日露の人間交流と学問研究の方法 ーー太田覚眠をめぐって」(『古田史学会報』No.61
「太田覚眠と『カ女史』の足跡を訪ねて」(『古田史学会報』No.74
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太田覚眠研究の現在と未来
さらなる探求の門出に際して
松本郁子
1 はじめに
太田覚眠は、私の青春そのものである。太田覚眠は言った。
「一人の女を済度するのに、覚眠は、何と云ふ力みようだと笑って居る人もあるだろうが、どうか免してください。此れは私の性分である。私の気が小さいからなのです。私は対手が、仮令、女であっても、一人であっても、此れは『物になる』と見たらば、すぐ一生懸命になって、全力を注ぐのです。体裁を飾り、行儀を繕ふては居られぬのである。若し命を捨てて法を聞き、道を求めるものがあらば、私も諸共に、命を捨てて、その人の志を遂げしめたいと思ふのである。けれども、今の世にそんな殊勝な人は無いと思ひ諦めて居ったのである。鼓瑟斉門(1) 三十年を嘆じて、空しく日本へ帰ろうと思って居ったのである。何ぞ図らん、カ女史は正に其人であった。ああ、吾れ汝を待つ事久し、則我善親友、眞に知己の感に堪へなかった。モー命は惜しくなかった」。(2)
これは覚眠が一九三一年(昭和六)、レニングラードの路傍で、ソ連の宗教弾圧の下、「乞食」(3)に身をやつしながらも仏教の布教を行っていた「カ女史」という女性に出会って述べた言葉である。古田先生にご指導を受けるようになってから、はや五年、今ようやくその境地を深く含味するに至ったことを心から誇りに思う。そして二〇〇七年(平成十九)三月二十三日、私は京都大学大学院人間・環境学博士の学位を手にすることができた。これも「古田史学」の会の皆々様との交流の賜物である。(4) 心から感謝したい。
2 博士論文の概要
博士論文の概要は次の通りである。
まず、論文執筆の目的について述べよう。太田覚眠(一八六六年三重県四日市市法泉寺生?一九四四年モンゴル内蒙古集寧寺没)とは、ロシア極東ウラジオストクの浦潮本願寺(浄土真宗本願寺派)(5) で、一九〇三年(明治三十六)から一九三一年(昭和六)までの約三十年間、布教活動に従事した僧侶である。覚眠の滞露期間は一九一七年のロシア革命を境に帝政ロシア時代とソ連時代とにまたがっている。覚眠は帝政ロシアについても革命後のソ連についても、宗教家の立場から独自の観察と批判とを述べている。私は太田覚眠という「日露の接点」に生きた人間の思想と行動を明らかにする作業を通じて、十九世紀半ばから二十世紀半ばの日露交流の諸相を明らかにすることができると考えた。そして覚眠が当面した問題を宗教と国家の相克の問題として捉えることにより、覚眠が生きた時代の日露両国の宗教と国家のリアルなあり方を明らかにすることを論文の最終目標とした。
その結果得られた成果は次の五点である。
第一に、浦潮本願寺の成立と発展の経緯を分析した結果、日露関係の推移がその歴史に深い影響を与えていることが明らかになった。帝政ロシアはロシア正教を国教とするにもかかわらず、日本人居留民の良心の自由を保障し浦潮本願寺の存在を認めたが、この背景には一八八九年(明治二十二)の日露和親通商航海条約以後、日露間で締結された条約関係の存在があった。日露戦争終結後、ロシア政府により寺院用地が浦潮本願寺に下付されるも、ロシア正教側の妨害工作によって布教場建設が阻止されるという事態となったが、第一次世界大戦(一九一四年)勃発に伴う日露関係の接近によって建設が許可され、布教場の建設が実現を見た。この経緯にも浦潮本願寺の成立に国際関係を背景とする日露の友好関係が影響したことが示されている。しかし一九一七年のロシア革命以後、浦潮本願寺の活動はソ連の管理下におかれ、最終的には閉鎖されるに至った。以上のように、浦潮本願寺の歴史は、帝政ロシアにおいてはロシア正教、革命後のソ連においては戦闘的無神論とそれぞれ相対する形で展開された。その中には宗教と国家をめぐる対立と相克の問題の探求にとってきわめて重要かつ興味深いサンプルが含まれていることを示唆することができた。
