2007年10月10日

古田史学会報

82号

伊倉(いくら)2
天子宮は誰を祀るか
 古川清久

薩夜麻の「冤罪」II
 正木裕

「オオスミ」の国
 水野孝夫

「カヤ」と「アヤ」
アイヌ語(縄文語)地名
としての考察
 菊池栄吾

白雉年間の
難波副都建設と
評制の創設について
 正木裕

6洛中洛外日記より
 天下立評
 古賀達也

7彩神
シャクナゲの里4
 深津栄美

8倭姫巡幸I、
美和乃御諸宮から
宇太阿貴宮へ
 西井健一

 

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誰がいつ、伊勢神宮を創ったか(1) 一、倭・笠縫邑のヒモロギ (会報80号)へ


誰がいつ、伊勢神宮を創ったか(2)

二、倭姫巡幸I、「美和乃御諸宮から宇太阿貴宮へ」

大阪市 西井健一郎

1.豊鍬入姫から倭姫へ

 多紀理媛と伊勢神宮との関係を記紀の中に探索している。前稿では豊鍬入姫が天照大神を奉じて倭笠縫邑こと、穴戸はイソのスガの地にミモロ(神籬:ヒモロギ)を立てたことを紹介した。今稿からそれに続く彼女の姪、倭姫が同大神を奉じ巡幸する地を彦島史観から探索し、やはりそれらの地名も穴戸のものであることを示す。
 崇神帝が崩じ、垂仁帝が即位、天照大神のお守役も倭姫に替わる。倭姫は“皇后日葉酢媛命、生三男二女。第一曰五十瓊敷入彦(イ・ニシキ・イリヒコ)命。・・・。第四曰倭姫命。・・・”(垂仁紀十五年二月条)とあり、「天照大神を豐耜入姫命より離し、倭姫命に託す」(同年三月条)と載る。
 続けて、「倭姫命、大神を鎭め坐す處を求め、菟田筱幡に詣(いた)る。筱、此を佐々という。更に還りて近江國に入る。東、美濃を廻り、伊勢國へ到る。時に天照大神、倭姫命に誨(おし)えて曰く、是は神風伊勢國、則ち常世の浪重なり浪歸る國、傍國可怜國なり。是國に居らんと欲す。故、大神の教えに随い、其祠を伊勢國に立つ。因りて齋宮を五十鈴川上に興す。是を磯宮と謂う。則ち天照大神、始めて天より降りし處なり」とある。いわゆる天照大神を鎮める地を求めての「倭姫巡幸」である。これらの文と地名を順次考察していく。その前に、岩波文庫・紀の補注にみる大和史観での巡幸地を紹介しておこう。


2.大和から伊勢へのルート

 補注は云う、「書紀には崇神六年天照大神を豐鍬入姫命につけて倭の笠縫邑に祭り、垂仁二十五年倭姫命につけて菟田筱幡−近江−美濃を経て伊勢の五十鈴の川上にまつるとある。皇太神宮儀式帳にも同種の記載があるが、少し違うところもある。
(一)菟田は大和国宇陀郡で今、同郡榛原町に筱幡(ささはた)神社がある。
〔略〕ここのところ儀式帳には『美和乃御諸宮』(奈良県櫻井市三輪)より発して『宇太乃阿貴宮』(宇陀郡大宇陀町阿貴)を経て『佐々波多宮』にいたるとある。
(二)次に紀には近江国にいたるというが、儀式帳に『伊賀穴穂宮』(三重県名賀郡青山町阿保)・『阿閉柘植宮』(同県阿山郡伊賀町柘植)を経て『淡海坂田宮』(滋賀県坂田郡)に坐すとある。・・・。
(三)次いで紀は美濃にいたるというが、同帳には『美濃伊久良賀宮』(岐阜県本巣郡巣南町居倉)とある。
(四)さらに伊勢国について同帳にまず『伊勢桑名野代宮』に坐し、諸宮を経て『伊須々乃川』のほとりに大宮を定めたとある(以下略)」と。

