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誰がいつ、伊勢神宮を創ったか(1) 二、倭姫巡幸I、「美和乃御諸宮から宇太阿貴宮」(会報82号)へ
私考・彦島物語II・外伝2 多紀理媛と伊勢神宮1 ーー誰がいつ、伊勢神宮を創ったか(1)
一、倭・笠縫邑のヒモロギ
大阪市 西井健一郎
1.伊勢神宮の祭神
下関市彦島が生んだ三英雄の二人目、多紀理媛を記紀に追っている。
現伊勢神宮は内宮に天照大神を、外宮に豊受大神を祭ると聞く。
外宮の豊受大神とは、先述のわが彦島史観にて記紀を読み解けば、父大国主から国譲りを受けた娘の高姫こと下照姫である。母多紀理媛が夫の当代の大国主を引退させ、嫡子の事代主〔異與(コト・ヨ)主=伊都主〕を滅ぼして、娘を大己貴の位に就けた。娘は大国主の本宮、下関市豊浦村の宇迦に入り、豊の地を受け取ったから豊受大神と呼ばれた。娘が下照姫と呼ばれたのは、母が天照媛だったから。外宮の祭神が娘なら、内宮は天照大神IIとしての母多紀理媛がセットで祭られている筈なのだが。なのに、伊勢神宮の内宮には対馬系の阿麻氏*留(あまてる)神から発したとみられるオホヒルメのムチ(大日霊貴)の天照大神Iを祭るという。
氏*は、氏の下に一。JIS第3水準ユニコード6C10
多紀理媛びいきのわが史観からみれば、内宮の祭神を天照大神Iに換えたのは近畿朝を乗っ取った天武帝ではないか。彼、大海(人)皇子は「オホアマ」ではなく「タイカイ」のミコであり、倭人伝に載る「對海国(たいかいこく 対馬)」に由来する九州朝系王族だったからでは。穴戸伝承にあった祭神名を自氏族の神祖名と入れ替えさせたと考えられるのだ。
そこで、なぜ、多紀理媛が天照大神IIとして伊勢内宮に祭られなかったのかの謎を解くべく、伊勢神宮創建経緯の探索を試みた。記紀や風土記、皇太神宮儀式帳などの記事をわが史観にて考察した結果、「今の形の伊勢神宮は天武・持統両帝の時代に創られた」との推論が成り立つことがわかった。簡単に云えば、云われてきたように伊勢の地に三重県南部を氏子とした雑神のヤシロ(社)があり、その宮へ穴戸(下関市)にあった磯宮を遷(ウツ)したことにして、天武帝が斎王に娘を派遣、朝廷の神親祖祭祀場に変えた。崩後、皇后持統帝がその意志を継ぎ、素朴ながら豪壮な現在の神殿に建て替えた。それはおそらく、九州地方の信仰対象物を潰そうとする唐・新羅占領軍の圧力と同地方の民の疲弊により、穴戸での神社の存続が困難になったため、遠い伊勢市の山中へ疎開させたと思われる。
2.記紀説話の源、穴戸伝承
この天武帝伊勢神宮創建説を探索するにあたり、知っておいてほしいことがある。
それは記紀編者のミスリードによりこれまで、記紀の説話は近畿圏での出来事であると思い込まされてきたことだ。だが、わが史観から申し上げると、記紀の説話の多くは穴戸の伝承から発している。古代の穴戸とは、本州の最西端部、関門海峡から響灘沿岸にかけての山口県下関市一帯をいう。同地の伝承にあった穴戸の古地名を翻訳、あるいはあて字を変換することで、読者みずからが近畿の説話・地名と勝手に思いこむように造作した。
との立場から記紀の伊勢神宮関連記事を考察すると、天武紀に入るまでの伊勢神宮や斎王の記事は在穴戸の磯宮のものといえる。その事実を理解していただく手始めに、わが史観からみた「倭(やまと)・笠縫邑(かさぬい)とは何処か」を紹介する。同邑は倭姫に先立ち、前代崇神帝の命で皇女豊鍬入姫が天照大神を宮中から移した地だ。あたかも大和の地名や話のように読まされているが、やはり穴戸の地名をそれらしく見せかけたものなのである。