第二に、太田覚眠によるシベリア残留邦人帰国支援活動の背景にロシアの官民の協力の存在があったことを明らかにした。ロシア政府は一方では日本人居留民に対して冷酷な処遇を行ったが、他方では国際法を遵守し日本人の生命及び財産を保護した。のみならず、ロシアの民衆からは日本人に対して援助の手が差し伸べられ、戦争という非常事態に示されたロシア民衆からの友好は覚眠や居留民に対して深い感銘を残した。以上のようなロシアの官民の協力抜きに、太田覚眠によるシベリア残留邦人帰国支援活動の成功を理解することはできない。ロシア帝国外交史料館(6) に所蔵されている関連史料(7) を入手し、ロシア政府によるこの事件への対応の詳細を明らかにすることにより、この問題をさらに深めたい。
第三は、日露戦争の戦場における太田覚眠と乃木希典の交流の問題である。両者の交流には稀有の特色がある。それは両者の交流が、ロシア兵の死体に対して読経供養をしている覚眠の姿に乃木が深い共鳴を覚えたことを契機として結ばれたことである。したがってこれは単に二人の日本人同士の交流という問題にとどまらぬ性格を内蔵している。覚眠はロシア人の死者を弔うことを「露國布教の延長」(8) という言葉で表現しているが、覚眠はその行為によって将来の日露交流に対する精神的基礎を築くことを目指していたのである。乃木もまた、旅順占領後にコンドラチェンコの顕彰碑を、日露戦争終結後の一九〇七年(明治四十)に「旅順陣歿者露軍将卒之碑」を建立しこの思想を明確に表現した。一方、ロシア側が覚眠や乃木同様、ロシア正教の立場から日本兵の死者に対する追悼を行ったことを示す史料あるいは記念碑を見出すことは今のところできない。これは日露交流の将来に課された課題であろう。
第四は、レニングラードにおける「カ女史」との交流である。「カ女史」はソ連の宗教弾圧下において日本仏教の信仰を守り、念仏道場を組織して布教を行っていた。「カ女史」や念仏道場の信者は、覚眠に出会い直接仏教の教えを聞くことにより、深い喜びを得たようである。けれども彼ら以上に深い感銘を得たのは覚眠自身であった。覚眠はウラジオストクでの約三十年間に及ぶ自らの布教よりも弾圧下における「カ女史」たちの信仰の方が尊いと断定している。覚眠は、浄土真宗の開祖親鸞が当時の国家権力による念仏集団への弾圧に屈せず、信仰と布教を守り続けた姿と同一の宗教精神を「カ女史」の中に見出したのである。これは歴史の表面を見ている限りにおいては取るに足らぬ些末な一交流であるかもしれないが、歴史の深層においては決して逸することのできぬ日露交流の一大局面と言わねばならない。
第五は、覚眠のロシア(ソ連)経験そのものが彼の思想に与えた影響である。覚眠はロシア帝国の滅亡及びソ連の台頭をロシア国内で経験した。それによって覚眠の国家観及び宗教観は飛躍的な深化を遂げた。この経験が自国日本を見つめる眼差しにも深い影響を及ぼし、一九三〇年代の「大日本帝国」に対する批判を生む源泉となったのである。たとえば覚眠は、ソ連がロシア正教を徹底的に弾圧しながら、レーニンという一人間を神として崇める傾向を「レーニン宗」と呼び、これを「低級な宗教」として批判した。(9) しかしこれは単なるソ連に対する批判のための批判ではなかった。覚眠は「レーニン宗」という言葉により、仏教やキリスト教、その他各宗教の上に天皇信仰を打ちたてようとする「大日本帝国」のあり方を厳しく批判していたのである。覚眠はロシア(ソ連)に住み、その実態を直接に認識したゆえに、自国日本を客観的に批判する目を持ち得た。これはロシア(ソ連)経験が覚眠にもたらした思想の深化であり、日露思想交流史の重要な局面と位置づけることができよう。しかし覚眠の発した批判の重要性に日本もソ連も気付くことなく、両者は終末の日を迎えることとなった。けれども覚眠が指摘したような宗教と国家の関係性をめぐる問題は、現在の日本やロシア、そして世界おいても未解決の問題であり、むしろ現在及び未来に生きる我々にこそ重要な意味を持つものなのではないだろうか。