 だが揚言すれば、これら大和史観を支える比定地名が垂仁帝期に実在していた証はない。その点、わが彦島史観のそれと五十歩百歩なのだ。
 補注は、儀式帳の大神の移動コースを上記の四段階に分けた。わが史観からは、(一)の美和乃御諸宮・宇太乃阿貴宮・菟田筱幡宮は穴戸国内の移動として説明する。(二)・(三)の伊賀・淡海・美濃コースは後世の造作・補作とみる。(四)は現地の南伊勢征服伝承に穴戸伝承を混入させている。


3.出発地は美和乃御諸宮

 では、より詳しい儀式帳の巡幸コースに従い各宮の地を順次、彦島史観から考察しよう。
 まずは、皇太神宮儀式帳に従って宮地名を追おう。同帳は“倭姫内親王遠為御杖代齋奉支。美和乃御諸原爾造齋宮。出奉天齋始奉支。爾時倭姫内親王。太神乎頂奉弖。願給國求奉時爾。從美和乃御諸宮發弖。・・・。彼時。宇太乃阿貴宮坐只。次佐々波多宮坐只。其爾即大倭國造等。神御田并神戸進只・・・”と記す。つまり倭姫はミワのミモロ原に齋宮を造ったが、天照大神を鎮める(ウシハク)国を求め、大神を奉じてミモロ宮を出発、宇太乃阿貴宮へ、次に佐々波多宮に入り、大倭國造が神戸を献じた、とある。
 なれば、前代の豊鍬入姫が笠縫邑に立てた神籬(ひもろぎ)とは、出発地のミワ・ミモロ宮ということになる。倭姫が交替するまでの間、神籬を移動させた記事はないからだ。その宮は、下関市街地の北方で綾羅木川の上流の新下関駅や住吉神社のある、山重なる青垣の地にあった。そこが記紀のいうスガ村、あるいはイナサ、イツ・カシである。
 となると、本当に豊鍬入姫や倭姫が奉じた神が天照大神だったのかとの疑問が湧く。というのは、イツ・カシに在る宮と祭神とについて、数種類の名前が記紀や風土記に載るからだ。記紀にはミワ・ミモロは大物主の宮とする説話が多い。風土記には伊賀国の話に見せかけているが、カシ村に吾娥津(あがつ)媛を祭るとある。また、同丹後国逸文「奈具社」には豊宇賀能賣がイナサにいた話が載っている。


4.ミワ・ミモロ宮は大物主

 ミワ・ミモロ宮の祭神は大物主とするのが、記紀の説話である。
 記の大国主説話には、神名は明記されていないが、海から神が来て国を治めたくば我を倭(イソ)の青垣の東山上に祭れといい、“此者坐御諸山上神也”とある。初期の大国主が穴戸の平定を図っている時代、その尖兵となってソの国へ入ったのがこの神だったのでは。
 しかし、時がたち、大物主への敬意は薄れ、祭り直されるのが十代崇神期である。
 崇神記には、“疫病多起、人民死為盡。爾天皇愁歎”し、夢に現われた大物主のお告げに従い、「意富多多泥古命を以って、神主と為し、御諸山に意富美和之大神を拝祭」したら、安定したとある。崇神紀にも豊鍬入姫に天照大神を託した翌年、“即以大田々根子、為祭大物主大神之主”(七年十一月条)と載る。その結果、“疫病始息、國内漸謐”しているのだ。大物主でおさまったなら、天照大神と豊鍬入姫の役割はなんだったのだろう。
 なお、記には“妹豐[金且]比賣命者、拝祭伊勢大神之宮也”とあるだけで、紀のように笠縫邑に神籬を立てたとの記述はない。また崇神紀には先稿に述べた“是後、倭迹々日百襲姫命、為大物主之妻。・・・”と蛇の姿をみられた大物主が御諸山に帰り、恥じた姫が箸でホトを突いて死ぬ説話も載る。こちらはミモロの古伝承を、ついでに付記したものだろう。
 とはいえ同じ崇神紀には、嗣(ひつぎ)を決めるために二人の皇子を潔斎させ、その見た夢を述べさせる場面がある。兄は“自登御諸山向東、而八廻弄槍、・・・”、弟は“自登御諸山之嶺、縄[糸亙](こう)四方、・・・”と答えている。ミモロの山は泰山なみの聖地扱いだが、皇子自身が主役で大物主は不在。ゆえに、崇神帝が本当に大物主を祭ったかは疑問符がつく。
[金且]は、JIS第3水準ユニコード923F
[糸亙](こう)は、JIS第4水準ユニコード7D5A

