2007年 6月12日

古田史学会報

80号

続・バルディビアへの旅
 九州の甕棺と縄文土器
 大下隆司

九州年号で見直す斉明紀
 安倍比羅夫の蝦夷討伐
と有間皇子の謀反事件

 正木裕

太田覚眠研究
 の現在と未来
さらなる探求の
 門出に際して

 松本郁子

4彩神(カリスマ)
シャクナゲの里3
 深津栄美

バルディビア旅行
で考えたこと

 菊池栄吾

6彦島物語II・外伝2
倭・笠縫邑のヒモロギ
 西井健一郎

7洛中洛外日記
藤原宮の出土木簡
 の考察

 古賀達也

8素人手作り
「古田史学会報」
冊子 I〜Vをさっと見て
私の思いで

 木村賢司

 

古田史学会報一覧

素人手作り「古田史学会報」冊子 「古田史学会報」冊子 冊子 I〜Vをさっと見ての私の思いで


素人手作り「古田史学会報」冊子

豊中市 木村賢司

 「古田史学会報」冊子のIとIIを作った。三月例会でその冊子を見せて今後冊子Vまで作るつもり、と報告した。四月例会で、冊子IVまでの見本を展示して、もし、ほしい方がいれば作ってあげられる、と報告した。すると四名の方から注文があった。今は、インターネット・ホームページ「新・古代学の扉」を開けば会報内容のすべてを見ることが出来る。そのこと承知の上での作成注文である。
 そこで、冊子について、もう少し詳しく例会に参加できない方にも分かるように書いてみる。
 手持ちの会報、創刊号から六十号までをコンビニでコピーして、袋綴じ冊子化したものである。二年分の十二会報を一冊として、十年分の五冊を作成した。
 冊子Iは「創刊号(94.06.30)から十二号(96.2.20)」で一〜一一〇ページである。冊子IIは「十三号(96.4.22)から二四号(98.2.24)」で一一一〜二一〇ページである。冊子IIIは「二五号(98.4.27)から三六号(00.2.14)」で二一一〜三二六ページである。冊子IVは「三七号(00.4.4)から四八号(02.2.5)」三二七〜五〇八ページである。そして冊子Vは「四九号(02.4.1)から六〇号(04.2.5)まで」五〇九〜七一〇ページである。
 表紙であるが、冊子Iは古田先生自筆の「壹」字の写真コピーである。冊子IIは水野孝夫氏の写真コピー。冊子IIIは太田齊二郎氏の写真コピー。冊子IVは飯田満麿氏の写真コピー。冊子Vは三宅利喜男氏の写真コピーである。冊子II以下の方々は、いずれも私(七十歳)より年長者で古田史学の会の重鎮である。私の敬意を表紙で示した。
 裏表紙の内側には、古田先生の調査旅行や講演会風景写真(冊子I、II)及び史跡めぐりハイキング風景写真(冊子III、IV、V)を入れた。目次には、各会報のトップタイトルを入れた。
 素人手作り冊子なので、仕上がりの出来はまちまちである。それを承知で希望される方は、冊子I、II、III、を各八〇〇円で、冊子IV、V、は各一二〇〇円で作成できます。注文に応じて作りますので、例会時に注文されると次月の例会でお渡しできます。
 自宅など送付を希望される方は送料が必要です。冊子の重さ、冊子Iは五一〇g、冊子IIは四四〇g、冊子IIIは五〇五g、冊子IVは七八〇g、そして冊子Vは八三〇gです。
 木村氏の自宅電話・ファクスは略。(2009.11インターネット事務局)
 古田史学の会の友好団体の方の注文にも応じます。
          5/4記  以上。


「古田史学会報」冊子 冊子 I〜Vを

さっと見ての私の思いで

豊中市 木村賢司

 冊子I (創刊号〜十二号 94.6〜96.2)
* 創刊号の巻頭の水野代表の言葉。この会は「古田氏を応援する会です」とある。当時、私は古田先生と直接話しをしたこともなく、先生を応援するというより、どちらかといえば水野代表を応援する意味で入会した。「師の説に、な、なずみそ」とあることが、この会の真髄と思ってである。
* 二号で『冠「古田」が消える時』を書いた、現太田副代表の記事は、古田先生個人崇拝に繋がる会にならないのかと心配して入会を躊躇している方に対して、入会を促すよい文であった。私自身もこの文をみていたので、遠い将来、自然と冠「古田」がなくなるためにこそ、「古田史学」をPRしょうと「旗」や「バッチ」さらに「いろは歌留多」作りを思いついた。
* 冊子Iの大部分は和田家文書偽書ではない、の論陣文である。私は三号の「国史画帳・大和桜」と「考察図」(和田家文書)、両図のどちらが元図か、素人が自らの目で判断するよい材料だと当時感じた。

 冊子II(十三号〜二四号 96.4〜98.2)
* 後に古田史学の会を去った、室伏志畔氏の「古田史学とは何か」シリーズ。独特の文体で、哲学書など一冊も読んだことのない私には当時難解であった、でも、なにか惹かれた記憶がある。現在は理解できるので私の進歩?
* 前副代表山崎仁礼男氏の「古代史研究のすすめ」等も楽しんで読んだ。
* 「奥の細道・芭蕉直筆本」の真偽論争。私は古田先生と桜井武次郎先生の対談に古賀さんと共に立会った。(ビデオ撮り)その後、森嶋通夫先生、上岡竜太郎氏、そして最近の安川寿之輔先生との対談にも立ち会っているが、そのはしりである。どきどきしながら聞いた。今なつかしい。