以上が太田覚眠の思想と行動を実証的に研究することによって得られた日露交流の重要な諸局面である。人類の歴史の中で、人間を組織するルールとして宗教が生まれ、国家が形作られてきた。特に現代は近代国家が人間を組織する最大の単位となり、人間の営みのあらゆる面に影響を及ぼすに至っている。そのため、古くから存在する宗教と新たに生まれた国家との間に対立と衝突を生じ、深刻な宗教間闘争や複雑な国際関係を次々と生んでいるのが現状である。太田覚眠の場合、一方では「大日本帝国」という国家体制の中に生きながら、他方ではソ連という反宗教的体制をも同時代に実地において認識するという稀有の経験を持つに至った。そのため覚眠の著述の中には、他に類例を見ぬ鋭く深い観察と分析の数々が含まれている。これらは現在も続いている宗教と国家の対立と融和の問題に対して、深い示唆を与えるものとなるだろう。覚眠の思想と行動を実証的に研究した本論文が、そのためのささやかな一礎石となれば幸いである。
以上が博士論文の概要である。
3 学位論文公聴会の模様
二〇〇七年(平成十九)一月二十三日、博士学位論文の公聴会が行われた。公聴会の席で最も議論を呼んだのは、太田覚眠がシベリア残留邦人救出に出発するに先立って、太田覚眠と在ウラジオストク日本貿易事務官川上俊彦との間に交わされた対話をめぐる問題である。審査員の先生から、あなたはあまりにも川上俊彦を悪者扱いし過ぎていないかとの批判がなされた。
これに対する私の反論は次の通りである。川上俊彦は私の郷里の新潟県村上市出身の人物で、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)でロシア語を学び、貿易事務官としてウラジオストクに赴任した。したがって川上は明治の官僚体制の中の一員であり、その意味では覚眠以上に組織の束縛が強かったものと思われる。けれども川上はその中で決して単なる組織の一駒に終始していなかったことが史料には示されている。たとえば、日本人居留民八〇〇名の本国帰国のために、日本政府がかなり思い切った救援の手を差し伸べている(10) ことが分かったが、これはやはり川上俊彦の尽力なしに成し遂げられたものとは思えない。これは覚眠の華やかな活動の影に隠れているけれども、決して逸することのできぬ要素である。この問題についての、川上側の努力を具体的にうかがうことができる史料を今後求めていきたい。幸い川上は郷里村上の出身の人物であるので、村上で文献史料の収集や聞き取り調査を行いたいと考えている。
さらに興味深いのは、覚眠がシベリア残留邦人救出に出発するに先立って、川上に対して慰問残留許可を求めている点である。これは一歩引いて考えれば、川上に許可を求めることなく無断で潜入することも可能なわけである。けれどもウラジオストクにおける日本国家の代表であり、知己の関係にある川上俊彦に無断でシベリアに残留すれば、それこそロシア側にとっての「スパイ」行為となり、川上の顔に泥を塗ることになる。だから覚眠は川上に対して「慰問僧證明書」(11) を発行することを求めたのである。いわば川上俊彦に対する「仁義立て」である。太田覚眠にとっての行動の論理である。
以上のように、川上俊彦と太田覚眠の関係をめぐる問題は、「組織における人間の自由」という普遍的かつ人類的な問題に発展する一大テーマである。従来はこの問題を太田覚眠の側に焦点を当てて考えてきたが、今後は川上俊彦の側に光を当て、探求していきたい。
以上が博士学位論文公聴会の報告の一端である。
4 「カ女史」の光を求めて
太田覚眠にとって生涯最大の出会いである「カ女史」について、その実在の一端を示す重要な発見があった。本稿の最後にこの点について述べたい。
二〇〇六年(平成十八)十月二十六日、博士論文執筆の大詰めを迎える中、私は晩秋の金沢を訪れた。その経緯を次に述べよう。