3.笠縫邑は笠縫部の住地
天孫降臨以後、記紀から消えていた天照大神は十代崇神紀になって再登場する。同六年条は、大殿に併置した天照大神と倭大国魂神との折合いが悪く、前者を皇女豊鍬入姫に託して“祭於倭笠縫邑。仍立磯堅城神籬” と記す。
移転先「倭・笠縫邑」への注(岩波文庫・紀の注、以下紀の註と記す)は「この倭を通釈は大和の城上・城下二郡と山辺郡の半ばにわたる地域の名とする。笠縫邑は笠縫部の住地、位置未詳。磯城郡田原本町新木などの説がある」という。これは何でも大和の地名と見做せとの大和史観に立ち、書かれたままに解せとする国文学的解釈だ。だが「笠縫部」、ここまでの記紀に“即以紀國忌部遠祖手置帆負神、定為作笠者”とはあるが、笠縫部があったとは書かれていない。部の存在が怪しいのに、笠縫邑は笠縫部の住地とはおかしい。
ならば、彦島史観から「笠縫」邑はどう訓むのか。それはカサヌイではなく「スゲ(菅)」村と訓む。「笠縫草。スゲの古名(『広辞苑』岩波書店刊)」とあるからだ。欽明紀は“笠縫皇女、更名狭田毛皇女”(元年正月条)と記す。こちらの笠縫は小竹・笹竹だ。
笠縫邑とは、草叢をなす「スゲあるいはスガ、ササ」村へのあて字だったのである。
4.わが心、すがすがし
記紀で「スガ」といえばスサノヲの宮地、須賀が思い浮ぶ。彼は助けた稲田姫(紀。記は櫛名田比売)との宮地を求め、“吾來此地、我御心須賀須賀斯而、其地作宮坐。故、其地者於今云須賀也”(記)とある。さらに彼等の子は“清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠”(紀)と書く。訳すれば、「スガ地方のユヤ(熊野)主は、ミの地のサル(族)の息子で、ヤ(の地域)のシのボス(記は士奴美シノミとあるから)」、つまりシの地の首長がスガの地に宮殿をおく熊野主の職についているとの意だ。熊野にスガがあり、近所にシノ(篠。国字笹が未在時代のササ?)なる地があることを伝える。この八嶋篠は、多紀理媛の夫である当代大国主から五代前のご祖先である(紀一書)。
となると、豊鍬入姫が天照大神を鎮めた地スガは、スサノヲの稲田宮のあったスガであり、多紀理媛が国譲りを要求した夫大国主の支配地だった。そこは出雲国ではなく、「イツ(伊都)」の地であり、記紀期の穴戸、現下関市である。記紀はイ・イツを出雲と改変する。
同様に、“倭・笠縫邑”の「倭」も奈良県の意ではない。その「イ(おそらく五十。イソ)」の国への当て字である。現在のところ、天武以前の「倭」は九州王朝が使った国名で、天武が日本に替えたと仮想している。天武以後、倭をヤマトと訓み、それまで「山跡」と書かれていた奈良県の地名にあてた。この経緯を踏んで紀編者は、記が国名のつもりで記した欠史八代帝の諡にある「倭」を「日本」に書き換えた。さらに、「五十」に「倭」を使用し、穴戸伝承が奈良県の古伝承にみせかけることにしたのだ。
5.スガとイナサ
では、スガの地は何処にあったか。
同地を比定する手掛りは、稲田との地名にある。スサノヲはスガに至る前、高天原から追放され、川を遡って山中に入る。そこで八岐大蛇を退治し、生贄の稲田姫を救い、ともに暮す宮地を探す。海辺に来てスガスガしいとは記さないから、救った山中に近い所に宮を求めた、とみる。稲田は稲田姫にも、父親「アシナヅチ(葦のチ、首長)」の称号“稻田宮主須賀之八耳”にもみえる。なお、父「葦のチ」はサル族の首長だったのかも。「サルはアイヌ語で『葦原』をいう(谷川健一氏著『続日本の地名』岩波新書)」と載る。