 冊子III(二五号〜三六号 98.4〜00.2)
* 冊子IIの後半から和田家文書関係記事が少なくなり、内容が多彩化してきた。黒塚古墳から大量の三角縁神獣鏡が出土や富本銭の出土もあり、それら関連の記事も多くなった。私も古田先生や水野さんの見学時によく同行した。保存上銅鏡の錆(緑青)の上に塗るニスの存在を知ったのもこの頃。
* 古田先生は「ブロジェクト貨幣研究」を立ち上げ、古賀さん等がそのメンバーに加わった。私は九州王朝の無紋銀銭のことなどを初めて知った。
* 三宅利喜男氏の『「新撰姓氏録」の証言』の記事で仁徳から武烈まで十代の後裔氏族がいない。は驚きであった。丁度倭の五王の時代の天皇である。また、八代孝元天皇の後裔氏族が百八と飛び抜けて多いことも奇異であった。古田先生は孝元の多い理由を後に考察されている。越智・河野・木村の系譜は七代孝霊天皇の後裔とあり、何故か、ちょっとほっとした変な記憶がある。
* 「君が代」の法制化が進行中であったこの頃、書籍部であった私は古賀事務局長の指示に従い、主要政党の政治家やマスコミの政治部長、ニュースキャスター宛に古田先生の著書『「君が代」は九州王朝の賛歌』を郵送した。今も封筒に手書きであて先、政治家名等を書き投函したこと、はっきりと覚えている。キャスターの筑紫さんからのみ礼状あったとのこと。
* 和田喜八郎氏がなくなり、遺稿となった「北天の誓者は強し」が載る。私は一度この眼でお会いしたくて、津軽一人旅を計画、水野さんにお目にかかれるよう段取りお願いしたりしたが、ついにお目にかかれなかった。でも、外三郡(津軽)の旅は実行、貴重な収穫を得たよい思い出がある。

 冊子IV (三七号〜四八号 00.4〜02.2)
* 二〇〇〇年代に入り、私は益々古田先生の講演会や調査旅行に付いていくようになった。先生の福岡における「万葉集を深く読む」講演での質問の連想から、私の「夕波千鳥」が生まれた。これに味を占めて、後に「東北王朝の領域」を書いたが、こちらは反応殆どなかった。厚い郵便番号簿の中にある「舘」探しが今ではなつかしい。
* 古賀さんの「学問の方法と倫理」シリーズ。古賀さんの土性骨(ど根性)が解る見事な玉稿である。私はよく古賀さんが若いことが「古田史学の会の宝」であると云っているが、若いだけが宝ではない。この土性骨が宝と思っている。
* 二一世紀に入り、古田先生の「戦前・戦後の古代史観の変化」や「天皇陵」に関する記事。「歴史教科書」問題に関する記事に関心をもった。
* 「短里と長里」に関する記事が古賀さんを中心に多い。水野さんの「千里眼」西村秀己氏の「水滸伝の短里」も面白いと感じた。
* また、「法隆寺移築論」が賑やかになった。飯田満麿氏の貴重な建築現場経験者からの説もでた。私は移築元説の一つ、大宰府の観世音寺を訪ねた。

 冊子V(四九号〜六十号 02.4〜04.2)
* 古賀さんの「二倍年暦シリーズ」。よくこれだけ次から次に発見が出来るものと感心した。「孔子の二倍年暦」三十歳にして立つ。平均寿命が短い当時、三十歳で立つではいかにも遅い。納得させられたものである。
* 「熟田津論争」も盛んで面白かった。福岡県鞍手郡新北と佐賀県諸富町新北説である。私は両地区とも行ってみた。残念ながらどちらかに軍配する、とはならなかった。そして、松山の三津浜港説も捨て去ること、できないと感じている。小千守興の船団はここから白村江に向け船出した、とみている。もちろん、論拠なしの身贔屓である。
* 伊東義彰氏の「神武が来た道」。堅くてスキを探すのに困る論である。でも、紀伊半島・潮岬を回り、新宮から今も踏破が困難な紀伊山地を本当に神武は進んだのか、私は紀ノ川沿い進撃をまだ捨てずにいる。
* 西井健一郎氏の「神世七代の神々の出自」シリーズ。記紀殆ど読んでいないので、残念チンプンカンプン。その後下関「彦島史観」と発展しているが、まだ、付いて行けずにいる。室伏氏の幻想史学でもなく、何史学かな、「独創西井私史学」?
* 私自身はあの頃「古田史学いろは歌留多」とその冊子作りに懸命であった。古田先生喜寿のお祝いと古田史学の会十周年記念に向けてである。史跡めぐりハイキングも定着して、「古墳の小林・神様の西村」は今も大活躍である。「神代と人代の相似形」「宇佐神宮の姫神の実名発見」これらは神様の西村さんでなくては発見できないなー、と思った。小林嘉朗氏は今や「古墳の神様」である。

 以上、冊子I〜Vをさーと見た感想である。詳しくみると、まだまだ多くの思い出があり、上の感想にプラスしたくなりキリがなくなる。当然、人によって会報(冊子)の見方、使い方はまちまちかと思う。いつか冊子VI、VIIも作ろうと思っている。冊子作りはあくまで私の趣味。
 私は横田幸男氏が努力して世界に公開している『古田史学の会・インターネット・ホームページ「新・古代学の扉」』が益々多くの方に開かれることこそ、大切であると思っている。

*史学会報、冊子にしたよ、二年分を一まとめ、合わせて五冊十年分。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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