2007年 6月12日

古田史学会報

80号

続・バルディビアへの旅
 九州の甕棺と縄文土器
 大下隆司

九州年号で見直す斉明紀
 安倍比羅夫の蝦夷討伐
と有間皇子の謀反事件

 正木裕

太田覚眠研究
 の現在と未来
さらなる探求の
 門出に際して

 松本郁子

4彩神(カリスマ)
シャクナゲの里3
 深津栄美

バルディビア旅行
で考えたこと

 菊池栄吾

6彦島物語II・外伝2
倭・笠縫邑のヒモロギ
 西井健一郎

7洛中洛外日記
藤原宮の出土木簡
 の考察

 古賀達也

8素人手作り
「古田史学会報」
冊子 I〜Vをさっと見て
私の思いで

 木村賢司

 

古田史学会報一覧

九州王朝と筑後国府 古賀達也(会報76号)

淡海をはしる 古賀達也(会報83号)


古田史学の会ホームページ「古賀達也の洛中洛外日記」より

藤原宮の出土木簡の考察

京都市 古賀達也

第一二三話 2007/02/25
 藤原宮の「評」木簡

 この一年間、研究してきたテーマに木簡の史料批判があります。その成果として、「元壬子年木簡」など、九州年号研究にとって画期的な発見もありましたが(第六九話、七二話、他)、現在わたしが最も注目しているのは藤原宮出土の「評」木簡群です。
『日本書紀』や『続日本紀』によれば、藤原宮は持統八年(六九四)から平城京遷都する和銅三年(七一〇)年まで、近畿天皇家の宮殿として機能したのですが、そこから出土する「評」木簡は、九州王朝から近畿天皇家へ権力交代する七〇一年の直前の時期に当たる木簡であることから、権力交代時の研究をするうえでの第一級史料といえます。
たとえば、多くの木簡は「荷札」の役割を果たしたと思われますが、各地の地名を記した「評」木簡を見てみると、どのような地域から藤原宮へ貢物が届けられたかを知ることができ、当時の近畿天皇家の勢力範囲を推定することができます。
 ちょっと古いデータですが、角川書店の『古代の日本9』(昭和四六年)掲載資料によれば、東は安房国の「阿波評」や上野国の「車評」、西は周防国の「熊毛評」などがあり、近畿だけでなく関東や東海、中国地方の諸国の「評」地名を記した木簡が出土しています。したがって、七世紀末時点では大和朝廷は東北を除いた本州全体を支配下に置いていたと考えられます。
 逆に言えば、この時点、九州王朝は九州島や四国ぐらいしか実効支配していなかったのかもしれません。そして、こうした背景(権力実態)があったからこそ、七〇一年になってすぐ近畿天皇家は年号や律令の制定、評から郡への一斉変更をできたのではないでしょうか。藤原宮の「評」木簡を見る限り、このように思われるのです。

 

第一二四話 2007/03/06
 藤原宮の紀年木簡

 藤原宮出土の「評」木簡群と同様に注目されるのが、紀年木簡群です。紀年が書かれていますから、木簡制作年が判断でき、史料としてとても貴重です。藤原宮をはじめ、紀年木簡にはONラインを境に顕著な変化があります。七〇〇年以前は芦屋市出土の「元壬子年」木簡を除けば、すべて干支のみで紀年が表記され、九州年号は記されていません。
 この史料事実は、近畿天皇家が年号に無関心であったのではなく、強い関心を示していた証拠です。何故なら、七〇一年以後の紀年木簡は近畿天皇家の年号を用いているからです。ONラインを境にして、紀年表記の形式が干支から年号へと見事に一変しているのです。
 すなわち、近畿天皇家は支配下に置いた諸国からの貢進物の荷札の木簡にさえ、九州年号を使用させず、自ら年号を制定した七〇一年以後はその年号を使用させるという、極めて露骨な政策をとったとしか思えないのです。同時に、藤原宮などに貢進物を送った諸国は、そうした近畿天皇家の政策に忠実に従ったのであり、その結果が、現在までに出土している紀年木簡の姿と言えます。
 このように、紀年木簡の示す史料事実は、藤原宮時代の近畿天皇家の権力を推し量る上で貴重です。この時期、九州王朝は衰退の一途を辿っていたことも、同時に推測できるのではないでしょうか。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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