 

5.雄略帝と赤猪子

 記紀も下ると、ミワ・ミモロ宮は大物主の宮とする。その例が崇神帝から十一代後の雄略記、赤猪子の説話である。ここには関連地名がちりばめられているので詳述したい。
 赤猪子は若い頃ミワ河の傍で雄略帝に一目ぼれされ、迎えにくるよと云われたので八十歳まで待ってから朝廷に出向いてきた老婆の名である。その心根を哀れみ、帝が渡した歌が「みもろの イツカシがモト(伊都加斯賀母登) カシがモト ゆゆしきかも かしはら乙女」、私訳すると「伊都の加志(村)の中心にあるミモロ宮に仕えた、(忠心の厚く、天皇の言葉を守った)あっぱれなカシ・バル(原=村の意)の乙女」となる。「腹・肚」には「○11氏。氏族」の意(『広辞苑』岩波書店)もあるので、加志氏族の娘の意かも。
 この歌に対し赤猪子は、「みもろに 築くや玉垣 つきあまし 誰にかも依らむ 神の宮人」と歌う。ミモロの玉垣を余るほど造っていたので時間がたち、神に仕えていた巫女も歳老いてしまった、今は誰を頼ればよいのか、との意だ。次いで“久佐迦延能 伊理延能波知須 波那婆知須・・・(日下江の入江の蓮、花蓮、・・・)”とも歌う。ミモロと日下江とが近いことが伝わる。垂仁帝の后日葉酢(ヒバス)媛の名はこの日下江の蓮からきたのだろう。
 赤猪子が巫女をしていた宮はミワ河で見初めたとあるから、ミワ・ミモロ宮である。その宮はイツ・カシにあったのだ。ところが、そこには別の宮もあったとの伝承があった。

 

6.猿田彦の娘、吾娥津媛

 それが風土記、同逸文「伊賀国号(二)」である。
 要約すると、「伊賀郡。猿田彦神はこの国を伊勢の加佐波夜(かざはや)の国に属させ、二十余万年その国を支配した。猿田彦の娘、吾娥津媛命は天日神が投げ降した三種の宝器の内、金鈴を預かりお守りしてきた。そのお守りした斎宮の地を加志(かし)の和都賀野(わつがの)という。今、手柏野(たかしわの)というのは間違いである。この娘神が支配し守る国なので吾娥(あが)の郡と謂う。その後、清見原(てんむ)天皇の御代、吾娥郡を分けて国名とした。国名は十余年も定まらなかった。これを加羅具似(からくに)というのは虚国(むなくに)と同じ意味だ、後に伊賀と改めた。吾娥の音が転じたものだ」とある。
 一見、三重県の伊賀の伝承に見える。だが、カラクニと云った時期があるから「空国」、速秋津の伝承だったことがわかる。だから、吾娥は吾田(阿田)では。イセのカゼハヤの国とはその昔、速日の国であり、後述するように原伝承は「ナミハヤのイソの国」である。そのイソは、深遠の昔から猿田彦一族が支配してきた地だった。そこのカシの地には金鈴とそれを守る吾娥津媛命の宮があったのだ。
 となると、その猿田彦が天鈿女に応える“天神之子、則當到筑紫日向高千穂[木患]觸之峯。吾則應到伊勢之狹長田五十鈴川上”(紀天孫降臨第1一書)とは、「奇日の布留の地を天孫に譲り、自分は(服従した証に天照大神の鏡を奉じて)五十鈴の川上にあるイソのサナダ(後の磯宮の地)へ隠もる」との意にとれる。これが後稿の“是謂磯宮。則天照大神始自天降之處也”(垂仁紀廿五年三月条)への布石らしい。となると、天照大神は倭姫以前から五十鈴・川上にいたことになる。また、奇日の布留の石上神社の原祭神は、そこへ降臨した(その地を猿田彦一族からもぎ取った)ニニギ尊だったのでは。
[木患]は、JIS第3水準ユニコード69F5