暁烏敏とは、東本願寺系の僧侶で、太田覚眠とは東京外国語学校露語別科(12) 時代の同窓である。(13) 太田覚眠「カ女史を憶ふ」の中には、「カ女史」が暁烏敏の『歎異抄』をロシア語に翻訳(全訳)し、その内容をめぐって覚眠との間で激論が交わされた旨が記されている。(14) その議論の詳細についてはここでは省くが、覚眠は「カ女史」に対し、暁烏に対して「一大論難書」(15) を書くよう、あえて勧めている。したがって覚眠と暁烏との間には、青年時代から一貫した交流が築かれていたものと考えられる。
暁烏については、作家五木寛之氏の朝日新聞における連載「みみずくの夜メール」(16) を読んで金沢大学附属図書館暁烏文庫に暁烏の東京外国語学校時代の講義ノート(17) が所蔵されていることを知り、それ以来心に留めてはいた。しかし博士論文完成間際になって、「カ女史」の実在を示す史料が存在する可能性が少しでもあるのであれば、それを確認しに行くべきではないかとの思いに駆られたのである。
そこで十月二十六日、金沢市立ふるさと偉人館を訪れ、暁烏研究の第一人者である松田章一氏に直接お目にかかり、暁烏研究や暁烏関連文書についてお話をお聞きした。翌二十七日、松田氏の紹介を得て、金沢大学附属図書館暁烏文庫に入庫し、太田覚眠が京都東山病院の病床から暁烏敏に宛てた書簡を閲することができた。その内容については現段階では分析ができていないので、ここでは省く。松田氏によると、覚眠が暁烏に宛てた書簡は他にもあった筈だということであるが、時間が限られていたため、充分な調査はできないまま、金沢を後にした。
ところが先日、二〇〇七年(平成十九)四月三日、松田氏からお便りが届けられた。ミネルヴァ書房から刊行された拙著『太田覚眠と日露交流 ーーロシアに道を求めた仏教者』(18) をお読み下さり、お手持ちの暁烏関連史料を調査して下さっていたとのことである。短文が同封されており、太田覚眠と暁烏敏の交流の痕跡を示す具体的史料がいくつか示唆されていた。暁烏関連文書をさらに詳細に調査すれば、「カ女史」の実在を示す直接史料を手にすることができるかもしれない。期待に胸を躍らせている。
以上のように、私の太田覚眠研究は、日々躍進に躍進を続けている。現在の研究段階に飽くことなく、今後益々研鑽に励む所存ですので、変わらぬご指導の程、宜しくお願い申し上げます。
二〇〇七年四月二十五日稿了
注
(1) 遠い故郷を思う悲しみのこと。
(2) 太田覚眠「カ女史を憶ふ一〜六」(『大乗』一九三四年七〜十二月)。「カ女史を憶ふ」は他の文章とともに、『レーニングラード念佛日記』(大乗社、一九三五年)に収録されて刊行された。
(3) 覚眠は「カ女史」の境遇を「乞食」という言葉で表現している。覚眠の「ソヴェートロシヤ宗教畫談」二(『大乗』昭和十年五月)という文章には、次の表現が見られる。「私は、散歩する時に、路傍の乞食に銅貨を一文宛施すことを楽しみとして居った、永年の事であるから、澤山の乞食に交際し、熟懇になった者も多かった。最後に交際したのはレーニングラードでのK女史であった。昔、光明皇后様が、多くの乞食の身の垢を洗ふて御供養なされた時、最後の乞食は、光明輝く佛さまであったとか、私の交際した最後の乞食K女史も、眼には光明は拝めなかったが、私の心には確かに光明をおがましてくれた」。覚眠は『露西亜物語』において「革命已来子供の乞食が殖た、親が子を養ふて居る餘裕がないのであらう」(一七〇頁)と書いている。ソ連は革命後貧困者も乞食もいない理想社会が実現されたかのように宣伝したが、覚眠はその実態を目撃し、それを率直に記したのである。特に「カ女史」のように帝政ロシア時代に身分ある地位にいたものは、革命後没落してソ連によって虐げられ、「乞食」として生きるしかなかった。覚眠はその実態を記していたのである。五木寛之の小説「さらばモスクワ愚連隊」(『小説現代』講談社、一九六六年六月)はソ連によって「差別された」存在を描いたことで同時代に衝撃を与えた。