この「イナダ(稲田)」は、「イナサ」あるいは「イササ」でもある。というのは、「タ(田)とサ(狭)は入れ替わる例が多い」と紀の注にあるからだ。
大己貴(紀だから)と少彦名命が初めて出会うのが“行到出雲國五十狹狹之小汀、而且當飲食。是時・・・”の場面である。そこの注に「第九段(天孫降臨で武甕槌神等が大己貴に国譲り交渉をする場面)には『五十田狭之小汀』、記には『伊那狭之小浜』とある。出雲風土記の出雲郡の伊奈佐乃社がそれだろう。イササとイタサとはSとTとの交替。例がある」とある。出雲国に振替えているが、原伝承は「イツの国はイソのササの小汀」である。
わが史観では、「説話の国名が違っていても同一(or類似)地名は、同じ地を指す」とする。それは同じ地の伝承が各国の説話に取り込まれた結果、発生した遺漏だ。後世、政治的に国名は変えたが、原小地名までは替え得なかったのだ。
だから、稲田が「イナサ(伊那狭)」であれば、師木軍を攻めあぐんだ神武(原伝承は磐余彦の五十国征服譚)軍が助けを求める「たたなめて 伊那佐の山の樹の間よも い行きまもらい戦えば 吾はや飢ぬ島つ鳥 鵜養が伴 今助けに来ね」(記)のご当地でもある。対戦相手は兄師木、紀も兄磯城、そこは後出のシキの近傍である。「伊那狭の山の・・・」とあるから、つまりイナダ宮も山中にあっておかしくない。
天照大神を移したスガの地は、稲田宮のあったイナサの山中の地なのだ。
6.神籬はミモロである
さらに、その地の探索を続けよう。
後半部“仍立磯堅城神籬”の“磯堅城しかたき”に註して「磯のシは石、キは城で堅固な城か」とある。ではなくて、「イソのカタシロ(形代、神の代理品)のヒムロキを、立つ」と読むべきだ。つまり「イの国のスガの地へ、今後イソの地域をウシハく神の御しるしを納めて、お祭りしていく場所を作った」との意である。
「ウシハクという語の主体は常に神である。宗教的意義において神が治め、また占める意」との注(岩波文庫・記、国譲り)がある。その地をウシハク神を常置したということは、その神へ貢物を納めよ、との意味である。それは税制のない時代の徴税法であり、貢物として集めた収穫物はその神を操る支配者が収奪する仕組みだったろう。
次に「神籬ひもろき」とは、「往古、神霊が宿っていると考えた山・森・木などの周囲に、常磐木を植えめぐらし、玉垣を結って神聖を保ったところ。・・・。御諸(みもろ)。(『広辞苑』)」である。形代を祭ったヒモロキの地は、ミモロとも呼ばれていたのだ。
神籬がミモロと呼ばれていたとすれば、ミモロと呼ぶ地はアチコチにあっただろう。だから、同じ崇神紀の四年後の条に載る倭迹迹日百襲姫の夫、大物主の住んだミワのミムロがこのスガの神籬と同じ場所とは限らない。が、同じ地とすれば。
垂仁紀倭姫巡幸の原注“一云”には“鎭坐於磯城嚴橿之本而祠之(シキの地の、イツ・カシ(加志。地名)の本(中心部)に祠を建てた)”(二五年三月条)とある。次代の倭姫の事績として書かれているが、続けて豊鍬入姫の姉妹、淳名城稚姫に大倭大神を祭らせると続く。だから、豊鍬入姫の事績の誤記とみる。と、神籬もイツ・カシの地に作られたことになる。スガ村はイナサであり、シキのイツ・カシとも云われていたのだ。景行記には「日向の美波(みは)・迦斯(かし)毘売」との名が載る。ミワとイツ・カシとは同域、または近接していた。この日向(ひむか)とは、「(伊都からみて)東方」の意である。 また、雄略記「赤猪子」の歌には、“みもろの 伊都加斯がもと 加斯がもと ・・・”とある。ここでも、ミモロはイツ・カシにあったと察せられる。
7.菟狭とミモロ宮