7.加志は「香の村」

 斎宮のある加志は、先述したように「シ(志・斯)」は「村を意味する語尾」だから、「カの村」である。そこは記紀が「香」とも書かく、主舞台のひとつだ。かってイザナミが討たれた迦具土神の支配地、そしてイザナキがその屍を抱いて“哭時、於御涙所成神、坐香山畝尾木本、名泣澤女神”(記)の地である。また、崇神帝の姑で大物主の妻になった倭迹迹日百襲姫命が「是、武埴安彦が將に謀反する表れなり。・・・。吾聞く、武埴安彦之妻吾田媛、密に之に來、倭の香山の土を取り、領巾の頭につつみ祈って曰く、是は倭國の物實、則ち之を反せ」(崇神紀十年九月条)と告げた香山(大和の天香具山とは別)である。
 穴戸の香山は畝尾の地にあり、そのウネビでは神武帝、おそらくモデルの磐余彦が“退撥不伏人等而、坐畝火之白檮原宮、治天下也”(記)しているのだ。
 なぜなら、「手柏野」との地名は百(モモ)と関係がある。百は「一+{音符}白を合わせた合文の字。白(ハク・ヒャク)は単なる音符で白色とは無関係。(『漢字源』学研)」。そして、白は「象形。どんぐり状の実を描いたもので・・・。柏(コノテカシワ)の原字。(同)」なのだ。手柏野はハク(白)の地の意を伝え、百(モモ)に通じる。また白檮原宮の檮は切株の意だから、白檮は「カシがモト」に通意する。
 これらは穴戸の人達は漢字の原意を知り尽くして使用したことを示す。万葉仮名のように音符としてしか使えなかった奈良の田舎官僚とは差がある。とはいえ、音符としての使用は唐・新羅軍に文意を覚らせないための、近畿朝の深謀だったのかもしれないのだが。
 ミモロに数種の神が祭られていた時、本当はどの神を奉じて倭姫はミモロを発したのだろう。ミワ・ミモロには大物主と吾娥津媛と天照大神とが併存していたらしいのだが。
 また、垂仁紀の倭姫がミモロを出るのは同二五年。前代崇神帝は六八年間在位(紀)するから、崇神六年に豊鍬入姫が鎮めてから八七年後である。“百姓流離、或有背叛” の状況が治まってからも遠い。となれば、倭姫が天照大神を奉じてミワ・ミモロ宮を発したとの記述はどこかおかしい。マイ・ホンネでは、「天照大神を奉じて」とは後世の造作である。最後に倭姫が建てた斎宮名「磯宮」からみて、さらに別の伊勢大神こと「五十の大神」を奉じたか、あるいは本人がその大神の現身(うつしみ)だったのでは。


