒金氏はふれられていません)とある程度の天子宮などがあることを確認できれば良いと思います。
また、荒金氏が取上げられていない天子宮として、ネット上には福岡県夜須町、熊本県津奈木町などに数例ありますが、夜須町に関しては友人の古田史学の会メンバーの調査によると除外するべきとの報告を得ています。私は現地を踏査していませんので、現段階では保留しておきます(その後現地を踏みましたがこれはどうも新興宗教の施設のようでした)。
荒金卓也氏は天子宮に祀られている人物を九州王朝の大王、多利思北孤(八世紀)に比定されました。もちろん、私には異論を唱えるほどの素養はありません。少なくとも倭の五王(五世紀)を含む歴代の九州王朝の大王全体、もしくは、そのうちの誰かが祀られているのではないかと考えています。
ただ、私が興味を持つのは、どうしてもその背景になってしまいます。これについては思考の冒険以外に探る手段を持ちませんが、元々、九州王朝の版図全域に存在していたものが、(1)実害のない一部の辺境にその痕跡を留めたと考えるか、(2)六六三年の白村江の敗戦以降、九州王朝の唐、大和への抵抗派が立て篭もった領域に色濃く残った。と考えるかはあると思います。
伊倉 IX
“道君首名と天子宮”
伊倉IX“球磨地方の天子地名”において、
「元々、九州王朝の版図全域に存在していたものが、(1)実害のない一部の辺境にその痕跡を留めたと考えるか、(2)六六三年の白村江の敗戦以降、九州王朝の唐、大和への抵抗派が立て篭もった領域に色濃く残った。と考えるかはあると思います。」
と、しました。
そこで頭に浮かぶのが、道君首名です。小天の天子宮の由緒書によると、
天子宮由緒書
和銅六(七一三)年筑後・肥後に悪病が大流行し、おびたヾしい死者が出た。時 の国司、道君首名は万策つき果て、ひひらきの木、椎の木を立て、少彦名命、大国主命の神篭(神の宿る木)として七日七夜山海の珍味を供へ悪病退散を祈願した。しかし、その効も空しく死者が絶えなかった。首名は薪を高く積み重ね、七日七夜火を焚き続け『吾れ二国(筑後・肥後)の司として初めての任なるに、この災あるは、われ不徳の至すところか、神威ありて民の病苦を救い給う力あらば、火中を渡るに燃ゆることなし、われ祈ること叶わず、皇国に神明なければせんかたなし。
眼前、民の死を見るに忍びず、この火中に死なん』・・・
と、あります。また、伊倉町役場発行の『伊倉町史』(伊倉町制五十周年記念)によると、
小天の天子宮は首名が殖産呪禁の神として勧請されたものであるが・・・(中略)・・・古伊倉川成牟田の田神等は皆首名を祀ったものであるが伊倉西北張の天子大神宮も肥後國司には其の縁起を伝えていないがアマツミコオホカミノミヤと読んで少名彦命を祀ったものとすれば小天の天子宮と同じく首名の勧請であろう。(古川注:一部旧漢字を現代漢字に変えています)
と、あります。さらに、熊本市中心部のいわゆる味噌天神も主神は少名彦命が祀られた天子宮ですが、これも道君首名によるものと思われます。
荒金卓也氏が表面に引上げられた大津の二社なども道君首名が合祀され、また、自らが勧請するなど一定の関与が推察されます。
ただし、佐賀県江北町の天子社は天平年間(七二九)に小田駅長広足が勧進したとされています。
この点、荒金氏も少彦名命や道君首名に関心を寄せられていますが、いずれも天子ではないとして、祀られている対象はあくまでもイ妥国王、阿毎多利思北孤とされています。
私も基本的に同意ですが、勧進した道君首名とその背景をもう少し探ってみる必要があるのではないかと思います。つまり、祭神がイ妥国王阿毎多利思北孤としても、いかなる立場、基盤によって道君首名はイ妥国王阿毎多利思北孤を祀る天子社を造営し得たのかです。
伊倉 X
“道君首名による統治の背景”
道君首名の存在についてですが、まずは、荒金卓也氏に敬意を払い、氏の『九州古代王朝の謎』からご紹介しましょう。
「また、実在した名行政官として肥後国で名高いのが、『続日本紀』にもその名のある。道君首名です。
【道首名】(ママ)(六六三−七一八)[天智二−養老二]
官人、学者。大宝律令の制定に参加し、その功により褒章を受けた。和銅五(七一二)年には遣新羅大使に任じられ、翌年帰国。北陸の地方豪族の家系から出て、当代の知識人となった人物と言える。六年、筑後守となって肥後国(熊本県)を併せ治めた際、人民に教えて生業に励むようにさせ、また管内に池を造って灌漑をはかるなど、地方政治に力をそそぎ、人民からも慕われた。死語は神として祭られたという。『懐風藻』に詩一首が残る。正五位下、筑後守で死去した。(『日本歴史人物事典』朝日新聞社)」
『九州古代王朝の謎』
仮に道君首名を大和朝廷側の人物であったとしましょう。では、なぜ九州王朝の天子を祀る必要があったのでしょうか?理由として、大和朝廷が九州王朝の全領域を制圧しきっていなかった可能性が考えられます。
時代はかなり違いますが、多少、参考になる例があります。一六世紀、佐々が肥後を任されますが、土豪、地侍の叛乱に逢い、秀吉から解任されます。その後、肥後は加藤領と小西領に分けられ支配されますが、小西は関ヶ原で西軍に荷担し刑死します。加藤も豊臣家の安泰をはかったために死後領国を召し上げられます。代わりにやってくるのが細川氏ですが、難治の土地であることを十分に知っている細川は、加藤清正の位牌を先頭に“肥後を預からせて頂きます“として入国し土豪、地侍を黙らせてしまうのです。
道君首名の出自は阿部氏とされていますが、多少は中立的な勢力でもあり、仮に大和朝廷から派遣されてきた人物としても抵抗が少なかったと考えることは可能かも知れません。また、彼が生きた時代が白村江の敗戦から九州王朝の崩壊期に符合することから、古田史学で九州王朝が公式に消滅したとする時点(八世紀初頭)以降も九州王朝の大和朝廷帰順派とでも言うべき勢力が太宰府を中心に一定の勢力を保持していたと考えれば、天子宮はその時期のものが形を変えつつも今日まで継承されてきたのではないかとも考えられそうです。
この辺りについては 市民の古代十二集、一九九〇年、市民の古代研究会編 特集・九州王朝の滅亡 掲載論文 “九州王朝の末裔たち”『続日本後紀』にいた筑紫の君 古賀達也(現古田史学の会事務局長)をお読み頂きたいと思います(古田史学の会公式HP「新古代学の扉」でも公開されています)。
最後に、北陸の地方豪族の家系(阿部氏)から出たとされる道君首名が遣新羅大使に任じられ翌年帰国していることです。阿部氏とされる道首一族は北陸(加賀)に基盤を持っていましたが、六世紀(五七〇)高句麗船を受け入れ(『日本書紀』欽明三一)以後、一定の関係を持っていたという事実がありますので、この辺りの事情(高句麗は七世紀始め隋の遠征を撃退するも、六六八年、唐、新羅の連合軍に滅ぼされます。また、四世紀以来、伝統的に高句麗と倭は敵対関係にあった)が遣新羅大使になったことと関係しているのではないかと思えるのです。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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