さらには同小説がベストセラーになったことにより、五木寛之はソ連にとって好ましからざる人物と見なされ、一時ソ連への入国が許可されなかった。一九八〇年代、ペレストロイカを実現しつつあるソ連を訪問した五木寛之は、「二十年も前にペレストロイカの必要性を予見した日本の作家」として大歓迎を受けたという。しかし覚眠の「カ女史を憶ふ」は一九三四年(昭和九)という時点においてすでに「カ女史」というソ連によって虐げられた存在を記し、ソ連の内実を同時代の人々に知らしめていたのである。
(4) 拙論「日露の人間交流と学問研究の方法 ーー太田覚眠をめぐって」(『古田史学会報』No.61 二〇〇四年一月)。拙論「太田覚眠における時代批判の方法 ーー昭和一〇年代を中心として」(『古田史学会報』No.65 二〇〇四年十二月)。拙論「太田覚眠とからゆきさん ーー『覚眠思想』の原点」(『古田史学会報』No.66 二〇〇五年二月)。拙論「太田覚眠と『カ女史』の足跡を訪ねて」(『古田史学会報』No.74 二〇〇六年六月)。
(5) 浦潮本願寺とは、一八八六年(明治十九)から一九三九年(昭和十四)までウラジオストクに存在した浄土真宗本願寺派(西本願寺)の日本仏教寺院である。ウラジオストクには明治初年から多くの日本人労働者が渡り、日本人居留地が形成されていた。一八八六年ウラジオストク在住の日本人居留民の求めに応じて西本願寺本山が布教使多聞速明を派遣したのを始めとして、一九三九年に最後の布教使戸泉賢龍が帰国して閉鎖されるまで、浦潮本願寺は日本人居留民の「心の拠り所」として存在した。浦潮本願寺の歴史については、拙論「浦潮本願寺の成立と発展」(『近代佛教』第十三号、二〇〇七年四月刊行予定)で詳述した。
(6) Архив внешней политики Российской империи.
(7) О положении японских подданных в России во время войны. Высылка, АВПРИ. ф.150. оп.493. д.352.
(8) 太田覚眠「明治佛教とロシヤ開教」(『現代佛教』昭和八年七月)。
(9) 太田覚眠「レーニン宗」(『大乗』昭和十年九月)。
(10) 「露國内残留帝國臣民帰朝ニ要スル経費ヲ臨時事件豫備費ヨリ支出ス」明治三十七年十月二十八日、国立公文書館蔵、本館 -- 2A -- 〇一一 -- 〇〇・類〇〇九七二一〇〇。
(11) 『教海一瀾』第二四三号、明治三十八年一月二十八日。
(12) 東京外国語学校は現在の東京外国語大学の前身で、露語別科は二年間の速習コース。
(13) 東京外国語学校『東京外国語学校一覧・従明治三十三年、至明治三十四年』明治三十四年二月。
(14) 前掲『レーニングラード念佛日記』二十三〜二十七頁。
(15) 同右、二十六頁。
(16) 五木寛之「みみずくの夜メール」(『朝日新聞』二〇〇三年三月八日)。
(17) 暁烏敏は一九〇〇年(明治三十三)九月東京外国語学校に入学した後、雑誌の刊行活動に没頭して学校にはほとんど通わず、翌一九〇一年(明治三十四)一月雑誌『精神界』を発刊すると退学してしまうので、外語時代のノートは一冊のみである。ノートの表紙の裏には講義の時間割として「月 小島氏 訳/火 藤堂氏 作/水 スムイス、ローフスキー氏/木 長谷川氏 文/金 スムイス、ローフスキー氏/毎日午後五時四十五分ヨリ七時迄」(「ロシヤ語ノート」明治三十三年九月、金沢大学附属図書館暁烏文庫蔵)と記されているが、太田覚眠も同じ講義を受けたものと考えられる。
(18) 拙著『太田覚眠と日露交流 ーーロシアに道を求めた仏教者』ミネルヴァ書房、8。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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