このミワのミムロについては、その位置を推定できる記述が風土記逸文に載っている。それも長門でも大和でもない土左国の『神河』条に。“土左國風土記云 神河 訓三輪川 源出北山之中 届于伊與國 水清故為大神醸酒也 用此河水 故為河名。(神河ことミワカワは北方の山中から伊予へ流れる、・・・)”とある。依拠本の注は、神河を高知の仁淀(ニド)川とする。さらに“届于伊與國”に注して、「土左国から伊予国に達する交通路の川の意。伊予国に流れる意でない」という。高知県と愛媛県とは分水嶺が県境だからだ。
彦島史観からみれば、これも穴戸伝承からの翻訳である。それをトサ(土佐国)の風土記が取り込んだ。なぜなら、源は「穴戸のトサ(菟狭)」からのミモロの地の説明なのだ。菟狭は神武紀に菟狭津彦が一柱騰宮を捧げたと載る地。ただし、記は宇沙と書くが。そこは船出した磐余彦がまず珍彦を引き入れた曲浦の次に寄る地(紀)だから、関門海峡の沿岸だ。その菟狭の北方山中に三輪川の源流があり、伊與(イヨではなくイト=伊都)へ流れている。神河は三輪川と訓むとあるから、大神とは三輪の大神・大物主である。イト(伊都、響灘沿岸)からみれば、“伊都岐奉于倭之青垣東山上。此者坐御諸山上神也(東の山中に大物主のミモロの山がある)”と記・大国主は描く。
イトとは「伊の国の都」、おそらく遺跡の密集地、現在の綾羅木地区がその地であると現時点では考えている。そこには条理制の跡が残り、志賀島の金印より古い金の蓋弓帽が出たという(『日本の古代遺跡30 山口』保育社刊)。そこの綾羅木川を遡ると、長門一の宮である住吉神社が立つ。その社がミワのミモロ宮の裔ではないかとみる。なお、下関・住吉神社の現祭神は住吉三神、一三七〇年大内氏が造営したものという。
崇神帝はなぜ、豊鍬入姫に天照大神の形代を持たせて、スガの地に送り込んだか。おそらく、母の伊香色謎(イカノシコメ)命(伊の香の地の王女)の地盤であるシキに都を作った(三年九月条)が、“國内多疾疫、民有死亡者、且大半矣”(五年条)、“百姓流離。或有背叛。其勢難以徳治之”(六年)の状況に陥ったため、新神を奉じた姫に周辺を鎮圧させ、お供え物を集めさせたのだろう。それは、送りこんだ姫の名に現われている。豊鍬入姫とは「豊(豊浦から)の鍬(の形をしたソの地)へ侵入した」姫の意だろうから。
なお次稿で紹介する倭姫命世記には、豊鍬入姫がミワのミムロ宮に遷座する前に、崇神三九年に但波乃吉佐宮へ、同四三年に倭国伊豆加志本宮、同五一年に木乃国奈久佐濱宮、五四年に吉備国名方濱宮へと遷し、五八年にやっと彌和御室嶺上宮に鎮め、そこで倭姫と交替した、とある。これらの宮地名は天照大神を大和のミワに至らしめるため、記紀のアチコチに載る穴戸の地名を加工し創作したものだ。なれば、問わず語りに出発点は大和国外であることを教えている。彦島史観からみれば、但波はタタナミ、吉佐はイナサで“たたなめて いなさの山の‥”(神武記)の地。倭国はイの国、伊豆加志は伊都の加志、木国奈久佐濱はキ(奇、つまりクシヒの国)の名草浜、吉備は嚴(きび)しいの厳(イツ・伊都)、ナカタ浜は長狭の浜を翻訳したものである。(つづく)
〔依拠資料。後続稿も同じ〕
記紀は岩波文庫『古事記』『日本書紀』、風土記は日本古典文学体系『風土記』岩波書店。倭姫命世記は『続群書類従』、皇太神宮儀式帳は『群書類従』、ともに続群書類従完成会刊。他は文中に紹介。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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