連載小説『 彩神』 第十二話 シャクナゲの里1 2 3 4 5 6
◇ 連載小説 『 彩 神 (カリスマ) 』 第十二話◇◇◇
シャクナゲの里(3) 深津栄美
−−古田武彦著『古代は輝いていた』より−−
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邇々芸(ににぎ)は最初から、兄の温和なやり方が歯がゆくてならなかった。
外来の新勢力が現地の姫を娶(めと)って基盤(あしば)を固めるのは、大国(おおくに)の須佐之男初め過去に幾つも例があるが、自分達が木の国王を倒して耶馬王家を樹立したのは、末盧(まつら 現佐賀県唐津市付近)王志々伎(ししき)の復位を側面から援助する為だ。祖母の天照(あまてる)も自分たちの出発に際し、
「白日別(しらひわけ =北九州)は、元々海人(あま)族の物なのだよ。彼の地で崇(あが)められている曾富理(そほり)神は、我が偉大なる宇宙神(アメノミナカヌシ)の息子なのだもの。いつまでも親が子に従っていて良い道理はないからね。」
と、言ったではないか。
更に、木の国(現福岡県基山付近)は簒奪者のみちる女王と同盟を結んでいた、いわば逆賊である。だから、岩長・木の花姉妹は、櫛名田などとは事情が違う。謀反(むほん)人は、奴婢に落とされても文句は言えないのだ。
なのに、兄は岩長を、まるで異国の珍花でもあるかのように両手で庇(かば)い、足元に膝まづかんばかりにかしづいている。結果はどうだったか? 兄の誠意は、曲がりなりにも岩長に通じたろうか? ーーとんでもない。岩長は、どこも悪くないのに病気の振りをして奥殿に閉じ籠り、僅かな腹心だけを近づけて、男女を問わず大王(おおきみ)なら率先して行うべき数々の義務も怠り、娘が代理を勤める事になっても必要な品一つ与えず、後継(あととり)息子の香山も生みっ放しで顔を見にも来ない。二人を我が子と認めていない証拠だ。これが建御名方(たけみなかた)との子なら、一日傍(そば)を離さず溺愛するのだろうか・・・・?
「兄者、あの女は、適当な口実を設けて首を切った方が良さそうだぞ。」
邇々芸は何度か進言したが、
「いや、岩長は木の国直系の姫だ。残党を抑える為にも、処刑はならん。」
と、その都度、火明(ひあかり)はなだめ諭した。
「兄者が下手に出ても、向こうは当り前とおもうだけだぞ。何といっても身分は自分のほうが上だと、あの女は頭から決めてかかっているんだからな。」
邇々芸は舌打ちし、建雷(タケミカヅチ)や天鳥船(アメノトリフネ)が建御名方降服の証しに諏訪湖畔からもたらした、黒曜石や塩の結晶を岩長に叩きつけるような振舞も試みた。こんな女、木の花同様嬲(なぶ)りものにしてやれば良い。遂この間まで民の上に反り返っていた者が泥にまみれ、悲鳴を上げ、救いを求めるのを見るのは、何とも爽快なものだ。だが、岩長は、どんなに罵倒されても打たれても青白く無表情な姿勢を崩さず、暗い前方を見据えていた。あくまで火明の妻ではないと主張する積りらしい。岩長を屈服させられないのなら、せめて回りの従者達だけでも粛清すべきだと、邇々芸は思った。上流の子弟は雑用は人任せというのが、万国の通り相場だ。
岩長も幾ら抵抗したくても、周辺を海人族に固められたら簡単には動けまい。
だが、邇々芸が塩椎(しおつち)らの拘引を敢行しようとした矢先、息子の火遠理(ひおり)が海釣りに出たまま行方不明になった。乗っていたのは、塩椎が貸し出した舟だという。
「あやつめ・・・・!」
知らせを受けて、邇々芸は歯がみをした。岩長が後で糸を引いているのは間違いない。腹心が投獄される前に先手を打って、塩椎に火遠理の舟に細工させたのだ。何も知らない火照(ほでり)や馨(かのり)と松明(たいまつ)を振りかざし、火遠理の名を呼びつつ夜の浜辺を駆け回っている塩椎を見て、邇々芸はその場で切り殺してやりたかったが、熊襲(=南九州)の使者団(つかい)の前では不可能だった。しかし、「日の出祭り」は立花(たてはな)山頂で行なわれる。途中の楠林にでも塩椎らを誘い込み、息子の仇を討つ機会(おり)があろう。
邇々芸が身支度を終えて出て行くと、
「どう、海幸兄様、似合う?」
白衣に金の袈裟(けさ)と真紅のたすきをかけた馨が、従兄の足元で回転してみせていた。長い翡翠の首飾りが大きく揺らいで飛びはね、樫の若葉が陽光に透けるに似た燦(きら)めきを放つ。頭に巻いた冠は実際、樫の葉を編んで拵えたに違いない。
「ああ、それでこそ若葉香る姫だ。」
微笑する火照は皮紐で巻き留めた青銅の甲冑姿で、武器のみならず身の回り品一切を納めた胡[竹/碌](やなぐい)を重そうに背負(しょ)っている。
[竹/録*](ぐい)は、JIS第3水準ユニコード7C59
「火照、その装(な)りは?」
訝(いぶか)る邇々芸に、馨が言った。
「海幸兄様、山幸兄様の手がかりがつかめたので、使いの方々と熊襲(=南九州)へいらっしゃるんですって。」(続く)
(後記)
この会報が出る頃には、古田先生は又、南米へおいでになっていると思いますが、バルデビア付近には古代倭語地名がのこっているかもしれないとの事。これは完全に私の当てずっぽうですが、「クスコ(インカ帝国の郡)←→葛子(くすこ 筑紫の君磐井の後継ぎ)」の可能性もあり・・・・? 西部劇で有名な北米の「アラモ(の砦)」近辺には、日本人移民村があった為に今でも日本語地名が幾つか残っており、移民の中に本国で学校教師をしていた人がいて、砦騒ぎを土地の人々から聞き、碑まで建ててあるそうです。彼の地でそれを知らない者はいないとか。(深津)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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