8.磯城は、「鍬」の地

 この五十の地を「磯城しき」とするは時代的に新しい、後代の呼称とみる。ただ、シギは小地名だった可能性がある。迦具土神の屍に志藝山津見が成るとあるからだ。これらの山津見は、先述したようにカグツチ配下の各地の部族長なのだ。
 ミモロがある地域名「ソ」は次稿で詳述するように、神代の奇日(くしひ)、太古の熊襲、初期天皇期の五十(いそ)、そして百襲(モモソ)へと変った。その「ソ」に、隈(熊)もそうだが、曲がった地形から「鍬・[金且]」が当てられ、やがて上品に「スキ」と読み替えられた。そのスキと、もと小地名のシギとが混合して広域の「ソ」の別名になったようだ。大国主系譜の阿遲[金且]高日子根を天若日子の葬儀場面では阿遲志貴高日子根と記は書くから、この推定が正解なのでは。
[金且]は、JIS第3水準ユニコード923F

 「磯城」はこのシギに当てられたものである。雄略記に、帝が河内に行ったら(宮殿と同じ)堅魚を上げた志磯の大縣主の家を見つけ、焼いてしまおうとする説話が載る。シキには穴戸王家の一系列、崇神帝(御間城入彦五十瓊殖。イニエはイソ・ニシキへのあて字では)以来のイソ王家の宮があったとみる(もう一つはイツの王家)。崇神帝から十一代後の雄略帝期には、「ソ」のつく地域名呼称は消え、シキになっていたのだろう。

 

9.宇太の阿貴宮

 さて、倭姫はまず「宇太うだの阿貴あき宮」へ天照大神をミワから移す。「宇太乃阿貴」は、天武紀上に“是日、發途入東國。・・・。即日、到菟田吾城”(元年六月)とあり、後の天武紀下に“戊戌、幸于菟田吾城”(九年三月)と載る。この吾城は人麿の「ひんがしにカゲロヒの立つ見えて」の阿騎野とされ、前出の補注はこの奈良県の東方山中と見ている。
 しかし、宇太は曲浦(ワダのウラ)の阿田の書き換えである。そこは神功皇后が神懸りして聞きだす“幡萩穂出吾也、於尾田吾田節之淡郡所居神之有也”の小戸の阿田である。
 阿貴は、神武記の“亦從其國上幸而、於阿岐國之多祁理宮七年坐”の阿岐である。アギは顎のアギトで、下関市大和町の埋立て前の砂嘴を指す。神武妃富登・多多良・伊須須岐比売の布都の多多良(たたら 基岩の露出した所。「広辞苑」)の地。そこには多紀理媛を祭った多祁理宮があった。伊須須岐とは「倭迹迹日いととひ」、伊都都彦の国だ。
 倭姫はこの多祁理宮にミモロからイソ大神の形代を持ち込み、宮名を変えた。それは、下関市の北部山間部から現市街中心部がある海峡西部沿岸(淡洲)への侵攻だった。
 わが憶測では、この多祁理宮がもともとの五十受(いそうけ)の宮である。建御名方命を追い出して占拠した、つまりイソや彦島をウシハイた多紀理媛が坐ましたから、イソウケあるいはイソズ大神の宮だった。娘高姫が豊浦をウシハイて豊受大神と呼ばれたように。その宮は鈴を形代とする「五十鈴宮」とは別のものである。
 倭姫はこれまでイソをウシハいた多紀理媛の形代を、天照大神と書く神のものに取り換えて乗っ取った。つまり、彦島の人達が祭った多紀理媛を廃棄し、自分達の大神と取り換えた。でも、真相は、イソ大神を捧持する倭姫が小戸沿岸地区を攻略、在地の神を取り替え、自分達の神への貢物を要求したのではないか。この取替えにより、以後の現地では旧祭神の多紀理媛が新祭神の大神と混同されることになり、彼女を天照大神IIと解するわが史観が生まれる因になった。
 この後、三重県の伊勢市へ遷座されるまでの間、鎮座していたと考えている菟田の筱幡宮へ移される。その宮が伊勢神宮の原型、「イソ(五十)の宮」だ。同宮については披瀝したい考察点が多い。その紙数を確保するため、次稿に移す。
       (続く)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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